![]()
(3月15日分まで)
第一章 憲法について(3月15)日
3 下位法の問題点
昨年の夏ごろ、六法全書に目を通した時、襲ってきた疑問は、下位のこの法は憲法の精神とどういう関係にあるのだろうか、という素朴な問いである。
下の国会法を読むと判るように、総則が欠けており、いきなりの感じが拭いきれずにいる。
国会法
第1章 国会の招集及び開会式
国会法の持つ唐突な感じは、下にある公職選挙法と比較すると歴然とする。
公職選挙法
第1章 総 則
(この法律の目的)
上にあるような公職選挙法の総則の内容をもって理想とするならば、国会法のようなケースは下の下となる。
主だった下位法は、次の表に目を通されると判るように、ばらつきがある。
| 法の名 | 冒頭は | 総則 | 憲法の精神 | 施行 | |||
| 教育基本法 | 第一条(教育の目的) | × | ○(欄外) | S22/3 | |||
| 刑法 | 第一編 総則 第一章 通則 (国内犯)第一条 |
○ | × | M41/10 | |||
| 公職選挙法 | 第一章 総則 (この法律の目的)第一条 |
○ | ○ | S25/5 | |||
| 国会法 | 第一章 国会の召集及び開会式 第一条 召集詔書の公布 |
× | × | S22/5 | |||
| 裁判所法 | 第一編 総則 第一条(この法律の趣旨) |
○ | ○ | S22/5 | |||
| 内閣法 | 第一条[職権] | × | ○ |
|
|||
| 民法 | 第一編 総則 第一条[私権の基本原則、信義誠実 の原則、権利濫用の禁止 |
○ | × | M31/7 | |||
上の表を参照する限り、国会法だけが例外となるが、憲法の精神に則りと明記しないのは、それなりの理由があるからである。忘れたのではなく、意図的だと考えている
2 第九条と自衛隊法のねじれた関係
第九条と自衛隊法は、前節で述べたように一対の法と考えられる。しかし、条文にある言葉、特に、「その他の戦力の保持」に該当するために、憲法の精神とは相容れないものとなっている。だからといって、違憲状態即自衛隊の存在そのものの否定にはつながらないと考えている。
第九条に盛り込まれた崇高な精神は、厳密に規定された下位法に支えられることによって、その憲法の精神は効力を発揮する。こういう考え方が許されるならば、憲法の理念の空文化ではなく、その実効的な法としてとにもかくにも「自衛隊法」なるものをわが国は持ったといえる。
第九条と自衛隊法の関係は、ねじれてはいるが、次のような関係式において中間的な法(点C)を仮設するだけで、両者の関係は正される。
C
A・−−・−−・B(A=第九条、B=自衛隊法、C=未定)
上にある点は、「逸脱」を意味し、線は「回復」を意味する。ここでは、線は線的論理の意味で用いている。つまり、第九条と自衛隊法はねじれているために、直線的な論理で結び付けることはできないが、中間にある法を介在させると、両者の関係は正せるはずである。ただし、その法は未定とする。
憲法を「逸脱」とする意味は、スターティングの意味であり、この場合は、「はじめに第九条ありき」とおいて何の支障もない。また、未定としたCなる法については、別の機会に述べることになる。
下は、中日の記事を丸写しにしたものだが、自衛隊の誕生の経緯と海外派遣に至るまでのアウトラインが描かれている。
■自衛戦争も放棄 1946年の憲法制定議会。吉田茂首相は九条の戦争放棄規定について「自衛権の発動としての戦争も放棄したものだ」と答弁した/吉田氏は、過去の戦争は仮に侵略戦争に近いものでも、「自衛」を理由にして行われたものが多いと指摘。交戦権を全面的に放棄することで、世界平和実現の先頭に立つ決意を示している/敗戦の傷跡が生々しかった当時。(ママ)吉田氏の姿勢は多くの国民に歓迎された。このころは、「戦争放棄」[戦力不保持」をより明確にするための改憲論が議論されていたほどだった/五十年、朝鮮戦争が起きると、「治安維持が目的」の警察予備隊が創設。そのころ、吉田氏は「自衛権を放棄するとまで申したことはない」と答弁を修正、政府は迷走した/実は憲法制定時、衆院で改正案を審議する委員会の芦田均委員長らの手で、九条二項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言が書き加えられていた。この[芦田修正]は、吉田氏が答弁を修正し始めたころから、「自衛の戦争は禁じていない」という政府見解の根拠として利用されるようになっていった。
■海外出動行わず 警察予備隊は保安隊を経て、自衛隊に。こうした動きは、戦争放棄を支持する勢力からは「逆コース」と批判された/ただ、国会や政府は、誕生間もない自衛隊の活動を厳しく制限しようとしていた。五四年、参院は「自衛隊の海外出動は行わない」と決議。その際、「一度この限界を超えると、際限なく遠い外国に出動することになることは、先の戦争の経験で明白だ]との提案理由が説明されている/六〇年、日米安全保障条約改定の際、岸信介首相は「自衛隊が日本の領域外に出て行動することは、一切許せない」と断言した。岸氏は歴代首相の中でもタカ派として語られることが多いが、当時の答弁はかなり自制が利いていた。
■"禁"を破り出動 ところが、こうした積み重ねも、一九九一年の湾岸戦争の発生を機に変質する。自衛隊はこれまでの"禁"を破り、海外出動の道を歩み出す。キーワードは国際貢献だ/湾岸戦争後にペルシャ湾に遺棄された機雷の除去が目的で、海部俊樹首相は「憲法の禁止する海外派遣には当たらない」と力説した。九二年、自衛隊は国連平和維持活動(PKO)協力法に基づいてカンボジアへ。[武力行使と一体にとならないものは憲法上許される]という政府見解を根拠にしていたが"外国領土"での活動に初めて道を開いた。
■その後、自衛隊の活動は、対米協力の色彩を強めながら、さらに広がっていく/九九年には周辺事態法が制定。九六年の日米安保共同宣言に基づいて、日本周辺地域での米軍支援(後方地域支援)を可能にするものだ。この時、小渕恵三首相は同法の対米支援にいて「中東とか、インド洋とか、地球の裏側は考えられない」と答弁していた/ところが、二〇○一年には、米国によるアフガニスタンでのテロ掃討作戦支援のため、テロ特措法をつくり、インド洋に海上自衛隊を派遣することになる。小泉純一郎首相は[武力行使はしない。戦闘行為には参加しない」と強調したが、自衛隊の海外活動は"戦時"に広がった/自衛隊の海外活動をついに"戦地"まで広げたのが、〇三年のイラク特措法。武力行使との一体化を避けるため、政府は活動地域を非戦闘地域に限定したが、この定義について、小泉首相は「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」と"迷答弁"。今国会でも議論は続いている。(9条「骨抜き」の歴史/自衛隊の活動領域 なし崩し的に拡大/海外派遣 湾岸戦争が節目に[中日]05/2/12)
しかし、下にあるように自衛隊法には「自衛隊の任務」として「国に安全]や「公共の秩序の維持」を挙げているが、その場合の「国=公共」の意味が定かではない。つまり、憲法には、「国」の規定がないのに、「国」について[防衛」するとあるのは、読む方としては唐突の感じを受けずにはいられない。
自衛隊法
第1章 総 則
(この法律の目的)
1 法理論について
ここで述べる法理論は、私人の一見解にすぎず、権威ある法学博士等の法のエキスパートの法理論から学んだ上のことではないことをば最初に断っておきたい。理論的な考え方が生まれた背景は、言葉の問題をクリアした後、何気なく六法全書に目を通していたら、その間に、理論的な枠組みが出来上がったもので、安産といえば安産といえ、それゆえの安易さは絶えず付き纏っているかもしれない。
T法には、二種の体系がある。
U一つは、緩い体系である。
V もう一つは、緊張の体系である。
見られるように、理論と称するものはシンプルこの上ないものである。上にある「緩い」法とは、「憲法」をいう。「緊張」の法とは「民法」や「刑法」等をいう。両者の違いは、述べるまでもなく、憲法の言葉は曖昧性を有するために厳格運用できないが、刑法等では用語が厳密に定義付けられたために厳格に運用できるという利点が挙げられる。そのくせ、「憲法」は最高位の法である。
「憲法」が緩い法と呼ぶことに対して、反対意見が当然予想されることで、そのことに対して説明の手間を省いてはならず、極力言葉を尽くしたいと考えている。
緩い法とは、言い直すと、緩い規定の法という意味である。一方の下位の各法は、最高位の法の持つゆるさを補完するためにあり、この両者が相俟って初めて法は効力を持つと言える。
| 前 文 | ||
| 第1章 | 天 皇 | (第1条〜第8条) |
| 第2章 | 戦争の放棄 | (第9条) |
| 第3章 | 国民の権利及び義務 | (第10条〜第40条) |
| 第4章 | 国 会 | (第41条〜第64条) |
| 第5章 | 内 閣 | (第65条〜第75条) |
| 第6章 | 司 法 | (第76条〜第82条) |
| 第7章 | 財 政 | (第83条〜第91条) |
| 第8章 | 地方自治 | (第92条〜第95条) |
| 第9章 | 改 正 | (第96条) |
| 第10章 | 最高法規 | (第97条〜第99条) |
| 第11章 | 補 則 | (第100条〜第103条) |
上は、日本国憲法の目次(所収は「houko.com=http://www.houko.com/index.shtml」)であるが、ざっと見たところで、第二章ならびに第九、十章はその条文の持つ規定の緩さを補完すべき下位の法を持たないという点を指摘できる。
下にあるように、各章の条文には罰則規定がない。憲法が最高法規と謳っていても、社則で憲法より最高法規と規定しても、違憲状態は判断可能だとしても、それを罰する下位法の規定がない。同じように、九条の「戦争の放棄」を謳っても、自衛隊なる存在そのものに対しては、下位法による罰則規定がない。
第二章 戦争の放棄
〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
A 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第九章 改正
〔憲法改正の発議、国民投票及び公布〕
第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
A 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
第十章 最高法規
〔基本的人権の由来特質〕
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
〔憲法の最高性と条約及び国際法規の遵守〕
第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
A 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
〔憲法尊重擁護の義務〕
第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。(いずれも衆議院・憲法調査会より転載)
一歩前へ進むためには(3月12)日
前進を阻むものとして、多様な考え方を採用した結果、選択に困って音を上げるもの。議論のはじめにいろいろな意見が出るのはいいが、議論を終えた後も、多様性を引きずったままでは、又一から議論をやり直す必要がある(国の潤沢な資金に支えられたコース)。
次に、コクドのワンマン社長のように、独断専行による前進主義を掲げて難局を乗り切る方法。これは責任が明確にできる利点はあるが、膨大な赤字を抱えても周りのものは一人として止めきれないという難点がある(経済的な最短コース)。
科学による方法。つまり、仮説を立てて検証を試み、説の正しさに裏付けられて、前へ前へと進む方法。この実説の積み重ねによる前進主義は薬の開発の際、採用されている方法だと考えている。それでも薬害による被害者が出てくるのは、薬=毒のゆえであろう。言い換えると、薬にも毒にもならないものならば、この前進主義が有効になる(論理こそ至上とするコース)。
今述べた方法は、それぞれ長所も短所もあって、一概には捨てきれぬ方法である。多様性は国会での審議に見られるとおりで、そこに妊娠した女性の件で、産むべきか堕胎かを議論していると、もう産んじゃいましたという話になりかねない。妊娠の件に関しては、独断専行が許されるケースで、著作物もその作者の意思が優先される。
内之浦の度々のロケット打ち上げの失敗は、どこに失敗の原因があるのだろうか。「穀潰し」どころの話ではない。科学の方法が有効に機能しなかった場合の一例には違いなかろう。
毒の効果を恐れるあまり、玩具の開発に科学の方法を用いるのは、企業経営としてはうまいやり方である。たとえば、犬の言葉の翻訳機。これが玩具である限り、誤訳からくる間違った対応によってトラブルが起きたとしても、まずは企業の責任が問われることはない。この場合、犬が病死したケースについて考えてみると、犬は自らの病気を自覚して飼い主に助けを求めるために「ヘルプ!」なる言葉を発するかという問題が提起できる。あるいは、「ご主人様、もうすぐ地震が来ますよ」と教えてあげたのに、翻訳機が誤訳した場合も問題となるが、まずは看過されることだろう。
他に、犬の言葉に多様性を認めると、パソコンの入力の変換みたいに、「かい」という言葉に対して、「解」「回」「階」等々と列挙しなければならぬことになる。
「未知」という未踏の地へ進むために、いかなる方法が有効か、あるいは、最善かは、どれもこれも長短があり、決めかねずにいる。
蔵薗治己詩集「荷車の墓標」(鹿児島市)(3月10日)
確か、蔵薗の詩集が二十余年前に批評を試みた、第一号詩集であったように記憶している。その当時の論の核心は、詩をツブヤキ詩とイノリ詩とカタリ詩の三種に分け、作品鑑賞の方は手抜きをし、分類作業を優先させる荒荒しいものであった。その結果、蔵薗の詩はイノリ詩と位置付けた。イノリとは、イ・ノリで、その場にイながらにしてノル行為である。広辞苑の字解の「斎・告る」とは若干意味がずれ込むが、蔵薗の詩集は表題にもあるように、「斎告る」作品群で埋葬するものといえる。他に、分類にあるカタリ詩とは、散文詩を貫く理念や精神を指していたが、ツブヤキ詩も含めてそれが何だったかは今は失念している。
その当時、批評をはじめた動機というのが、ツッパリという単純なものであった。自作品に対するつまらない批評(大江の作品と比べると、君のは面白くない、と。この関係で、今でも大江の作品は嫌いだ)がきっかけで、自ら批評を買って出たもので、これさえなければ、今頃は相も変らぬ独りよがりの小説を書いて、悦の罠に陥っていたかもしれぬし、これはこれでえてして作者に対する優越感に浸らせた。劣等感の塊であったと言えばそれまでだが、利点と言えば、その頃、不学の徒を自任していたから、知識の獲り込みに役立つた。こういう形で現代詩を学んでいたし、一方で、共感がなかったことも事実である。これは、言い換えると、あのよか男とHしたけど全然感じなかったと事後にふれて回るようなもので、不感症であったことが幸いして(詩人にはなれかったという)身の潔白を明かすことにつながったと思っている。
今又、批評を試みる気になったのは、詩は逸脱の言語としての構造的な建築物であるか否かを検証してみたくなっただけのことで、そこに今日的な意味というのは鼻から度外視していることを初めに申し上げておきたい。
作品は、時折、時代がかった表現が目に障る。
たとえば、
戦争で負けた二十年八月 人びとは
打ちひしがれた色に安堵の胸をむくませた
国民学校は小学校に変身
・・・(時代の流れより)
と言った語り口に代表されるが、いわゆる古風な言い回しではない。詩表現としては「埋め草」、もしくは「(悲神の)依り代」と言い換えるべきかとも思っている。
その一方で、元気のいい鹿児島弁が詩行に割り込んできてびっくりさせられる。
元気あったあ
おお、わいもやー
・・・(情景)
見られるように、俗語の出現は同時に、「聖」の後退を意味している。
このように考えることが出来るならば、蔵薗の詩は、神がかり(=I)ではじまり、俗(=K)で舞い、(生贄の)死(=I)で閉じるものと言えると思う。
次の表題作では、祭りとしての詩が描かれている。
未来が住んでいた村に
昔半蔵爺の住んだ家もなく
石ころ路に軋んだ荷車の音も干涸びた
老い父は傾いた苫の 過去の陰に怯え
独り嘔吐に苦しむ
それでも老いの身は荒地に鎖をひきずり
雑草に食われる畑の作物を憂い
はぜてしまういのちの残像にしがみつく
息子も娘も農を継がず
村も祭りも失せ
妻は遠くへ旅立った
牛もとっくに手ばなした
荷車だけが庭の片隅で梶棒を腐らせ
錆びた箍は虚空に夢をかざし
へらへらと風に揺れる亡びのドラマ
物悲しい村の喜劇役者
牛車も通らないアスファルト路を
あすは亡者の葬列が落陽に舞うだろう
(荷車の墓標)
緩い二点形式のものといっても、判る人は判るということで。
詩集と同人雑誌評(3月8日)
岩礁(三島市)122 詩と批評 2005年春号
260Pとボリュームがある。この量を支えているのが評論であるから、評論好きにとってはたまらない一冊である。
ここでは好きになったものを三つだけ挙げる。
