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溢れそうな日々の想いをここに書き留める。記憶の負担を軽くするために。
言葉の使い方を忘れたみたいに筆がのろくなっている。いくら考えても、思考がまとまらずにいる。それでも吐き出すためのスペースが必要だ。心の衛生のために。
05/6/2 15:30
第一章 事件寸評
六月三日 90年代の新聞記事について
90年代の新聞記事に目を通していつも思うことは、児童虐待の記事が見当たらないこと。一時はその当時は児童虐待事件はなかったのかと思っていたが、齋藤学のエッセーで児童虐待を取り上げている関係でその存在を知った。
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紙面では児童虐待のニュースは見かけない代わり、、学校でのいじめによる生徒の自殺が大きく取り上げられている。鹿児島の出水中の転校生は庭で首を吊って自殺したのは十年前の95年五月末日。遺書のないことからいじめによるものとすぐには断定できなかった。が、両親が卒業生にアンケート調査を取ったことから、虐待の事実が明らかになる。 |
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戸塚ヨットスクール事件では「体罰即教育」とする考え方の是非が問われた事件だと受け取っている。情緒障害児の治療と称していわゆる「スパルタ式の訓練」を行った結果、訓練生を死に至らしめている。 戸塚のホームページに目を通してみると「脳幹」を鍛える方法とある。これは英才教育に類するものだと考えると合点がいく。猫も杓子も英才教育を施した故の死亡事件であろう。 今、学校でのいじめをテーマにして入力を行っている。それをせずに頭で考えただけでは何も見えてこない。地道に一字一字記事の言葉を入力することで、初めて視界が開けてきそうな気がしている。 何が見えてくるかは分からない。もし見えたものがあれば、そこから自分の論が展開できるだろう。 |
六月四日 人間を辞めたくなる時
そういう気分に襲われたとき、三つの行動が可能になると思う。
A 自殺への道。
B 他殺への道
C 超越への道(あるいは、変身への道)
01年12月28日付けの新聞を読むと、宅間守の初公判の冒頭陳述要旨を載せている。その生き様は「自己中」としか言いようがなく、少しも共感が湧いてこない。この男の場合、「医」がキーワードである。女性を暴行すれば、母親と釣るんで精神病院へ駆け込み、刑罰を免れようとしている。一方で、女性を引っ掛けるために自らを医師と騙ったりしている。結婚してもうそがばれての協議離婚が二、三度。いずれも年上の女である。紙面にある「甲女」は年下の女で、この別れた女性を逆恨みにし、池田小の凶行へと発展したかのように要旨は伝えている。年上の女と年下の女とでは、態度がまるで異なることを見抜くべきだ。
怒りなどのアグレッシブな気分の常襲性を前提におくべきか。17歳特有の気分ともいえる。もし、そこに何の抑止力も働かなければ、彼は爆発的な自己表現の方法として大量殺人を企てることだろう。言うまでもなく、宅間守は犯行当時の年齢は38である。
以上の貧しい余りに貧しい考察から宅間守の犯した殺人は、Bの「他殺への道」と結論付けるつもりはさらさらなく、三つの面を兼ねている事を指摘するにとどめたい。
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ローカルな話題でお茶を濁そうとするアホのコメンターを時々見かける。写真の人は、ノンフィクション作家の佐木氏だが「迅速な審理で判決」等のコメントは司法的専門的な事柄であっても、事件への核心からは程遠く、ややもすれば被告の望みどおり極刑を急げとも受け取れる。世論のリーダーでも思っているのか。どちらであれ、そういう主張は犯人の行動メカニズムを解明した後に行って欲しい。何ひとつ分かつていないくせに!! |
六月五日 バス乗っ取り事件
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2000年五月八日付けの毎日新聞を読むと,「遠ざかる理想 挫折感強め」「いじめ 志望校変更」といった見出しの活字が躍る。17歳の少年の犯した凶行の動機を説明するものとしては余りにもお粗末としか言いようがない。仮に妥当な見方であったとしても、その場限りのものでしかない。 これと似たような文脈で語られるのが池田小を襲った宅間守である。 挫折体験をもって犯行のモチーフとする場合は、願望を前提にする必要がある。たとえば、いじめの最中に「やめて!」と願望を口にすれば、その挫折によってトラウマが生じ、彼は自らの傷の回復に向かって復讐の道を生きるはずだ。もしその時、苛められているにもかかわらず彼本人が単なる遊びとして受け留めていれば、それは挫折ではなく、ましてや復讐心も生まれることもない。 この両者の共通点は、いじめの体験がないことと言い切るにはいま少し勉強不足だが、理想を高く設定したための落差感は同じように経験していることは言える。 もし問題行動の原因がそこに求められるのならば、人間としての成長はその時点で止まるといえる。精神分析の言う「固着」である。 |
追記 もし、いじめをいじめとして受け取ることを拒否しているのであれば、彼らはひとりよがりの強者の論理で武装しているという考えが浮かんできた。これって、取り留めのない妄想?
