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海の見える石段
彼の女の肩に僕の手があった
「海が見えますわね」ふり向いて
彼の女が云う
僕の手がおちる――蟹(かに)の鋏(はさみ)のように
夏みかんの木の間に あかるい初夏の海
僕も眺める
しかし僕はじきに海よりも 彼の女の髪の毛と
横顔に見入る
彼の女の触感をはなれて 義手のように重い
僕の手のために
(詩集『海の見える石段』から)
◇◆◇◆◇ 遅日 むらさきに暮れる山 その山麓に遊女屋二軒 山女魚(やまめ)釣りの人たちが 仮寝の宿にしたりする遊女屋 未だ灯も点さず ひっそりとしていた 一本の鬱金桜(うこんざくら)がさいていた 濡れた石畳のほとりに (詩集『故園の歌』から)
◇◆◇◆◇ 冬日暮景 小さな山の町では氷漬けの鰯(いわし)を売っていた 塩が鰯を重くしていた 黄菊の花を売っていた 食用の黄菊の花を 冬の日ははやく暮れた 鍋墨のようにさびしく暗く (詩集『橡の黄葉』から)
◇◆◇◆◇ つつじの花 若葉した山の処々に 火のように燃えているつつじの花 麦の穂も出揃った あかるい縁側で蜂蜜の壜(びん)に レッテルを貼っていた 紫雲英(げんげ)の花の蜜であった 家の中で時計が十一時を打った (詩集『菽麦集』から)
◇◆◇◆◇ 雪の日 雪がしんしんと降っている 町の魚屋に赤い魚青い魚が美しい 町には人通りもすくなく 鶏もなかない 犬も吠えない 暗いので電灯をともしている郵便局に 電信機の音だけがする 雪がしんしんと降っている 雪の日はいつのまにか どこからともなく暮れる こんな日 山の獣や鳥たちは どうしているだろう あのやさしくて臆病な鹿は どうしているだろう 鹿はあたたかい春の日ざしと 若草を慕っている いのししはこんな日の夜には 雪の深い山奥から雪の少い里近くまで 餌をさがしに出て来るかも知れない お寺の柱に大きな穴をあけた啄木鳥(きつつき)は どうしているだろう みんな寒いだろう すっかり暮れたのに 雪がしんしんと降っている 夕餉(ゆうげ)の仕度(したく)の汁の匂いがする (詩集『春愁』から)
◇◆◇◆◇ 田中 冬二 (たなか・ふゆじ) 明治27年(1894年)、福島市に生れる。数年後、父の転 任に伴って秋田市に移ったが、ここで父の死に遭い、一 家は東京に移った。 大正2年、立教中学卒業と同時に銀行に入り、昭和24 年まで勤続。 中学時代から文学に興味を持ち始め、「文章世界」に投 書したりした。銀行生活の半ばは地方で過ごしたが、大 阪在勤中の大正11年に、詩誌「詩聖」の特別号に「蚊 帳」が入選。以来、詩作に精進する。 昭和4年、処女詩集「青い夜道」を発表、つづいて翌年、 「海の見える石段」が出る。のちに、「四季」に参加し た。 詩集は、他に「山鴫」(昭和10年刊)、「花冷え」(昭和 11年刊)、「故園の歌」(昭和15年刊)などがある。 (角川文庫「現代詩人全集」第8巻・村野四郎/解説から)