
◇◆◇◆◇
なくす
自分をなくすこと、なんでも。聞こえなく、
言えなく、見えなくなること。さがす人は、
自分をさがすが、あなたでもない、誰でもな
い、なんでもないものとなる。
いったん失ったが最後、それは、あわてて
洋服のポケットをさぐろうと、本をめくろう
と、便所にいって下をのぞいて見ようと、女
を抱いてみようと、北極から南極まで一生か
けずり廻っても、もはや見つかるものではな
い。
一体どこにいったのか? なんだったら咽
喉からと肛門から望遠鏡をさしこんで、のぞ
いてみてもいいのだが、年々、あるのはかす
ばかりだ。
(角川『現代詩人全集』第10巻から)
◇◆◇◆◇ 言葉 沈黙ということばをしらずに呟く。鳥とい うことばを軽率にすてる。海ということば、 女ということば、魚ということばを意味無し に見つめる。仲間、人間、孤独などというこ とばも平気で使う。そうしたことは破廉恥漢 のやることだ。 愛、死などのことばはもう癒すことが出来 ぬ。走る、跳ぶ、歩くなどのことばは廃兵の ように疲労の極みだ。 即刻に、辞書をどの頁も純白にすること。 書物を過去の時代に仕舞うこと。そのうえこ とばを忘れてしまうことが肝要なのだ。でな ければ、文明人の資格はない。野蛮人だ。そ うして僕たちの一人一人が物とか行為と共に 居ること。 曾孫の時代になって、はじめて、家を建て るように、ことばをひとつひとつ口にするこ とを許す。 マイムや最も単純なことば、それに音楽だ けが生活を支配している世界。そうした場所 を想像しながら、僕は既に熱病やみの患者の ように譫言(うわごと)をいい、ちゃんとした ことばの証言をたびたびこばんでいる。 (角川『現代詩人全集』第10巻から)
◇◆◇◆◇ そのこと 僕たちは何もない中間で漂っている。その ことを自分では全く気付かないか、或は知っ ていても、努めて知らぬふりをしているのか だが。 人々を支えているのは愛や信頼、大きな夢 なのだ。 誰かの顔、あるいはやさしい微笑、暖い胸、 激しい心臓などが、自分を支えているのを、 どうしてかなどと問うのは愚かしい。 誰かがきっと君のために支えている。ここ は人生だから、生れてからの月日、誰かが絶 えずしっかりと支えてきたのだ。とりわけ君 の母親や恋人が。 人はついには誰でもじぶんで自分の体を支 えねばならなくなる。人が成長すると共に、 ひとつずつ支えの手も離れていく。例えば妻 だとか、家族だとか、友人だとかが居たとし ても、そのことはほんの見せかけだけで、人 間は結局ひとりなのだ。 そしてそれは僕らへのひとつの慈悲だ。 恥しらずか身のほどしらぬ者のみが、手を 離したもののことを裏切りだなどと思い込む。 記憶にのみ支えられた老人よ。いつかあっ たあれは人生だろうか。それとも寝呆けた涙 もろいつくりごとか。窓からは何が見えるだ ろうか。草っ原の斜面を照らす陽ざしか。 誰も君のそばにいないのか。君は総てがも う過ぎ去ったと言い張るつもりか。 残されているのは自分のみなんだと。 (角川『現代詩人全集』第10巻から)
◇◆◇◆◇ 二月 手は冷たく、けれども心は燃えている。手 は厳しく君の心の、震えをつかんでいる。君 は偽ってはいけない。何故ふせるのか、瞼を。 君にとどいている、このことばはこおらす かも知れぬ。優しい額からは入って、君の胸 の奥を北国のように橇のあとをつけて走るか もしれぬ。知りたいのは、ふたりが部屋で語 りあうのを欲しているのか、それとも夜更け の外をいつまでも歩いていたいか、というこ とだ。 愛しているのか、ときいているのは吹き過 ぎる風だ。疑っているのでは、などと考えさ すのは人々が歩くこの道だ。 世界は、僕らより卑小で空虚だ。ぬけがら のように鳴るのは、あれは僕らがおいてきた ものだ。 (角川『現代詩人全集』第10巻から)
◇◆◇◆◇ おやすみ やさしい者や幼い者の、傷つき易い魂を連 れて、夕暮は帰ったのだろうか、もう彼らの やすらかな眠りに。彼らの故郷の稲田のそよ ぎのなかに。夕暮はもう帰ったのか、悲しみ から遠い家々に臥して。 今、君は声のない歌、ただ人々の滅びをう たえ。微笑みながら、人々を葬り去るやさし い子守唄を。 夜の中で相手をわからず締め殺す両手は誰 のものなのか。更に夜の太陽の灼きつける炎 と、打倒す風と、飛びあがる土くれ、樹木と 機械の乱舞にましせる肉体は誰のものなのか、 君はしっている。 夕暮は、もう帰ったのだろうか、日本の歌 をつれて、彼らは彼らの国にと僕は祈る。再 び彼らがどこででも、傷つきながら生きるこ とはないように祈る。愚かで話さなかった人 人、その父親母親を連れて、夕暮はもう夜に は入ったのか、君は知らない。どこで彼らが 眠るのか。何故おやすみを言わないのか。 (角川『現代詩人全集』第10巻から)
◇◆◇◆◇ 中江 俊夫 (なかえ・としお) 昭和8年(1933年)、久留米に生れる。 関西大学国文科卒。高校三年の秋、永瀬清子を知り、誌 に興味を持つ。原稿を見せた人たちにそそのかされ、関 大在学中、アルバイトをして小さな処女詩集「魚のなか の時間」を自費出版(昭和27年)。 のち、詩誌「櫂」に参加。また、「荒地」の同人になる。 第二詩集「暗星のうた」(昭和32年)、第三詩集「拒否」 (昭和34年)を発表。 (角川文庫「現代詩人全集」第10巻・鮎川信夫/解説から)