日の光はうららかに川面を照らし、八畳の座敷は燃えるように明るい。
窓の外を流れる隅田川の水面から反射する光が、麻酔剤で寝入っている大神の顔や、障子の紙に金色の波紋を描き、震えていた。
部屋の仕切りを閉て切って刺青の道具を手にした加山は、しばらくただ恍惚として座っているばかりであった。
彼は今にして初めて、大神の顔をしみじみと眺めることができたのだ。
その動かない寝顔を見ていると、十年でも百年でもこの室内に座り続け、大神を見つめることに飽きないだろうと思える。
古のメンフィスの人々が、荘厳なエジプトの天地をピラミッドとスフィンクスで飾ったように。
加山は清浄な大神の皮膚を、自らの恋で彩ろうとする。
やがて加山は、左手の小指と薬指と親指の間に挟んだ絵筆の穂を大神の背に寝かせ、その上から右手で針を刺していった。
若い刺青師の想いは墨汁の中に溶けて、白い皮膚に滲んだ。焼酎に交ぜて彫り込む琉球朱の一滴一滴は、赤く赤く、彼の命が溶け出しているかのようである。
加山にはまるでそれが自分の魂の色のように見え、知らず涙を浮かべた。
共に学んだあの日々の大神に、加山が恋心を抱いていたのは多分、事実なのだろう。
しかしまさか、数年ぶりに再会した彼にここまで魅入られるなど。何かに憑かれたように、加山はひたすらに手を動かした。
彼が過去に抱いていた想いを、そしてこれからも抱き続けていくであろう恋を、少しも逃さないように。自分の命が指先からほとばしり、大神の背中へと注ぎ込まれ、形を成していくように感じられた。
大神の身体に、自分のすべてを注ぎ込みたいと、まるで夢のように思っていた。
いつしか昼も過ぎて、のどかな春の日はようやく暮れかかったが、加山の手は止まる気配もなく、大神が目を覚ますこともない。
月が対岸の屋敷の上にかかって、夢のような光が沿岸一帯の家々の座敷に流れ込む頃になっても刺青はまだ半分もできあがらず、加山は一心に蝋燭の光を頼りに手を動かした。
一点の色を注ぎ込むのも、加山にとっては容易なことではなかった。刺す針、抜く針ごとに深く息を吐き、まるで自分の心さえも刺しているかのように感じる。
針の跡は次第に巨大な女郎蜘蛛の形を成し始めて、再び夜が白々と明ける頃には、この不思議な魔性の動物は八本の脚を伸ばし、大神の背一面に張り付いていた。
春の夜は、上り下りの河船の立てる水音に明ける。朝の風を孕み、下ってゆく白帆の頂から薄らぎ初める霞。
その中に川岸の家々の甍がきらめく頃、加山はようやく絵筆を置いて、大神の背に彫り込まれた蜘蛛の形を眺めていた。
加山の命すべてを注ぎ込んだ刺青。それをなし終えた彼の心は虚ろだった。
二つの人影はそのまましばらく動かなかった。
しばらくの後、低く、かすれた声が部屋の壁に震える。
「……おれはおまえをもっときれいにするために、刺青の中に、おれの魂をうち込んだ。
……もう、今からこの日本国中に、おまえに勝る美しさを持つものはいない。
おまえはもう、以前までのおまえとは違うんだ。男という男、人間という人間は、皆おまえの肥料になる……」
その言葉が聞こえたのか、かすかな呻き声が大神の唇からもれた。
彼は次第に意識を取り戻し、息を深く吸い込んでは、深く吐き出す。そのたびに上下する肩から背中に、蜘蛛の脚がまるで生きているかのように蠕動する。
「……苦しいだろう?身体を蜘蛛が抱きしめているんだから……」
言われて、大神はようやくその目を開いた。その瞳は夕月が光を増すように、だんだんと輝いて加山の視線を捕える。
「……加山、早く俺に背中の刺青を見せてくれよ。おまえの命を貰った代わりに、おれはさぞ、きれいになったんだろうな……」
大神の言葉は夢の中のようにふわふわとしていたが、どこか鋭い力がこもっている。
「……まあ、これから風呂へ行って色上げをするんだ。苦しいだろうが、少し我慢しろ」
加山は大神の耳元へ唇を寄せ、いたわるように囁いた。
「……きれいになるのなら、どんなに苦しくても我慢してみせるよ」
大神は、痛みをこらえてうっとりと微笑んでみせた。
「……加山、頼むから俺のことは放っておいて、二階へ行って待っていてくれ。こんな……惨めな姿をおまえに見られるのは、少し……悔しい」
大神は伸ばされた加山の手を押しやって、うなされているかのように呻いた。湯上りの身体を拭いもせず、激しい苦痛に板の間に身を投げ出すと、気狂いじみた黒髪が悩ましげに額に乱れる。
背後に立てかけてあった鏡台に、真っ白な大神の足の裏が二つ、映った。
昨日の怯えた様子とは打って変わった大神の態度に加山は幾分驚いたが、言われるままに一人二階の座敷で待っていると、一時間ほどして大神がやってきた。
洗い髪は艶やかに光り、身支度はすっかり整えられている。大神は、先ほどまでの苦痛などまるでなかったかのように晴れやかな表情で、欄干にもたれながらおぼろに霞む空を仰いだ。
「……この絵は刺青と一緒におまえにやるから、それを持ってもう帰りな、大神」
加山は、二本の巻物を大神の前に置いた。
「……加山、俺はもう今までの俺の、どこか臆病だった心を全部捨ててしまった。
おまえは、真っ先に俺の肥料になったんだなぁ」
大神は、剣のように瞳を輝かせ、加山を見た。
その声はまるで、凱歌でも歌っているような、誇りと歓びに満ちている。
「……帰る前にもう一度、その刺青を見せてくれないか?」
大神は黙ってうなずき、着物をするりと脱ぐ。
ああ、そこに……長らく思い描いていた願望が、そのまま張り付き、生命を宿したかのように。
折から朝日が刺青を照らし、大神の背中は燦爛と輝いていた。