リハイドレイション

 「あつーい」

 視線を上げると、帝劇の屋根に反射した午後の光に目を射抜かれ、咄嗟に右手を額にかざした。
 間抜けな声の上がった方を見ると、加山が額の汗を拭いながら伸び上がり、腰をとんとんと拳で叩いている。

 「すんまへんなあ、加山はんにまで手伝うてもろて。最近忙しゅうて、ろくに手入れもしてやれんかったから」
紅蘭が麦わら帽子の影から加山を見やる。まだ夏でもないし、麦わら帽子をかぶるには早すぎるのではないかと思っていたが、この陽射しでは帽子をかぶっているほうが賢明だろう。
「最近、急に気温が高くなったからね。無理しないで、休みながらやったほうが効率がいいよ。隊長も」
レニは上着を脱いではいるが、少し頬を赤らめている程度で汗をかいているようには見えなかった。陽射しに銀色の髪がきらきらと光っている。
「ああ、俺はまだ大丈夫だけど……加山、少し休んだらどうだ?」
「なーに、オレもまだ平気だぞう。早いとこ、片付けちまおうぜ」
加山はにこり、と笑顔を見せると、またしゃがんで雑草を抜き始めた。

 夕方まで時間が空いていたので、紅蘭に頼まれて中庭の菜園の手入れをすることになった。
 時間に中庭に出ると、既にレニが紅蘭と一緒に準備を始めていた。フントの世話をしているところを紅蘭に声をかけられたらしい。
 3人で作業を始めようとしたところで、廊下への出入り口から加山が現れた。支配人室に用事があったようだが、それも終わったので、と手伝いを買って出てくれたのである。紅蘭は悪いから、と一度断ったが、人数が多い方が早く終わりますよ、と加山はいつもの人懐っこい笑顔で紅蘭から軍手を受け取った。

 ここ数日で急に暖かくなったが、今日は特に初夏のような陽気である。
知らずに汗をかいていることから湿度の高さを感じたが、土はしっとりと手に冷たい。
汗に濡れた首すじを吹き抜ける風が、なんとも爽やかな午後だ。仰いだ空は青く、部屋の中で事務仕事をするよりも余程気持ちがよかった。

 「こっちは終わったよ、紅蘭」
「よっしゃ!こっちも完了や。大神はんと加山はんはどないでっか」
「うん、よし、終わったよ」
「こっちも終わりましたよ〜」
レニが的確にそれぞれの作業区画を決めたおかげで、ほとんど同時に全員が作業を終えることができた。皆それぞれに腰を伸ばしたり、汗を拭ったりしている。
「みんな、ほんまにおおきに。これで今年の収穫もばっちりやで!
 ほな、うちは飲み物でも用意してきますわ。ちょっと待っとってな」
紅蘭が軍手を外しながら厨房の方をちらりと見た。
「あ、紅蘭。ボクも手伝うよ」
レニも立ち上がり、紅蘭と一緒に廊下に向かって歩いていく。

 軽く息をついて加山を見ると、菜園はいいなぁ、とでも言いたそうに加山がにこにこと笑っていた。
土をいじることはお互いにそうはないが、もともと身体を動かす作業の方が得意なこともあり、これくらいの肉体労働ならば良い気分転換だ。
「大神ぃ、ここ、土がついてるぞ」
加山が俺の額の辺りに手を伸ばす。そう言う加山の頬も土で汚れていた。大方、汗を拭ったときにでも顔についたのだろう。加山の肩越しに、きらきらと午後の光を反射する噴水が目に入った。
「おまえだって顔、汚れてるぞ。噴水で顔でも洗うか?」
「お、それはいいかもしれんなぁ!」
冗談のつもりだったのに、腕をぐいと引っ張られる。
 周りに置かれているベンチを避けて噴水の縁へと着いたが、改めて見てみるとそれは噴水以上の機能を持たない、ということがよくわかった。
「………水が出てるとこ、案外遠いんだなぁ」
「……ああ、そうだなあ」
真ん中に水の出ている部分が立っていて、その周りにぐるりと水が落ちる、まあ噴水と言えばこれだ!というような形なので、容易には水が出ているところに手が届かないのだ。地下から水を汲み上げていると聞いているので水もきれいだし、帝劇の清掃担当の月組隊員がマメに掃除をしてくれているのもあって、噴水自体も手入れが行き届いてとてもきれいだ。それだけに、実に惜しい。
 加山も同じなのか、名残惜しそうに噴水の縁に上り、手を伸ばしたりしている。

