家路を急ぐぼくの足もとにボールがひとつ
ころころと。
幼い子供がボールを拾いに
道へ飛び出すのでは
と警戒したが
ボールを追いかけてきたのは
黒い大きな犬だった。
犬はボール以外眼中になく
ぼくを無視して飼い主のもとへ駆け去った。
飼い主のおっさんは
ボールをくわえて戻ってきた犬に
褒美を与えている。
何を食べさせているのだろう
とよくみると
ワサビだった。
緑色のチューブから絞り出された
緑色のペーストは
ワサビだった。
犬は練りワサビをべろべろなめている。
感覚の敏感な犬族が
ワサビを好むなどという話は
聞いたことがない。
犬がむしゃぶりついているのは
ワサビによく似た
宇宙食の類だろうか。
しかし
その犬は
黒くて
がっしりした顎で
人間をも噛み殺しそうな風貌なので
ワサビくらい
平気そうだ。
この話の意外性を高めるためにも
この犬のキャラクターを
たとえば
いま流行りの『痴話ワ』などに設定しておけば
よかったのだろうが
事実は
黒くて
そそり立つような尻尾をもった
獰猛な犬だったのだ。


7月16日
ある新聞社のサイトを昼飯食いながら眺めていると
ティーカップ・プードル
なるものを見る。
ティーカップの縁から
犬が顔をのぞかせている。
犬は眼も開かない赤子だ。
成人しても
1.5kgほどにしかならないらしい。
交配しても
出産まで至るパターンは少なく
希少価値があるようで
ペットショップでの値段は高い。
ちかごろ
ペットブームのようで
なぜいま
なのか
考えても
ソニーの「愛慕」
が思い浮かぶくらい。
ペットのためのサーヴィス産業もなかなか盛況らしく
美容医療健康ランド
そのうち去勢するのがかわいそうだからと
ペット向け風俗
が登場してもおかしくない。


めったにない出来事が
同じ日に続けて起こることがある。
それらの出来事を
関連づけて考えてしまうのは
分裂症的傾向である。
すべての出来事は
独立しているのだ。
今日はゴミ出しの日だった。
ゴミ置き場の前に原付をとめて
ゴミの山の上にかぶせられている

というかネット
の下へゴミを滑り込ませようと
したそのとき
ゴミ出しのおばあさんが
「そこにおいときなよ
あたしがやるから」。
ぼくは言葉に甘えて
走り去った。
いきなり時間は流れて――
帰宅途中
夕食を買いに寄った
スーパー
というかコープ
での駐輪場で
おじいさんが
「加古川市」
と書いてあるぼくの原付のナンバープレートを見て
「加古川市ってどこ」。
それからしばらく会話。
ぼくが遠くからやってきたことから話が続いて
飛行機の話になり
「あなたは飛行機乗ったことはあるか?」
ぼくは乗ったことがある。
「わしは飛行機が嫌いでね。
乗りたくないよ。
落ちるかもしんないし。
落ちたら死んじゃうでしょ。
わしはまだ死にたくないもん」。
彼は
腰が曲がりきって
ぼくの腰くらいしか
身長がない。
よぼよぼで杖をついている。
いつ死んでもおかしくなさそうだ。
彼は
「元気でね」
といった。
ぼくは
「長生きしてください」
と言えなかった。


埼玉県狭山市にひっこしてきて
3ヶ月になるが
まず
狭山市長が死に
ついで
県知事が恥をさらした挙句
辞職した。
土屋知事騒動の余波で
埼玉県政の悪いうわさが
ぼろぼろでてきたが
埼玉は公共事業費が大きいらしい。
ぼくは原付バイクライダーだが
埼玉の道を
走りやすい道だと思ったことはない。
これがようするに
効率の悪い公共事業
ということだろう。
まあ
カブで遠くまで走れるわけではなく
たまたま家の周辺だけ
差別的に道が悪いのかもしれない。
――――しかし
あの土屋知事の娘
桃子はともかく
次女
これも政治家らしいが
お姉さまの若いころの髪形を真似したりして
コンプレックスをもっている。
政治家にむいているのか。


三島由紀夫
新潮文庫
真夏の死(短編集)
読了。
自筆の解説がつき
自分の作品を客観的にみる
姿勢がただしい。
ほとんどすべての作品
娯楽として読める。
うますぎて
鼻白むほど。
昔の西洋文学の
翻訳を読んでいるよう。
いちばんおもしろいのは
やはり
解説。
それから
貴顕
もよかった。


