ドストエフスキー
罪と罰
新潮文庫
読みはじめる。
ちかごろは
古い小説ばかり読むが
古い小説が面白いのは
起源をたどれるところだ。
こんな時代に
すでにこういうことが描かれていたのだな
ということを確認する。
だから
文体を味わうことはないし
作者の思想を分析して
自分のものにしようとか参考にしようとか
そういうことはない。
つまり
かなり侮りながら読むことになる。
手ばなしで
面白がることはない
と。
しかし
罪と罰

桁外れの文学であり
いつのまにか
手ばなしで
からめとられてしまう。
「ぼくはラスコーリニコフだ」
といいたくなる。
村上春樹は
ドストエフスキーを目指しているらしいが
たしかに
村上の小説は
ドストエフスキーを
チャンドラーあるいはヘミングウェイの文体で
書き直しているのではないか。
まだ
200ページほどしか読んでいない。
まとめてどっぷり読みたいが
いかんせん
通勤電車の中で読む。
会社を二三日休んで
読んでしまおうか。


日も暮れて
夕闇の薄暗いなか
家路を急ぐぼくに向かって
見知らぬおばちゃんが
「気をつけて帰ってね」
と声をかけた。
彼女は
ボーリングのピンのような
スタイルで
米俵のようなワンピースを着ている。
それでも
なんとなくさっぱりしているのは
風呂上り
なのではないか。
ぼくは
挨拶もできず
「はい」
と小さな声で答えた。
というのも
彼女が
(なぜだかはしらないが)
痛切に
ぼくが無事に家まで帰ってくれることを
祈っているように
感じられたからだ。


ドストエフスキー
罪と罰
新潮文庫の上
まで読んで
下を手にして気づいたことは
上と下の訳者が違うことだった。
上は米川正夫
下は工藤精一郎。
古本屋で買ったのだ。
値段は安かった。
いずれも100円。
表紙のデザインが
まったく同じであるのだ。
ドストエフスキーの
肖像である。
ちょっとショックをうけたが
こういう本の読み方もありだろうと
わざわざ米川訳の下を
買おうとはしないことにする。
工藤訳は
版がまったく新しくなって
字が大きくて読みやすい。
言葉の使い方も
とくに違和感はない。
同じ本を二度読んでいるような感じで
もうかった
と解釈できなくない。


今日は
いちにちじゅう
コルトレーンの
「My Favorite Things」
が頭の中で鳴っている。
ぼくは音痴だから
繰り返し演奏されるうちに
別の曲になってしまう。
何の曲か
わからなくなってしまう。
帰って
聞きなおさなくてはならない。


(高田) 馬場の
C&C
という
カレー屋で
カレーを食べた。
野菜不足を補うつもりで
らっきょう
を山盛りにした。
本を読みながら
食べていたので
気づくのが遅れたか
店員の男は
肌の色が
こげ茶色だ。
「あ
インド人だ」
名札をみると
「ラッセル」
とある。
インド風ではないような。
ジョン・ウー
とか
ミッシェル・ヨー
みたいなものか。
関西から
東京に来て
驚いたことのひとつは
飲食店の店員に
異邦人が多いことだ。
飲食店といっても
チェーン店ばかりだが。
ぼくは
行かないのでしらないけど
マクドナルドの店員は
外国人がいるのだろうか。
日本は
留学生でも
バイトができる
というので
留学生に
喜ばれている。
彼らは
それなりに一生懸命
働いている。
「イラッシュシュセー」
威勢のいいかけ声が
耳に届く。
日本語の発音も
たいしたものだ。
タイミングも
隙がない。
また別の客が来店。
「イラッシュシュシュセー」
お客たちは
店員が誰であろうと
意に関しない。
どちらが客が
判別できないくらい
お客たちは
おとなしく収まっている。
たしかに
留学生たちは
日本のお客に違いない。
ラッセルが身につけている
赤・黄・緑
という原色のポロシャツは
彼によく似合っている。
店員はもう一人いて
その女性店員も
名札をみれば
中国人のようだ。
「アリトヤッシター
タオシクサイセー」
彼のお陰で
カレーは
とてもおいしく感じられた
ということでいいのではないか。


ゴーゴリ
新潮文庫
「外套・鼻」
読む。
ドストエフスキーをして
「われわれはみな
ゴーゴリの『外套』の中から生まれたのだ」
と云わしめた。
ゴーゴリは
ひょっとして
役人
という新しい階級を
作りだしたのではないか。