六月六日 新聞の見出し「子供の言いぶん<家族>影落とす親の姿勢」
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学校で何か問題が起こったとき、その背景に子供の家族の問題がある場合は解決するのが難しい。 A子は級友の財布からお金を盗むことがある。しかし、どんなに調べてもお金を盗んだことを否定する。級友の親たちからも苦情が殺到するので担任はA子の両親に真偽を確かめようとした。 A子の両親は「自分の子どもがそんなことをするはずがない」と担任に食ってかかった。担任が詳細に説明して、A子が盗んだことが分かると、担任の前で父親はA子を殴りつけた。 A子の両親は夫婦仲が悪い。A子は小さいころから愛情を受けずに育った。A子は両親の関心を引きたい一心に盗みを続けていたが、両親は自分たちに問題があるとは気が付かなかった。 B男は平気でウソをつく。ウソをつくことを友達から責められたら、登校拒否をすることで、被害者を装って友人を逆に責めようとした。B男はある日、家を出たものの学校には行かず、途中で遊んでいた。B男が登校していないことは学校から家庭に連絡され、両親は驚いた。近所を捜し、公園で遊んでいるBを見つけた両親は、B男を連れて学校へ行った。担任からそれまでの経緯を説明されたB男の両親は激怒し、いきなりB男を殴りつけた。B男の家庭も両親がうまくいっていない。B男のウソは、もうひとりの幸せな家庭に育った自分を演じるウソだったに違いない。 A故B男の問題は、それぞれが殴られることで一見解決したかのように思われる。しかし、その背景にある家族の問題は未解決のままである。学校側が家族を指導するのは難しい。一方、問題がある家族には葛藤があるため、相談には行こうとはしない。「子は親の鏡である」ことに気付かない親たちがいまだにいる。 【親と子の教育相談室096(32)7366】※相談委員が交代で執筆しています。 熊日93/7/18 |
管理人註 新聞記事というと、それ自体が真実を伝えるものとして私たちは受け取りがちだが、上の記事は入力している途中で問題の存在に気付いた。A子やB男といっても抽象的である。歳がいくつで、どこに住んでおり、いつ頃起きたものかがわからない。欄外をみられるとわかるように、書き手は「教育相談室」の相談委員のひとりである。匿名だが、市外局番から熊本市にある教育相談室ということがわかる。ここから記事の内容は最近になって持ち込まれた「熊本」の教育相談の一例と思っていいかというと、それができない。というのは、どこかで聞いた様な話であるからだ。記事は教育相談の古典的な対応マニュアルのひとつで充当していると思ったが、間違っているだろうか。
追記 A子やB男は、やはり、ダミーである。相談窓口を開設して、記事ネタになりそうな個人の体験談を集めるためのもの。
第二章 表現活動
六月七日 表現活動
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記事は、昨年の例の「週刊文春の出版禁止取り消し決定要旨」で、「表現(報道)の自由」と「プライバシーの侵害」を巡る闘いで、述べるまでもなく、文春の側が勝利している。 |
ここで取り上げたのは、文春はすごいなということを伝えたいため。個人が表現活動を始めると、ネックになるのが「プライバシーの侵害」等の壁。中小の出版社は「現代物」ゆえのリスクを背負った表現の持ち込みを嫌がるところを報道の使命とばかりに果敢にも挑戦しているのだから。
書く側は、書いても読み手からの反響がほとんどない状態であったり、本にしてもまるで売れないと心がいじけてくるのはいうまでもない。自費出版してマスコミが取り上げてくれれば万々歳ともいえるが、そういう機会さえ恵まれないと表現の意欲が萎えてくる。そんな状態を引きずったまま日々を暮しているけど、ある日気が付いてみると窮地に立たされていたというのは結構あると思う。
そうなる前に人間としてやらなければならないことがあると思っている。あくまでも非は自分にあるとする謙虚さも大切だがそう考える前に、個人の表現活動を妨げるものをひとつひとつ除去してみるのはどうだろうか。人間は舐められたら終わりだと思う。
六月八日 自著について
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写真は弊著の逸脱論である。内容は詩人論を皮切りに文法論と文学論をなで斬りにしている。文芸評論家の清水信の評言「・・・詩人論、アメリカ論、文法論という超域的な視角による文芸評論で、その方法論に説得性がある」(04/8「中部の文芸」より)は嬉しかったが、「アメリカ論」は「文学論」の誤りである。また単色的な「文芸評論」ではない。文法論を核にした横断物である。中日新聞のもうひとつの「詩」文芸は、担当の富永覚梁が休載したために氏の評言に接する機会を逸した。 なお、サブの批評のアメリカ性とは、「破壊」と「再建」をかねた批評方法をいう。たとえば、小泉の悪口を言うことをたやすい。しかし、どういう国策で日本を建て直すかという確固とした持論をもたずにかますことをNGとする批評の立場である。 この論の誕生は、三十年前に突如とした襲った着想「労働は運ぶ」に始まる。労働のすべてが見通せる眼をもったともいえる。その観念をもてあまし、忘れかけてもいた頃、詩人の高橋睦郎の「動詞は渡る」説と出逢った。似ていると思ったから、慣れぬ動詞研究に着手した。その過程で国語学者の時枝誠記を知った。怪しげな仮説に満ちた国語学論に魅かれた。・・・ |
文法研究は自らが主宰する同人雑誌「黒の潮語にて発表を続けた。「数式の構造」など、読み手を想定しない無茶苦茶な書き方をして平気な時代をすごしていた。「横断物」のスタイルで発表したのが「Σ」という二人誌。三番目は個人誌「Tatamizm」の誌上で発表した。これがきっかけで、中央の詩誌に転載される運びとなったが、思い出も何も書こうと思うだけで、反吐が出そうになる。
坂口安吾の「堕落論」ではないが、「逸脱論」とは自らの存在そのものを悪と規定するものだ。換言すると、逸脱こそわが歩む道なのだ。
六月九日 永遠の美男
世紀末の年は、95にもなろうかという老いた父と暮していた。
父の口癖は「後を頼むぞ」で、そう言い残しては近くの総合病院へ駆け込んだ。簡単な問診の後の応急手当はいつも、ブドウ糖の点滴である。医師の診断は、栄養失調と水分不足というだけで、時々、精密検査と称して脳の輪切りのレントゲン写真を撮影したりした。これも異常な所見について聞いた試しはない。
