どれくらいだか忘れてしまったが、随分と前から頭にこびりついて離れない願望がある。
もともと不精な性格だからか、だらけきった生活やそんな自分に嫌気がさす、なんて殊勝な気持ちになることはなかった。
加山が今の稼業に堕落してからも、浮世絵師だった頃の技術やら経験やらのおかげで、断っても断っても仕事の話がひっきりなしに舞い込んでくる。
しかし加山は自分の眼鏡にかなった者でなければ、仕事を受けない。その条件は、依頼主が美しい皮膚と骨格とを持っていること。
加山は人の肌に絵を描く、刺青師だった。
彼がこれを天職だと思っているのには、わけがある。趣味と実益を兼ねている、と言ったところだろうか。
人の肌を針で突き刺すと、真紅に血を含んで肉が膨れ上がる。そしてその痛みに耐えかね、上がる呻き声。
それを見、その傷を痛みを自分が与えていると思うと、加山はえもいわれぬ愉快な気分になるのだ。彼は刺青のなかでも最も痛いと言われている、朱刺やぼかしぼりを好んで用いた。
一日に五百本もの針に刺され、色上げを良くするために湯につかって出てくる者は、あまりの痛みに床に倒れたまま身動きができない。その無様な姿を冷ややかに見ては、
「さぞかし、痛いでしょうねぇ」
などと言いながら、加山は歪んだ笑みを浮かべる。
いつのことだかはっきりとは覚えていないが、ある夏の夕暮れに深川の料理屋の前を通りかかったとき、門で待っている籠のすだれの陰から、真っ白い女の素足がのぞいているのが見えた。
その女の足は、恐ろしいほどの美しさであった。繊細な五指の整い方、浜辺の薄紅色の貝のような爪。かかとの丸みと、清流に洗われるような皮膚の瑞々しさ。
その足は、やがて男の生き血を悦楽のままに浴び、男の死体を踏みつける足だった。
加山はその足の持ち主の顔を見たいと思い籠を追いかけたが、しばらく行ったところで見失ってしまい、それはかなわなかった。
恐ろしいまでに白く美しいその足にこの世ならざるものを感じ取りつつも、加山はしかしどこか懐かしいような泣き伏してしまうような、そんな不思議な気分にもなっていた。
春も終わりのひどく暖かい朝、加山が立派とは言えない自宅の縁側でぼんやりとしていると、庭の裏木戸に誰かが訪れる気配がある。目をやると、垣根の陰から若い男が入ってきた。
「……加山!加山だろう?」
「…………大神?」
それは、彼の古い友人であった。
「……いろいろ、あってさ。こっちに住むことになったんだ、だから」
「へぇ、そうか。おれがそこまで有名だとは知らなかったよ。……良い噂ばかりでもなかっただろう?」
「そんなことないよ……こっちに来たらおまえに会いたいって、ずっと思ってたからさ」
大神を縁側に座らせ、加山はその紺色の着物の裾から覗く素足を眺めた。男の足でありながらそれはやさしく白く、滑らかな皮膚はその感触を自らの指で確かめたいと思わせる。
「……加山?どうかしたのか?」
「あ、いや……そうだ、おまえに見せたいものがあるんだ。こっちに来てくれ」
大神の手を取り、隅田川に臨む二階の座敷へと向かう。
加山は大神と過ごした日々の、泣きたくなるようなやさしさや懐かしさを段々と思い出していた。当時加山が彼に対して抱いていた、憧憬と劣情がない交ぜになったような思い。大神の強さやまっすぐな姿勢に同性として、人間として憧れを抱きつつ、歪んだ感情のもと頭の中で何度も犯した。
今にして思えば、それは恋と呼べるものだったのかもしれない。
加山は二本の巻物を取り出すと、まずその一つを大神の前に広げて見せた。
それは、古代の暴君紂王の妃、妲己を描いたものであった。瑠璃や珊瑚で飾られた冠の重さに耐え兼ねるようになよやかな身体を欄干にもたせかけ、美しい着物の裾を階段にひるがえし、右手に大杯を傾けている。その妃の視線の先には、これから処刑されるのであろうか、鉄の鎖で四肢を柱に繋がれ、妃の前に頭を垂れる男がいた。
大神はしばらく無言で食い入るようにその絵を眺めていたが、その瞳がうるみ、唇が震え出したのは、絵の巧みさのせいばかりではあるまい。
「……大神、なぜそんな顔をする?」
加山が笑いながら大神の顔を覗き込むと、我に返った大神が頬を赤らめ、弾かれたように顔を背けた。
「……どうしてこんな絵を俺に見せるんだ」
あの頃、大神に憧れていたのは加山だけではないだろう。彼が望まなくとも、気づけばいつも取り巻きのような者たちがいた。男だけの学び舎で、頭脳明晰、品行方正な大神はいつも羨望の的であった。
しかしそんな大神と4年もの間宿舎の同室で過ごした加山は、大神の押し込められている性質を見抜いていたのである。
「この絵の女、おまえに似てると思わないか?」
そして加山はもう一つの巻物を広げた。
それは「肥料」という絵で、中央に桜の幹に身を寄せた若い女が立っている。異様なのはその周囲で、女の足元には累々と男たちの死骸が転がっているのだ。女の周りには歌う小鳥の群れが飛び、その女の瞳には抑え難いように、誇りと歓びの色が描かれている。戦いの跡なのか、それとも花園の春の光景か。
その巻物の前に大神は最早震える唇を噛もうともせず、呆けたように濡れた瞳で絵を見つめている。
「……この絵の女はおまえだ、大神。これから、おまえの前に多くの男たちが、命を捨てるだろう」
そして加山はまるで愛撫でもするように、目の前の大神と同じ表情をした絵の女の顔を、指でなぞった。
「………頼む、加山……その絵を早く、しまってくれ」
大神はその絵と絵をなぞる加山の指から、無理やりに視線を引き剥がすように目を背けたが、耐えきれないように目元を染めて加山を見た。
「………加山、俺は……俺はおまえの言うとおり、そういう性分を持っているんだ。だから早く……それをしまってくれ」
「どうして?こういう絵が好きなら、好きなだけ見ればいい。怖がらなくてもいいだろう?」
加山の顔には、いつも客に見せるような歪んだ笑みが浮かんでいる。大神は怖れをなしたように視線をさまよわせ、身体ごと絵と加山に背を向けてしまった。
「……加山、俺もう帰るよ………なんだか、怖い」
「まあ待てよ。おれがおまえを……もっときれいにしてやる」
加山が細かく震えている大神の身体をそうっと抱きしめる。
加山の懐には、以前和蘭の医者から貰った麻酔剤のびんが忍ばせてあった。
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