チェホフ
岩波文庫
かもめ
読む。
ワーニャおじさん
よりわかりにくい。
田舎の地主の娘
ニーナだったかしら
が田舎で芝居に目覚め
都会(モスクワ?)
へ出るが
うちのめされて
幻滅する。
(それで田舎に帰ってきたのだったかしら?)。
訳者のあとがきによれば
よく読めば絶望ではなく
未来の希望が描かれている
らしい。
訳者は女のかたであるが
田舎出身ではないのだろう。
田舎から都会に出るのが
どれほどたいへんか。


7月23日
昼休み
日本武道館まで行く。
少年剣士が
全国各地から集まっている。
武道館のまわりでは
わずかな空き地を見つけて
剣士たちがウォーミングアップをしている。
靴を履いて打ちこみをするのだ。
試合を前に糞がきどもは興奮し
子憎たらしい。
少女たちはかわいらしい。
剣道みたいなむさくるしいことを
続けているような女の子は
おしとやかなのだ。
ぼくは武道館のなかへ入る。
武道館に入るのは初めて。
ぼくは小学生のころ
剣道をしていた。
中学生でやめた。
少年剣士たちの試合が
眼下に繰り広げられている。
思ったよりへたくそだ。
ぼくのレベルが中学生で止まって
そのままあまり落ちていないのかもしれない。
試合場は16ほどあり
観客席からぼくが見つめている試合で
ようやく一本入った。
思わず涙が出そうになった。


チェーホフ
「犬を連れた奥さん」
岩波文庫を読む。
書き出し
『海岸通沿いの街に新しい顔が加わったという噂だった―――犬を連れた奥さんだ』。
がすごい。
訳者のうまさもある。
ストーリーは
現代からみればありふれている。
男のような年増の石女と若くして結婚してしまった男と
面白みのない従僕のような旦那をもつ女の
不倫話である。
スタンダールか
モーパッサンか
しらないが
フランス文学が構築した物語を
ロシア風にリメイクしている。
フランスだったら
結末は片方が死んだり
恋に醒めたり
破局を迎えるのだが
この作品では
ふたりは幸福をかみ締めながら
物語の舞台から去る。
主人公の男は
生まれつき女を引き寄せる才能をもっているらしい。
それはようするに
不細工な女と別れられない絶望が
ほかの女の不幸と
引力をもっているのだ。


モーパッサン
で思い出したが
この三月
欧州を旅行したとき
パリにいた。
そのとき
たまたまモーパッサンの
女の一生
を読んでいて
機内で読み終えた。
荷物の軽量化は大事なので
読み終えた本など
持ち運びたくない。
捨てるのは忍びない。
そこで
モーパッサンの墓に
お供えすることにした。
モンパルナス
モンマルトルだったかしら
の墓地を訪れた。
墓地は広い。
案内板に
このあたりにギ・ド・モーパッサンの墓がある
と示されているのだが
いくら探しても見つからない。
小一時間も探した。
白人の女が
ぼくに話しかけた。
もちろん
日本語ではない。
しかも
英語ですらないようだ。
ぼくにはほとんど何も通じない。
どうやらフランス語らしいが
音韻がちがう。
田舎の訛ったフランス語だろうか。
田舎のフランス人が
パリに旅行にきているのだろうか。
彼女はとにかく
困っているようだ。
彼女の言葉のなかから
「モパッスン」
という単語を聞きとった
ような気がした。
どうやら彼女も
モーパッサンの墓を見いだしあぐねているようだ。
ぼくは英語で
見つけることができないのです
と答えた。

けっきょく
「女の一生」は日本まで持ち帰り
本棚におさまっている。


ビデオを返しに行った帰り
カブで疾駆するぼくを
犬が
吠えながら
追いかけてきた。
『とまれ』のラインで
追いつかれた。
ぼくの毛ずねは
咬まれるのか
と恐慌するが
犬は
ぼくの足もとで吠えたてるだけで
一定の距離をおいている。
ところで
犬は
小型のコリー犬で
上品なものだから
下品に咬んだりしないだろう
という目論見が
じつはあった。
ぼくは
街頭でインタヴューされたときのような
いたたまれない気分で
苦笑い。
やがて
「こらっ」
と叫ぶ
飼い主登場。
犬の首根っこを押さえこみ
せっかん。
ぼくは謝られたらどうしよう
と考えていたが
飼い主は
ぼくに謝らない。