故障しがちの老体とはいえ、外見からは老醜は観察できなかった。父は老いても美男であった。
明治生まれの父とイメージの重なる作家がいる。夏目漱石で、ある作品を分析してみたところ、「永遠の美男」という顔が見えてきた。漱石の晩年の作品で、作中の先生は自殺願望を持っているが死に切れないでいるというあの話である。
この作品を分析(正式には、第二の意味の検出と言う)すると次のようになる。
彼先生は、奈良のお大仏様のような美男の父神である。父神は時間を司るがゆえに時間を超えて生きながらえている。ところが、ある日息子(作中は、友人)の自殺によって父神自らのエゴという醜さを突きつけられて、自殺したくてもその不死性ゆえに死ぬことが出来ないでいる・・・。
話がそれたが、写真の五千万円恐喝事件は被害金額の異様とも言える大きさに目が奪われた。数千円でも恐喝は恐喝なのだから、通報があれば刑事事件として犯人は即逮捕される。殺人のように単発的ではなく、常習的かつ陰湿な犯罪であり、面が割れていることから被害者に対して不良グループはあの手この手を使って通報の妨害を企てる。根絶やしにするぞ位の脅し文句は序の口であろう。
こういう事件はややもすると、関心がなぜそこまで被害金額が膨らんだのかという一点に集中してしまい、謎解きが終わると時代物みたいに一件落着ってことで片付けられてしまって、ニュースの送り手も受けてもそのことの天晴れさに感動・充足してしまい、事件のことは浦島太郎のように忘れ去ってしまう。
一方で、「少年の事件は社会を映す鏡」という言葉がある。「部分は全体を照らし出す」ともいう。これは19世紀末に起きたフランスのサンボリズムの精神に端を発するもので、詩の一行はフランスのある病んだ精神をえぐるものと考えるとわかりやすい。従って、少年グループの犯した罪は実は日本の病んだ精神を鋭くえぐりだしていると考えられるわけだが、少年の事件を鏡として社会の病理みたいなものを照らし出してくれた人はいるのだろうか。
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愛知は結構、いじめ事件が頻発している。百万円恐喝され自殺した大河内君事件も愛知で起きている。写真はその頃「葬式ごつこ」で紙面をにぎわしていた東京の鹿川君自殺事件のものである。 |
六月十日 犬二匹棘を乗り越え苺狩
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写真の犬は、左からタイフー♂とラン♀。体格の劣るランのほうがリーダー犬である。 ランは狩が好きで、ある日山の麓の藪の中でごそごそやっていると思っていたら、次の瞬間、私のすぐ前を猪が走りぬけた。そのとき、藪から姿を現したランの顔がにゃっと笑っていたような気がした。 熊本には放生祭というだんじり祭があって、熊本の夏を花火のように彩っている。ボシタボシタと囃しながら、飾り馬を先頭にして山車をひりずり回す。ボシタという囃し言葉には、滅ぼしたとボボしたいというふたつの意味があると熊本の女性から教えてもらったことがある。「滅ぼした」の意味は加藤清正の朝鮮征伐にダイレクトに関係するもので、彼の民族にとっては屈辱的な体験を髣髴させることから、直に使用禁止になった。 祭りの太鼓のリズムは身体の中心を鼓舞するようなところがあり、女性は腰をくねくねといわば骸骨だけの踊りを演じたくなるようだ。良家の娘は祭りの日の夜間は外出禁止で、禁を破るとお嫁にいけなくなるよと脅されたという話を聞いたことがある。 |
放生とは、生を放つことだが、広辞苑の「捕まえていた生物をにがしはなつこと」という字釈は回りくどい。「今日は放生祭だね」と女性に声をかければ、「エッチしたいけど、どお?」という意味は難なく伝わると思う。
普段は鎖に縛られている飼い犬を休みの日の朝に山に放つことが、放生なのではない。飼い主自らの象徴的な放生に他ならないことを犬を飼うことで初めて知った。ペットとは、いわば外付きの毛むくじゃらの性器なのだ。本当は告白のルソーみたいに亀出しでもやりたいと思っているのだが、愛犬で代用しているということを。
本を出すことと犯罪行為は表裏一体の関係にあることは、案外知られていない。両者も同じように放生の意味を兼ねていることから容易に想像がつくのではなかろうか。
ある日、寄贈した本が気になったので図書館まで足を運んだ。通俗書の氾濫する書棚を見て周ったが、見つけることができなかった。このことのために何度足を運んだことだろうか。空きの多い新刊コーナーの棚にあるはずももなく、仕方なしに、検索機の画面に「イツダツロン」と入力し探索してみたところ、「見つかりません」というメッセージを見て、その場を去った。
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写真の男は、00年4月19日に福岡・津屋崎の女児誘拐で捕まった常習犯の久保忠志容疑者である。その日の犯罪の手口は、どこかで拾ってきた犬を連れて歩き、可愛いといって寄ってくる女の子をひっかけるものだ。 |
六月十一日 茨の道
「もしもし、このことについてお尋ねするのは私自身非常に心苦しいのですがどうしても知りたいと思ってですね、電話してみました。実を言いますと、昨年の夏ごろ自費出版の本を寄贈した者ですが、書棚は無論、検索機にも名前がないみたいで、ご多用中のところ真に申し訳ありませんが、どのように処理されたのか、それだけでもよろしければ教えてもらえないでしょうか」
地元の図書館に問い合わせたのは、先週の金曜日のことである。電話口に出た館員は、調査して後こちらから電話するといってくれたので一旦切ることにした。
図書館に寄贈しても一葉の葉書もくれないというのは、地元の図書館に限ったことではない。熊本の図書館は同人雑誌を何回送っても、特設の同人雑誌のコーナーに展示することはなかった。無論、葉書などくれるわけがない。縁の地である北九州の図書館でも全く同じである。
バカにしてやがる、と心がくじけそうになるが、ぐっとガマンしている。
程なくして電話のベルが鳴り、その電話で聞いた大意は、「難しい内容の本であるから郷土資料として保管している」とのこと。知人の大学教授が「難解」と書いてくるぐらいだから、一般向けの図書でないことは分かる。だからといって公開もせずいきなりの保管はないだろう。
館員は公務員である。公務員である以上は、憲法を守る義務がある。かかる館員の行為は、憲法の保障する「個人の表現の自由」に制限を加えるものだと訴えて、電話を切った。