ドストエフスキー
罪と罰
読んだ。
エピローグは
ニーチェの
「ツァラトストゥラ」 の模倣をしているのではないか。
ラスコーリニコフは
ニーチェのいう
超人
になろうとした。
ドストエフスキーは
超人
に疑いをもち
超人の彼岸
をみいだそうとした。
これを称して
土壌主義
という。
ぼくの知るかぎり
ロシアは
広く
寒い。
寒いところに住もうと思えば
文明がいる。
しかし
あまりに広すぎる。
そういうところに分布している
大衆
というものは
どういうものであろうか。
その大衆に向けて
この小説は書かれており
胸のすくような
エンターテイメントになっている。
直木賞くらい
簡単にとれる。
ハッピーエンドなのである。
(未完)

スウィフト
「ガリヴァー」
読んで
面白いのは知っていたが
その確認ができた。
手塚治虫

イギリス文学を好まなかった。
彼は
フランスやロシアの文学を好んだ。
ぼくは
フランスやロシアの文学を
もちろん好んでいる。
そういえば
イギリスの文学を
あまり読んでこなかった。
手塚のいうことに
従ったわけではない。
たまたまである。
図書館の文庫本の棚は
英語のものの訳本が大勢を占め
それ以外の言語はかなり少ない。
これは
日本が
英語を使う民族に
戦争で負けたことが
影響しているのか
どうか知らない。
たくさんある本の中から 一冊選ぶのは
たいへんである。
たいへんな思いをして
「ガリヴァー」
を手にとった。
もし仮に
本を
読むべきものと
読む必要のないものに
区別したら
この本は読むべき本に入る。
「吾輩は猫である」 のころの夏目漱石
そして
(女に対する偏見の執拗さにおいて)
筒井康隆
(ぼくはあまり文学史を知らない)
などの風刺の原型は
ガリヴァーにあるような―――
(ぼくはあまり文学史を知らない)
しかし
ガリヴァーの前には
ドンキホーテがいるわけで。
そういう歴史的な評価を抜きにすれば
「ヤフー」
に対する嫌悪
つまり
人類に対する憎悪
の徹底が
印象に残るくらいで
目新しさはない。

ついでに
イギリス文学を続けてみようと
ディケンズ
「オリヴァー・トゥイスト」
これを続けて読むと
イギリス文学はこういうものだ
あるいは
イギリス人はひねくれている
と誤解してしまいそうなくらい
である。
「オリヴァー・トゥイスト」

「ガリヴァー・スウィフト」
ではないだろうな。
「オリヴァー・トゥイスト」
は日本に最初紹介されたとき
社会主義者によって
だったという。
たしかに
オリヴァー
はとんでもなく悲惨な境遇に育つ。
しかし
これに
リアリティがあるだろうか?
この疑問は
たぶん正統な疑問で
目新しい疑問ではないだろう。
サイクス
という悪党の最期の場面の
鮮やかさ
を見ても
なんとなく
ディズニーの世界観
を想起する。


カルヴィーノ
「冬の夜ひとりの旅人が」
読む。
カルヴィーノ
の名前は
高橋源一郎によって
知らされていた。
なるほど
高橋源一郎がちやほやするのは
わかる。
カルヴィーノは
高橋源一郎のように
途中で投げ出してしまわず
きちんと最後まで書きとおしている
また
筒井康隆よりも
常識がある
(読者にわからせようとしている)
(上品である?)
のではないか。


トルストイ
「イワンのばか」
岩波文庫
読む。
トルストイは
まだほとんど読んでいないが
この先
いつくらいに読むことになるだろうか。
いつくらいに読むことになるだろうか
などということを
書くのは
勝手にしろ
である。
表題作の
「イワンのばかとそのふたりの兄弟」

ばかを鮮烈に描いているところが
愉快であった。
ぼくにとっては
けっこう新鮮なばかどもであった。
そのほかは
説教くさいところが
眼を点にする。


ドストエフスキー
「永遠の夫」
新潮文庫
読む。
シナリオは
なかなかいい

翻訳に問題がある
のではないかと
いいたくなるほど
文章が読みにくい。
主人公の伊達男が
永遠の夫の妻と浮気し
その浮気が
夫にばれているのか
いないのか
サスペンス風に
ストーリーが進む。
永遠の夫は
夫にでもなっているしかないような
どうしようもない男として
描かれている
らしいが(訳者の解説による)
普通の情緒不安定な男にしか
みえない。
永遠の夫は
主人公の男に
運命的に脅かされつづける。
夫なんかしているから
怯える羽目になる
という解釈らしい。
しかし
主人公は一人称で
苦悩してみたり
妙に近代的自我をそなえている。
ド氏の傑作ではない部類だろう。


