大江健三郎
「日常生活の冒険」
大江健三郎は
よく
ニュースステーションに
出演する。
大江健三郎は大江健三郎なりに
自分が出るべき
テレビ番組を選別しているのだろう。
テレビは
変態が出演していると
とても面白い。
大江健三郎は
ニュースステーションの中で
渋谷の女子高生に
街頭インタビューを試みた。
大江健三郎は
一般人と
まともにコミュニケーションできる
人間ではない。
女子高生相手に
ちぐはぐだ。
しかし
やがて女子高生は
大江健三郎に対して
畏怖の念を抱きはじめたようで
恍惚としていた。
大江健三郎が
どう偉いのか理解はできないが
オーラに飲まれたようだ。
で
「日常生活の冒険」
であるが
これは私小説である。
大江健三郎なりの
私小説である。
大江自身に
「蒲団」のような
実生活はない。
大江健三郎のゆがんだ「私」
が犀吉への賛美となって
描かれる。
ひさしぶりに
物語が背面に送られてしまうような
文体重視の小説
(たとえば春樹村上)
を読んだ。
近頃は古典小説
テーマと出来事重視の小説ばかりだった。
私小説が物語軽視とはいわないが
この「日常生活の冒険」は
ストーリーが思い付き
(ただし
テーマを主張するにふさわしい出来事の羅列)
である。
現実の日常生活は
すべて思い付きである。
(犀吉と卑弥子の離婚)
だからリアリティがないわけではない。
小説を読ませるだけの文体はある。
ゲーテ
「若きウェルテルの悩み」
新潮文庫
これをポケットに入れて
新宿の
「ヴェルテル」
という喫茶店に入った。
ぼくはかなり疲れていた。
新宿は
歩くと疲れる。
しかも
すでに日は暮れていたが
目が覚めてから
まともなものを口にしていなかった。
食欲はなかった。
店員のお姉さんに
「レモネード」
を注文した。
メニューには
レモン (ジュースorエード)
と記述されていた。
お姉さんは
いぶかしげにメニューを凝視し
奥へ去った。
しばらくして
お姉さんは商品を
もってきた。
「レモン・エードです」
とテーブルに置いた。
レモンエードは
温かく
砂糖を入れて飲むものだった。
砂糖をたくさん入れて飲んだ。
喫茶「ヴェルテル」
は
喫茶&音楽
である。
ショパンのピアノソナタが
店内を漂っている。
ぼくは
「若きウェルテルの悩み」
を開いた。
照明が暗くて目が疲れる。
近くの席に座って
くだらない話に興じている男女が
耳障りである。
男は
ワセダがどうの
ケイオウがどうの
理系がどうの
就職がどうの
自慢げに話している。
女は
何が面白いのか知らないが
素直に相槌を打っている。
ぼくが読書を諦めたころ
男女は去っていった。
女は
なかなかがっしりした体格で
服のセンスがあまりよくなく
しかしながらお嬢さんであった。
きっと
いい物をたらふく食べて
育ったのであろう。
男は
レザーのブルゾンを
着ていた。
ふと気づいてみれば
店内から音楽が消えていた。
若きウェルテルは
人妻に恋をして
悩んだ挙句
自殺した。
ウェルテルは
こめかみを
銃で撃ちぬいたが
しばらく意識不明の重態で
生きていた。
やはり
ウェルテルを
近代人である
というのは
無理があるようだ。
しかし
ウェルテルから見た風景は
なかなか鮮やかである。
今でも読める表現である。
これは翻訳に苦労しているせいだろうか。
三島由紀夫
「近代能楽集」
新潮文庫。
近々(040408)
靖国神社に能を見にいくため
その予習として
読む。
能というのは
ギリシャ古典演劇にも
比肩されるような
普遍的テーマを持っているらしい。
ビデオで見た
「隅田川」
は攫われた自分の子供を
追い求めて
彷徨う狂女が主人公であった。
人間の感情を
社会とか
時代とかの制約から解き放って
抽象的なキャラクターとして
描いている。
リアリズム以降の
現実的な物語を
念頭においていない。
純粋なテーマを
ご都合主義的なまでに
物語る。
能は
あの舞台の上に
世界のすべてを現出させなければならない。
すると
時間とか
空間とかは
瞬時に飛躍される。
この飛躍の感覚は
SFに近い。
三島は
SFを描く手段として
能を用いたのではないか。
しかしながら
三島は能を使わなくても
SFを書いている。
「美しい星」。
これは三島の傑作である。
三島は
SF作家として
生きていればよかったのに。
白洲正子
「白洲正子自伝」
新潮文庫。
ひさしぶりにものすごい読書だった。
頭の中に
白洲正子が焼きついてしまったように
ふと思い浮かべてしまうのだ。
これは
ほとんど恋に近い。
この衝撃は
たとえが悪いが
ドストエフスキーの
罪と罰
を読んだとき以来のものだ。
現代の日本語で
これほど日本の正統な美しさが表現できるか
美術を語っている部分ではない。
白洲正子自身が
日本の美しさそのものなのである―――
これは少し褒め過ぎか。
別に褒めているわけではない。
白洲正子みたいな生き方が
ほかの誰にできるか
ということである。
白洲正子という名を
知ったのは
福田和也の文章の中である。
名前は聞いても
なんとなく
世の中の底辺に生きるぼくには
縁のない人だろうと