六月十二日 ♂唇は蝶のように軽く、尻の重さは超ヘビー級♂
癒されたい一心で出逢い系サイトにはまったのは四月頃。受信はすべてサクラメールとわかったのは、登録して一ヶ月後。それまでに二十万近い金額を投資した(T▲T;)ゥゥッ。
被害金額がなぜここまで膨らんだかというと、ひとり位本物がいるだろうと思ったことと友人に紹介したいと思ったことと研究目的の三つが重なる。
研究成果のひとつとして、「おはようリーチ」なる現象を挙げる。リーチとはパチンコのそれで、出目が二つそろえばリーチ状態に突入し、三つそろえば大当たりが転がってくる。出逢い系で「出逢う」とは、丁度この大当たりに相当する。が、多くはノーマルリーチに過ぎず、99%は外れる。中にはスーパーロングリーチへと発展するものもある。たとえば、朝一番に「おはよう」なるタイトルでメールが届く(*^@^。おおっ、今日は朝からエッチモードだと思ってわくわく・ハッスルしながらお相手を務めていると、昼になり、夜になり、それでも諦めきれずに深夜の二時ごろデートスポットで会うことにする。それまでにポイントが足りなくなって、何回かコンビニまで電子マネーを買いに走っている。翌日に持ち越したのでは、またイチから出直すのかと思うと、ため息がでそうになる。このチャンスを逃すなの一念で頑張った末の約束事である。♂♂♂
もしくれば、即ラブホ行き。来なければ、その女性のいる出逢い系はウソ系と判断できる。それだけのこと。人気のない場所で待ち続けるときの心細さとかバカっぷりは笑って欲しいなあ。
出逢い系は、大当たりのないパチンコゲームのようなものだと言ってみたところで、証明は別の話。「メールはすべてウソ」と世の中は賢い人ばかりだけど、ドタキャンを食らってもウソの証明の困難さに変わりはないと思っているが、どうであろうか(>〇<)。
一度、出会い系サイトからのメールで名前がすべて「$name」になっているメールが届いた。
プログラムで自動的に多数の人間に送っているんだと瞬時にわかる内容。
あといきなり友好的過ぎたり、文面が似通ったものばかり…と偽者を見分けることは可能。
寂しい心の隙間につけこむやつらがほとんどなのが現状。
(タイトルは「ひっかかる方も、賢くなるべき」)
(返)証明の困難さとは?
貴兄の言い分は一理はあるが、それでもってメールのウソを証明したことにはならないと思う。疑惑の念を深めるには役立つけれどね。たとえば、A子という発信者がいて、Bなるメールを複数の男性に発信したとする。貴兄の言っていることは、A子の存在を否定しておらず、Bなるメールの偽物を指摘するにとどまっている。つまり、Bなるメールの所有者がA子である限り、たとえBメールが空メールだとしてもそれは本物だということになると思う。
このように考えてみると、証明すべきは(C)発信者のA子の存在の架空性や(D)実在したとしてもサイトの代表者との雇用・契約関係にあると思う。(E)その他。
(C)に関しては、出逢い系で使われている顔画像がアダルト系で見かけることがある。ここから、その顔画像付きのA子なる発信者は複数のHNを使い分けていることが分かるし、肖像権の問題も絡んでくると思う。HNの架空性の証明は可能?次に、(D)の実在性(他系との顔画像の併用で確認はできる)に関しては、発信者は外国に在住の日本語の堪能な外国人の可能性が高く、証明は物理的な困難さがつきまとう。
次に、被害の状況であるが、たとえ被害に遭ったとしても、自己責任に帰すべきものとして取り扱われる可能性がある。この問題は一方で、メールそのものの信用性に関わるもので、無法性を放置したことによる関係機関の責任を追及することが可能と考えている。
被害は微々たるものとしても、二次的な凶悪犯罪を惹き起こす恐れがある。出逢い系で体験する女性の側の面会謝絶は、男性の側に女性憎悪の念を生じさせやすく、ここから禍々しい事件を誘発している面は否定できないと思う(報道記事は、出逢い系サイトで知り合った女性の被害を伝えているが、この点からの考察も必要なのではないか)。
10日ほど前に会いました。会社の受付の仕事をしていたという33歳くらいの人。まあまあ、でしたよ。食事して、ラウンジで、体を触ったりして、品定めしたけど、サポートを希望したので、次は、連絡しませんでした。結構、サクラは、少ないと思います。反応は、今ひとつ。他の無料サイトのほうが、効率はいいですね。無料サイトは、絶対サクラはいないし。今まで、50人くらいと会って、15人くらいと、関係を持ちました。会って即って言う人がほとんどでした。27歳から、37歳くらいまでのOLとか、人妻。みんな美人でスタイルもよくてタダで、もう、趣味になって、やめられませんね。(もちろんそうでない人も、いらっしゃいましたが、こちらから、お断りしました。)ちなみに、今年で52です。いい加減にしないとと思っています。こんなオヤジは、やっぱりどうしようもないでしょうか。
(タイトルは「私はラブサーチで会いました」)
(返)○○1379さんはもてるんですね
ところでお聞きしますが、「他の無料サイトのほうが効率はいい」とおうせですが、これはラブサーチも無料サイトという意味でしょうか。私の知る限りでは無料サイトはメルメル位なもので、登録すると業者っぽい方からのメールで受信ボックスは溢れてしまいました。
それと「絶対サクラはいない」とのことですが、そこまで言い切るには出逢い系サイトに内通している人で、フツーの人では無理と思いましたが、どうでしょうか。
>ところでお聞きしますが、「他の無料サイトのほうが効率はいい」とおうせですが、これはラブサーチも無料サイトという意味でしょうか。
ラブサーチは、定額制の有料です。
ですので、有料サイトというくくり。
でも、他のポイント制の有料サイトより、サクラは少ないと思います。
>私の知る限りでは無料サイトはメルメル位なもので、登録すると業者っぽい方からのメールで受信ボックスは溢れてしまいました。
無料サイトも、メルアド収集とか、フィッシング的なサイトもあります。そうではなくて、純然たる良心的な無料サイト。ほとんど女性からのアプローチなどありません。せいぜい月に一通あればいいほうです。
>それと「絶対サクラはいない」とのことですが、そこまで言い切るには出逢い系サイトに内通している人で、フツーの人では無理と思いましたが、どうでしょうか。
女性からのアプローチのメールが月に一通以下しか来ないのに、サクラがいるっていえますか?
