
◇◆◇◆◇ 風景 いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな かすかなるむぎぶえ いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな ひばりのおしゃべり いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな やめるはひるのつき いちめんのなのはな (詩集『聖三稜玻璃』から)
◇◆◇◆◇ 自分はさみしく考へてゐる ひとびとを喜ばすのは善いことである 自分を喜ばすのは更に善いことである ひとびとをよろこばすことは 或いは出来るかも知れぬ 自分をよろこばすことは大切であるが容易でない 物といふあらゆる物の正しさ みなその位置を正しく占めてゐる秋の一日 すつきりと冴えた此の手よ 痩せほそった指指よ こんなことを自分はひとり考へてゐる なんといふさみしい自分の陰影(かげ)であらう (詩集『風は草木にささやいた』から)
◇◆◇◆◇ 自分はいまこそ言はう なんであんなにいそぐのだらう どこまでゆかうとするのだらう どこで此の道がつきるのだらう 此の生の一本みちがどこかでつきたら 人間はそこでどうなるだらう おお此の道はどこまでも人間とともにつきないのではないか 谿間(たにま)をながれる泉のやうに 自分はいまこそ言はう 人生はのろさにあれ のろのろと蝸牛(ででむし)のやうであれ そしてやすまず 一生に二どと通らぬみちなのだからつつしんで 自分は行かうと思ふと (詩集『風は草木にささやいた』から)
◇◆◇◆◇ 朝 なんといふ麗(うらら)かな朝だらうよ 娘達の一塊(ひとかたまり)がみちばたで たちばなししてゐる うれしさうにわらつてゐる そこだけが馬鹿に明るい だれもかれもそこをとほるのが まぶしさうにみえる (詩集『雲』から)
◇◆◇◆◇ 雲 おうい 雲よ ゆうゆうと ばかに のんきさうぢやないか どこまで ゆくんだ ずつと 磐城平(いわきだいら)のほうまで ゆくんか (詩集『雲』から)
◇◆◇◆◇ 山村 暮鳥 (やまむら・ぼちょう) 明治17年(1844年)−大正13年(1924年)。 群馬県に生まる。本名は木暮八九十。 東京築地聖31学校卒。日露戦争に際し、戦時補充兵 として11カ月ばかり満州にあった。帰国後、作詩を はじめ、明治45年あたりから盛んに作品を発表し、 詩集「三人の処女」(大正2年)、「聖三稜玻璃」(大正 4年)を出した。 この当時の作品はイマジズム風の特異な詩で、萩原朔 太郎はこれを「日本における未来派の詩」と呼んだ。 大正3年に室生犀星、萩原朔太郎と「卓上噴水」を出 し、その後身である「感情」に参加した。 第三詩集「風は草木にささやいた」(大正7年)から、 人道的詩風に一転し、「梢の巣にて」(大正10年)、そ の他を出した。さらに、自然に同化したような枯淡な 心境に没入して「雲」(死後、大正14年)の詩をつくっ た。 25歳のときから伝道師となって、秋田・仙台・水戸 その他に赴任。生活的に困苦の生涯であったが、その 中から詩集のほか、童謡集・童話集・翻訳・小説・随 筆など数多くの著作を残した。 (角川文庫「現代詩人全集」第2巻・伊藤信吉/解説から)