私が務めている会杜は、静岡県の東部 駿東郡にある。全国的にも有名になった、富士の湧き水が源流の柿田川がある町である。最近会杜の近くに、隣の沼津市と清水町を緒ぶ香貫大橋が狩野川に架り、沼津アルプスの登山口に歩いて行けるようになった。バスの路線を調べてみると、橋のたもとのバス停からもう一方の登山口にバスが走っている。駐車場の事を考えると、アプローチとしては申し分のない山行が完成するはずだ。
朝7時、いつもの時間に車で出発。途中、昼食の買い物をコンビニですませ、いつもの時間に会杜の駐車場に車を入れる。いつもと違うのは自分の場所でなく、駐車場のほぼ中央にとめた事ぐらい。さあ、ここからは自分のフィールド。楽しむぞ。
新しく統麗な香貫大橋で狩野川を渡り、中央病院前のバス停まで7分ほど歩く。沼津駅発、大平行の7時50分の箱根登山バスで12分、沼津市大平の山口道で降りる。このバス停からは、南から西に沼津アルプスの稜線が手にとるように見渡せる。ここからは4本の稜線に上がれるルートがあるため、体調に応じて山登りを楽しむ事ができる。ただし各登山口まで全く案内が無いため、地形図は必携である。地元の人も案外「灯台下暗らし」で道案内はあてにならないことが多い。今回は全山縦走のため、南に見えている大平山に向かう。田園風景の中、ゆっくり10分で多比口の集落に着き、ここで初めて大平山への道標が、道の端に白くペイントされているのを発見した。荒れた急な林道が植林地の中のジグザグな急登になり、鼻にじっとりと魚の匂いがつくようになると、海からの道が交差する多比口峠だ。
一般のガイドブックには多比の海岸からのものが多い。ここから15分ほどで第1のピーク、大平山に着く。北に少し下った所から大平の田園風景ごしに、西風が強いためか東側半分を雲に隠した富士山が望視できる。いよいよ沼津アルプスの縦走が始まる。
最高峰の鷲頭山の392mにすぎない標高の里山が、アルプスを名乗るには理由がある。ひとつは、全山縦走すると6時間強かかる、5山7峠を越えるアップタウンの激しいコースである事。もうひとつは、その展望の素晴らしさから来ているものと思われる。冬晴れの駿河湾と屏風のように連なる白銀の本家南アルプス、そして世界の主のように聳えるえる富士の峰。日本百低山があれば間違いなく入る山、と思っているのは地元民のひいきを差し引いても、私だけではあるまい。
ウバメカシの群落の痩せた尾根を30分も歩くと、右から戸ケ谷からの道が合わさる。ここから最高峰の鷲頭山の急登が始まる。と言ってもわずか15分の登りにすぎないが。 桜の木がある鷲頭山山頂は西側が草原で、眼下に静浦の漁港が見える。振り返って東側は、箱根連山との間に田方平野と、それを作った狩野川が蛇行しながらゆったり流れている。午前10時ちょうどだった。
子供の頃、富士山に向かって流れる狩野川を見た時の不思議さは、いつまでも忘れない。富士山周辺では、富士に向かって流れる川は1本も無いのである。富士に挑戦するように流れる川を見た子供心のカルチャーショックは、大変なものなのだった。今でも修善寺町より、沼津市の方が低いとはどうも納得出来ないのである。縦走路はここから北に向かうが、少し下った小鷲頭山からの下りがこのコース1番の急坂だ。延々とトラのロープが張ってあり、多人数で歩く時など落石に十分注意する必要がある。志下峠では左右から道が交差していて、右は御前帰、左は志下公会堂前のバス停で、どちらも30分程で下れる。ただし志下公会堂への道は荒れているので注意。小さなビークを越えると馬込峠。ここからも大平側の御前帰に下れる。道標に『猪の水場あり注意』と書いてある。
