「…今夜は妙に冷えるなあ…上着を着てくるべきだったか…」
冷たい床に硬い足音が響く。大帝国劇場の広いロビィは、吹き抜けの高い天井のせいもあってか、随分と冷え込んでいた。大きな扉の上部にはめ込まれた窓から、月の光が差し込んできている。
「…さむっ」
ひとりごち、身を一度大きく震わせると、大神はカンテラを手にロビィをぐるりと照らす。
「異常ナシ、と」
夜の見回りは、大神が帝国華檄団に配属になってからの、毎日の任務である。例え休日であろうとも、外泊をしてでもいない限り、大神は律儀に見回りをする。
それは、花組隊長としての責任からか。それとも、毎日の生活の習慣となっているからなのか。きっと、そのどちらでもあるのだろう。
食堂に入ると、そこは窓から差し込む月の光で結構明るい。そういえばたまに、カンナがこの時間、ここで夜食を摂っているときがあったなあ、と思いをめぐらす。彼女は、まだ鍛錬室だろうか。それとも、先の黒鬼会との戦闘や、その後の特別公演などで疲れもたまっているだろうし、もう眠っているのかもしれない。
彼女の伸びやかな身体、こぼれるような笑顔、すべてを包み込むような優しさ。
そのすべてに、大神は惹かれていた。
他の花組隊員と比較する気持ちなど、勿論ない。彼女たちは、戦闘においては誰もが素晴らしい戦力となってくれているし、舞台に立てば申し分のない輝くスタァ。素顔はいたって年頃の娘らしく、愛らしく、誰もを守ってやりたいと思う。彼女たちの誰かを誰かと比較するなんて、大神には到底無理な話だった。
しかし。そんな中で、どうしても気になってしまうのが、カンナだった。
戦場では、さくらと並び、常に自分と共に前線に切り込んでいくチーム。武器も持たず、己の拳のみで勝機を掴み取るその格闘センスは、並外れているとしか言いようがない。そんな彼女を守り、ときには援護され、共に勝利を掴んできた。隊長という自分の存在を抜きとして、後方部隊のマリアが指揮官ならば、前線のカンナはさしずめ特攻隊長といったところか。防御力も高く、攻撃力は言うまでもない。止むを得ず部隊を2つに分けるときも、カンナがいれば大丈夫だ、とその存在に強く励まされてきた。
やはり自分は軍人だ。戦場での出来事がかなりの割合で、自分の心を占めていると思う。カンナは常に自分のそばで、自分と同等、もしくはそれ以上の力を発揮してくれ、正義のために共に駆け抜けてきた。戦場に咲く大輪の赤い花のように、カンナの光武はカンナの霊気で光り輝いている。炎のような、強い光で。
隊長と、隊員。その垣根は戦場においては絶対だが、プライヴェートにおいては、なかなか保てるものではない。特にここでは、帝劇の女優さんたちと、ただのモギリだ。そうでなければ、恐れ多くも隊長に、「買い物に行きますので、荷物持ちをお願いできませんこと?」などとは言えるはずもない…
まったく、人使いの荒い誰かさんにも、困ったものだ。
「…あれ?」
ふと中庭に目をやると、噴水わきのベンチに誰かが座っている。少し近づくと、赤い髪でカンナだとわかった。
「カンナ。どうしたんだ、こんな時間に」
背後から近づく形になってしまうので、わざと遠くから声をかけながら近づく。以前、背後から声をかけてしまったがために、レニに投げられたことがあったことからの学習だ。
「…隊長か。いやね、少し外の空気を吸おうと思ってさ」
カンナは少し振り向いて、こちらを確認すると、また座り直して空を見上げた。彼女の横まで辿り着くと、月がカンナの横顔を照らしている。
「月がきれーだなあ、隊長。春の月といやあ、霞んでるもんだとばっか思ってたけど、そうでもねえんだな」
カンナの言葉に空を見上げると、確かに見事な月が輝いていた。完全な円ではないが、夜空にくっきりと輪郭を描くその様は、妙に潔い。
「…隣、座っていいかい?」
「ん、ああ。いいぜ」
カンナの許しを得てベンチに座ると、夜露のせいか、少しズボンがひやっとする。
「カンナ、寒くないか?」
いつも薄着の彼女を気遣って声をかける。大神も決して厚着というわけではないが、胸元の大きく開いた服を着ているカンナよりは、幾分かマシなはずである。
「ん?隊長は寒いのかい?」
ゆるい風が吹いて、カンナのはちまきを揺らす。赤い髪がやさしげに微笑む瞳に落ちかかり、見つめられるだけで吸い込まれてしまいそうだ。特に、こんな夜には。
「少し…少し寒い、かな。もう、こんな時間だし」
カンナの瞳から目をそらし、自分の両肩を抱いて身震いをひとつ。春の夜は、思いの外冷えるようだ。そして、少しだけ、頬が熱い。
「それじゃ、隊長も早く見回りに戻んなよ。風邪ひいちまうぜ?……それとも、あたいともう少し、一緒にいてくれるのかい?」
はにかみながら微笑むカンナを、月が照らす。日に焼けた肌はなめらかに透きとおり、ベンチに投げ出された身体はやさしく、無防備だ。
「……カンナ、少しだけ、抱きしめてもいい?」
中庭に吹き込んできた風がひゅうっ、と音を鳴らし、木々を揺らす。カンナはほんの少したじろぐように動きを止めて、振り向いた。
「いいぜ、隊長。あたいも少し…寒いんだ」
うつむいて微笑んだカンナを、やさしく抱きしめる。カンナのぬくもり。カンナの匂い。頬をくすぐる髪や、おしつぶされる格好になっている大きな胸、やさしい吐息。すべてが、いとおしい。
わずかに力を込めて、カンナが大神の背中を抱き返した。
「……隊長……寒いから、なんだろ?なあ………そうじゃなきゃ……あたい……」
大神は、小さな声で不安げに問い掛けてくるカンナの髪を撫でると、少し身体を離し、そのくちびるにそっと触れるだけのキスをする。
「…今は確かに、カンナがあったかくて気持ちいい………だけど俺はきっと、真夏になってもカンナを、抱きしめたいって言うよ。次の秋も、冬も、ずっと。………抱きしめても、いいのかい?カンナ………」
ごく近い距離で見つめあっていたが、カンナは突然顔を真っ赤にすると、大神の胸に顔をうずめた。
「〜〜〜ったりまえだろ、隊長………あたいは……隊長だから………」
大神のシャツをぎゅっ、と握った手は、恥ずかしいのか少し震えているように感じられる。
「ありがとう、カンナ。嬉しいよ……ずっと、こうしていたい……」
お互いの気持ちが通じ合ったのは、月のきれいな夜だった。形を変える不実な月は、それでも恋人たちを覚えている。
春の少し冷たい風が吹き、濃紺の空の雲を払う。やさしいくちづけからこぼれ落ちた月の光は、淡い炎のように燃え、また白くゆらめいて、夜の闇に消えた。
2人の身体は月の光を浴びて輝く。自ら放つ強い光をすら、今夜は拒むように。ただ寄り添っていられるようにと、願いながら。