坂本吾朗kのランボー試論(最終回) ランボーは名前がいい。日本語で「乱暴」だからだ。詩人は「乱暴」に生きてこそランボー(=詩人)たりえると思うのだが、意外とその詩人のイメージは「見者」「労働者」「科学好き」となって、裏切られる。これまで私たちの信じてきた陰性症状として顕れていた「怠惰」「労働嫌い」「幻覚」といった詩人のイメージは、確かに、その一時期、ランボーをして「地獄の季節」を書き上げ出版させもする(本は代金未納のため、出版社が二十年余りの間倉庫に保管)。そのあと、行動的な陽性の詩人として、この世を去るだけの話。
今、何ゆえにランボーなのか、と厄介なこの問いに対して、ランボーを記号として読み解くことによって現代性を勝ち得たと思っている。
西川敏之の小津安二郎の名作(二) 実をいうと、小津の評論が嫌いで、その関係で、小津の作品も嫌いなのだ。これには深いわけがあって、ずっと昔、ある文学賞に応募したところ、入賞した作品が小津の評論だったから、ふ〜んと思ったわけ。「監督は監督をつくるものなのかい」という名言が伝えられるこの監督のイメージやその手法をぶっ壊さない限り、日本文化の発展はないぞと。言いたいのは、小津を語ると同時に始まる冗漫な語り口の持つ意味ありげな感じ。どうもその辺にある何かを私自身が嗅ぎつけているようだ。それは「緩い」時間の流れではないかと思っている。
平野宏の文芸時評 そのタイトル何とかならんかとケチをつけたくなるが、こういう書き手に対しては、つまらない読後感想というものを書いたところで、まずは読まれもしないし相手にもされない。作家気取りの野郎に対しては、わかってはいるが、「シュール」とか「ダダは何も意味しない」といつたマニフェストの紹介などで、当方が不勉強の分、教えられるものが多々あったことだけは伝えたい。
読後、全体として感じることは、個々の作品に社会性がないこと。次に、現代性がないこと。この二つの問題をクリアせずにものを書いている感じがしてならない。といっても、[詩的現在]の観点を導入したから、その詩や詩論は現代性を有するものではないということ。これらの点は、主宰の大井のみがかろうじて免れていることは付け加えたい。
詩とは、逸脱(と回復)の言語からなる構造的な建築物である。その逸脱の顕われ方を二つの作品を通して検証したい。
まず酒井力の茂兵衛と蛙(5) のお題にある蛙は、幽界への案内係りであろうか。
その声は、次のように厳(おごそ)かである。
A=「闇は闇でもかすかに光が差し込んでいる
完全な闇は死である」
空の方から
光の方から誰かがつぶやいている
この後に、松の木を死処に選んで「縊死」する男が出てくる。
B=目はやさしく閉じたまま
しゃんと伸びた体は
まつすぐと
神々しく前方に開かれていた
その無名の男が突然、「茂兵衛」という名を借りて、自らの死を語り始める。
B´=自分はすでに死んでいるのか
あるいは生きているのか
茂兵衛は苦悶する
この場合の「茂(喪)兵衛」は死号(オクリ名の意味)と思われる。
この後、次の連で、冒頭の蛙の厳かな声が復活してくる。
A´=「おまえは少しずつ死にかけているが
おまえの中にはまだ光がある」
空の上から
光の中心から何者かがふとい声を響かせる
終連は、意外と陶酔で決められている。ただし、即物的「陶酔」は作者の独創ではない。
C=茂兵衛は動かないまま
闇に照らして見る自分の体を
うっとりと
いつまでも眺めている
このように詩は、逸脱と回復からなるものである。頭に付けた記号の意味は、AはA´と回復することを意味するが、詩自体はABCという流れで展開している。イメージとしては「A・−−・B−・C」(流れの上では、Bという逸脱は「茂兵衛」を指す。記号の意味はそれぞれ、点は逸脱、線は回復)を想起されたい。つまり、詩はABCという素朴な流れを持つ一方で、天の声は「蛙」という地下の声にほかならず、無名の男の闇は死号の名の光によって照らされ、「天の声」は再登場することで回復し、回復した「茂兵衛」は同時に「逸脱」として閉じることを意味している。
もう一つは、高石貴の同名の小詩集の三篇の詩群からなるもので、世間のエンディングの「ぼくの電話はどこにある」と、通信手段としての「電話」、あるいは、「詩」についてとぼけてみせる。
次のベルを鳴らせでは、
電話のベルは
いつも不意に鳴りひびく
予期しない時間というものは
おもくるしいものだ
と、詩の神ミューズの突然の訪問にも「おもくるしい」と贅沢な言葉を呟いてみせる。
詩語は急に生産的になり、「時をつなぐための/一本の樹になって/太い根を張る杭になりたい」と、(願望ゆえの)抑圧的な巨根幻想を繰り出してくる。
最後に電話するという行為が、冒頭の「朝、緊張して電話する」によって引き続き炸裂し、ほぼ確実に明示されてくる。
作品の解釈が通俗的になってしまったが、これを救うのは作者自らが「老いと性」というテーマを自覚しているか否かにあると考えている。作品分析が横に流れたが、詩の中の逸脱と回復を探る上では、好個の作品には違いなかろう。
以上、ほかにも取り上げたい作品は多々あるが、見やすい作品を優先させた。
8 森島彩被告の暴行見殺し説は、成立するか(3月3日)
05年1月17日に下った判決文は、その一字一句が心に引っ掛かった。しばらく経ってみると、森島彩被告の母性を裁く内容であることに気付いた
今、その全文を中日新聞から引用する。
名古屋市昭和区で2003年十月、保育園児森島勇樹ちゃん=当時(四つ)=母親の交際相手の少年に虐待されて死亡した事件で、傷害致死ほう助の罪に問われた母親の森島彩被告(29)の論告求刑公判が十七日、名古屋地裁であった。検察側は「少年の暴行に目をつぶって容認した。(勇樹ちゃんの)生命身体の安全より、少年との交際を優先させた」などとして懲役三年六月を求刑した。森島被告は「少年の暴行の止めに入った」と無罪を主張しているが、検察側は論告で「『やめてよ』」と言いながら少年の肘をつかんだことはあったが、以後は傍観しており、その結果、少年の暴行が容易になった」と指摘した。また、事件の背景として森島被告が周囲の忠告を聞き入れず、自己の欲求のまま少年との交際を続けた点を強調し「自己中心的な性格により、(森島被告自身が)少年を巻き込んで事件を発生させたと言える」と非難。「母親としての自覚の欠如が著しく(勇樹ちゃんの)肉体、精神的苦痛は甚大だった」と述べた。
公判は弁護側が次回(一月二十四日)に最終弁論を行い、結審の予定。
弁護側は、暴行時に少年を二度制止している▽勇樹ちゃんの死亡は起訴事実となっている午後三時過ぎの暴行でなく、当日朝の暴行がきっかけとなったと考えられ、その際制止して暴行を止めているーなどと主張する。(母親に3年6月求刑/昭和の四歳児虐待死公判「少年の暴行容認」中日05/1/17夕・全文)
事件当日の朝、ドンという音ともに目覚めると、勇樹君がトイレのドアまで少年に蹴られて跳んだか倒れている。すぐに駆けつけ「やめて」といって覆いかぶさると、彩被告は脇腹を蹴られて、肋骨を折っている。新聞には「母親は傍観」という見出しの活字が躍ったが、この意味するものが「見殺し」である限り、見出しは正確ではない。
二度目の暴行をその日の午後に受けている。少年の欲しい物を母親と二人で近くのコンビニで買い求め、帰宅した後だった。このときに受けた暴行で、勇樹君の様態が急変する。きっかけは、勇樹君が買ったもので自分にないことで腹を立てたと傍聴席で聞いた。
この時の彩被告は「傍観」していたと、検事側は批判しているわけだが、幸か不幸か、この間の記憶が欠落している。調書には、記憶にないことを取られ、一部を想起して「三十分ではなく五分位」と法廷では答えている。
暴行が三十分間続いたとすれば、撲ったり蹴ったりの嵐の中の暴行シーンを連想させるが、五分間だったとしても、それが五分という間に暴行が嵐のように続いた風でもない。仮に、三分間ぐらいは連続的だとしても、突然、散発的なものに変わった可能性がある。
十一月の公判だったろうか。証言台に立った彩被告は、大学を出たばかりの新米の検察官から次のような一連の尋問を受けている。
−−横になって倒れている勇樹君の腹に少年(法廷では、実名)は足を乗せていましたね。
−−はい。
−−右足と左足のどちらの足ですか。
−−右足だったと思います。
−−その足は体重を乗せていましたか。どうですか。
−−憶えておりません。
検察官の質問に対して、彩被告はひとつひとつキャッチのサインとして俯き、そのままじいっと考え込み、そうしてふと顔を上げ、気丈に答える姿が今でも目の奥にに焼き付いている。
その心証を持って、彩被告を裁くのであれば、無罪の判決が出てもおかしくはない。
十月は、弁護士による被告尋問だった。
九月には、鑑定医が証言台に立った。
鑑定は致命傷がどの時間帯の暴行であるか特定できていなかった。朝の暴行とも午後の暴行ともいずれか決めがたく、その両方を含むものだった。鑑定医の判断が正しいとすれば、朝の暴行こそ傷害致死行為と判断されることになる。そうだとすれば、その時の彩被告は止めに入っており、「母親の傍観=見殺し」説は成り立たなくなる。
では、検察側の主張するように午後の暴行が傷害致死行為と認めたと仮定して、その時の彩被告は傍観していたから「母親は傍観=見殺し」説が成立すると思っているのであるならば、検察側の大きな誤認であろう。
彩被告がこの間の記憶を喪失するということは、そこに繰り広げられたシーンがあまりに正視するに耐えられないものであったから、記憶は抹消されたのだ。
これは私の推理だが、少年は一時的に荒れ狂ったが、直ぐに静まった。
勇樹君の腹の上に足を乗せて、彩被告の方に向けた顔は、こう語っていたはずだ。
「さあどうする。勇樹を助けに来るならば、お前を殺す」
鬼気の迫る男の顔を見て、彩被告は助けに行きたくても、足はすくんで一歩も動けなかったことだろう。それを見て、少年は(おそらく笑みさえ口元に浮かべながら)致命的な一撃を勇樹君の腹部に加えたのだ。要するに、四歳の園児は虫けらみたいに殺されたのである。
検察側は、少年の供述をえていて、そのときの「確信犯」的な暴行の様子は把握していたと考えられる。しかし、彩被告をただ傍観したというのは、おかしいのではないか。
マスターソン・・・も境界例患者の人格の豹変ぶりと、その著しい「見捨てられ感情」に着目した。マスターソンによれば境界例患者の母親は、不安定で耐え難い欠如の感覚から、原初的な母子融合の幻想にしがみついている。そして、その融合の筋書きにあった仕方で振る舞うよう、子ども圧迫しつつ操作する。子どもが独自の自己を生きることをあきらめて自分の好みのイメージにかなったしがみつきをすることに対しては愛情の報酬(Reword)を与える。しかし子どもが自発的で独自な自己を示すと、それを「みすてられ」と感じてしまい、とっさに愛情を撤去(Withdraw)する仕草をしてしまう。(内藤朝雄著「いじめの社会理論」188P-柏書房)
あの日の予断が、そのまま判決に採用されている。
7 少年と「スフィンクスの謎かけ」(3月2日)
残る少年に対する疑問点として、次の三点を挙げる。
一つ、少年の揮った暴力は、世にいう「DV(家庭内暴力)」であるかいなか。
二つ、彩被告の容認した「しつけのための暴力」がなぜ勇樹君殺害にまで発展したのか。
三つ、DVの加害者である少年が、一方で、被害者を装って、なぜ三百万円もの慰謝料を請求するのか。
まず一の少年の暴力がDVであることは、夫ないし恋人の性的パートナーへの暴力という意味では間違いはないが、亡くなった勇樹君に対して行った少年の暴力に関しては、定義から外れる問題を抱えることになる。
二の殺害の点に関しては、コフートの「自己愛憤怒(=万能憤怒)」という言葉を援用しながら、社会科学者の内藤朝雄がその語の説明を行っているので、次に引用を試みる。
・・・自己愛憤怒による攻撃衝動は、目標に対する障害を退けようとする通常の攻撃とはことなり、しばしば相手を滅ぼし尽くすまで止まらない。思い通りにならない者に対する自己愛憤怒の激しさは、自己愛的な環境に対する完全なコントロールを心理的に必要とする程度に比例している。また自分にさからうだけでなく、自分よりも輝いていた、あるいは拡張された自己ではなく独立した人格を有する他者であると感じさせられたといったことが、自己愛的な体験がひび入った手に負えない疵として、被害感情とともに激しい憤怒を引き起こす。(「いじめの社会理論」柏書房)
実をいうと、内藤の文章は苦手とするのだが、上にある引用の文章は私のイメージする自己愛や万能感と断片的にマッチするので、あえて引用した。
簡単に言うならば、子どもを前にして一人で怒っている父親らしき男がいる。酒に酔っているせいか、自分の怒りには力があるとのはげしい思い込みがあるらしく、一端は鞘から抜いた抜き身の刀を誇示したきりそのまま元に戻そうとはしない、はたからみると、ちょっとおかしいぞ、この男はと思われるケースである。
そういう男の怒りを観察して、分析を行った結果が、「自己愛」的であり、「万能感」に囚われているといっているのだ。内藤はコフートのいう「自己愛憤怒」をラカンのいう「万能感」を合体させて「万能憤怒」と置き換えを試みるのだが、そこには「自己愛=万能感」という等値性の問題を閑却したまま、つまり、うわっすべりの書き方がちょっと気になった。
私にとって少年を襲う万能感とは、夕な夕な意識の緩みとともにひたひたと内部に満ちてくる力の感情である。彼は一本の棒を手に取ると、振り回せる場所を求めて移動を始める。たいていは、野原まで駆けて行き、そこで蓬の新芽を切ったりして遊んでいる。
少年としてありし日の原風景は、男とって様々であろう。彼が最初に手にした棒が金属バットならば、野球少年として過ごした練習場や球場でバットを振り回した思い出が原風景として、彼の脳裏には刻まれているかもしれないし、それが指揮棒であれば、カラオケを聴きながら棒を振り回した思い出が原風景として焼付いているはずである。他には、棒がナイフという者もいれば、ターゲットが小動物という者もいるであろう。
多くの少年はそういう思い出を引きずりながら、思春期を迎える頃から棒を振り回せる場所として、女性の肉体を求めるようになる。厳密に書くと、肉棒を膣に挿入し、女性の肉体を完全にコントロールできた時、彼の性欲は万能感とともに萎えていく。
図式的な説明はそうなるのだが、現実には様々な問題を抱え込むことになる。
ここでは問題を、次の二点に絞る。
A 性欲の目的を果たすはずの棒が、ただ振り回すだけの暴力男に成り下がっている男の問題と、
B 性欲の目的を果たしたはずの棒が、その後も暴力男(batterer)として留まっている男の問題。
Bの問題ケースとして典型的な例を、勇樹君を殺害した高3の少年に求めることができる。この点は、04年9月15日の名古屋地裁での公判に証言台に立った森島彩被告の証言で、殺害事件を起こした当日の少年の行動が明らかになった。
前章の傍聴日記に書いたものを今一度、下に持ってくる。
前夜、つまり、2003年10月18日の夜、少年の誘いで二人はカラオケボックスに出かける。中で、セックスをする。カネは、彩被告が負担。二人は別々の自転車に乗って帰途につく。途中、少年は用事があるといって、某交差点のコンビニ店の前を待ち合わせ場所に指定して姿を消す。待っていると、携帯電話に少年からの着信が入り、別の交差点で「待て」との指示。指示通りそこで待っていると、しばらくたって少年が現れるも、そのまま素通りしてしまう。
彩被告は「何を怒っているのだろう」と不審に思う。
家に戻ってみると、少年は奥の寝室にいて「入ってくるな」と命ずるので従う。荒れている風で、襖を拳で撲っている。台所のガラスも割ったりして、少年の命ずるままに、割れたガラスの破片を片付ける。五時間ぐらい経って、「入ってこい」というので、渋々と応じる。またセックスをする。
明け方の六時ごろ、床に就く。七時ごろドンという音がして目覚めると、トイレのドアまで蹴られて跳んだのか、勇樹君が倒れている。すぐにその場に駆けつけ「やめて」といってかばうも、脇腹をけられて「ウッ」と呻き声を上げる。
見られるように、部屋の中で拳を振り回して荒れている少年の姿は、在りし日の少年の野原で棒切れを振り回している原風景と重なる。おそらく硬派の少年は、俎板の上にでんと乗せられたあでやかな錦鯉を平らげるだけでは、満たされぬ何かが残った。それが怒りとして彼に取り付いている。しかし、わからないでいる。
だから、次のように前章の傍聴日記では書いた。
このような流れで見えてきたものとは、自己を愛する女性に向かって嫌悪すべき自己像をさらけ出して、それでもこの俺を愛するかと問いかけている少年の姿である。
この好個の例が、人面獣心のスフィンクスの謎かけである。「朝は四本脚、昼は二本脚、夕べには三本脚のものとは何か」と問いかけ、旅人が解きえずにいると食い殺されてしまうのだ。
少年の伝えようとしたメッセージとは、これではないだろうか。
「俺は今怒っている。この理由とは、何か?」と問いかけて、解き得なかったからお前の代わりに、お前の分身でありかつ最愛の息子を殺してやった。
少年を襲った禍々しい気分は、そもそも贅沢だというのが大方の見方ではないだろうか。彼は相思相愛ゆえの少女漫画にあるような安易なラブストーリーを嫌悪していて、アメリカ映画にあるような悪漢どもを打ち負かした後、晴れてヒロインをゲットするヒーローの役を演じたがっているのだろう。その時、壁として立ちはだかっていたのが勇樹君であったから、「障害」を除去することで少年はヒーローの座を腕力で勝ち取ったのだ。しかし、人間として犯してはならぬ殺人という禁を破ったために罪を問われる身の上となったことは述べるまでもない。
Aのケースでは、好個の具体例を見つけた時点で、書くことにする。
最後の三番目の慰謝料の件は、「ぼくの童貞を奪ったから彩さんは慰謝料を払え」という形で提出され(それを彩被告は「可愛い〜」と受け止めたはずだ)、その後もセックスの回数を重ねるごとに加算されたものと思われる。この点から、少年は依存的かつ計算高い性格を読み取ることができると思う。