有料サイトみたく、女性から積極的にアプローチしてくるなんていうこと自体、ありえないことです。そんな女性は、いませんよ。会ったことないでしょ。僕もありません。
でも、有料サイトには大勢います。全部、サクラ。それも、男も多いのではないでしょうか。
でも、そうではない、優良な無料サイトを探して、まめに、努力すれば、フツーのおじさんでも、いい思いは出来るのです。(タイトルは「普通のおじさんです」)
(返)何が「普通のおじさん」か、笑わかすな
男とは、一般的にいえば、自分は一癖も二癖もある男と思っているものだ。ところが、実は、かくかくしかじかの者ですと正体をばらして、どうしょうもなく普通の男であることをさらけ出してしまうもの。最初から「普通の男」と名乗りたがる男は、実は、そうでないことを能弁に語っているのだ。
>優良な無料サイトを探して、まめに、努力すれば、フツーのおじさんでも、いい思いは出来るのです。
何が「努力」か。おかしくて片腹が痛くなるぜ。スケベ心を満たすための女漁りを勉強勉強と受験戦争を勝ち抜くために努力している受験生と混同しゃがって。つまり、受験生は一度として合格の喜びを味わっていないからその頑張りは「努力」というに値するのであり、それを一度味をしめたおじんが再び甘い汁を吸うためにする骨折りを「努力」と自ら称するのは、なんていえばいいんだろう。アホらしくて、相手する気にもなれん。
六月二十七日 己のどてっぱらに風穴を開けたくなる時
S社へ
冠省 一昨年に振り込んだ出版契約の内金五十万円について、早急のお払い戻しを願い申し上げます。
すでに契約は破棄状態にあり、この点について貴社は損害を発生したとの事由を持ち、版下を制作、且つ、一次著者校正によっても不足金が生じたとのことで、ストーカーまがいの執拗な電話攻勢とその後の手紙のやりとりで、泣きっ面に蜂とばかりに不足金についても請求するような態度でした。この点については、契約書の書面にある「確定原稿」の意味が曖昧であるにも拘らず、当方に一言の断りもなく勝手に『確定原稿』とし版下を制作したなどと既成事実をつくったことにしてのでっち上げであることは誰の目にも明らかです。もし版下制作が事実だとすれば、それは貴社の自己責任ではないかと考えております。
貴社はいかなる根拠に基づいて、単なる持込原稿を確定原稿としたのですか。貴誌に転載したからですか。
これが未確定の原稿である証拠は、S氏が『物語機能の意味について難点がある』と指摘するとおり、氏自らが認めるところです。他にも加筆訂正の必要が多々ある未熟の原稿であることは申し上げるまでもありません。
貴社となぜ出版契約を取り交わしたかについては、いささか屈折しており、当方が言い出したため引っ込みがつかなくなったということでしょうか。しかし、これも貴社が原稿依頼の話を持ち込まなければ、こういうトラブルは起きなかったといえなくもありません。
最後に、持ち込み原稿を持って原稿を確定するとは、人間性に対する非常なる冒涜的な行為だと考えます。なぜなら人間とは限りない可能性を秘めた存在であるにも拘らず、貴社の行為はその芽を早々に摘み取るものだからです。
草々
八月一日 出版トラブル
こういうトラブルが起きるのは、その出版社の古い体質と言えるかも。内金として支払った五十万円は没収。さらに出版契約を解除するには解約料として二十五万円を支払えと言う。
出版契約は一昨年の夏に取り交わし、内金を払うも気懸かりが生じ、二回目の内金の支払いを渋ったところ、出版社の某は「商人」という「正体」をあらわにしてきた。それでも昨年の春には交渉再開。制作料を百万円にしてもいいとか前向きの態度であったが、校正料は別に加算すると言うので、契約は破棄状態に。未熟な原稿とわかっていたから全面改稿と張り切っていたが、校正料が加わると、制作料の総額がいくらになるのか計算ができなくなる。むろん、校正料のことは契約書にはない。契約書に校正料加算が明記してあれば、取り交わすことはなかっただろう。
個人的にはこういう悪質な出版社は許すことができないし、消費者保護法の存在を知って、闘う気が起きた。出版社の持つ古い体質を暴露するためなら、最高裁まで闘う用意がある。
S社御中
T様
内金は、本の制作料の一部として支払ったもので、契約関係の破綻に伴って制作料の意味が消失した以上、当方が納めた50万円について払い戻しを求めるのは正当な行為だと考えます。
一 これに対し、内金50万円は「初校作成の費用」として充当ですか、びっくりしました。契約関係については、「現時点では、契約は続行中であり、もし契約を貴殿が一方的に破棄するというのであれば、違約料として内金2の二分の一の25万円」を「違約料」なる名目で解約料として25万円をご請求するのもびつくりしました。
ところで、早速の質問ですが、
「初校作成の費用」とは、
a 印刷所で版下を制作した費用の意味でしょうか?