モーム
「月と六ペンス」
中野好夫訳
読む。
モームの短編集を
筒井康隆の岩波新書で
紹介されていたのを
読んだことがある。
読みやすく
あまり
引っかかるものがない印象であった。
筒井の紹介には
たしか
この作家は長編の作家だ
と書いてあったような記憶がある
ようなないような。
イギリス文学を
ちかごろ傾斜的に読んでいることもあり
「月と六ペンス」
を読んだ。
ぼくは
文庫本の最後についている解説を
はじめに読む。
ゴーギャン
を主人公に描いてあるという。
主人公のビジネスマンが
ある日突然
画家になってしまうくだりは
息をのむが
主人公がゴーギャンであることを
もし知らずに読んでいれば
また印象は変わったかもしれない。
しかし
あまりじっくり読む時間もないので
内容をある程度予習しておかなければ
ならないのである。
またしかし
じっくり読むか
読まないかは
時間の問題ではなく
本それぞれの問題かもしれず
この本は
通勤電車の苛立ちのなか
没頭して読んでしまった。
キャラクターの一貫性を犠牲にして
ストーリーに読者を引き込む。
語り口の親近感もさておき
ぼくにとって
テーマが痛切であった。
訳者の解説にもあったが
タイトルの
月は
彼岸を象徴し
六ペンスは
此岸を象徴する。
主人公は
此岸からみれば
ひどい死に方をする。
作者は
此岸にいるものを
さりげなく皮肉に描く。


知り合いに
東証で株を店頭公開している会社を
一代で築きあげた社長
の息子がいる。
その息子は
親の会社を継ぐべく
取引先の商社で
見習い修行をしている。
その息子に
その親父が言うには
「経営者というのは
人の弱みを握るのが
仕事なのだ」
ということらしい。


舌の
付け根に
口内炎。


ドストエフスキー
「死の家の記録」
新潮文庫。
退屈さを感じざるをえないが
黒澤明の映画を
面白くない
というときの
退屈さとほぼ同質である
かもしれない。
すなわち
世に流通している
あまたの登場人物像の原型を
そこに見出すからだ。
ぼくは
黒澤の映画を
退屈だとは思わない。
ようするに
小説より
映画のほうが面白い
かなと思う。


サマセットモーム
「人間の絆」
中野好夫訳。
はじめのうちは
かなり
退屈である。
ミルドレッドが登場してから
俄然
面白くなってくる。
ぼくは
ミルドレッドが
嫌いである。
ミルドレッドについて
書いてある部分は
読んでいて不快である。
しかし
彼女が
物語を
電光石火に
彩るのである。
こういう登場人物は
以前
どこかで見たことがある。
そうだ
あれは
「ろくでなし ブルース」

中田小平次
だ。
ただし
「ろくでなし ブルース」
については
小平次抜きの物語のほうが
ぼくは好きだった。
小平次の
人間としての卑小さ
が我慢ならなかった。
それは
10年ほど昔の読書である。
今は
物語中の人物に対して
我慢ならぬ
思いを抱くことはない。
ぼくが
老成したということだろう
か。
それとも
小説
という形式の退屈さを
補うためには
「小平次」的キャラクタ
が必要なのでは
ないか。
一方
あいかわらず
登場人物のキャラクターが
いまいち
一貫していない。
重要な人物が
いつの間にか
登場している。
フランス文学などの美学
最高に美しい人と恋愛したり
金持ちであるとか
貧乏であっても低空飛行の貧乏
あるいは貧困に陥って悲劇で終わるなど
を否定し
アンチテーゼとしての生活を描いた。
それによって美学を浮き彫りにする。
さっさと別れろ
とか
リアルに破産してしばらく立ち直りきれないでいる
とか。
珠玉はやはり
ミルドレッドという
客観的評価としては
なるべく敬遠したいような女から
どうしても離れられない
という主人公の心理である。
物語
というものは
論理のつみかさねであるから
矛盾があると
それはおかしい
といわれてしまう
(この小説でいえば
ミルドレッドを
いい女に形容してみたり
ろくでもない女として描いたり
という矛盾)
のだが
現実の人間は
頭の中は不連続で
言行不一致など
朝飯前である。
人間は矛盾の塊である。
それがグロテスクに表現されている。
しかし
小説の結末としては
妙にこじんまりと
収斂していく。
この微笑ましさも含めて
グロテスクである。