こういう卑劣なDV男は、先に紹介した内藤の著書の中にも出てくるので、次に抜粋を行う。
B男はA子に向かって、「お前は嫁であり、ピラミッドを支える底辺なのだから、君主には絶対服従だし、またお前の意見など聞くはずもない。」「俺はこれから、お袋を頂点とするピラミッド型の家庭を作ろうと思っている。お前はその底辺であり、お前の言うことが通るとは思うな。お袋とお前の関係が成立しなければ、俺とお前の関係もないと思え」といった。(前掲書243P)
見られるように、B男はお袋と聖俗一体の関係にあり、自らの手を虐待で汚す実行犯である。この明白な共依存の関係を見逃して、離婚が決まったあと「B男は即座に別の女性を調達し」たことをもって、「<依存>すら技能的に処理できると考えることもできる」とした点が惜しまれる。
少年の請求額が三百万円に膨らんだ時、債権の見返りに、愛息の命を奪ったともいえる。
この後、直ちに請求権を取り下げたのであろうか。もしその後も請求権をちらつかせているのならば、出所後の更生は期待できないとみる方が妥当と思うが、どうであろうか。
これまでに述べことの一部は、すでに精神科医の斎藤学氏が「共依存」というタームを向かって解析を行っており、正にその通りだと考えている。
彼らが成長して配偶者を求めるようになると、一瞬のうちに自分の歪みにあったパートーナーを嗅ぎ分ける。女性の場合、プライドだけは高くて社会生活では不器用そうな、危険でマッチョな男をすぐに見つけて近づこうとする。こんな男を哺育し、成長させ、自分だけを愛する成熟した男に仕立て上げることは、彼女にとっては一生を賭けても悔いない大事業である。これに成功すれば、両親との生活でひび割れた心を補修できると、彼女たちは無意識のうちに思うだろう。こうした男に比べれば、自分を大切にしてくれそうな「普通」の男など、ただ退屈なだけである。(94/12/4 斎藤学の日曜論壇)
ただ、マッチョな男を選ぶのは、その迫力さえあれば子どもがおとなしくなるという現実的な計算も働いていると思うし、世の奥様のオナニーのお数・・・。(ゴメン)
管理人註 この場合、DVを「児童虐待」と言い直すと、問題がおきる。というのは、「虐待」という場合、待遇の上での虐げであるから、養育放棄などのネグレクトのケースでは言い得ても、暴行の果てに死なせた場合は「虐待」といえないのではないか。
たとえば、「奴隷を虐待する」「犬を虐待する」といえば、酷使や食事の回数を減らしたり、棒で叩いたりすることを意味する。この場合は、相手は「人間ではない(一個の人間としての待遇はありえない)」ということを前提においての用例であるから問題はないと思う。児童が一個の人間とした場合、「暴力」を用いたケースでの「児童虐待」という使い方は依然としておかしさは残る。が、「社長が虐待される」という用例について考えてみた場合、「労組」ならば社長を「格下」として処遇することもありえるから、用法上成立する。だから、「格下」という意味でならば、いかなる待遇も行いえるという意味で、「暴力」の意義が新に加えられる。
一方の「暴力」という言葉には、無法者の行う乱暴な行為を指すから、息子が親(格上)に対して狼藉を働けば、それが家庭内暴力として一時期定着していた。それがDVという語によって「無法者」の意味が省かれて、性的パートナーへの暴力と通りが良くなったと解している。
6 債権回収のメカニズム(2月28日)
お題は仰々しいが、「アタシのいうことを聞かないと、ひどい目にあうよ」ということにすぎず、家庭という密室の中で日常的に行われている暴力がいわゆる「児童虐待」である。実行犯の少年は、「しつけのためなら、勇樹をたたいてもいいのよ」という主犯格の彩被告の指示に従っている。この関係は、丁度、職場での上司と部下の関係に相当する。
岸和田の中三少年虐待事件の第8回公判を傍聴したstefana氏の傍聴記(出処は、HP「青い空の下へ」)を読むと、その日の証言台に立った烏野被告の陳述に、記憶がないことと反省の色がないことと川口の弁護のみつつが印象として残ったとしており、まるで期待しているものが反対であることから被告に対して反発心を覚えたようである。それも単色的なものではなく、烏野の珍答に思わず笑いが吹き出したというものもある。
烏野の陳述はちぐはぐとかのらりくらりと伝えられる印象もよくみると、その主張に一慣性が読み取れる。つまり、職場での上司と部下の関係が家庭という場に持ち込まれており、尊敬する上司たる川口被告の指示に従っただけの部下の俺が、なんで子どものことで罪を問われるのか判らん、というわけである。ましてや、119番通報して息子の命を救ったのは、この俺だぜ、という開き直り。その点に関しては、確かに、川口被告の指示に従っていないわけだから、究極のところで、罪の意識から免れているなという感じを強く受ける。
職場では、こいつ俺の言うことをまるで聞かないね、と上司から思われたらもう最期、即、その部下は人事異動の対象にされる。それまでに陰に陽にとイジメが行われ、自主退職が迫られる。人事異動は、上司の持つ最後的な特権の行使といえる。
上司の指示に従うならば、その部下は味方、指示に従わなければ敵と見なされ、コウゲキの対象にされる。職場では、こういう明快な論理によって支配されている。男社会ならではの特有の論理といえるかもしれない。指示の内容を自分でチェックして、これは自分の良心に反するから従わないでおくと、すぐさま上司からにらまれることになる。
この指示が先輩格の同僚から出された場合も、従わなければ彼の恨みを買うことになる。従う必要はないと思って、そのままにしているとアフター5に「ちょっと来い」といわれて、人影のない境内なんかに連れて行かれて、先輩格の同僚から殴るけるの暴力を受けたりもする。結果的に、指示に従ったとしても、その過程で揉めたりするとやはり恨まれて、同様のコウゲキを受ける。職場でのトラブルは、俺の指示に従え、いや、お前にはゼッタイ従わんという所から発生しており、この緊張関係はたいていは後輩の自主的退職によって幕引きとなる。
同格同士のイジメは、学校では日常化している。有名進学校の生徒が無名私立校の生徒のかませ犬であることは、もはや有名な話であるし、硬派は軟派をいつの時代もターゲットにする。ぼんぼん育ちの社長の息子は、毛をむしりとられるように所持金は全部巻き上げられる。幸せに生きている者は、それだけの理由で、常に俺は不幸だという不良グループから付け狙われているのだ。在学中は、「明日一万円作って来い」という指示がいつ自分に下るかびくびくしながらすごさねばならず、万が一、自分に白羽が立ったら、何が何でも一万円を用意してこないと殴るけるの暴力を受けるはめになる。何でこの俺が作らないといけないのか、とその指示をチェックすることなど彼には許されない。そして、なぜ自分が標的にされているかもわからずにいる。腕力に自信があるならば、二者の関係は一気に権力闘争に発展する。
そんなわけで、学校とくに中学校というのは、一部の生徒にとって文字通り危険なところである。困るのは「いけにえ」は必ず必要とされるのに、だれにその役割がふられるかは結果がでるまでわからないことである。都会では方言の残るドンくさい転校生かもしれないし、田舎では標準語をしゃべる調子のよい転校生かもしれない。(日曜論壇「いじめがもたらす心的外傷の恐怖」斎藤学ー熊日94/6/5)
上にある転校生とは、その当時、東京・中野区と鹿児島で起きた自殺まで追いやられた中学生を指している。斎藤はそのあと「この種のトラウマ(心的外傷)の恐ろしさは、もう少し知られた方がいい」と結んでいる。
教師と生徒の間でも指示をめぐって醜い争いを演じているのであり、私の知っているところでは、卒業記念アルバムの不良生徒の名前を校正漏れを装って名前を書き換え、ものの見事に復讐を遂げているケースもある。
これまで述べたところで、すでにお気づきかと思われるが、債権の回収という場合、次の二種が挙げられる。
一つは、「損害の発生」から被害者の側に債権が生ずるもので、加害者の側に対して被害者自らが「回収」する時に、イジメが起きるもの。一般に、「復讐」と呼ばれる。
もう一つは、特権者が自らの強権の立場を利用して、相手に対して債務を負わせるもの。税金はこの一種である。国民の一員というだけで支払い義務が生じるように、学校の一員というだけで支払い義務が生じるもの。ある学校では、校長の誕生日という名目で全生徒から百円の金を徴収して、学校設立の際の負債に充てたという話を聞いている。さらに、これを真似て、ある高校の番長が俺の誕生日という名目で全生徒から百円を巻き上げた話も耳にした。職場では、サブリーダーが痔の治療で入院したので、見舞金と称して三千円を班長から要求されたことがある。サブリーダーが退院して職場に復帰した時、見舞金のお礼の一言も聞けるかと思っていたら、全然。いきなり説教されて面食らったことがある(東芝だよ)。
名古屋・昭和区の森島勇樹君虐待死事件のケースでは、この二つの債権回収が同時的に起きたことから歯止めが効かなくなったといえる。彩被告は母親として「損害発生」したとの事由を持つ一方で、少年に特権を授け、彼を使って税の回収に乗り出した結果が、わが子の変死という惨劇を招いたのである。
4コマ漫画 四どす
6(兄▲兄)3ちゃんのooo日記(2月27日)
●岸和田中三少年の虐待養母こと
川口奈津代、何もすることがなくて、
手紙を書き始める!!
---------------------------|
拘置の間だけでしょうか。独房に、机といすと
原稿用紙が用意されているのは。
| お題「元祖ネグレクトの母 ついに虐待と愛の真実を語る」 執筆 川口奈津代。 ○月○日、烏野の息子二人を 軟禁状態に。---- ------------- |
---------------------------|
05年○月○日、実刑「05年09月10日」の
ネグレクトの語呂合わせと思われる判決が下る。
留置されてからも、特別待遇は変わらず。
多くの読者が川口の手記を楽しみにしているとかで、
机といすと原稿用紙の他に、コーヒーとタバコは
のみたい放題。時々、甘いお菓子(飛びっきりの
陣太鼓など)の差し入れがあって、脳内活動を促進。
| お題「元祖ネグレクトの母 ついに虐待と愛の真実を語る」 執筆 川口奈津代。 ○月○日、烏野の息子一人が逃げ出す。 ンで、アタシは、一気に、クソックソックソッの (≫復讐≪)モードに突入しました。 ----------------- |
---------------------------|
書いても売れない自称作家6(兄▲兄)3の呟き。
「いいな、いいな。明日のメシの心配も要らないし
、書き上げると「面白い」という好評の声が
すぐにでも届くんだろ。陣太鼓は結構だけど、
とりあえずは、その声の一つでもこっちに
回してくれないかな」
| お題「現代・子ども虐待事件」 執筆 6(兄▲兄)3 第四章 ザ・ネグレクト 烏野の息子の一人が逃げ出した時、 鬼母の川口被告は、一気にクソックソックソッの (≫復讐≪)モードに突入したことは 述べるまでも-----。 |
---------------------------|
川口の留置・特別待遇(続き)
執筆に疲れると、自由にお散歩。
お脳が錆びれてくると、傍らのプレーヤーで
音楽鑑賞。
内的エネルギーを注入すると、ずずずずずっずず、
アトムう〜♪と手塚治虫流の推進力をえてダイ変身。
それでもダメな時は、これっ。
| サド 女王 |
| マ | ド | 看 | 守 | (^^ | (^^ | (^^ | (^^ | (^^ | (^^ | (^^ | (^^ | (^^ |
五 少年の暴力とシェルター(2月24日)
昨年の六月十五日の名古屋地裁の公判で、傷害致死の罪に問われている高3の少年が証言台に立った。そこで、殺された勇樹君の母親の彩被告に対して、少年がパソコン代金として貸した金十万円の他に、強制わいせつや軟禁などで精神的損害をこうむったとして、慰謝料も含めて合計金額三百万円を請求していることを証言した。
少年の慰謝料等の請求は、アホらしくて聞いておれないものだが、しかし、なぜそんなことをいうのか、と改めて問い直してみた時、少年の姿が垣間見えてきた。
まずは、新聞記事を引用する。
少年からは「(彩被告が関係を強要したことに対して)三百万円の慰謝料を払え」と再三の要求があり、支払えないため結局は同居状態を続けた、とも証言した。(「いらいらぶっけた」名古屋の園児虐待死/母が少年の暴行証言−中日04/4/23)
見られるように、要求があっても「支払えない」との理由で、「同居状態を続けた」とまるで無法者の理不尽な要求に屈せざるをえない弱い立場の女性の役を演じている。が、一方では、「彩被告は、少年のいらいらの理由として、自分の家に帰りたくても帰れなかったことなどを挙げ<少年が帰るのを何度か引き留めたことがあった>と述べた」(前掲紙)とあるように、「同居」はむしろ彩被告の欲求するものであり、少年の欲求ではないことがわかる。同じように、セックスも彩被告は好みこそすれど、少年の方は、一度として好もしきものとして体験しえなかったのではないか。むしろ、精神的な苦痛を伴うもので、回を重ねるごとにその慰謝料は確実に加算されたと考えられる。
と、書くとフェミニストの方からの反発を招きそうだ。「まるで反対だ。女の体を弄ぶだけ弄んだのは男の方だ」との意見が提出されたとしてもおかしくはない。しかし、精神的損害に伴う慰謝料の話が少年の口から出ているのだ。「盗人にも三分の理」という言葉もある。殺人者ならば、その理が一分にも満たないとしても、理のある限りはその理解に努めたいと考えている。そのあとからでも、その理について批判検討を加えれば済むことだ。
暴行がエスカレートし彩被告も腰の骨を折るほどの暴行を受けるようになり「家から出て行って」と十回ほど頼んだものの、少年から「本当に出て行ってもいいの」と聞かれ「出ていってほしくない」と答えたという。(前掲紙)
上にある「腰」への少年の攻撃は、「子宮」への打撃を狙ったものではないのか。
この暴行は、九月十一日のもので、治療に専念するためであろう。勇樹君のショートスティを昭和区の社会福祉事務所に申し込んでいる。保育園の園長もその前日ぐらいに同事務所に「児童虐待」を報告している。「申し込みの内容は、虐待の通報とともに相談所に伝えられた。だが、職員は<風呂場で滑って転んだ>との母親の説明をうのみにし、密室で常態化した暴力を見逃してしまった」(救えなかった命−中日03/11/13)
少年の彩被告に対する暴行は、調べられた範囲では6件を数えるに過ぎない。高1の時、彩被告からキスされた時に撲った(04/6/15の公判で少年が証言)のが最初で、高2の間は暴行はなく(同公判)、高3の時のアルバイト先で、当時の店長の彩被告に暴力を揮い、即クビに。そして、先に引用の暴力に、勇樹君が殺された当日に脇腹をけられて肋骨を折られ、午後にも勇樹君への暴力を止めようとして彩被告は肩を殴られている。この他に、「<仕事で遅くなる>と連絡した際などに、暴力を振るうようになった」(讀賣03/10/23)という例もある。
実際には、彩被告への暴力は高3になった時点で日常化している可能性が高く、その数は集計できないのではないか。暴力の動機も、これと特定できないものばかりである。
それでも動機として考えられるものとして、次の四種を挙げる。
A 彩被告の暴力容認の態度を受けて、安易に暴行を揮っているもの。
B 性的羞恥心や嫌悪感から起こるもの。
C 甘えからくるもの。
D 勇樹君への暴行を制止した際に、彩被告に加えられるもの。
上のAとCは、表裏一体の関係にあり、いわゆる「日常的コウゲキ」として暴力の大半を占めていると考えられる。時に勇樹君、時に彩被告と無差別に暴力を揮っていた可能性が強い。
Bの嫌悪感が、慰謝料の口実として利用された可能性がある。
Dに関しては、彩被告は自分に非があると考えられるケースに限り、暴行を制止しょうとした可能性がある。勇樹君が亡くなった事件の日の朝、もし目立った外傷が見つかれば母親としての保護責任が問われると思ってのことであろう。これには保育園からのアドバイスが関係しており、「少年はもう家にはいない」と思わせているのであろうから、ここで傷を負わせたのでは、自分の立場がなくなるのと判断したとしてもおかしくはない。午後のケースでは、シェークの件は自分に非があると思って止めに入ったのではないか。
公判で証言台に立った保育園の担任の話によると、園児の行動を記録したノートの中に「お母さんの後ろに隠れても、ダメダメ」という勇樹君の言葉が残っている。これは勇樹君が彩被告が母親としてシェルターの働きがあるものと期待して逃げ込んだところ、全く機能していないことを示すものである。
この時の彩被告は、「お前が悪いんだろう」という冷然とした態度で、少年から殴るけるの暴力を容認していたと考えられる。ここで、「債権の回収」を彩被告が企んでいたとすると、「お前がそれまであたしの言うことを聞かなかったから、当然の罰だよ」と語っていることになる。
4 乳房の意味(2月22日)
十有余年前は、宅配の仕事の関係で、週イチの家庭訪問を行っていた。今思うと、その時が一番の絶頂期であった。
その頃の思い出として、二つの対照的なシーンが忘れられないでいる。
家庭を訪問すると、そこのお母さんと挨拶を交わしたりする。すると、おそらくは、遊びの手をやめて、三、四歳の子どもが廊下を伝って玄関の間まで走ってくる(彼にとって家の中は、運動場みたいに広い世界である)。そして、お母さんにせがんで抱っこしてもらう光景によく出会う。