b そうではなく、貴S社のプリンター等を使用して作成した初校関係の費用の意味でしょうか?
c 上述の作成費用の意味は薄く、いわゆる「没収」の意味でしょうか?
d その他。
二 次に、「確定原稿」の意味ですが、「確定原稿とは、出版を目的としてお預かりした原稿」との回答をよこされましたが、当方のケースでは例外で、原稿は貴誌に転載する目的で送ったものであって、出版を目的としたものではありません。また、昨年の手紙で、未確定原稿である証拠として前代表のS氏の言葉を挙げましたが、特にこの件に関して質問です。
e 貴社は「泥棒機能の意味について難点がある」と拙稿の持つ未熟さを指摘し且つ認識したまま、その原稿を「確定原稿」と認識するのでしょうか?
f その他。
三 「貴殿のサイトで公開する意図と目的がわかりません。それを教えてください」との御質問ですが、当方が正義であることを世界に知らしめるためであります。この公開によって確実にいえることは、こういう出版トラブルの防止に役立つことです。
引き続き、情報公開に御理解を求めますが、質問です。
g 貴社にとって情報公開は御都合が悪いとお考えでしょうか?
h その他。
最後に、契約のことですが、一昨年の夏、内金2の支払いが出来なくなった時、S様から電話で「困る」とおつしゃられ、この一言で貴社に対して嫌気が差しました。にも拘らず、昨年の春頃には前向きに自費出版の件について貴社と話し合ったわけですが、「一次校正料が発生」したとの事由等は契約書にないことなので、これはアブナイと思い断念することにしました。つまり、契約関係が破綻に至った経緯はあくまでも契約書にないことを請求する貴社の態度にあるわけです。
なお、質問は選択形式にしましたが、もし正当と信じる処の根拠や正当な事由が示されない場合は、可能な強行措置を講じる用意のあることを明記しておきます。また、平成17年九月末までに返信のない場合も同様の措置を講じます。草々。
平成17年8/21送付
第三章 魔物が棲む水上
六月十四日 魔物が棲む水上
競艇は、ターンマークの近くに棲む魔物を制したものが同時に勝敗を制するゲームである。サークル内には二つのターンマークがあるから、魔物は二匹。それも陰(青)と陽(赤)の魔物である。
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写真は、五月下旬に開かれた笹川賞の最終レース=優勝戦のスタート練習の様子(撮影は、いずれも管理人)。出場選手は、福岡の植木通彦、同じく瓜生正義、東京の浜野谷憲吾、初日のドリーム戦を制した石川の今垣光太郎ら錚々たる顔ぶれがそろった。 前評判では浜野谷が節イチ。今垣は機に不安があり、弱気のコメント。が、鬼の整備巧者は優勝戦までに超抜機に仕上げていたようだ。五号艇という不利枠にも拘らず、第一ターンマークを過ぎてみると、二、三番手につけていた。先行艇は、言うまでもなく、艇王こと植木通彦である。植木はそのまま逃げ切り、四千万円の賞金をゲットした。 |
| 写真は、優勝インタビューに応じる壇上の植木。はじけるような笑顔と両手のVサインが蟹みたいで可愛いっ!! 当たり舟券は確か、1-5-4で二千円台の配当だったと思う。私は3号艇の瓜生に期待して負けた。準優ではまさかの大外からの逆転劇をやってのけた万州男は、実はスローの利きが甘かったようだ。第一ターンマークをクリアすると赤の艇影はすでにかすんでいた。それでも、瓜生がいたからこそ植木が勝ちを拾ったと称えるべきかどうかで迷っている。 実を言うと、その日はハンディを背負わされた。というのは、スポーツ紙を場内で買い求めるつもりでいたところ、売店には置いてなく、案内嬢に訊いてみると、ナント業界の予想誌を買うようにすすめられた。こういうのって業者との癒着が噂になると思うけど、どうだろうか。 |
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瓜生は、顔もいいけどそれ以上に名前がいい。ショ・ウリュウとでも呼びたくなるようなドラゴンの名を冠している。しかし、大舞台には弱い。若松での新鋭王座戦に優出し、一号艇をゲット。地元ファンの期待は大きく、当然楽勝かと思っていたら、第一ターンマークの手前でテンプラ。その日は横風が強かったとはいえ、ターンマークに激突することはないだろう。あ〜あっ。結局、ニ号艇が恵まれで優勝。 実を言うと、その日ゲートをくぐると手渡されたラッキーカードが二号艇の黒。もらった時、くそっ、アンラッキーのカードをくれやがってと少し頭にきたけど、あの時冷静になってその意味をシンシに受け留めていれば、今頃は左ウチワっていうわけにはいかないけど、当座は食うのに困らない生活が送れていたはずだ。 笹川賞の最終日の第一レースは荒れた。人気の田口節子が好スタートを切り、楽マクリであたまかと思いきや、ターンマークの手前で伸び返してきた1号艇に抵抗され、そのため、勝ちに行った二艇は大きく流れた。脇の甘くなった所に外枠の2艇が差し込んで、ワンツーをゲツト。2連単は万州の高配当。 「おめでとう。当てましたね」 |
と、隣の席にいる男にお祝いの言葉を送った。というのは、レースの始まる前、掲示板を見ながら「万州は、4-5と5-4の二つだけか」と呟いていたからだ。無論、男は当たり券を買っていなかった。
こういうのって何だろう。目の前にビッグチャンスが転がっていながら、つかみきれずにみすみす逃してしまって相変わらず生活は辛酸をなめさせられていると言うのかな。一言で言えば、鈍感?
その日にもらったラッキーカードは「970」番。当たるとすれば、一番人気だなと思っていたら、見事に的中。何かあ、よくわからないまま、五千円をもらっちゃった。ラッキー!!