夏目漱石 「二百十日/野分」
新潮文庫。
二百十日は
落語である。
野分は
のちの漱石の作品の土台のようなもの
だろうか。
いずれも
青年よ
立派になれ
という
イライラした感情が
伝わってくる。
いずれも表現に古い部分があり
(こういうのを
漢文の素養というのだろうか)
すらすら読めない
のじゃないかという
おそれがあったが
読みはじめると
自分が書いているかのような
一体感を懐いた。
自分の読書力が発展しているのでは
と一瞬
そこはかとなく
喜悦したが
集中力が切れると
読むスピードは落ちた。
漱石のテーマは
島田雅彦(?)がいっていたように
曲がった人間を作ってはならない
という
とてもまじめなものである。
しかし
文体が
イギリス文学の影響か
落語好きの漱石の嗜好もあるだろうが
とてもシニカルである。
ほんとうに
まじめなのか
と疑われる。
道也先生の演説でも
観客は
ラジカルすぎる内容に対して
ときに野次を飛ばすが
ときにどういう反応をしていいのか
笑っていいのか
怒っていいのか
わからなくなる。
作家としての漱石は
読者のそういう反応を
もちろん知っている。
消費者=読者としてのぼくは
高柳周作の惨めさに
痛々しさを感じる。
もうすこし
救いを与えてやっていいのではないか。
結末は
綺麗にオチている。
ただし
これは誰に救いを与える
というものではない。


二葉亭四迷
「平凡」
作者と
主人公との
距離感は
太宰治のそれと
似ているのではないか。
ワタクシ小説は
主人公と作者自身を
一致させ
あるいは
自分の都合のよい部分だけ
キャラクターに投影させ
読者の同情をひいて
報われる
という
効能をもつ。
この「平凡」の主人公は
むしろ
馬鹿にする対象である。
文学なぞを 志す馬鹿な内面を抱えた
人間をこき下ろすための
登場人物である。
それは
主人公が上京してからである。
それ以前は
なんだかわからない。
この少年が成長して
こういう大人になる
という必然はない。
こういう主人公を設定すると
作者自身のモチーフが
揺るがされ
途中で構成が
放棄されてしまう。
どことなく
モームの
「人間の絆」
と似ている。
あるいは
ほとんどの小説の構成は
この程度のものだろうか。
雪江にふられたあとは
いわゆる
文壇小説
筒井康隆の
「大いなる助走」
のようなものとして
楽しい。
二葉亭四迷は
帰国の船上で死んだ。
最近
高橋源一郎や
関川夏央原作の漫画で
二葉亭に同情的な
論説を読んだ。
二葉亭は
どういう人なのだろうか。
二葉亭の名は
小学校のころ知った。
社会科の授業で
明治の文明開化を習っていたとき
毎回レジュメを作る宿題が出された。
ぼくはそれに
二葉亭四迷という小説家がいて
そのペンネームの由来が
「くたばってしまえ」
であることを
レジュメに書いた。
二葉亭の小説を読むのは
それから十数年後である。


スピルバーグ
「catch me if you can」
スピルバーグの映画のテーマは
ぼくの思いつく限り
絶対的なものばかりだ。
ユダヤ人にとっての
第三帝国の絶対悪。
海の中のサメの
絶対的恐怖(強者)。
一般市民にとっての
戦争。
(では「ET」の絶対的なテーマはなんだ?
ぼくは「ET」をみたことがない)
そういったテーマを
選んでいるかぎり
スピルバーグは成功する。
近作では
成功していないが
そこに大きな原因が
あるのかもしれない。
「マイノリティレポート」
は管理社会の閉塞
をテーマにしたみたいだが
管理社会は
相対的なものである。
多かれ少なかれ
みな
それから逃れることができない。
みな
妥協している。
「キャッチミー…」
も絶対的な敵が存在しない。
結局
アウトローは
寂しい
という現実主義的結論になる。
デカプリオ演ずる主人公は
ハッピーエンドだが
これはピカレスクではない。
悪漢には
幸福はもたらされてはならない。
幸福を手に入れるには
原因が必要である。
デカプリオの幸福の原因は
育った環境の悪さに毒されないだけの
資質の純真さ