そのまま話し込んでいると、子どもの方はこちらに顔を向けたまま、お母様の胸元に手を入れて、おっぱいを揉みだすことがある。一人のお母さんはすぐに「何をするのよ。してはいけないことでしょ」と言いざま、頬をばちっとたたいたために、子どもが泣き出し、ああ、ごめんねごめんね、痛かったね、となだめ始めたので、話が中断されることになった。もう一人のお母さんの方は、ぐっと耐えている感じで、子どものやりたいことをやらせていた。
このときの子供の心理について語りたいと思っているのだが、はじめは、子どもは計算ずくでやっているものと思っていた。というのは、知らないおじさんの顔を見ると、怖気づいて甘えたくなる。お母さんもその辺は心得ているから、せがむとすぐに抱っこしてくれる。ところが、その上に、お母様の乳房を人の前で揉むとは!? つまり、そこまで計算して行動しているとは、思えなくなったわけ。
この乳房の意味は、簡単に言えば、三歳児にとってはもう、聖域みたいに禁断の場所であり、乳首をくわえることも揉むこともできないはずである。なのに、揉むのはそれなりの深い理由があるからであろう。
子どもにとって私は客人である。子どもは鼻がいいから、客人の訪問とともに異臭が彼のいる子供部屋まで侵入してきて、その生活空間を奇妙に歪ませはじめる。不安になって母親のいるところへ駆けていき、抱っこしてもらうことで解消しょうとする。目の前には、なんと不安の根源ともいうべき知らない男の人がいる。抱かれているのに、不安は異臭によってさらに募る。その結果として、知らす知らずの裡に、お母様の乳房にまで手が伸びるのでないかと考えている。
* * *
窃盗行為については、聖書の中のものが有名だが、それとこれはどこか違う。
聖書の方は、この果実を食べると知恵がつくよと教えられて、初心なイヴはいちぢくの実を食べてしまう。その結果、裸であることに恥ずかしさを覚えてあそこをいちぢくの葉で隠すようになる。それを見た神様がお怒りになられて、人類初の夫婦を楽園から追放してしまう。
この物語は、むしろ出産に関係した記述である。というのは、胎児は「ヘビ」たるへその緒に催促され、次に、産道を通過中はヘビの指示に従い、ずっと息を殺したままその苦しさに耐えながら、楽園から追放されるからだ。「追放」といったって、そこに追放の持つ罰の意味なんてありやしない。強いて言うならば、お前は楽園の果実を食べるだけ食べて太ったのだから、今すぐ出てけ、ぐらいのものであろう。「知恵」云々ではなく、十分に太ったからなのだ。
「知恵」は、むしろ窃盗に関係している。
たとえば、お母様からお前のウンコはとても汚いからうちのトイレで出してはならん。いいね。と、きついことをいわれた子どもは、お母様の命令に従っていたところ、ある日突然に催してきたので、たまらずにその場で野ぐそを垂れる。終わってみると、テンコ盛りのウンコがうずたかく山を築いている。それまでの彼はというと、そこでしゃがみ込んで、惚れ惚れと見入っていたのだが、お母様の言葉を思い出すや、一等汚いウンコであることを知り、何かどでかい罪を犯したかのように、犯行現場からあわてて逃走を始める。
知恵が付くとは、罪の意識が芽生えることだ。その行為が犯罪に直接関係するものでなくとも、その行為自体に潜む罪性に目覚めることを、聖書の中の言葉は語っていると私は思っている。
他に、窃盗行為については、初期キリスト教会の最大の思想家アウグステイヌスの「告白」の中のものが有名だか、省く。
* * *
五、六歳の男児になると、不安は逆に彼の冒険心を駆り立てるツールとなる。森の中が不安に満ちた世界であれば、彼はその不安を克服するために、独りで森の中へ入っていこうと試みる。洞窟があれば、たちまち探検家に変貌する。知らないおじさんと出会っても、平然とした態度を装おうとする。
森への挑戦は、突然に始まるのではない。前々から周到に準備されている。
彼の記憶のファイルによると、こうである(そのファイルに、日付が刻まれることはない)。
「ねえ、ママあ、森へ連れてってよお。後でなくってさあ、今すぐでないと嫌だあ。ねえねえ、連れてってよお」--子どもの言葉の特徴は、語尾に力点が置かれ、折々の思いを込めた長母音が金魚の糞みたいにくっ付いて回ることだ。
「ぼくう、今すぐ行くから、それまでお利口さんをしていなさいね(お母様が語尾を短母音で切り上げるときは、全くうるさい子だね、と言ってるも同然である)」
と、お母さんはトイレの中で力んでいる最中なのだが、ウンコとは捻り出す物であることをいまだに知らないでいるから、まっすぐに出そうとして苦しんでいる。
やっとのことで、外に連れ出すことに成功すると、今度は、質問攻めである。
「ねえ、ママあ、あの木には変な顔のおじさんが見ているよ。あの変なおじさんって、だあれ?」
お母さんがきょっとして坊やの指差す方向に眼を向けると、そこには一本のみずの木が立っているだけである。
「あれはみずの木といって、昔から病人の生き血を吸って大きくなるっていわれている木なの。そういえば、びわの木にも、病人の生き血を吸って大きくなるという話が伝わっていてね、病人のいるおうちの人は、その話を聞くと、すぐに庭に植えてあるびわの木を切ってしまうのよ。でも、ママはそんな話は信じないわよお。・・・」
次の日曜日になると、パパを森の中に引きずり出して、同じ質問を試みる。
「あれは単なる木いい。みんな臆病風に吹かれると、変なものを見ちゃうけど、パパの目には何も見えないぞお」
と、教養の一欠片も見せようとしない、無骨とも言える単純な割り切り方に、坊やはすっかり憧れてしまう。
帰宅すると、その日からイメージの着せ替えが始まる。押入れの中にしまってある玩具を持ち出してきて、鉄腕アトムならば、彼になりきって森の中の冒険する姿を空想する。ドラゴンボールに、鉄人28号に、ゴリラ男に、赤胴鈴之助に、ウルトラセブンと、コレクションの数だけ空想を・・・。
そうやって空想上の修練を積んだ後、ある日、意を決して森の中の冒険を始める。最終的に、自己のイメージに着せたのは、「ぼ、ぼくの如意棒が」を携えた孫悟空である。無論、ママにせがんで買ってもらったばかりのプラスチックの如意棒を手に持っている。
「ぼくう、ひとりで大丈夫う?」
と、出がけにお母さんから冷やかされても、耳には届かないでいる。
洗濯の最中に、眼が据わったまま廊下を歩いている坊やの姿を見かけた時、ただならぬ気配に気付いたのだ。よくみると、全身に筋肉質的な張りがきている。何よりも手に持っているプラスチックの如意棒が雄弁に物語っている。
お母さんは気になって仕方がないけど、そのまま坊やの後ろ姿を見送る。
男児は、こうやって自らの男性性を確立させていくはずだ。男として生まれたからというだけで、そのまま一直線に男になるのではない。無論、確立した後からも、次々と試練の日が訪れ、負けると彼は男から脱落していく。
戦場は、いたるところにある。負けた後にも、這い上がるチャンスはある。闘うことを放棄して、安易な道を選ぶこともできる。
3 問題点を徹底的に洗い出す(2月21日)
この痛ましい園児虐待死事件は、平成15年10月19日の午後三時過ぎ、母親の119番通報で駆けつけた救急隊員の連絡で、後から駆けつけた捜査官の取調べで、園児の森島勇樹君(4)の虐待による死亡事件が明るみになった。容疑者として逮捕されたのは、母親の森島彩(当時38)と愛人の高校3年生の男子(当時18)の二人。
報道ラッシュは、同月下旬に始まっている。その時の偽装工作の様子に関係する記事を抜書きする。
《・・・勇樹ちゃんが死亡した後、少年と森島容疑者は、事故死に見せかけようと偽装工作していたことも判明した。
少年が森島容疑者に、「台から落ちたことにしよう」と口裏合わせ持ちかけていたことがわかっているが、昭和署の調べでは、勇樹ちゃんが自分で転倒したようにみせかけるため、台所のイスが倒され、バケツを散乱させていた。
森島容疑者は「救急車が到着するまでの間に少年が一人で工作していた」と話し、「勇樹にはかわいそうなことをした」と涙ながらに調べに応じている。
森島容疑者は当初、「勇樹が冷蔵庫の上の本をとろうとして、積み上げたイスやバケツの上から落ちて腹を打った」などと説明していた。(四歳児虐待死「トイレ前で邪魔」ける/高3供述 事故偽装工作も[讀賣]03/10/24)
二人が出会ったのは、彩被告が店長を務める飲食店に少年がアルバイトとして働くようになってから。
《・・・2001年7月ごろ、飲食店の同じアルバイトとして入店した少年に恋愛感情を抱き、交際を始めた。甘えてくる少年がかわいくて、別の男性との婚約も破棄。昨年七月頃から同せいを始めた。
少年は勇樹ちゃんが食べ物をこぼしたりすると、軽く平手でたたくように。同年八月には暴行の頻度が増し、被告は二回ほど止めたことも。しかし、勇樹ちゃんが通う保育園長の「少年を家の中に入れないよう」という注意を聞き入れず、少年が別れようとした際は、手首を切るマネをするなど、自分から逃げられないようにした。(中日新聞。日付は不明。第一回公判の翌日)
上にある園長の「注意」は、実をいうと、児童相談所の職員のアドバイスにしたがっている。03年11月13日付けの中日新聞には、園児の被虐待の件で、園長は社会福祉事務所を訪れ(相談ではない、と園長は公判で否定)、その通報を受けた児相の職員が一週間後に保育園を訪れるのだから、この時点でやる気のないことが読み取れる。「とりあえず家に来ないように指導を」と、いかにも専門家風を装った適切な助言を行い、「次に勇樹ちゃんにあざや傷が見つかったら、ぜひ知らせて」と伝えて園を去ったという。
関係者がいつも口にするのは、この「有力な耳情報」である。そして、死亡事件が起きた後、申し合わせたように「有力な情報さえあれば、児童を保護するために動いた」とコメントしていることだ。結局のところ、関係者はみんな耳情報に依存する情報生活を送っており、その情報依存の弊害が全国各地に対応の遅れからくる児童虐待死事件を惹き起こしているのだ。
名古屋市の児相は、平和なニッポンの住民です、といわんばかりに、その後にのんべんだらりと二度の打診を試みている。
《相談所は八日後の同二十六日、電話で保育園に様子を尋ねた。・・・十月十七日、保育園に電話で三度目の接触。園長の答えは「母子関係はうまくいっている。あざは確認されていない」。職員は肝心の高校生のことを尋ねず、安堵の声とともに受話器を置いた。勇樹ちゃんの死は、そのわずか二日後。職員は「あざが見つかれば、すぐに母親に会うつもりだった」と悔やむ。・・・(救えなかった命・男児虐待死の裏側/甘い認識 介入なく/保育園に対応丸投げ)
情報依存から脱出するには、眼を活用することだ。詩人のリルケではないが、見ることについて真剣に学ぶ必要を痛感している。
本件の勇樹君の虐待死事件に関して、森島被告と少年の二人のほかに責任を負わなければならない人物がいるとすれば、いうまでもなく、「少年をとりあえず家に来ないように」という指示を現場で出した人間である。そして、その指示を出した根拠について説明責任を果たすべき義務があると考えている。処分等は、その後だ。
3 問題点を徹底的に洗い出す
以下、問題点を思いつくままに挙げてみる。
A 「しつけ」を目的とした少年の暴力は彩被告が容認しており、この寛容な態度を受けて、勇樹君は暴行を受けている。
B 少年の暴力のあおりを受けて、彩被告は肋骨を折るなどの傷害を負っている。この場合の事実関係は?
C 彩被告は事件直後、記憶喪失にかかったと主張しており、マスコミの初期報道は誤報も混じっている可能性がある。
D 後に思い出して、死亡事件の起きた当日の午後三時の少年の勇樹君に加えた暴行の時間は、三十分ではなく「五分位」と公判では証言している。
E 「母親、暴行を傍観」説は、三十分もの間、見ているだけで止めに入らなかったとすれば、かかる「見殺し」説が成立してもおかしくはない。それが彩被告のいうように「五分間位」だとすると、検察側のいう「見殺し」説を通すには無理が出てくるのではないか。
F その時の暴行は、殴ったりけったりの連続的なものか、あるいは、散発的なものだったか。
G 彩被告は、初公判で自己の無罪を主張。その根拠は?
H 一方で、少年もまた公判で、彩被告の無罪を支持していた。その根拠は?
I 少年は、彩被告に対して300万円もの金を請求していた。この正当性は?
J 勇樹君は救える機会がありながら、逸した点において保育園と児童相談所のどちらが責任を負うべきであろうか。
まずAに関しては、「寛容さのキープ」で彩被告は自己の神格化の道を歩んだと考えられる。ところが、意に反して、勇樹君は母親の言うことを聴かなくなった可能性がある。保育園では、トイレで列ができているのに、順番待ちをしないとの目立った問題行動が報告されている。これは即保育園から母親に報告されたことであろう。勇樹君がルールを守ろうとしないまま成長することに、母親は将来の不安を覚えたはず。しかし、一方で、しつけのために自分の手を汚したくはないと思っていたことだろう。この場合、「神格化」といって支障があるならば、「いい母親」役に固執したといえる。しかし、自らの手を汚さない点において一貫性が認められるならば、それは「いい母親」を超越し、神格化した「自己像」に陶酔を示すものといえるはず。
少年がしつけのためにふるう暴力を彩被告が容認した背景として、こういう事情があると考えている。
ところが、この少年も彩被告の意に反してしつけのための暴力が、暴力のための暴力と暴行をエスカレートさせていった。しつけのために、自らの手を汚したくないと思っていた彩被告であるが、暴行が度を過ぎると、たまらずに止めに入る。このために、神格化した自己像にひびが入った可能性がある(「債権の回収」の序曲)。
公判に証言台に立った園長のエピソードのひとつに、子どもの教育かなんかで助言をしてやったところ「私も保育士の資格を持っています」といって助言をきっぱりと拒否されたという話がある。ということは、「受容」こそ子どものためになるといったワンパターンの教育法が、彩被告の通った短大の講義内容であるのかと勘繰りたくなる。
ここから実行役は少年、主犯格は母親という聖俗一体説が成立する。つまり、汚れ役を一手に引き受ける少年と、自分の手を汚すことを嫌う神格化した母親の姿が見えてくるのだ。次章に眼を通せば分かってもらえると思うが、児童虐待に関わる二人の親、そのうちの一人は親権代理人、がいれば、必ずといっていいほど、二人の関係は聖俗一体という「アマルガム」の関係にある。結果的に、この聖俗一体説が弊論を貫く柱のひとつになった。
従って、Bにあるような事件当日の彩被告の受けた傷害は、やらせの可能性も否定できずにいる。口裏合わせが二重に行われていた場合、見やすいウソをもって取調官は満足してしまう恐れがある。しかし、これはすぐ後に述べるEとの関連で、やらせ、つまり、少年に脇腹をけらせて肋骨を折ってもらうことは考えにくいという結論に達している。もし除霊のために行うのであれば、まずは背中である。
Cの誤報は、初公判の四日の次の日の新聞記事「起訴状によると、森島被告は、同居していた少年が昨年十月十九日午後に約三十分間、勇樹ちゃんの腹や胸をけるなど激しい暴行を加えた際に保護措置をとらず、暴行を容認して放置し犯行をほう助した、勇樹ちゃんはまもなく死亡した」(中日「ほう助の母 無罪主張」)は、その可能性が高く、その時点では、彩被告の供述する「記憶喪失」という言葉を見つけることができない。
Dの彩被告の死亡事件当日の「記憶喪失」は、弁護士が主導する形で九月の公判で提出されてはいるが、新聞の報道記事からその言葉が出てくるのは、判決が下った後の12月17日夕の記事である。これは検察側がその時点での不採用と関係があるはずで、この意味では、新聞社は検察サイドに立って児童虐待死事件を報道していることになる。当たり前といわれれば、それまでだが・・・。
この「記憶喪失」の点は、いずれ後述する。
Eは、Gの彩被告の無罪主張に関わるもので、その根拠は、「事件のあった同十月十九日、少年は森島被告の買い物に自分の飲み物(シェーク)がなかったことをきっかけに勇樹ちゃんを暴行。勇樹ちゃんは泣き出し、森島被告は『やめて』と少年の肘を引っ張り、少年に肩を殴られた/少年は勇樹ちゃんを約40aの高さから床に放り投げるなど暴行を加え続けた。被告は119番通報したが、少年から『いすから落ちたことに』と口裏合わせを指示され、了承した」(中日同)のほかに、肋骨の骨折など、弁護士が「止めた」と指摘するものは、全部でわずかに数回と数が少ないのが特徴的である。また、「口裏合わせ」に同調しても、偽装工作には一切タッチしない点で、彩被告の行動には奇妙な一貫性を見ることができる。
確かに、彩被告の言う無罪の主張は、自らの手を虐待で汚さなかった点では首尾を貫くものである。しかし、汚れ役を一手に引き受ける少年をそばにおいて離さなかった点は、自らの主犯格の立場を裏付けるものとなっている。したがって、その主張は通らないことになる。
「傍観」説については、別に述べる。
Fの勇樹君の死亡した日の午後の暴行が散発的か否かについては、東京都福祉局の「児童虐待の実態(白書)」の第三章の「虐待を行った保護者などの要因」を読むと「散発的な傾向があ」るとし、「重症のものが多」いとしている。
下記を参照。
| 父親による虐待の場合は、母親によるものよりも重症のものが多くなっています。 また、母親による虐待の場合は、継続的な傾向が高く、父親によるものは散発的な傾向があります。 |
しかし、少年の暴行のきっかけが自分のシェークがないというだけのささいな理由から始まっており、侍の「面汚し」と思ったかどうかまでは判らないが、一時的に、たけり狂った可能性はあるといえるか。ならば、その暴行は、継続的なものだったと受け取れる。その上に、彩被告が止めに入ったことで、少年の証言がホントであるならば、一層激しさを増したことになる。
この場合、少年をのけ者にするような買い方をした彩被告の心中は?