六月十五日 魔物が棲む埋立地
電車が走っている下を掘り下げて造った道路をなんていうんだろう。そこを通る時、オープンカーじゃないんだけと゛、なぜかアタマを低くする癖がある。で、潜り抜けると、左手に折り返し用の一方通行の狭い道路があって、大抵は線路沿いの裏道に通じている。
ある日、若松ボートへ行く近道だと思って、ガード(?)下を潜り抜け、折り返し用の道路の手前でいつものようにスピードを落とし、徐行運転をしながら、ハンドルを切ることに専念していた。走り屋の男なら速度を緩めずにサイドブレーキをかけ、モンキーターンでもやってのけるかもしれないが、モチそんなことは一度もやったことはないし、第一、スピードを出しすぎて、少しでもけつがぶれると怖くなってスピードを落とすタイプだから、危ないことはすべてやる気も起こらないいたってまじめなドライバーである。車を運転している最中は、細心の注意を周囲に向けていると思っていたが、その日は違っていた。長い時間をかけて折り返し点を曲がりおえようかなというとき、突然急ブレーキのけたたましい音が迫ってきた。恐怖心からか目の前が一瞬真っ暗になった。気が付いてみると、見たこともないワゴン車が鼻の先に停まっており、その左側の客席のドア付近に私の普通トラックのフロントの右隅が接触している。状況は私の車が相手の車の横っ腹にぶつけた形の交通事故?
男は車から出てくるなり、「俺の方が正しい」と言い張った。とにかく、男には勢いがあった。私の方は何がなんだかさっぱりだったので、とにかく、話を聞いてみることにした。
男の車は対向車線を走っていた。が、私の目はその車を見てはいなかった。男の方は私のトラックが先に左折するのを目撃したが、直進する自分の車の方が優先だと思って、スピードを緩めずにいたところ、相手の車が停車する気配がないのを見て取り、このままではぶつかると思ってあわてて急ブレーキを掛け、同時に、道端のブロック塀に胴体をこするのを覚悟でハンドルを右に切った・・・。
話を聞きおえると、絵を描くように男に説明してやった。
「おれの車は左折の最中だったんだよな。で、おたくの車はちゅうと、道路はクロスしているんだから、いくらまっすぐな道といえども右折になるんだったね。えっとお、こういう場合、どちらが優先だったっけ?」
交通ルールのイロハがぶっとんだみたいに頭の中が混乱していたから、男に質問をぶつけていた。が、とっさに自分の非を悟ったのか、男は私の質問には答えようとはしなかった。
次の質問で畳み込もうと思ったが、今思えば、蛇足であった。
「若松ボートにでも、行くつもりだったのか?」
男は即座に否定した。
男の車が走ってきた方向は、洞海湾という湾岸の埋立地でそこに持ち込まれた産業廃棄物の多くが、筑豊の炭鉱のボタであることは火を見るよりも明らかだ。ボタは水を含むとたちまちヘドロに化ける。下水道工事で掘削する時は崩落の危険性を伴うから養生が欠かせない。同じような土壌に鹿児島のシラスがある。火山灰を多く含んでおり、雨季になると、シラスの壁面が崩壊して毎年のように生き埋めによる犠牲者を出している。このシラス畑でも芋は育つのに、ボタの畑だけは、どんな作物も育たない。もとより人間の住める場所ではないから、工場ばかりが建っている。たぶん、男は夜勤を終えての帰途にあった。だとすれば、気が大きくなっていることは十分に考えられる。というのは、夜勤を終えて迎える朝って、勝ち誇ったような気分に浸れるからだ。どうしてそんな気分になれるのか合理的な説明は聞いたことがない。魔が差したとすれば、世界を見下ろすような朝の気分のせいだ。
すべてはお前が悪いといって、金を巻き上げる位のことは出来たかもしれない。が、間一髪のところで、私の命はは救われたという感謝の気持ちがあり、男を責める気にはなれかった。なぜなら、男が言うように自分が正しいという論理を振りかざしていたならば、男の車は私のいる運転席めがけてぶっけてきたことだろう。
男は車の修理代を保険で済ませたい風だったが、その気がなかった。車を持ちはしていたが、維持費の負担に耐え切れず、次の車検日には廃車にするつもりでいたから。
最後は、握手して別れた。
あるギャンブラーの話によると、交通事故に遭遇するとそのまれな体験で発奮するという。なぜなら「大当たり」を意味するからだ。ツキを味方にしたみたいで、そういう日は大勝ちすると。
六月十六日 魔神の棲む熊本
この男(以後、北と呼ぶことにする)と喫茶店で会ったのは、南の口利きによる。熊本の名門校を出ており、法律に明るいと聞いていた。
会ってみると、Zはビックコミックの玄人の呟きにご登場の着流しの男に似ていた。やせこけた「刺客」風とでもいえばいいだろうか。
職はなく、日中はぶらぶらしている。飲食代は割り勘と思っていたら、金の持ち合わせがなく、私が持った。
北の言葉で今でも覚えているのは、裁判官や調停委員は民事のトラブルについて何も分かっておらず、心証でもって裁くという言葉である。にわかには信じがたい話であったが、実際に裁判に立ち会ってみると、事件の詳細について何も知ろうとはせず、事務的に処理するだけのことが分かる。北の言葉の方が正しいのである。
この男のことをもっと知りたく思い、何か書いているのかと聴くと「短歌」の心得があるようなことを言った。これとは別に、「己の裡に埋もれる宝物を発掘してこそ、これ一生もの」と諭してみたが、何の答えもなかった。
時折、玉のような輝くことを言うZであったが、惜しむらくは、発音がにごっており、聞き取ることが容易ではなかった。
北がどうして南の家を訪れたのか正確なことはわからないが、出版社の西との間で起きた出版トラブルの噂を古本屋で耳にしたことは想像できる。