そういえば先月、香貫山に登った時、その猪に遭遇してしまったのだ。新桜台の林道を登っていたら、藪の中からいきなり猪が飛び出してきた。それも2匹の子供を連れた1家4頭の登場にさすがにビビッてしまった。いざとなったら横にあるガードレールにでも飛び乗ろうかと思っていると、なんとこちらに向かって走って来るではないか。「こりゃあいよいよ戦わなくてはならないか」、と思って身構えていると、わずか5m先のガードレールの切れ目から山腹を下って行ってくれた。彼らすると、4対1の絶対的有利で恐怖で完全に固まってしまった人間なぞ眼中に無い、とでも言いたかったのかも知れない。後日職場の女性から猪の餌づけをしている人がいる話を聞いた。こんな浅い山の中で猪が生きて行くには人間の力が必要なのかもしれないと思った。
道はすすきの混じる草原になって、このコースの最高の憩いの場になっている志下山へと続く。このあたりで海が一番近くなり双眼鏡で見ると、波のひとつひとつが確認出来る。西風に乗って来る町のざわめきと、潮の香りがまざり合ってとてもなつかしい気持にしてくれる。ゆっくり休もう。すぐ下の志下坂峠でも大平の集落と志下のバス停に下れる。
さて、ここからが地元で象山と呼んでいる地域になる。巨大な象のしっぼからお尻に続くラインを登ることになるが、背中に乗ってしまえば首の付け根までは、またのんびりと歩ける。毎日新聞旅行の団体とすれちがったが道幅が広いのでぺ一スを乱さないですんだ。象の頭である徳倉山は標高256m、草原の山頂には三角点もあり、寝転がって空を見るのには最適の場所だ。南には歩いてきた稜線が、そして北には出発点の香貫大橋が見える。日だまりの山に登って、こうやって大地に手足を伸ばして空を見る事が、実に気持ちが良い事に最近気付いた。大地と太陽からのエネルギーが、体の隅々に行き渡って行くのを感じる事が出来る時間。仕事に追われている日常から解きはなれ、生きている事を実感する時間でもある。こんな幸せな日は、予定していた無線の運用も取り止め。とてもリグを出す気持ちになれなかった。山頂で正午の時報を聞く。
ここから象の鼻を、滑り台よろしく一直線にクサリを頼りに下って行く。下り切った横山峠からも左右に降りる道がある。左右に学校が近いため、休日には子供達の元気な声が、グランドから縦走路にも聞こえて来る。横山はこのコースでは1番低い山なのだが、アップダウンがきつく展望も無いため人気がない。反面自然が多く残され、猪などの動物には住みやすい環境なもかもしれないと、途中で見掛けた『猪に注意』の看板を見て感じた。
最後の香貫山は沼津市のシンボルにもなっていて、山全体が公園のようになっている。そんな訳で、八重坂峠から香貫山の中腹までは車道を歩くことになってしまう。ここまで6時間、さすがに足が重くなってくるが、展望台からの景色はフィナーレをかざるにはふさわしいものだ。
眼下の沼津の市街から、愛鷹山を従えた富士の山、そして高架を走る新幹線を見る。車道が山頂まで延びているが、車は30分ほど下の香陵台止まり、行政の決断に、拍手を送りたいほど静かな展望台だった。沼津駅へは、香陵台から黒瀬経由で1時間ほどだが、会社へは東に向かって新桜台をのんびり下って行く。下りきった所が、朝バスにのった中央病院前のバス停。午後2時50分だった。師走で車の往来が激しい香貫大橋から下を見ると、狩野川が人の営みには無関心の表情でゆったりと流れていた。
追記 一般のガイドは大平山までだが、その先の大嵐山まで踏み跡がある。地元では日守山と呼んでいる大嵐山は、函南町が整備した公園となっていて、ここも見晴らしが良い山だ。大平のバス停から、登り口のトイレ付きの駐車場まで10分なので、ここから歩けば1日たっぷり楽しめる。体調を整えて挑戦してみたいコースである。

1998年12月20日(日)快晴