朝方に、勇樹君を庇ったとき、脇腹にけりを入れられたことで少年を疎ましく思ったことも考えられる。いくら愛人といえども、痛い思いを味わされているのだから、神格化した「自己像」に一撃を加えられたも同然であろう。ここからも「債権の回収」の臭いが沸き立ってくる。
Gの「無罪」云々については、すでに述べたとおりである。
Hの少年の彩被告の無罪の支持に関しては、公判で耳にしたが、念を入れるため、新聞記事から引用する。
少年は彩被告に関し「ぼくのじゃまをしておいて(=暴行の止めに入っておいて)ほう助も何もない。裁判は全く意味がない」とした。(「暴行ほう助<ない>/公判で少年」中日04/6/15)
確か、この後であった。「税金の無駄使いだ」と吼えたのは。
少年の言葉を耳にした瞬間、何を血迷っているんだ、○○野郎が。「税金の無駄遣いだ」なんて、まるで政治家の放言ではないか。そもそも大事な血税をいたずらに使わせているのはどこのどいつなんだ、と心の中は反発する声で溢れた。しかし、今考えてみると、少年の言葉は、示唆に富む。というのは、少年は100%ぼくが悪いと言い、彩被告の方は100%アタシは無実と言っているからだ。つまり、二人は口をそろえて「異口同音」のことを述べていることになる。
交通事故でさえ、たとえ100%自分に非がないと思われるケースでも、一割か二割の責任を背負わされる。だから事故によって車の修理代など支払わされるとき、その責任の度合いによって、負担すべき額が決まる。こういう例に照らしてみても、二人の言うことは世間常識から外れているどころか、まったく懸け離れている。言い換えると、二人とも自己中の主張を繰り出していることになる。
しかし、これも吟味してみると、彩被告の方が「正真正銘」の自己中の主張を繰り出しており、少年の方は借り物の自己中といえる。従って、時間が経過するにつれて、彩被告の方は「アタシも悪い点があった」と言うはずで、少年の方も、「もともとは彩さんが悪いんだ」とホンモノの自己中の主張を繰り出してくるはずである。
Iの「債権」に関しては、次節で述べることにする。
Jの児相の「対応丸投げ」の責任逃れの点に関しては、まだ続きがあった。
下の記事は、十月二十日前後の讀賣による。
昭和署によると、勇樹ちゃんの通う保育園では、七月中旬と八月下旬に、勇樹ちゃんの顔や背中などに虐待の跡のようなあざを見つけ、児童相談所に通報していた(正確には、福祉課が通報)。児童相談所で調査の結果、交際相手の少年が暴行を加えていた疑いがあるとして、今月七日、同署に相談。同署では児童相談所に、母親に被害届けを出させるようにアドバイスしていた。(四歳男児が不審死/昭和区 虐待の可能性、捜査)
児相は児相で、少年の暴行の件で警察署に相談しているわけだが、「母親に被害届けを出させるように」というアドバイスを捻りつぶし、先に出した「少年を家の中に入れないように指導を」という指示にあくまでも執着していたことになる。この指示の意味するものは、「原因物質が特定できているのだから、その原因物質を除去すればその病気は治る」という対症療法的な(ノー天気とも言える)考えに基づいていることは明らかだ。薬物療法ならまだしも、相手は「物質」ではなく生の人間だよ。何を勘違いしているんだ(コラ〜ツという声が咽喉から跳び出しそうになった)。
この問題は、医者でもない児相の職員が勝手に「児童虐待」用の処方箋を作り、この薬を煎じて飲ませれば患者の病気はすぐに治りますよ、とノー天気な指示を出した点にある。ところが、「母親との信頼関係があるので相談所は動かないで」(「保育園に対応丸投げ」中日、11/13)と園長がきっぱりと断ったことから、得意の鼻がへし折られた格好になり、自らの出した指示にあくまでも固執したという次第であろう。
「指示は不可逆的」とする意味は、いずれ明らかになる。
一方の保育園側は、児相の介入をけん制したが、さりとて妙案が浮かぶはずもなく、結局、児相の職員の口調を真似て「少年を家の中に入れないように」「鍵を返してもらうように」と、母親の彩被告に忠告する。
この園長も自らの出した指示は「不可逆的」とする意思が強く働いていたことだろう。その強さを支えたのは、他ならぬ児相が出した指示だからという単純な思い込みである。これも依存の一種で、「指示依存」と呼んで支障はないと考えている。だから、極言すると、「悪魔の指示」を出したのは誰かということになる。
このようにして児童虐待死事件の「責任の所在」はどこにあるのだろうかと、訪ね歩いてみると、それはやはり児相の内部に求めなければならぬことになる。新聞社は、保育園に「対応丸投げ」と書いているが、だからといって、免責の理由にはならないだろう。通報があり、現場まで足を運んで児童虐待の事実を眼で確認しておきながら、非現実的な指示を出したり、警察の指示を勝手に内部処理するなど、そこには構造的な問題が棲み付いていると考えざるをえず、自浄能力がないのであれば、外部からメスを入れる必要があるのではないか。
この点に関しては、昭和区役所の松尾道夫民生課長のコメントがあるので、引用を試みる。
・・・松雄課長は「行政が家庭内へ立ち入り可能なような強制権を持つ法改正が急務。『プライバシー』が大きな壁となっており、児相は『弱い立場』から脱却する必要がある」(家族の幻「DV被害者の心理、認識を」毎日03/11/14)
上にあるようような「プライバシー」が壁という場合、大阪・岸和田のケースには当てはまるかもしれないが、昭和区のケースでは、むしろ保育園のブライバシー守秘が壁になっており、家庭という議論にまで児相は踏み込んでいないといえる。だから、そういうコメントは、それにふさわしいまで場所まで足を運び、そこでコメントしてもらいたい。
残る問題として、こういうのが挙げられる(丸投げの丸投げに、もう一つおまけの丸投げの問題?)。
園側から「少年を家の中に入れないように」という無理な注文を受けた飲食店の元店長は、その指示をどのように受け止めたのだろうか?
これを読むには、「自らの手は汚さない」ことと神格化した「自己像」を大切にしたいの二点がヒントになる。つまり、彩被告は少年に「無理な注文」を迫るが、反撃に遭うともうひとつの「自己像」に逃げ込もうとしたことになる。
もうひとつの「自己像」とは?
1000人の突破記念に(2月20日)
訪問者の皆様、有難うございます。19日の正午頃に一千人を突破いたしました。ですが、実際に訪れた方の数は半分にも満たないのではないかと推測しています。入力する過程で息抜きにアクセス数を調べたりと、結果的に、自分で数を増やしたりしています。愛着度数の高さが数字として表れていることに自分は誇りを持っています。その一方で、たとえ一人でも訪問者が来られると、励みになりました。本当に有難うございました。
この訪問者数は、昨年末からのアクセスカウントです。それまでに456人の訪問者数が更新の際に消してしまい、素直に喜べないところです。この中には、一日に150人もの方が来られた数字も含まれています。この意味を思うと、とてもではないですが、消すことはできません。ですから、これを機に、初期設定でアクセスカウントの修正を行うつもりでいます。
この拙い話が記念のプレゼントになるかどうかは分かりませんが、食養の観点から植物状態をどう見るかについて述べようと思います。
「青い空」のHPの中にstefana氏の傍聴記があり、貴重な資料を提供しています。そのひとつに、岸和田の中三少年の脳に水がたまっているとの河野先生ですか、証言があります。これについて、脳の陽性症状を意味すると書いたことがあります。
簡単に言えば、野菜を塩漬けにすると、細胞の中の水分が抜け出して、細胞がしまり、長期の保存が可能になります。これと同じような現象が脳の中にも起きているようです。
私は医者でもなければ東洋医学にも精通してはおりません。食養に関しては、少しかじっています。原理は簡単です。その病気が陰性に傾いていれば、陽性の食べ物を摂らせて陰陽のバランスを保たせるだけのことです。反対に、陽性に傾いていれば、陰性の食べ物をということです。
食養でいう陽性の食べ物とは、Naをより多く含むもの。肉や魚など。反対に、K、即、カリウム(筋弛緩剤の主成分のはずです)をより多く含むものとして、野菜や果実など。簡単にいえば、細胞を引き締める食べ物が陽性食品、反対に、細胞を緩ませるものが陰性食品となります。野菜も熱を加えることで、陽性化して食べているわけですから、一概に、野菜=陰性食品とは決め付けないように。甘いアイスクリームは、極度の陰性食品です。毎日のように食べると、細胞が緩み、太りもするということです。子どもは陰性に育てよという言葉があります。でないと、身体の成長が阻まれるからです。時には、甘いものも必要ですが、親が子どもの言いなりになって、甘いものを与え続けると、子ども病気になってしまいます。
ですから、植物状態の患者さんの脳が極陽に近い陽性症状を呈しているのならば、陰性のものを摂らせればという発想法で、治療法を模索することになります。
ブドウ糖は言うまでもなく陰性の「機能性食品」、正確ではないかもしれませんが、その効果が体のなかに直撃するような薬ではない食べ物の意味です、を塩漬け状態にある脳に与えるわけですから、理屈に合っているわけです。ブドウ糖は脳の活動に必要な栄養素でありますから、その効果は大脳を直撃するはずです。
とにかく、私は明日の20日の24時25分から始まる「日本テレビ系列」(こちらの方が正解のようですね)の放映を楽しみにしています。
2 事件の概要と責任問題(2月19日)
この事件は、平成15年10月19日の午後、母親の119番通報で駆けつけた救急隊員の連絡で、後から駆けつけた捜査官の取調べで、園児の森島勇樹君(4)の虐待による死亡事件が明るみになった。容疑者として逮捕されたのは、母親の森島彩(当時38)と愛人の高校3年生の男子(当時18)の二人。
報道ラッシュは、同月下旬に始まっている。その時の偽装工作の様子に関係する記事を抜書きする。
《・・・勇樹ちゃんが死亡した後、少年と森島容疑者は、事故死に見せかけようと偽装工作していたことも判明した。
少年が森島容疑者に、「台から落ちたことにしよう」と口裏合わせ持ちかけていたことがわかっているが、昭和署の調べでは、勇樹ちゃんが自分で転倒したようにみせかけるため、台所のイスが倒され、バケツを散乱させていた。
森島容疑者は「救急車が到着するまでの間に少年が一人で工作していた」と話し、「勇樹にはかわいそうなことをした」と涙ながらに調べに応じている。
森島容疑者は当初、「勇樹が冷蔵庫の上の本をとろうとして、積み上げたイスやバケツの上から落ちて腹を打った」などと説明していた。(四歳児虐待死「トイレ前で邪魔」ける/高3供述 事故偽装工作も[讀賣]03/10/24)
二人が出会ったのは、彩被告が店長を務める飲食店に少年がアルバイトとして働くようになってから。
《・・・2001年7月ごろ、飲食店の同じアルバイトとして入店した少年に恋愛感情を抱き、交際を始めた。甘えてくる少年がかわいくて、別の男性との婚約も破棄。昨年七月頃から同せいを始めた。
少年は勇樹ちゃんが食べ物をこぼしたりすると、軽く平手でたたくように。同年八月には暴行の頻度が増し、被告は二回ほど止めたことも。しかし、勇樹ちゃんが通う保育園長の「少年を家の中に入れないよう」という注意を聞き入れず、少年が別れようとした際は、手首を切るマネをするなど、自分から逃げられないようにした。(中日新聞。日付は不明。第一回公判の翌日)
上にある園長の「注意」は、実をいうと、児童相談所の職員のアドバイスにしたがっている。03年11月13日付けの中日新聞には、園児の被虐待の件で、園長は社会福祉事務所を訪れ(相談ではない、と園長は公判で否定)、その通報を受けた児相の職員が一週間後に保育園を訪れるのだから、この時点でやる気のないことが読み取れる。「とりあえず家に来ないように指導を」と、いかにも専門家風を装った適切な助言を行い、「次に勇樹ちゃんにあざや傷が見つかったら、ぜひ知らせて」と伝えて園を去ったという。
関係者がいつも口にするのは、この「有力な耳情報」である。そして、死亡事件が起きた後、申し合わせたように「有力な情報さえあれば、児童を保護するために動いた」とコメントしていることだ。結局のところ、関係者はみんな耳情報に依存する情報生活を送っており、その情報依存の弊害が全国各地に対応の遅れからくる児童虐待死事件を惹き起こしているのだ。
名古屋市の児相は、平和なニッポンの住民です、といわんばかりに、その後にのんびりと二度の打診を試みている。
《相談所は八日後の同二十六日、電話で保育園に様子を尋ねた。・・・十月十七日、保育園に電話で三度目の接触。園長の答えは「母子関係はうまくいっている。あざは確認されていない」。職員は肝心の高校生のことを尋ねず、安堵の声とともに受話器を置いた。勇樹ちゃんの死は、そのわずか二日後。職員は「あざが見つかれば、すぐに母親に会うつもりだった」と悔やむ。・・・(救えなかった命・男児虐待死の裏側/甘い認識 介入なく/保育園に対応丸投げ)
情報依存から脱出するには、眼を活用することだ。詩人のリルケではないが、見ることについて真剣に学ぶ必要を痛感している。
本件の勇樹君の虐待死事件に関して、森島被告と少年の二人のほかに責任を負わなければならない人物がいるとすれば、いうまでもなく、「少年をとりあえず家に来ないように指導を」という指示を現場で出した人間である。そして、その指示を出した根拠について説明責任を果たすべき義務があると考えている。処分等は、その後だ。
初めての投稿(2月18日)
掲示板にはじめて投稿したのは、昨年の平成16年の3月26日。デビュー作品(題名は「母親の愛が問題」)はひとりよがっていて、いま目を通してみると恥ずかしくなる。
もともと情報に頼るのが嫌いなところがあるため、ややもすると、見当違いの書き込みを行って失敗することがある。「そもそも詳細も調べずに限定口調で独り語りされても(笑)。みんな真面目にいろいろ話してるんだからさあ、勝手に小説作んないでね」とある人から揶揄された。
初投稿のトピは、近畿ヤフーの大阪小六男子虐待死事件である。投稿するまでに、かなりの時間をかけた。かけたというより、ボタンの押し違いから、イチからの打ち直しを再三強いられたという方があたっている。IDコードやパスワードの意味が分からず、侵入するのに壁ができていた。何とかクリアしてみると、そこで待っていたのは、見るからに狭苦しい長方形のスペースであった。投稿の内容は、メモにとっているので、そのままを入力してみた。すると、行が繰り上がっていき、はじめの行がすぐに隠れて見えなくなった。これでは文章のイメージが分からなくなると思って、何度も横のスクロールボタンを操作して伝えたいイメージを確認しながら入力を行った。とにかく、生まれて初めての経験は、戸惑うことばかりである。
新しいしいパソコンを買ってひと月を過ぎており、入力の方はもう大丈夫と思ってのことだったが、まだまだ使い切れていなかった。長い時間、画面を見詰めすぎて、眼が痛くなった。まあ、こんなとこだな、で、原稿が出来上がると、手に震えがきていた。投稿ボタンを押すには、かなりの勇気を要した。少し間をおいた後、ええい、と気合を入れながらボタンをクリックした。
本格的なデビューは、二週間後の4月4日。「無謬性への固執」と題するもので、これがその後に歩き出す私的な児童虐待論の出発の原点となった。
|
||
一読すると、前提はさておき、展開に明らかな無理がある。けれど、一本の筋が通っている。だから、もし展開が間違っているのならば、前提の「母親は、暴行を傍観」、つまり、「見殺し」にしたとする見出しのほうが狂っているとしなければならない。
対象とする事件は、大阪・住吉区の小六男子虐待死事件ではなく、名古屋・昭和区で起きた園児の森島勇樹君虐待死事件である。どちらにしろ、児童虐待死事件はすべて、流れる深層水は同じ水だと思っていたから、トピの要求する話題と違っていても全然平気であった。
その後の私の足取りは、この一点の確認のためにあるといっても過言ではない。たとえ、インターネットの掲示板であろうと、その書き込みに対しては自分が責任を負わなければならない。もし非があれば、説明責任を負わされることになる。
耳情報に依存する現代人よ、眼の活用を(2月17日)
なぜかというと、現代人は耳情報に依存する情報生活を知らず知らずの裡に送っており、その弊害が児童虐待死問題となって、いわば社会爆発的な病理現象を惹き起こしているのです。
その時の、児童を後方支援すべき関係者たちの証言を調べていくと、眼があるのに何も見えていないという一点にたどり着くのです。彼らは一様に耳情報に依存していて、あの時、もっと確実な情報を入手できたら児童を救えたろお、と後になって歯軋りしているのです。
そこで思ったのです。良薬を作ればいいのです。
この問題の解決には、眼を活用する必要があります。全国的かつ横断的情報というのは私たちは共有しているのです。ですから、耳の要求を満たした後、ものがよく見える薬を処方してやるのです。
すると、今まで見えなかった眼の前の世界がありありと。
大阪発・大迫雄起君衰弱死事件(2月16日)
1 事件の概要
この痛ましい児童虐待事件は、02年8月12日に大迫雄起君(当時12)が栄養失調と急性肺水腫により変死したことから発覚する。それから一年半後の04年1月15日に実の母親の大迫智枝被告(逮捕当時36)と知人の無職川口道子被告(同当時38)の二人が共謀したとして逮捕される。逮捕容疑は、殺人罪ではなく、保護責任者遺棄致死罪である。
その後の当局の調べによると、被告の二人は共謀して00年10月ごろ、「治療」と称して、不登校児に仕立て上げ、雄起君がたびたび逃げ出すので01年1月ごろ「南京錠をかけ」たうえ監禁する。02年4月からは「おかゆなどの流動食を一日一食」しか与えず、その結果として、四ヵ月後の同年8月12日に死亡させたものである。
報道ラッシュは逮捕の二ヶ月後の04年3月5日にはじまっている。そのひとつを次に引用する。
大阪市住吉区で小学六年の長男=当時(12)=が約一年七カ月にわたって監禁され、十分な食事を与えられずに衰弱死した事件で、保護責任者遺棄致死容疑などで逮捕された母親と知人の女は「長男の自傷行為や異常行動の治療」と称して監禁したことが五日、大
阪府警住吉署の調べで分かった。二人は既に起訴されている。 死亡当時、長男の体重は五歳並みの一九キロで、中学三年の男子生徒(15)が餓死寸前となった大阪府岸和田市の事件に続く激しい虐待は、児童虐待防止法改正などに大きな影響を与えそうだ。
起訴されたのは、母親の大阪市住吉区我孫子西一ノ一五、会社員大迫智枝被告(36)と知人の住吉区長居東四ノ二ノ六、無職川口道子被告(38)。
起訴状によると、両被告は共謀の上、大迫被告の長男雄起君が壁に頭をぶつける自傷行為や家出などを繰り返したとして、その治療と称し、二○○一年一月ごろから、大迫被告が当時住んでいた住吉区長居東のマンションの四畳半に外から南京錠をかけて監禁した。
○二年四月から、おかゆなどの流動食を一日一度しか与えず、同年八月十二日夕、栄養失調と急性肺水腫で雄起君を死亡させた。 住吉署の調べでは、大迫被告は長男が友人から「しゃべるのが遅い」などと言われたことなどから、長男が精神的におかしくなった
と思い込んでいたという。 調べに対し「一日二食与えたが、食べたものを吐き出して布にく
るんでたんすに隠したりするため、一食にすれば全部食べると思った」と供述している。
大迫被告から相談を受け、食事の世話などをしていた川口被告は「本人のため、治してやろうという思いでやった」と話しているという。