矢作俊彦
「リンゴォ・キッドの休日」
読む。
この作家の小説は
難解な文章であるが
面白い。
レイモンド・チャンドラー
のストレートな影響下にいる。
それは村上晴樹と同じであり
村上と矢作を同列に論じた
文学者はまだいないのか。
村上は
フィッツジェラルドの影響を
自らも公言してはばからないが
村上は
じつはヘミングウェイの影響を(文体においてとくに)
受けているはずだ。
チャンドラーもヘミングウェイだ。
村上は
ハートフィールドという架空の小説家を
あたかも実在するかのように
扱ったように
自己演出を自意識過剰なまでに
する小説家である。
小説家などというものは
みな自意識過剰であるが
なかでも村上はすさまじい。
ぼくは矢作俊彦に恐懼する。
矢作は
いままだ生きている小説家のなかで
五本の指に入る。
ほかの四本は
筒井康隆
島田雅彦
高橋源一郎
……
あともうひとりは誰だったかしら。


自衛隊を海外へ出す法律が通った。
自衛隊を
出す出さない
という議論はもう過去のものらしい。
いまは
どうせ出すなら
ちゃんと出そう
という実務レベルの話である。
以前は
自衛隊
性善説
性悪説
に分かれていた。
自衛隊は暴力集団だから
縄をといたら
何をするかわからない。
この点で対立したら
議論の余地はない。
非戦闘地域はどこなんだ
誰も知らない。
自衛隊の自己責任で
自衛隊に調べさせたらよい。
もし
痛い目に遭っても
自分自身の調査不足。
これは性善説である。
善が悪に転向するのは
紙一重である。
シビリアンコントロールである。
ホンダのシビックは
シビリアンコントロールの略語である。
自衛隊
つかわないのは
もったいない。
自衛隊の減価償却。


太宰治
『正義と微笑』
『パンドラの匣』
新潮文庫で読む。
終戦を挟んでそれぞれ書かれた。
とても明るい小説である。
読みやすい。
通勤の電車の中でも
気が散ることがない。
もともとぼくは
思春期の少年の一人称の小説が
嫌いではない。
宮部みゆきのそれですら―――
ちょっと嫌いだったかしら。
宮部みゆきなどだいぶ前に読んだきり。
『正義と微笑』は
日記
『パンドラの匣』は
手紙
という形式をとっている。
こういうメタ形式の小説は
嫌いではない。
島田雅彦の
「ぼくが壊れるまえに」
はぼくのはじめての島田の小説だったが
爆笑だった。
いまどき
日記や手紙や新聞記事などの形式を使っても
ありふれている。
いまの時代なら
ネットの掲示板や
イーメールの形式がある。
ぼくの知るかぎりでは
高橋源一郎が
小説のなかに
ネットの掲示板を掲示していた。
成功していたかどうかは
あやしい。
ネットで使われている日本語は
これまでの日本文学に使われてきた日本語とは
だいぶちがう。
しかしいうまでもなく
ネット中の日本語も
日本文学から派生しているものである。
これを
これからの日本文学は
どのようにフィードバックしていくのか。
従来の小説家がネット語を駆使しうるのか
ネット語の使い手が文壇に招かれるのか。


モーパッサン
『脂肪の塊』
新潮文庫
読む。
モーパッサンは
自然主義とか
写実主義とか
のグループだと聞きかじった覚えがある。
いまのぼくには
写実的な描写部分は
読み飛ばされる。
写実とか自然とかは
階級が
厳然として存在するところにしか
存在しない。
上の階級の人間にとって
下の階級の人間が
自然的であり
くわしく描写してみれば
とても珍しく
おもしろいものであった。
いまの世の中には階級がない。
そういう建前である。
だから
自然主義はぱっとしない。
新聞の社会面の記事に
自然主義の文体は利用されている。


夕食を買いに スーパーによくいく。
会社帰りになるので
惣菜には
50円引き
とか
半額
というシールが貼ってある。
ぼくはそれを買う。
―――小さな子供を連れた母親たちも
スーパーにたくさんいる。
腕白な子供たちもいる。
店の商品を手にとり
自分のものであると思い込んでいる。
母親は
「ないない」
などと諌め
子供の手から商品を棚に戻す。
子供は再び商品をとる。
――この子はひょっとして
馬鹿なのではないか。
親の様子
服装
髪型
体系

などからして
親も馬鹿そうである。
親の馬鹿が
子に遺伝したのか。
母親の交尾の相方
子供の父親も馬鹿ではないか。
馬鹿な女は
馬鹿な男と
ツガイになるだろう。
子供は馬鹿にならざるをえない。
ようするに
こういうのを
『親ばか』
というのだな。


ロバート・アルトマン
「ゴスフォード・パーク」
見る。
ストーリーが
なかなかはじまらない。
登場人物が
めっぽう多い。
字幕の人名文字と
俳優の顔が
一致しない。
人の名前が
せりふ上は
頻繁に登場するのだが
役者が出てこない。
これでは
小説か
戯曲を
読んでいるようなものだ。
つまり
すごい映画である。




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