出版トラブルとは、こういうことである。
某作家の遺族である南が出版社の西に全集物の制作と販売を頼んだ。全集は十二巻、最終巻を出すまでに四年もの歳月を費やした。その間、西から請求があると、遅滞なく額面どおり支払っていた。ところが、最後の十二巻に関しては、支払うのを嫌がった。相談があり、話を聞いてみると、疑わしい点が多々あった。
たとえば、全巻購入者には著者目録をプレゼントという言葉が帯に入っている。買う方からみると、出版社がきばるんだなと受け取りがちだが、実際は発注者の南の全額負担である。それも些細なトラブルから料金を二倍ぐらいに吊り上げている。サービス本なのだから制作料は安くしろと言いたくなるが、もとよりそんな話に耳を貸すような男ではなかった。
一度、西と話し合いの場を持ったことがある。はじめこそ友好的な態度であったが、質問を始めると、説明責任を果たそうとはせず、なんでもない質問に対して「ケツまくるぞ」といきり立つような有様。仕方がないから、弁護士に交渉を任せるも埒が明かず、家庭裁判所に調停を申し出ていた。
請求額は百万円位だったが、それまでに一度として中間的な清算は行っておらず、家裁の命令で正直に清算を行っていれば、西は暫定債権者の立場から債務者に転じた可能性がある。この証拠のひとつがK書店での虚偽の売り上げ冊数で、後日店員に聞いてみるとそんなに売れなかったという証言を得た。
何のために数字を偽ったのか。真相はすべて闇の中である。
北ははじめこそ気のいい・無料の相談員を装っていたが、次第に本性をむき出しにしてきた。ある日を境に、連日のように電話をかけてきた。
「法律相談に乗ってやったのだから、相談料として二万円を支払え」
「南から預かった全集を古本屋に売ったぞ。取り返したかったら俺を訴えろ」
「俺は今から西に会いに行く。お前たちのことを洗いざらいしゃべってやる」
・・・等々。
ひとつだけ聞き捨てのならぬ言葉を留守電に残していた。はじめに長ったらしい神の名を騙った。北は宗教家の出である。次に、犯行を匂わせていた。最後に、打ち消していた。心配の余り、警察署に駆け込んだところ、過去に傷害事件を起こした前科者であることを暗に知らされた。しかし、精神障害の疑いもあり、手をこまねいている当局の態度も見えてきた。
ここまで私が生きてあるこということは、何も起きなかったともいえる。
7月4日もう一つの恐竜絶滅伝説
人間が怪物に化ける例は、吸血鬼や狼男の話の類でいずれも絵空事と考える人が多いと思われるが、現代の生物学はこの常識を覆しつつあることを知るべきである。
数ヶ月前であったか、タレントのビート・たけしが主演の科学ドキ番で、白亜紀に栄えた恐竜の巨体はもうひとつの脳−−背脳によってコントロールされていたという説の紹介を行っていた。詳しいことは忘れているが、そのくせ、踏み込み不足という不満だけはしっかりと記憶している。
実をいうと、この背脳説を前々から唱えていた詩人がいる。下関の松村俊幸である。シックスセンスの持ち主というか、とにかく常人にはない異才を持っており、知人が亡くなると、その人の霊が風船玉みたいにぱちっと割れる音が耳のそばで聞こえるといった話をよくする。昔は霊をヒトタマといっていたのだから、死亡するとはタマが割れることだと私は単純に理解している。
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その松村が04年の春に『恐竜の遺伝子?? わが東洋』(私家版)という奇妙なタイトルの処女詩集を出している。氏には失礼な言い方になるかもしれないが、詩集というよりは詩的イメージを武器にした奇譚集と私は解している。実際、詩集の表紙には、下の画像にあるように「譚詩集」としてある。 松村の詩集は、生物学的なロマンを奏でる長大詩篇を連ねる。 ・・・小さな頭が動きを素早くする・・・情報を背の脳に伝えつつ 問題の詩行はそこで途切れ、すぐに復活する。 |
頭を俊敏に動かし続けても 網膜像と反射神経の反撃だけで
全身のバランス・思考・判断回路を背の脳に任せてあるので
めまいも酔いもない
と、驚くべきことに、運動神経を司る脳が頭にあり、思考や判断を司る脳が背にあると説いているではないか(構造的な生物学的ねじれ?)。
こういう生物学論的奇説集を体験談的な奇譚集とし、さらに「詩集」と称するところに、松村の詩人への強い拘わりというか、多重の「構造的な転換」を楽々とやってみせるところに、相も変わらぬ芸人魂を見る想いがする。
ところで、松村はなぜか恐竜は絶滅したとは言わない。この理由として、氏は自らの先祖が恐竜と信じているからだと考えている。一方、恐竜絶滅説は巷間に溢れている。と言っても、私が知っているのは「隕石衝突」説に「昆虫大発生」説にNHKの科学ドキ番の「奢れる者久しからず」式の「進化ストップ」説や亀みたいな「進化の袋小路」説位である。
このように述べてきた関係で、もうひとつの仮説を立てるとするならば、恐竜の二つの脳は競って進化を遂げたため、統制が取れなくなって自滅したとの考え方である。
恐竜に限らず、生物は皆二種(陰と陽)の脳をもっており、この両脳を競わせ発達させることで脳そのものや臓器などを進化させたのではないか。この考え方を採用するならば、両脳の名残が人間をして「怪物」に化けさせたとしても何ら不思議ではない。
最後に付け加えたいことは、近未来を襲うかもしれない両脳の恐怖である。恐竜が両脳ゆえに絶滅したと考えられるならば、人類は自らが作った電脳によって滅ぼされると考えるのが妥当というものではないだろうか。