両被告は雄起君が死亡した翌日未明「家に帰ったら死んでいた」
と住吉署に届けた。両被告の逮捕は今年一月十五日。
同署は「慎重に捜査した結果、一年半たって逮捕した方がいいと判断した」としている。
雄起君は監禁されていた間、学校に行っていなかったが、学校は両被告の「病気」との説明を信じ、虐待を疑わず、児童相談所などに連絡していなかった。
(「治療」と称し監禁 小6衰弱死させた母と知人 大阪市住吉-共同通信ニュース速報)
五 母親の権力構造(2月14日)
母親自らが神格化の道をあるきだすと、子どもの生命は自然と解体へと向かう。なぜなら、母親の目には、目の前の子どもが自己の神性を犯す汚らわしき者に映るからである。「損害の発生」が母子の間では日常化している以上、すすぎとしての制裁が日常化していて当たり前である。
とはいっても、当の母親は自己の神格化に気付いておらず、目の前の子どもが単に汚らわしき者として見えるだけのことかもしれない。「風呂の汚い水に付けさせる」のも体罰ではなく、汚れし者の汚れをすすぐための大切な・強迫的な儀式のひとつであろう。
母親の採る虐待のひとつ、子どもへの食事制限は、母親自らの身体の巨大化と無関係ではない。
拒食症の禁欲に対し、過食症は放恣を強く印象付ける。過食症のデカダンスに対し、拒食症は必死になって抗っているように見える。けれども禁欲と放恣というのは実は、欲望の流れを二極構造として固定的、静態的にとらえようとしていることをあらわしていることにすぎない。(芹沢俊介「現代<子ども>暴力論])
虐待をする母親が思春期にどういう症状を呈していたかが理解できれば、児童虐待の問題を解決する糸口を与えてくれると思っている。芹沢の本は、母親はなぜ太るのか、という身体的な問題には直接答えてくれないが、少女時代のトラウマにヒントがあると見当をつけたとき、助けになる。
・・・やせと肥満という、差異を無視した暴力的な二分法に沿って、自己の身体像を作り直そうとしている。よい食べ物だけを選び、やがてその良い食べ物の中に悪い食べ物を検出し、ついに良い食べ物が見出せなくなって食べ物を拒否してゆく。この過程はやせるという社会的な善(要請)に応えていることである。それはまた美と価値を手に入れることでもあるのだ。だが、その先には、死が見えている。
上の引用にある言葉を点々と集めていくと、「悪の拒否=やせ=善=美→死」という拒食症ならではの記号的な意味が読めてくる。反対に、過食症では、「悪の肯定=期待される社会的身体像への反逆→死」となる。引用は省くが、要するに、少女も母親も太ることは、悪を肯定し、もって社会への反撃ののろしをあげることを意味し、行く末は、(社会から抹殺され)自殺行為を意味することになると説く。
ここで、虐待の連鎖について考えてみることにする。
もし母親が子に加える食事制限という虐待が、彼女の少女時代や幼少期に親が加えているとするならば、「虐待の連鎖」説を証明するものとなる。ところが、芹沢の考えに従うならば、少女時代に限って言えば、説に反している。というのは、彼女自らが社会の要請に従って、食事制限の道を選択しているからだ。従って、拒食を選択した過程で、彼女自身か何らかのトラウマを経験したと仮定し直す必要がある。
問題を簡潔にする。
少女時代の彼女たちは、もっと痩せて美しくなりたいという願望を心に抱いていたが、挫折する。それがトラウマとなって記憶化してしまう。その後、結婚して子どもを作り、育児に専念する。その過程で、もうひとつの自己陶酔の極地に至る方法を見つけたのだ。それが他ならぬ母性愛だ。もし、「虐待の連鎖」が虐待ではなく「世代間のトラウマの伝播」という意味ならば、その説は近似的に成立することになる。
虐待は昼と夜の区分けが必要である。朝から主婦の日常が始まる。朝食を作り、夫の弁当をこしらえ、笑顔で送り出した後は、子どもの番である。それからは、山のように積み上げられた汚れ物の洗濯とぴかぴかに磨く掃除に、トイレでバナナ糞をひねり出したり、ゴミ袋を外へと、とにかく大忙しである。今日の夕飯は何にしょうかと残り物の昼食を取りながら考え、午後になると通校と夕食の材料を買いに行くために外出する。パソコン教室からの帰り道に、幼稚園まで子どもを迎えに行く。帰宅するとすぐにでも、夕飯の支度に取り掛からなければならない。
昼間は筋肉を総動員してのバトルも、たそがれを迎えると緩みはじめ、夜には闇に融けるように身体は陶酔を求めはじめる。日中は許された「損害の発生」も、夜にはガマンできなくなる。あるいは、昼間にこうむった「損害」を夜に回復(報復)することも考えられる。それでも解消できなければ、次の夜に持ち越される(債権の回収)。
虐待に値する児童虐待は、はじめは夜に行われた。それが次第に日中にも拡大していき、やがて登校も禁じられた子どもは監禁・軟禁状態に置かれ、二十四時間の育児放棄というネグレクトが本格化すると考えている。
ネグレクトの本格化には、監視者の生活のリズムの破たんを前提におく必要がある。そこには昼と夜の区別はなく、朝とも夕べとも分からぬ「籠もり」の薄闇の均一の時間が流れているだけである。
子どもの監禁・軟禁は、母親の過去に経験した妊娠状態の再現である。そのときの心理状態は、充足と充実を兼ねた優しさに満ち溢れた至福の境地であつたに違いない。彼女は監禁・軟禁部屋の近くに控えていて、腹の子をいたわるように、彼の深い眠りゆえのいびきを伴った寝息にじっと耳を傾けている。
部屋の中は乱雑そのもので、整理する気も失せている。意識が緩んでいるのだが、それさえ気付かずにいる。・・・やがて「児童虐待をやっているぞ」という外部の声によって、はじめて彼女は覚醒する。
1 岸和田事件の概要と弁明(2月13日)
この痛ましい児童虐待事件は、2003年11月に父親と名乗る男からの通報を受けた救急隊員によって発覚。隊員の連絡で駆けつけた警察官の取調べで、小学校の同級生であり、且つ、バツイチ同士の烏野康信と川口奈津代の二人が長男の殺人未遂容疑で逮捕されている。
マスメディアの報道ラッシュは二ヵ月後の平成15年の1月に始まっている。その中のひとつを次に引用する。
親はここまで残酷になれるものなのか。
「今更助けても仕方ないと思った」
中学三年生の長男(15)を餓死寸前にまで追い込み、殺人未遂容疑で逮捕されたトラック運転手烏野康信(40)と、烏野の内縁の妻、川口奈津代容疑者(38)>。昨年十一月に保護された長男は、当時二十四キロと七歳児並みの体重にまでやせ細り、現在も昏睡状態にある。
「虐待は一昨年六月ごろから激しくなった。殴る蹴るの暴行に、食事は数日に一度。一日中正座を強要したり、風呂場の水に顔を沈めたり、タバコの火を推し付けるといった仕打ちもあったらしい」(大阪府警担当記者)
次男(14)は昨年六月、実母の元に逃げたが、長男は八月ごろには歩けなくなるまでに衰弱。以後、六畳間に敷いたシートの上で排泄物も垂れ流しのまま、昏睡状態に陥るまで放置されていたのである。
少年が通っていた中学校では、一昨年九月に少年が不登校になってから教師がたびたび自宅を訪れたが、少年を救うことはできなかった。「家庭からの厳しい抗議を恐れた」(校長の会見)からだという。
(餓死寸前まで虐待 親の「評判」−週刊文春04.2.5)
児童虐待事件はどれもこれも痛ましいものばかりで、岸和田の中三事件だけが際立って残酷というわけではない。虐待が兄弟に及ぶ限り、二人はそれについて語り合える友がいるだけでも救われており、ましてや長男は生きている点で、虫けらのように殺された虐待死事件よりはラッキーといえる。「・・・骨の浮かぶ体に壊死も。あまりのむごさに捜査員は<何百回も殺されたようなもの>と憤る」(1/26中日新聞)という名言が伝えられているが、外見ほどには少年は苦痛を感じていなかったといえる。なぜなら彼は早々に正気を失っていたからだ。
多少の天邪鬼の気を持つ私は、いま述べたような関係もあって岸和田の児童虐待事件とは距離を置いてきた経緯がある。それなのに、なぜ、方向転換ともいうべき態度を取る気になったのだろうか?
答えの容易ならぬ内発的なこの問題に関しては、個人的に処理した。かかる事件に関して何の見通しも立てられなかったがゆえに、やってみる価値があると思ったのだ。それだけの話。
と、「それだけ」のことにしてしまうと、人間的な冷たさだけが伝わっていくようで、ここはもう一捻りしたくなるところ。だけど、知恵がそこで働かなくなるから、不本意ながら、「それだけ」ということにする。
六章 植物状態 治る脳の自我機能(2月4日)
1 視るという行為について(2月12日)
視るという行為は、ひたすらに前進する直進性に支えられた行為だと考えている。たとえば、脳の状態が好調の時は、半覚半眠の意識状態におくと、直進する蛾のような眼と翼をもって、見知らぬ街の上空をまっすぐに飛行し続けることができる。
これに似たシーンが映画「オーメン」の中にもある。霊能者の力を借りて、彼主人公はイナゴの眼と翅でもって黄土色の・見知らぬ・沙漠の街の・地を這うような低空飛行を続け、やがて一直線に目的の地に到達する。私の場合は、霊能者の眼のように目的地まで、というわけにはいかない。それに、この意識状態を保つためには、夜では無理で、あかるい光がさんさんと注ぐ日中に行わなければならない。
もうひとつの特徴として、視るという行為には、視ているものとは何かということがわからないまま、ずっと視つづけるという性質を挙げることができる。たとえば、公園の片隅にあるベンチに腰掛けていると、中央付近で子どもが親から叩かれている。散歩者の彼にとっては見馴れぬ光景ではあるが、なぜかその意味が分からずずっと見ていることがある。これも「視る」の直進性に関係していると考えられる。
一方の「聴く」という行為は、無意味に視つづける行為に対して、意味を付与する働きがある。マスメディアがいっせいに「児童虐待」について報道をはじめると、ああ、あれがマスコミのいう児童虐待だったのか、とはじめて気付き、それまではただの散歩者でなかった彼が以後は急ごしらえの観察者に一変したりする。
今述べたようなことは、「百見は一聞にしかず」の例である。逆に、「一見は百聞にしかず」という俚諺もある。もし、耳の働きを「横断的」機能と呼べるならば、眼の働きを指して「縦断的」機能とする。つまり、世界の認識は、この両断的な働きが深く関係していると考えている。
しかし、と、貴方は異論を口にしたくなるだろう。
たとえば、日常性を生きなければならない散歩者の外で見る風景とは、いわば静止画像である。見馴れたせいもあって、特別の情報を引き出せずにいる。時には、文学者を気取って、路傍に咲いている花の意味を問うてみたりはする。鋭敏な感覚の持ち主でない限り、こちら側から働きかけない限り、所与の世界から意味は訪れてこない。強いて言うならば、向こうから意味のある情報として眼に飛び込んでくるのは、広告の類であるかもしれない。それでも外を見ながら散歩するのは、身体を気遣ってのことだろう。・・・だから、見続けるという行為は観察できない、と。
あるいは、見るという行為は、眼で情報をキャッチするということが当たり前のように語られている。脳神経科学では、特にそうだが、眼でキャッチした情報は、ニューロンを介して脳に記銘されるといった機械論的な学説である。このうそを、確かに、日常的な散歩者は指摘している。
残された課題が日常的な散歩者の意識のみであるとすれば、彼が認識の武器を捨てて、セーブモードを保っているからだと答えたい。
ここでの実験的な試みは、ハイテンションの中での、眼の縦断的な機能を駆使し、一歩先を見詰める作業を通して、未知の世界を切り開くことである。その結果として<、認識の最果てで見たものとは、植物状態の患者の意識としての、無意味に垂れ流される映像(小さな生命の灯)を見ているだけの、孤独な姿である。
5 植物状態 治る脳の自我機能(2月10日)
植物状態の脳意識の原因に関しては、他にも考えられるかもしれないが、ここでは前述したように、「無意識=記憶」の等値・互換性を前提に置く立場上、次の二点に絞るしかないと考えている。といっても、両者は原因と結果の不可分の関係にある。
A 脳の自我機能が損傷を受けているから、
B 意識が甘美の想念に満たされているため、その心地よさから脱却できずにいる。
Aの自我機能の所在に関しては、現時点では、不明である。が、特定こそできないが、Bについて考えることからはじめると、大体の場所が見えてきそうである。
まず植物状態の意識として、映画館の中にいる孤独な観客を想定する。患者は、周囲は真っ暗だが前方に明るい映像があり、音楽さながらに繰り出されてくる美しい映像に魅入られている観客である。そこへ、館内の暗さを消すために、照明を導入したら彼の意識はどうなるだろうか?
もし自我機能が正常であれば、日常的な意識を取り戻し、ざらざらした粗い空気の感触が真っ先に彼の頬を襲うことだろう。次いで、実存的な疑問。記憶喪失の自覚、と。反対に、自我機能が壊れていれば、日常的な意識は回復できないものの、視覚や聴覚といった神経系の回復は可能といえる。
下記は、横田敏勝監修の「脳の不思議を楽しむ本」(PHP文庫 476)からの抜粋だが、DとEにあるように、視神経と聴覚神経に関しては、働きのあることを伝えている。
|
「脳神経外科学会」1972年 |
具体的な方法としては、失明の危険性がないのであれば、目蓋を開かせ、懐中電灯の光を目にあてる。それによって、一点に向けられていた関心が拡散するはずで、音楽が聞こえれば、その音に関心を示し、目に見えるものがあれば、それを読み取ろうとするか否かは、知るすすべもないが、もし関心を示すような反応があるのであれば、数を数えることからはじめ、同時に、計算の問題とその答えをテープで吹き込んで昼の間は懐中電灯の明かりとともにずっと流し続ける。そのテープの声に反応があれば、日ごとに、テープの回転速度をあげる。時々、質問形式で、問題を提出する。反応があれば、どんどん速度を上げていく。
この方法は、患者が国語よりは算数に関心が高い場合は、有効だと考えている。バカみたいという声に混じって、マインドコントロールではないかと、懸念する人もあろうかと思われるが、数式に宿る神アポロンは、精神の秩序と回復を司る神である。この神の力を借りるしか他に手はないのではないのか。
ほかには、視床等のホルモン関係を薬でコントロールするものだが、この方面は暗いので逃げる。ただ、注意しなければならないのは、患者の心の中で、一点に向けられているあの映像こそ、生命の灯である可能性が高く、それを消すような薬の使用は避けるべきこと。
たとえ植物状態から脱しえたとしても、彼は前頭葉を切除されたロボトミーの患者みたいにその後の生を生きていかざるをえない過酷な人生が待っているだけかもしれない。この問題は、自分は人間として生まれて満足だけれども、ゾウリムシとして生まれた彼らはかわいそうだということと同じであろう。どちらの生き方を選ぶかは家族の者が決めるべきことだ。ただいえることは、下等な生物の方がはるかに深い生の喜びをあじわっていることだ。
ロボトミーの患者の例を参考にするならば、自我機能は前頭葉に宿るといえると思う。そして、彼は前頭葉を切除されたのではなく、重度の低血糖症により大脳の機能不全状態に陥った患者である。であるが、大脳組織は壊死ではなく生として保存状態にあること。さらに、チューリップの花を支える茎のような強靭な繊維が神経組織として生きていること。この二点により、特に線的機能が生きていることに、回復の望みが期待できると思っている。
* * *
この声が届くのならば、植物状態の患者は、奇跡的な回復を遂げると信じている。
(完結)
4 海馬のメカニズム(2月8日)
はじめに「記憶」で検索すると、その数なんと103万件。次に「記憶の研究」では、ぐんと減って310件。手頃な数だが、やたらと難解な用語が出てくるので、ここもパス。三番目に「記憶のメカニズム」でみると、1240件。のっけから「記憶には短期記憶、中期記憶、長期記憶がある」といった棒暗記風の工学博士のHPの言葉が出てくる。記憶には、ダイナミズムの仕掛けが隠されているはずで、そのダイナミズムを読み解くことが即メカニズムの解明につながると私は考えている。記憶の機械的な説明は、何もわかっていないと同然と見なし、パス。最後に、「海馬のメカニズム」で三件だが、不満が募るものばかり。
たとえば、「コラム de H!NT」では、「潜在的記憶」と「顕在的記憶」の二種を挙げている。「記憶」とは、「潜在的」だからこそ「記憶」たりえると思うのだが、その上に「顕在的記憶」を持ってくるのだから、こんな生活もうイヤーって気分になるんだよね。ずれている分、さぞや滅茶苦茶な論が展開するぞと思って我慢して読むと、それが結構まとも。
残る二つは、一つは「生活ほっとモーニング」のHP、もうひとつはTKCのHPで会長の武田隆二がアカデミックな論を提出して読み応えがあるが、海馬のメカニズムに関しては、いずれもどこかで読んだ「記憶」の本と大差はない。
以上、泰山鳴動して鼠一匹のネズミさえ見つけることができなかった検索結果である。
思うに、記憶は無意識と不即不離の関係にあり、この関係性を切り離して一側面としての「記憶」について語ろうとするから、コンピューターのアナロジーからメモリ風の記憶論ばかりが世に出回っているのではないのか。
ここで持論を提出すると、中傷と自己讃美は紙一重というわけで、私のいい気さが浮き彫りになって嫌になって書き気も失せてしまうところだが、かといって、適当な論が今見当たらないので、持論でカバーすることにする。
まず用語の規定を行う。
無意識とは、空っぽの意識ではなく、内容がある意識をいう。その内容は「記憶」である。
記憶とは、映像をいう。意識の下に潜在する。
この無意識=記憶という用語の互換性を前提におくと、はじめて見えてくるものがある。
たとえば、有吉佐和子の著書「恍惚の人」(新潮社文庫)の中に、次のような文章がある。
茂造は部屋の隅で身体を縮め、虚ろに宙を眺めている。人生の行く手には、こういう絶望が待ち構えているのか。
主人公の「昭子」の目には、ボケ老人の内面の世界が見えていないようでちゃんと見ている。一読すると、老いの「絶望」的な姿をみているだけのようである。しかし、すぐにも「昭子は茫然としながら薄気味の悪い思いで、改めて舅を見詰めた。彼は精神病だったのか」と主人公の内側の世界を描いてみせる。この場合の「精神病」は、キーワードである。老人は、表題にあるような、うっとりした表情を顔に浮かべているのではない。しかし、その意識は「恍惚の想念」に満たされていることを見抜いている。それゆえの「精神病」であり、「恍惚の人」なのだ。
そこまで言い切るには、体験の裏づけが必要だ。難治性の病に苦しんでいたのは、作家有吉佐和子本人であろう。
次に、植物状態の患者の意識について考えることにする。
私の見るところ、彼の意識は空っぽではなく、映画でも観るように「恍惚の想念」に満たされている。仮に意識があると仮定して、なぜ目覚めないのか、と疑問をもたれるかもしれないが、この理由としては二つが挙げられる。
ひとつは、脳の自我機能が損傷を受けているから。
もうひとつは、意識が恍惚の想念に満たされて、その心地よさに浸りすぎているから。
後者に関しては、「疲れない海馬」の野放図な働きが関係していると見ている。本来は、前者の自我機能が海馬の機能を抑制するところ、自我機能が損傷を受けたために、海馬の制御ができず、映像としての記憶を垂れ流しにしていると考えられる。
ここで述べたようなことは、「無意識=記憶」の互換性を前提に置くもので、「物忘れ」という行為も溢れんばかりの「無意識」のせいと解することを妨げるものではない。
1 植物状態の意識とは?