 ふと悪戯心が起きたので、それに従い、加山の背中をちょっと押してみた。
「うわぁっ」
加山はあっさりと水の中に落ちた。
「……ひ、ひどぉい」
着地もままならなかったらしく、両手と両膝を噴水の底についてしまっている。落ちたときに上がった水しぶきで、全身ずぶ濡れと言ってしまってもいいくらいの濡れっぷりだ。恨みがましそうにこちらを見上げている。
 俺は加山ににこり、と笑いかけ、自分も縁に上ると、そのまま水の中にばしゃりと足を踏み入れた。
「お、大神?」
「そこ、水が落ちてるところ。中に入ってみたかったんだよな」
噴水の中心は、水がきれいに、触ったらつるつるとしているのではないだろうかと思えるほど、滑らかなカーブを描いて落ちている。その水のカーテンの中、噴水の中心に入ってみたかった。
「……あの中か?」
「そう」
立ち上がった加山の腕を取り、中心に向かってざぶざぶと進んだ。頭から水をかぶることになるので加山は少しためらっている様子だったが、それほど大量の水が流れているわけでもないので思い切って中に入ってみる。
「ん……、うわ」
「きれいだな」
加山が水に濡れて乱れた髪をかきあげ、感嘆の声を上げる。
水の内側から見る太陽の光はとても眩しくて、流れる水がきらきらと輝いて、そこは透明なカーテンで覆われた不思議な世界だった。
水の流れる天を仰いだら、こんな感じだろうか。

 「加山」
「ん、なんだ?」
「早くしないと、紅蘭たちが来る」
加山の手を少し引っ張ると、水に濡れている唇にキスをした。
加山は驚いたように目を見開き、何か言いたそうに喉を鳴らしたが、唇をそっと噛んで繋いだ指を絡ませると、おそるおそるまぶたを閉じた。
「……ん………」
触れ合う身体は水に濡れて少し冷たいが、それで余計にお互いの舌が熱いのがわかる。舌と舌がぬるりと滑る感覚に、加山が繋いだ指をぎゅっと握り返してきた。
内側からはあまりよく外が見えないけれど、この水のカーテンの内側にいる俺たちは、外側からはどう見えるのだろう。外側に比べれば暗いことになるのだから、こちら側は見えないのだろうか?
ざあぁ、という水の落ちる音よりずっと近くで、濡れた舌と唇が立てる音と、加山が唾液を嚥下する音が聞こえる。まるで、乾いた喉をうるおしているかのようだ。


 「水浴びしてたの?」
「あはははっ!2人とも、おもろいわぁ。どうして噴水なんかに入ってしまわはったん?」
笑うと、紅蘭の持っている盆に乗せられたコップの中のソーダ水が、氷を揺らしてきらきらと光った。
「そうなんだよ、加山に突き落とされて……」
「なにぃっ?!突き落としたのはおまえじゃないかぁ!本格的にひどいぞ大神ぃ〜」
笑う俺たちの足元に、今までどこにいたのか、フントが走り寄ってくる。そのまま、ばしゃんと噴水の中に突入した。
「フント!風邪ひくよ!」
「あらら。レニはお2人さんよりもフントの方が心配そうやなぁ」
フントがわんわん、と嬉しそうに鳴いて、ばしゃばしゃと水しぶきを上げた。紅蘭がにこにこと笑って、ベンチに座ろう、と一同を促す。レニが心配そうに見つめていると、フントは水から上がってぶるる、と身体をふるわせた。そのしぶきを浴びて、皆が笑う。

 「服、貸してやるから着替えて行けよ」
「………つ、続きか?」
加山が上目づかいで呟いたので、にやりと笑い返してやったら、顔を赤くしてぱっとうつむいてしまった。自分から言ったくせに。
「?」
紅蘭とレニがきょとん、とした顔をしている。それとなく、濡れたシャツのボタンを外しながらにっこりと微笑んだら、こちらも顔を赤くしてうつむいてしまった。

 ああ、暖かくて気分がいい、なんてのどかな午後だろう。今年の夏もたくさん、野菜がとれるといいな。

モドル