恵まれた才能である。
主人公の天才性は
ほとんど絶対的である。
この映画の面白さは
この絶対性によっているかもしれない。
とにかく
現在と過去を行き来する
構成は退屈させないし
トム・ハンクス演ずるFBIの
ユーモアは
荒んだデカプリオに感情移入した観客の心情を
いやす。


「マトリックス・リローデッド」
スターウォーズ
みたいに
三部作のうちの
二作目で
一作目を引きずり
しかも
完結する三作目に
つなげなくてはならない
中途半端な立場で
ストーリーは綻んでいる。
脚本の練りが足らなかったのか
ストーリーの
論理の必然性が薄い。
一作目は
たしかに見所はアクションしかなかったが
(もちろん
二作目もアクションのみである)
アクションを活かすための
選択されたストーリーを
配置していた。
CGの技術がまた発展しているが
テレビゲームのようになってしまって
映画のカタルシスがない。
一作目は
よかった。
人間の動きそのものは
CGを使っていなかった。
二作目は
グラサンをかけた人形が
ストリートファイトをしている。
カーチェイスをやっているが
エヴァンゲリオン
のシーンを思い出す。
CGが
とんでもなく
進化したらいいいいな
と思っている。


勝新太郎
「座頭市と用心棒」
黒澤明の
「用心棒」
のパロディである。
三船敏郎自身が
用心棒役で出演している。
黒澤の「用心棒」のような
シナリオの深みはなく
村が悪者2グループに分断され
そこへ部外者が現れて
悪者を根絶やしにして
去っていく
という表面的なストーリーを
拝借している。
これは
映画をつまらなくさせていない。
最大の見せ場
座頭市と用心棒のチャンバラシーンへ
向けて
やさしいサスペンスの物語展開
勝新太郎の息をのむコメディリリーフ
三船敏郎の顔
(現代の日本では
絶滅したといわれている)
(渡辺謙が近頃では
キャラ萌え顔代表格)
(しかしながら
こういう顔の持ち主は
演技がハリウッド化してしまう。
三船がまさにそれで苦しんだ)
などの要素を交えながら
わかりやすく
(なにしろ
メイクを見るだけで
誰が悪者か
判断できてしまうのだ)
(しかも
悪者がそれほど
有能ではなく
安心して鑑賞できる)
進んでいく。
娯楽映画を
堪能できる。


ラ・ロシュフコー
「箴言集」
岩波文庫
会社の先輩に紹介され
読む。
「自己愛」
というキーワードが頻出する。
この本は
17世紀
革命前のフランスで
書かれた。
自己愛とは
もう少し後で詳しく哲学される
近代と自我
の前段階のようなものか。
近代的な自我は
近代以前にもあった。
ただ
それが一般に認識されうる
言語が整備されていなかった
とか
一般化に耐えるほど
大衆向けではなかった
ので
近代に
自我がデビューしたようにみえた。
箴言としては
誤解を恐れない言い切りや
無駄な形容の削除など
箴言の見本となっている。


ロマン・ポランスキー
「戦場のピアニスト」
この邦題はまずい。
この邦題にだまされて
ぼくはこの映画を見ずにいた。
原題の「The Pianist」も
いいとは思わんが。
この映画はスピルバーグの
「シンドラーのリスト」
を意識して作っている。
アンチテーゼのつもり
もあるかもしれない。
スピルバーグは
ドイツ第三帝国を
悪魔として絶対視したが
ポランスキーは
ドイツ人だって人間だし
ユダヤ人だって人間だ
ということを描いている。
人間はみな
美しくも
醜くもある。
主人公ははじめ
芸術家として
芸術のためなら
ドイツ人に泥を食わされるくらいなら
死んだほうがまし
という態度であったが
やがて
生きてなんぼ
という人間になる。
それはあるときまで
すなわち
家族を見殺しに
自分だけ助かって
号泣するまで