試しに、「脳の自我機能」で検索してみると、一件もありません、との検索結果が出てきた。これを見る限り、途方もない問題を抱えたのかなと思ったが、タダフミの研究室のHPでは、ジャクソンの説の紹介があり、「統合失調症においては、脳の局在は不明としても、「自我」という機能が喪失し、その「陰性症状」、すなわち自我機能喪失の直接の反映として感情鈍麻などの陰性症状が生じ、自我機能喪失により2次的に出現した正常では存在しない症状である「陽性症状」が1級症状であると考えられる」とあるように、脳における自我機能説は既に存在していることが分かる。
岸和田の中三少年の植物状態における脳の状態は、救出された当時、「水が溜まっていた」と報告されている。
以下、DVのバイブルともいうべき「青い空」のHP(第四回公判、書き手はstefana1967)より引用する。
・・・
*血糖値 8 (健康時で60〜70)
・・・
*意識 少し改善(開眼、少し動かす)
・・・
*頭部 脳内出血はなし 前頭葉に水がたまっている。
「脳萎縮」・・脳と頭蓋骨の間が若い人ほど、せまいが歳を取る人ほど広くなる。お歳を召された人のような状態であった。
*意識障害の原因は、長時間の低血糖(栄養状態、低酸素(下顎呼吸)である。
*脳萎縮の原因は、長期間の低栄養が続いたからである。
・・・
*意識状態 三ヶ月の間に意識の回復がどれくらいあるのか。
−−改善はあるが、返事が返ってくるということはない。うめき声、手を動かす、自発開眼の時間も長い、呼び掛けに反応する。コミニュケーシヨンはとれるような回復は、ないとは言い切れないが厳しい。脳萎縮に関しては、低栄養が原因であり、改善されるとある程度の回復は望まれる。
それらの意味は、脳の陽性症状を呈するもので、死ではなく脳の「生」を裏付けるものと解している。かといって、正常な脳の状態への回復の可能性を直ちに意味するものではない。「陽、陽極まって陰に転ず」という陰陽の言葉にあるように、極陽症状の脳であれば、回復の見込みはそれだけ遠くなる。
従来の説によると、意識については植物状態の患者には「ない」とされるが、一方では、「反応」はあるとの報告が散見できる。つまり、植物状態の患者は「意識はないが、運動神経的な身体の反応はある」と。この言い方が矛盾しないことが証明できればそれまでだが、反対に、矛盾するということであれば、逸脱理論からの援用で、次のようにCを仮設する必要がでてくる。
C
A・−−・−−・B
下記の島崎修次の説によると、植物状態の患者の「意識のレベルは低く昏睡状態」であって、意識の存在を「低レベル」としている。従って、上の関係式は、この意識状態はある脳の機能(点C)によって保たれており、その脳機能によって身体的な反応が惹き起こされるという意味を伝えるものとなる。
これに似た症例を呈するものとして、てんかん患者の大発作が挙げられる。つまり、脳は機能しているが、意識は飛ぶ事例である。他には、似た例としては、睡眠も挙げられる。その間、彼自身の日常的な意識とは別の意識に包まれている。てんかん患者の自動症とは違った、身体の反応が起きる。火事の夢を見ると、消化しょうとして放尿するなど、夢の内容と対応して身体的ないしは情緒的な反応を惹き起こしたりする。
前二者の場合はいずれも、脳の自我機能についての論及がない。が、後者に関しては、精神分析学ではある自我の存在を仮定している。夢のそれをエスとしたかは定かではないが、前意識にはエス、無意識は超自我と、それぞれの意識のレベルと対応する自我機能の存在を想定している。
脳神経科学がどこまで唯物論的立場に依拠しているか知る由もないが、「自我機能」についてのコンセンサスがまるでないことは明らかだ。従って、脳神経科学者のいう植物状態の患者を指しての「意識のない」云々は、何の根拠もないことが読み取れると思う。
2 臨死体験とアーレフ
意識が飛ぶ事例として、「臨死体験」に注目。インターネットで検索していたら、アーレフなるHPにたどり着いた。どこかで聞いたことのある名前だと思って、記憶の糸を手繰っていたら、じきに旧オウム真理教の宗教団体の名前であることを思い出した。
これで、アーレフの利用目的がはっきりした。神の「存在証明」を「臨死体験」を通して語ろうとしているのだ。さらに、教説を語ろうとするならば、それは逸脱を意味することを前もって付け加えておこう。
というのは、同じような文脈で何かの存在を仮定し語るならば、「神」よりも「地球」について語る方がより唯物論的かつより合理的だと思われるからだ。
私の考えをあえて述べるならば、はじめに地球の意思があった。次に地球の意識が誕生した。これらはそれぞれ、地と天と訳すことが可能だ。けだし、間に仲介するものがなかった。そのために生物を誕生させた。これらの生命体の存在の意味は、地球の意思を背負わされていることだ。闇雲に生きる意思から、次第に意識が芽生えた。この両者の意識は明暗という顕著な違いを有する。意思の暗部は、さらに分化し、意志と心とに分かれた。意志は生きる強さに変じ、心は生きる暗さに化けたのである。一方の明るい意識は、論理と良心に分かれたと考えている。明るい意識は、論理が代表し、科学の道を開いた。一方の良心は、超え出るものとして、超人化や宗教の道を用意したと考えられる。この良心が「幽体離脱」と関係しているのではないか。
臨死体験ははじめこそ一部のマニアックな研究者によって体験談が集められていたが−−その中には、脳死状態から生還している例が少なからず報告されている−−日本ではNHKの番組での放映がきっかけで全国的に普及したとアーレフは伝えている。ゲストは、後に同名の著書を出す立花隆である。私はその時の視聴者のひとりであるが、既に二冊の本に目を通していた。そのせいか、放映を見てショックを味わった。幽体離脱をテーマにしながら、後半に脳内幻覚説を引っ張り出してきたからだ。これで一気に混乱し、わけが分からなくなった。
今なら、その混乱を例の関係式で持って楽々クリアできる。但し、観念的には、である。
C
A・−−・−−・B
点Aは脳内幻覚説である。点Bは、幽体離脱説である。点Cは、何かの機能の所在を仮定している。もしそれが「超自我」というのであれば、フロイトの説くように「無意識」とするのはおかしい。意識できないはずのものが、そこではありありと語られているからだ。所在の点でも、脳内か脳外かの点で迷いが出てくる(この場合は、A・−C・−E・−D・−−・Bとなり、Eが謎として残る。A=脳内現象説、C=脳機能説、D=超自我説、B=幽体離脱説)。前提の設定が狂っていることも考えられる。
この場合、人は神と一体也の神人説を持ってきた方が、てっとりばやい方法にも思える。神が人に乗り移り、云々は俗信とするはたやすいが、かといって、反対証明はいくつかの点で困難さがつきまとう。例えば、人殺しの犯人の行動は、神人一体説に立ってはじめて説明が可能だが、これを人間の単独的行動とするのは直に論理が破たんしてくる。現実には、法は罪を犯した者を独りの人間として裁こうとしているわけだから、本末転倒ではないかと考える向きの人もあろう。
すぐには出ない結論として、ここは逃げる。
3 もうひとつの植物状態の意識
意識の飛ぶ事例として、こういうのがある。
昼間は過度に緊張した生活を送っていると、夜になると、一転して過度の弛緩した意識に見舞われることがある。彼は畳の上で大の字になっているが、自覚できないでいる。気が付いてみると、なにゆえかそこに投げ出されているといった実存的な感覚に見舞われている。さっきの自分と今の自分との間に時間の空白があって、連続的な線としてつながらないのだ。そこで彼は一計を案じて、追体験を試みた。すると、ひと筋の甘美な想念が彼の脳裏を襲った。次の瞬間、想念に身をゆだねるように畳の上で横になろうとする自分の姿に気付いた。そこでまた意識が途切れる。そうして気が付いてみると、前のように彼の身体は大の字に伸びているのだ。
こんな追体験を何回も何回も繰り返したあと、彼は自らの意識のほころびを縫い合わせることに成功したという。果たしてそこで見たものとは?
彼は受験生である。大学受験を間近に控えて、学校の授業は模擬テストの受験と前日のテストの復習で明け暮れている。テストは問題文の記憶がままならず、記憶力減退の兆候が出ていた。当然のように、テストの成績は下がる。
もしこの時、親がその成績を見て、お前は一体何をしているんだ。遊んでいるから成績が落ちるんだろ。もつと身を入れて勉強しろ、と頭ごなしに怒鳴ったりすると、受験生の心はどうなるだろうか。最悪のケースでは、その無理解な態度に絶望し、殺意さえ抱くことがあるだろう。反対に、物分りのいい親であれば、精神の病を察知して、精神科医に相談するかもしれない。彼が選んだ道は、そのどちらでもなかった。
彼はたまたまその意識の存在を発見したことから、自らが克服する道を選んだ。その意識とは、滾々と湧出する甘美な想念である。はじめは、ひとつの言葉の持つイメージに触発されて、甘美なイメージが湧いてきた。すぐに意識は圧倒的な量の想念によって満たされる。すると、彼の身体は自然と緩んだ。机を前にして椅子に腰掛けているのだが、身体がまるで崩れるように椅子から滑り落ちる。そのまま大の字になって、意識として自覚すらできない甘美な想念の海に浸っているだけの自己の姿を見つけたのだ。
ここで、こういう疑問にぶつかることだろう。
自覚できないものが、どうして自覚することができるのか。それこそジレンマというものではないのか。
この点に関しては、私も疑問に思い、今はいいオトナの彼に問うてみたことがある。
そらあ、ぼくだってはなから自覚できたわけではない。しかしだね、繰り返し追体験を行って、やっとの想いで見つけた代物さ。「甘美な想念」が意識の下にもぐりこんでいる。それを潜在的意識と呼ぶことは別段かまわないと思う。無意識が文字通り「意識のない」状態を指すのならば、「甘美な想念」こそ無意識の「内容」といえると思う。そして、その意識は自己分析によってのみその存在を確かめることができると思っている。「内容」にかんしては、これに限らず、と付け加えたい。
彼は、確かに、そう答えた。
ここでまた、疑問が生じた。その潜在的意識は、私たちの日常的な意識の下にももぐりこんでいるのかどうか、という点である。
今のぼくは、君と同じような幸福ともいえる日常的な意識に支配されていると思っている。この下に潜在的意識があると仮定して、探り出せたとしても何の意味もないと思う。だって、牧歌的な日々を送っているアヒルにむかって、潜在的な意識を探るようなものじゃないか。この場合は、「甘美な想念」は彼の生全体を包み込んでおり、そのおかげで幸福の日々を過ごしていると考えるほうが妥当というものじゃないのかな。だから、彼の幸福を支えているものとは何か、と問いかけることに他ならず、下手をすれば、彼を病者に仕立て上げることになるよ。ぼくだったらその点をもっぱら危惧するね。
彼の話は、キツネにつままれることなきしにもあらずであった。
この後に、克服法について訊ねてみた。薬を使わずに彼が自らの精神の病を一時的な治癒に導いたことは、世界的にも例がなく、特筆すべきことと思うがどうであろうか。
以下、その要約。
例えば、国語の教科書を開くと、いやがうえにも文章の中の言葉と接することになる。それらの言葉のどれかを目にしただけで、意識の中にイメージが溢れ出してくるという。これは英語でも同じような結果をもたらした。そこで数学を試したという。頭をひねる必要のある高度な問題もどうかすると、イメージが混入してきて、勉強にならなかったらしい。仕方なく、レベルを下げて数式だけの簡単な問題を解いてみたところ、はじめて「甘美な想念」から逃れられたとのこと。それも尋常の解き方では手ぬるく、イメージの混入は光速でやってくるのだから、その倍速で解かないとダメだといっていた。
最後に言葉を結んで、数式には神が宿ると言ってた。その神はアポロだって・・・。
大企業病と壁(2月3日)
2 職場のいい親と悪い親
名古屋には仕事を求めてきたのだが、最初に面接した土建会社で日当七千円と言われて、九州の相場と変わらないので愕然としたことがある。仕方がないから、営業の世界に飛び込んだ。
どちらもミスマッチだが、かといって、これといった取柄があるわけでもなし、選択の幅なんてハナからゼロに等しいのだ。
営業の世界は、いうまでもなく、「やり過ぎ」を奨励する世界である。そして、「やり過ぎ」ゆえに社会不適応を引き起こしているアウトローの駆け込み寺的な機能を果たしている。
この世界でいいと思ったのは、親(業界用語では、クロスマンという)と子の関係がはっきりしている点である。たとえば、入社すると稼げるようになるまでの間、親が朝食の面倒を見てくれる。これによって誰が私の親であるかを楽々と認知することができた。
部屋は冷暖房完備の個室が与えられ、小遣いとして毎日三千円支給される(この金は会社ではなく、親が負担しているケースが多い。従って、親と子が長い間、成績を上げられない場合、親は借財を背負うことになる)。いいことずくめなのだが、子と子との間でトラブルが起き易いのが玉に傷である。中には、新人いびりと称して、先輩の子が勝手な指示を出してくる場合があり、そういう時、親に訴えれば、即、取り消してくれる。
このように親が「自分をガードしてくれる」ことを目の当たりに目撃すると、子は親の言うことなら何でも聞こうという気持ちになる。指示系統が自然発生すると言ってもいい。無論、初めての経験である。
しかし、蜜月は長くは続かない。テリー(縄張り)は親が子に与える。そのテリーは、他の子が侵してはならない彼だけの刈入れ場である。戦略上、もうひとつのテリーが必要と思った。そこで親に申し込んで貰い受けたのだが、他の子が広すぎると言って苦情を持ち込んできた。親と子が協力して、私を責めてきた時、筋が通らないと思った。
この種の筋の通らないことが立て続けに起きたとき、その会社を去った。
夜逃げ同然で、とあえて付け加えておこう。
第五章 ザ・ネグレクトーー大阪・岸和田中三虐待事件
続・問題点の整理(2月3日)
まんず初めにこの用語について、定義づけを試みる。
T インローとは、「やり過ぎ」を咎め立てすることのできる世界の住民である。
U アウトローとは、反対に「やり過ぎ」を助長・賛美する世界の住民である。
したがって、両者の間には、次のような法則で縛られることになる。
B インローはアウトローの「やり過ぎ」に対して無力である。
C アウトローはインローに対して「やり過ぎ」とするあらゆる力の行使が可能である。
この法則に対して、インローもアウトローもとりえる対抗手段は、次の三通りである。
E 民事トラブルに対しては、弁護士を立てることができる。
F 刑事トラブルに関しては、警察を立てることができる。
G 上記に属さないボーダーレスのトラブルに関しては、それぞれのトラブルに対応できる公的な関係機関を立てることができる。
児童虐待の問題を考える上で、忘れてならないことは、それがポーターレスの問題でありかつ児童教育・保護上の問題として、トラブルに対抗できる公的な関係機関として学校や児童相談所がありながら、かかる機関が有効に機能せざるところから児童虐待死等々の社会問題を引き起こしている点である。
児童虐待問題は、関係機関自らがもつ潜在的な力を個人が引き出すだけで解決できると私はにらんでいるが、現状はBとCの法則に縛られて身動きできないとの報告が岸和田事件や大阪・昭和区の事件の公判では提出されている。それも、児童福祉並びに教育の理念に奉仕する職員や教員としての理論武装した姿はなく、一個人として問題と取り組んだ上での体験的レポートの類が山のように提出されているだけのことである。
たとえば、不登校児のことが心配になって担任の教師が家庭訪問したところ、親が応対に出て「会わせることができない」というので、面会拒否の理由を問いただしたところ、「できないもんは、できないんだ」と言われ、なおも食い下がろうとすると、人間とは思われない方法で反撃に遭い、追い返されるケースである。あるいは、「今会うと、治る病気も治らなくなる」といわれて、引き下がるケースも報告されている。
前者に関しては、親がもし怒りやアグレッシブな自己防衛的な態度に出た時、そこにウィークポイントがあるはずと勘を働かせることができるのに、弱点が読めずに尻尾を巻いて退散している。後者では、神がかり的な臭いがするのに、それが読めずに引き下がっている。
第五章 ザ・ネグレクトーー大阪・岸和田中三虐待事件
2 まず疑問の点を整理(2月2日)
この中三虐待事件を調べている中で、幾つかの疑問が出てきたので挙げてみる。
A 烏野康信(40)被告と川口奈津代被告の生育歴がインターネットでは、なぜか公表されていない。
B 被害者の少年は監禁ではなく、軟禁状態に置かれており、逃げ出そうと思えば逃げられたのに、なぜ逃げなかったのか?