それから急に
泥臭い人間になる。
クライマックスの
ドイツ将校に
ピアノを演奏して聞かせる
場面では
缶詰
(何が入っているのだろう?)
を手ばなそうとしない。
喜劇的である。
あまりにも
悲惨な場面が続くから
あえてコミカルにしているのか
人間は自然に喜劇的なのか。
ただ
ドイツ将校から
暖かいコートを受け取るシークエンスは
見えすいている。
ゲットーのユダヤ人が
反乱を起こす場面でも
英雄的に描こうと思えばできただろうが
あくまで客観的である。
主人公が窓から覗いているだけなのである。
これは
この映画のテーマ
人間は人間である
ということをあらわすのかもしれない。
だから
ドイツ将校が
主人公を殺さなかったのは
主人公を人類の財産として
殺すことを恐れ多くて
ためらった
と解釈するより
単純に
もっとピアノが聞きたかっただけ
なのかもしれない。
あとで
ピアニストを殺さなかったことを訴えて
命乞いするのも
単純に
生き残れるかもしれない
いい理由を思いついただけ
なのかもしれない。


中島敦
角川文庫
いわゆる
漢文調の文体。
司馬遷が登場する話では
鬼気迫るものあり。
司馬遼太郎は
この小説をみて
自分の進路を
定めたのではないか。
「月と六ペンス」
など
天才性と
芸術の問題がテーマの小説を
ぼくは近頃よくよむ。
非常に身近なテーマでもある。
中島敦の
キャリアは短い。
デビューしてすぐ死んだ。
すでに
小説は完成しているように見える。
それはひょっとして
古典の焼き直しだからか。
自説・思い入れを述べるところでは
若々しさがあり
熱情が伝わる。
漢学者の家庭に
生まれ育ち
すでに老成しているような
イメージがあるが
司馬遷をみても感じるように
相当気概のあった小説家では
ないか。
中島には
もっと長生きしてもらい
小説を書いてもらいたかった
と思うか
これ以上
読まなくてはならない小説を
増やされなくてよかった
と思うか。
中島敦のおかげで
中国文化の
日本に与えた影響を
はるかに望むことができた。


スティーブン・ソダーバーグ
「ソラリス」
タルコフスキーのソラリスは
わかりにくく
未来の映画なのに
高度成長期の日本の風景が
使われていたり
そういうことしか覚えていないが
ソダーバーグのソラリスは
わかりやすすぎるほど
よくわかる。
ソダーバーグは
観客に
疑問の余地を
与えない。
無駄なカットがない。
無駄なカットを削って
削って
削っていくと
ついには
必要な部分まで
削っていくことになる。
大友克洋の「童夢」みたいに。

削っていくと
何も残らなくなってしまう。
それはまずいので
削った部分に
必要のないものを
入れることになる。
これが
物語の進化
というものではないか。


ジェーン・オースティン
「高慢と偏見」
いうまでもないが
作者は女の人である。
21歳のとき
この作品を書いた。
この小説は
まさに出会い系小説
すなわち社交小説である。
推理小説なみの構成
と謳ってあったので
どんなもんかいな
と思って読んでいたが
たしかに
他人に対する誤解が解けていく過程は
推理小説である。
しかしながら
「座頭市」さながらに
だれが悪役かは
透けて見える。
透けて見えてしまうのは
なぜかというと
ぼくがいままで味わってきた
いろいろな物語が
「高慢と偏見」を参考にして
作られてきたからである。
誰が誰に対して
どういう誤解をし
どういうふうに誤解が解ければ
カタルシスがあるか。
この小説はその見本である。
よくある話のように
身分を超えた恋
についての小説であるが
人間の階級を全面否定する
左翼小説ではない。
階級は
誤解を生む原因
としてしか描かれていない。
恋愛小説は
誤解小説であるが
登場人物が誤解するために
階級を持ち込んでいるだけである。
それは
階級がなくなったとされる現在においても
同様である。
ストーリーは
予定調和に過ぎるか
という気味はある。
借金まみれのばくち打ちが
身内に入ってしまっているので
こいつが懲りずに
問題を起こし続けるのではないか
とか
怒り狂うダーシーのオバさんを
退治しなければならない
とか
続編が期待される。
しかし
そのためには
悪者をもっと悪く描く必要がある。
21歳の (綿矢りさちゃんじゃないけど)
(当時の21歳は
28歳くらいか?)
女の人には
悪を掘り下げることは無理か?
ところで
ぼくは
エリザベスの父に
他人とは思えない同情を懐き
心胆寒からしめられ
また一方
だらしないやつだと憎しみを覚えた。




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