C 川口被告には、前夫との間に設けた子がひとりおり、離婚するまで食事を与えないなどのネグレクトを行っていた。なぜ?
D 虐待の件は、学校関係者や児童相談所が知りながら機能しなかった。なぜ?
E 烏野被告が救急車を呼んだことで、被害者少年は一命を取り止めたわけだが、その腹は?
F 実の母親は逃げてきた次男を引き取りながら、なぜ長男を救おうとしなかったのか?
G 「百回も殺されたと同然だ」と警察官をして嘆かせたほどの残虐なことを、なぜ人間ができるのか?
H 被害少年は、植物状態から立ち直れるのであろうか?
まんずAだが、これはずばり三人の息子が生きていることと無関係ではなかろう。このマスメディアの態度に、三人の息子に対する暖かい想いが読み取れる。
Bに関しては、低血糖症と関係があるのではないか。生活苦や遭難等から飢餓を体験した人なら分かると思うが、何も食わずにいると、三日目位から意識がコントロールできなくなる。正常の判断ができなくなるのだが、長男と次男の間で差が生じたのは、体格差ではないのか。つまり、長男は身体が大きい分、熱代謝量が大きく一足先に意識障害をもたらしたが、次男は兄の尋常でない様子を見て、自分も直にこうなるのかと思って危機感を抱き、とにもかくにも逃げ出す道を選んだと考えられる。その時点では、次男の意識には正常な判断能力が残っており、換言すると、その意識が彼自身の命を救ったのだ。
Cに関していえば、「坊主憎けりゃその袈裟まで憎い」の諺にあるように、夫が憎くなったからその子までが憎くなったということであろう。
Dに関しては、学校も児童相談所も大企業病、即公務員病に感染していたからであろう。相談件数が年間200件余もあると四人の職員は音を上げているようだが、医院を訪れる外来患者数が一日百人だとしても、看護婦や検査技師などを含めて4、5人で捌いている。これを思えば、公務員病を疑われても仕方がないだろう。学校もである。
この件に関しては、いい例があるので書いておく。
ある年金病院のことである。診察券を窓口に置いてある透明の箱に入れた後、ソファに腰掛けていると、後からひとりの女性客が来た。彼女はすぐに呼ばれて診察室に入っていったが、自分の番が一時間を過ぎてもこない。その間、訪れたのは私と女性客の二人だけである。半分頭にきていたが、何か事情があるのだろうと思って穏やかに訊ねてみると、単なる見落としであった。看護婦が仕事そっちのけで、話しに熱中していたのだ。
次に、担当医の最初に口にした言葉が、これだった。
「貴方は今、怒っていますね」
即座に否定したが、怒っていると勝手に決め付けた上で、私は貴方のような人に対しては治療を行うことができないから、知り合いの開業医がいるので紹介してあげる、といって来院を拒否された。
年金を食い物にする医者と開業医がタッグを組むと、開業医はもうかって当たり前。二人がどこの医学部の出かは知るまでには至らないが、戦時中、捕虜の生体実験を行った医学部として悪名を馳せた例もあるから、頭のおかしい当番医がいたら、気を付けた方がいいかも。
Eは、鬼の心に仏でも宿ったか、と言いたいとこだが、被害者が死ぬ間際になって烏野被告は恐怖心に駆られたのではないのか。人を殺すことは、怖さが先に立たって当たり前。その恐怖から逃れるために、救急車を呼んだものであろう。この意味では、強面の顔とは裏腹に、気は小さい男と言える。
Fに関しては、次男が虐待のことを話さなかった。母親は虐待の件は知る由もなかった。知っていれば当然救いの手を打ったはずだ、などと伝え聞いているが、詮索しても仕方のない話であるからこのまま放置する。
Gは、人間の先天的な残虐性に関しては、これまで述べたように、否定的な立場を採っている。川口被告といえども、はじめは鬼母でもなんでもない普通の人間であったろう。そこへ何かをきっかけに人間が変質したと考えられる。烏野の連れ子との関係に関しては、白雪姫の中に登場する妃の例が参考になる。
たとえば、「鏡よ、鏡。この世で一番美しいのは、誰じゃ?」と問いかけると、「お妃様、貴方です」と鏡は健気に答える。疑り深い妃は満足できずに、同じ質問を試みて「白雪姫」という答えを引き出すや、突然のライバルの出現に心は暗然とする。・・・
写真から見る限り、川口被告が美貌に自己陶酔できるタイプでないことは明らかだ。しかし、母性に関しては、内心自負するものがあったのではないか。それがある日二番でしかないことを悟らされた時、被告の心は鬼と化したのだ。
Hに関しては、「治る脳の自我機能」と題して、被害少年の回復方法を説く。
関連情報
●低血糖の症状(club-dm.jpより転載)
| 低血糖の初期症状は、自律神経(意思とは無関係に体の機能を調節する神経)の緊張によって起こるものが中心です。発汗、手のふるえ、はきけ、顔面蒼白、イライラ、その他体の違和感などがあります。こうした症状は、血糖値が70mg/dL以上であっても血糖が急激に低下したときにみられますが、基本的に本人が気づくかどうかが重要です。 血糖値がさらに下がり、50mg/dLを下回るようになると、中枢神経(脳と脊髄の部分)の症状が加わってきます。中枢神経系の症状としては、倦怠感、視力異常、話し方や歩き方、表情の異常、知覚障害などがあります。これらは家族などまわりの人にも分かりやすいので、よく理解しておいてもらいましょう。 |
![]() |
大企業病と壁(2月1日)
トヨタに期間工として入社したことがある。三ヶ月間の満期を終えて退社する際には「もう二度とトヨタには入社しません」という誓約書を強制的に書かされた。その後何回か面接を受けたが、いずれも不採用である。一度だけ内定が決まったが、すぐに取り消された。
この理由としては、あの誓約書以外には考えられない。この点で、思い当たることといえば、ひとつだけ挙げられる。トヨタ系の会社が火災に見舞われた時、夜勤の合間を縫って写真撮影のために現場まで足を運んだことがある。そして、歓送会の日に取って置きの写真をプレゼントしたのだ。ある社員は「そんなことは、してはいけないよ」と人聞きの悪いことを口にした。感想はこれのみで、白けた空気のみが後に残っていた。
さて、トヨタの社員は、昼休みになると、毎日のように賭けマージャンに興じていると書けば、「やり過ぎ」と感じる人が多いのではなかろうか。
この話には、続きがある。
仕事が終わった後、一度だけ賭けマージャンに参加したことがある。親睦の意味を兼ねたつもりだったが、相手が悪かった。敗勢に転じた時、本性をむき出しにしてきた。チンイツの手が苦手で、考え込む癖があった。このスキに乗じて、男は「早く打たんか」と怒鳴りだした。直前に囲んだマージャンで数万円を負け込んでおり、その負債を肩代わりさせようと躍起になっていた。直に試合を放棄したのはいうまでもない。結果は、二万円ほどの負けを引き受け、給料日に支払った。
これに似た経験を過去にも味わったことがある。同じように、三人で卓を囲んだ。しばらくして、相手は、本性をむき出しにしてきた。そして、金になることならどんな汚い手を使ってでも稼げ、という親父の教えさえ口にした。ルールも勝手に変えてきた。・・・
相手がおとなしいと見ると、ケツの穴の毛まで抜きにかかる正社員がトヨタにもいるということ。
自動車会社は、ニッサンを皮切りにいすゞ、スズキ、トヨタと渡り歩いている。いずれの職場も「やり過ぎる」と、声がかかってくる点で共通している。が、それぞれの職場で、その意味が異なる。いすゞの場合は、仕事を「やり過ぎ」てとがめられた。今は知らないが、当時は銀行の管理下にあったにもかかわらず、である。月々の生産量は決まっているわけだから、ひとりがハッスルしたところで、交代制のため、次にくる労働者を楽にさせるだけのことだ。他には、彼は目立っていいけれど、自分の立場がなくなる恐れが出てくる。確かに、これらの主張の延長線上に、人員整理の問題が控えているから、ホドホドがいいということになる。
昨年は、三菱自で欠陥車隠しが問題になった。この会社の場合、日々のカイゼンを怠った結果、死亡事故を引き起こすまでになったと推測している。カイゼンは結果的に自らの首をしめる。つまり、カイゼンを「やり過ぎ」と見る空気が職場にあつたということだ。
トヨタの場合は、カイゼンは熱心であった。私は頭が悪いからそんなものはひとつも思い浮かびませんという顔でやり過ごしていると、ひとつぐらいあるだろうと催促してくる位である。で、仕方がないから、カンバンを入れるあの箱が小さくて入れにくいから、大きいのに変えて欲しい、位のことは言う。
仕事もそうだが、「やり過ぎ」は不安全行為を指していた。
(続く)
虐待女親の心理テストについて(05年1月30日)
例えば、次のような三角形を模した心理グラフがある(名称は、失念)と仮定する。
神・
/ \
/ ・ \
男・−−−−・女
上の図では、きれいな線が描けなかったが、正三角形と思われたい。三つの頂点は、それぞれの信頼感の満点を意味する。中点はそれぞれの信頼感の零度を意味する点である。中点から頂点に向かって目盛りの付いた線が引かれているものとする。
質問の内容は、「貴方は神の存在を信じますか」「愛している男性を信じていますか」といった簡単な質問をそれぞれ10問ずつの30問が用意されるものとする。このテストを成熟した女性と心の未熟な女性とを対象にして行うと、心理グラフの上で顕著な違いが出ることが予想できる。
このテストの結果をデーターベースにして虐待女親の心について語ることができればいいが、無理な話である。
結論だけ述べると、虐待を行う母親の場合、中点に限りなく近いテスト結果が得られるのではないか。その意味は、神や父性や母性のいずれにも心の拠り所を見出せずにいる、孤立した母親の姿である。あるいは、一例を挙げれば、根強い「男性不信」を心に持ちながら、「だけどアタシは違う。アタシの広い愛で男を育ててみせる」といったように心の中を武装している母親の姿である。
殺していたずらしたい 女児誘拐殺人容疑者が供述(05年1月29日)
奈良市の小学1年の女児(7つ)が連れ去られ、殺害された事件で、殺人と死体遺棄容疑で再逮捕された元新聞販売店員の小林薫容疑者(36)=わいせつ目的誘拐罪で起訴=が奈良西署捜査本部の調べに「女児を殺して遺体にいたずらするつもりだった」などと殺害の動機を供述していることが27日、分かった。
小林容疑者は「生きて帰せば逮捕されると思った。遺体はすぐ見つかってもいいから早く捨てたかった」と話しているという。
調べによると、小林容疑者は昨年11月17日午後、奈良市内の路上で女児を連れ去り、奈良県三郷町勢野東の自宅マンション浴室で、女児を水死させた上、同10時ごろ、遺体を奈良県平群町の農道脇に遺棄した疑い。
警察の捜査が自分に及ぶ可能性については「絶対ばれないと思った」と話しているという。
小林容疑者の犯行動機を宮崎勤の例から探るならば、妹との象徴的な関係修復を真っ先に挙げたい。これは、小林には実の妹がいるとの前提に立ちはしているが、いなかったからといって、ここで述べた説は空説となるかというと、それは当たらない。
妹とは、偏在するものだ。「妹」とは、昔は「恋人」を意味していた。それ以上の意味としては「処女崇拝」という宗教的な意味も考えられるし、心理的背景として成人女性への嫌悪感が隠顕していて当然である。
(「家族の風景」という無意識的な世界を想定しているが、説明は省く)妹との象徴的な関係が阻害された状況の中で、近親相姦的な願望が異様に膨れ上がったときの異常行為が少女誘拐として現われたことになる。
他に、二人に共通するキーワードとして「新聞社」が挙げられるが、現時点では読みきれずにいる。
逸脱理論からは、次のような行動モデルが用意できる。
C
A・−−・−−・B
直訳すれば、小林には人は殺すことができないが、「誘拐」なる方法に頼れば、奴も人を殺すことができる、となり、これでは、論理に無理が生じてくるから、次のような行動モデルに修正する必要がある。
C D
A・−−・−−・ーー・B
見られるように、Dを仮定する必要があるということ。
もしDが女性憎悪だとすると、モデルは次のように改めなければならない。
C E D
A・−−・−−・−−・ーー・B
直訳するならば、人を殺せないはずの小林が猥褻目的で少女を誘拐する。ところが少女の抵抗にあって、女性嫌悪の仮面に隠れていた、本性の「女性憎悪」が小林自らを乗っ取り、少女を殺害したと説明していることになる。
宮崎の行動の特徴は、行き当たりばったりだ。この意味は、誘拐の際には、細心の注意は払うけれど、誘拐した後はどうするかということまでは、読んでいないということだ。小林もこの点では同類であろう。そして、殺害した後、同じように誇示している。
母親に3年6月求刑/昭和の四歳児虐待死公判「少年の暴行容認」(05年1月28日
名古屋市昭和区で2003年十月、保育園児森島勇樹ちゃん=当時(四つ)=母親の交際相手の少年に虐待されて死亡した事件で、傷害致死ほう助の罪に問われた母親の森島彩被告(29)の論告求刑公判が十七日、名古屋地裁であった。検察側は「少年の暴行に目をつぶって容認した。(勇樹ちゃんの)生命身体の安全より、少年との交際を優先させた」などとして懲役三年六月を求刑した。森島被告は「少年の暴行の止めに入った」と無罪を主張しているが、検察側は論告で「『やめてよ』」と言いながら少年の肘をつかんだことはあったが、以後は傍観しており、その結果、少年の暴行が容易になった」と指摘した。また、事件の背景として森島被告が周囲の忠告を聞き入れず、自己の欲求のまま少年との交際を続けた点を強調し「自己中心的な性格により、(森島被告自身が)少年を巻き込んで事件を発生させたと言える」と非難。「母親としての自覚の欠如が著しく(勇樹ちゃんの)肉体、精神的苦痛は甚大だった」と述べた。
公判は弁護側が次回(一月二十四日)に最終弁論を行い、結審の予定。
弁護側は、暴行時に少年を二度制止している▽勇樹ちゃんの死亡は起訴事実となっている午後三時過ぎの暴行でなく、当日朝の暴行がきっかけとなったと考えられ、その際制止して暴行を止めているーなどと主張する。05/1/17(中日夕・全文)
この判決の問題点は、この一点に絞られる。
「母親は、暴行を傍観」というあの日の予断を、そのまま判決に採用した点である。
この件に関しては、後手に回ってしまったが、新情報を入手次第、発信を行う。
子ども虐待死事件(05年1月26日)
第五章 ザ・ネグレクトーー大阪・岸和田中三虐待事件
1 逸脱理論からの援用
私たちはこれまで「人はなぜ人を殺すのか」という問題を考える上で、間違った前提に立って、考証を進めていたと思う。その前提とは、「人は生まれつき人殺しの能力を持っており、それがある日突然に目覚め、殺人へと駆り立てる」等々の説である。この系統に立つものとして、フロイトの無意識の「破壊衝動」や「狩猟民族」説を代表させることができる。一方で、人殺しの衝動に駆られない人間も中にはいるはずで、そういう人を指して「無意識」的に宿るとするのは、牽強付会もいいとこである。
こういう反省に立って、次のような相反する二つの命題を立てることにした。
T 人は人を殺すことができない(第一命題)。
U 人は人を殺すことができる(第二命題)。
上にあるような二つの命題は、これまでの論理学的な立場にたってみると、たとえどちらも「真理」だとしても相反するために、共立できないとされてきた。が、この問題は、中間命題を仮定することで簡単にクリアできる。
たとえば、三つの命題を次のような点と線の関係に置き換えてみる。
C
A・−−・−−・B
上に使用した記号は、点は「逸脱」を意味し、線は「回復」を意味する。ここでは、線は「線的論理」の意味として使っている。
TとUの命題の関係は、ねじれているがゆえに、線的論理でもって結ぶことができない。しかし、中間的な命題を仮設すれば、両者はそれを介して線的論理でもって結び付けることができる。
では、中間的な命題とはなにか、という点については、理論のレベルでは答えが見出せないでいる。しかし、個々の具体的なケースに即して考えると、すぐにも答えが出てくる。
たとえば、岸和田の中三虐待事件のケースでは、中間項として「ネグレクト」を仮定すると、相反するTとUの命題が難なく共立する。直訳するならば、人は人を殺することができないが、「ネグレクト」なる方法に頼ると人は人を殺すことができる、となり、論理的に無理のない話として成立する。
※当サイトの所有する文書の全文をはじめ一部についても、著書や商用目的での無断の引用・転載は、お断りいたします。