―――名前しか知らず
どういった人物なのか
まるで知らずにいたが
白洲・正子
という字面から遠い印象を受けていた。
このたび
靖国神社で能を見る機会があり
アンテナを張っていると
白洲正子が引っかかってきた。
白洲正子は能を実際に習っていた。
能を踊るのは
現代の若者がクラブで踊る感覚と
そう差異はない
という。
ぼくは踊ったりはしない
(ディスコも能も)
が
これらのことを
合わせ体験することで
縁のない世界だと思われていたものが
近しくなってくる。
こういうことを
感慨が深いというのである。
エミリ・ブロンデ
「嵐が丘」
岩波文庫。
二十歳前後の娘が書いた小説。
読み進んでも
なかなか面白くなってこない。
文章が極めて
拙いのである。
二十歳そこそこの女の子が書いたのだから
しかたない。
キャスリン(母)
が死ぬあたりから
面白くなってくる。
ヒースクリフの息子リントン
が登場する場面は珠玉といえる。
この話は
結局安らかな家庭が
不用意から
悪魔によって滅亡の危機に立たされる
というロマンチックな話である。
ロマンだけではなく
人間は育つ環境によって
スポイルされる
という
現代的なテーマも扱っている。
後半になってくると
ストーリーテリングの下手さは
むしろ
能のような
普遍性の輝きを
帯び始める。
時間の流れ方が
一定ではないのが
良い例である。
いつの間にか
子供が大人になっている。
時間の流れなど
物語を語る上で
それほど重要ではないのである。
また
嵐が丘
という場所の名前がタイトルにはなっているが
場所ですらも
重要ではない
といいたいかのようである。
ドストエフスキー
「白痴」
新潮文庫。
黒澤明が撮った
「白痴」のほうが
聖なる白痴(馬鹿)の純粋性が
強調されていてわかりやすかった。
原作の白痴は
ムイシュキン公爵が
果たして本当の馬鹿なのか
シークエンスから読み取ることが
難しいのではないかと
思う。
彼はみんなから
馬鹿と呼ばれ
しかも馬鹿治療のため
スイスで転地療養までしていた。
こういう情報からかろうじて
馬鹿なんだなと
思い描くことができる。
しかも
作者は
メタフィクション化するため
つまり
従来の物語の登場人物が
こうするに違いないという
約束事を破壊するため
という文学論的な試みを
ムイシュキン公爵を使って
表現していると思う。
それは
馬鹿の偉大さを
わかりにくくさせているところが
あるように思う。
この作品以降
想像するに
白痴を物語ったものは
無数に存在する。
日本の娯楽作品
漫画など
でも
馬鹿のくせして
女にやたら持てて
いい思いをする
というようなキャラクターが
すぐには思い出せないが
数え切れないほどいるだろう。
ドストエフスキーの
キャラクターメイカーとしての
凄さである。
公爵が
体験する
ドッペルゲンガーや
デジャヴには
異常な迫力があり
作者自身の
イカレた精神を
髣髴とさせる。
作者も
そういった体験を実際に
持っているに違いなく
そういった体験は
脳の機能の狂いが
生じさせているのである。
島田雅彦
「美しい魂」
恋愛小説であり
現在を舞台にしている。
恋愛を小説にするには
傷害が必要であり
人と人の間にある障害といえば
代表的なものは
身分・階級の違いである。
現在の日本にある
階級といえば
何があるのか。
政治家や
芸能人
(歌舞伎役者一族をみるまでもなく)
などの地位では
2世3世が幅を利かせている。
これは次に述べることの
論拠としては
ふさわしいとは思えないが
うわ言として
おいておくことにする。
日本では
たてまえ上
また
欧米社会と比較しても圧倒的に
身分差の小さい
平坦な社会である。
(上のうわ言は
比較的という前提を除けば
身分はどうしようもなく
存在するという意味だが)
だから
恋愛小説は
(あるいは恋愛も)
生まれにくい。
そういう環境のなか
日本の代表的な小説家として
(しかもサヨクの)
島田雅彦が
堂々と恋愛小説を書いた。
ディケンズ
「デイヴィッド・コパフィールド」
岩波文庫・石塚訳。
長い小説だった。
読んだ動機は
モームの「世界十大小説」に
この作品が取り上げられているからだ。
このモームの本を読むために
事前に学習しておいたほうがよいかと思った。
今はこのモームを読んでいる。
しかし
この十大小説すべてを読んではいない。
「戦争と平和」と「トム・ジョーンズ」
はまだ読んでいない。
「カラマーゾフ」は大学に入りたてのころ
ほとんど理解できずに
おっぽり出した切りだし
「白鯨」は小学生のころ読んだ切りだ。
「白鯨」はしかし
大友克洋のパロディや
魁!男塾での1話
(これは大友のねたのパクリであるが)
(さらに付け加えるなら
じゃリン子チエでもパロディされている)
を読んで大体どんな話か理解している。
さて
コパフィールドである。
最初のほうは
オリヴァー・トゥイストみたいであり
ずいぶん悲惨な話なのだが
主人公が学童期を過ぎると
悲惨な思い出はなかったことのように
退却させられる。
途中
思い出したように
主人公は自分のひどい過去で
トラウマ的に心をうずかせる。
しかし
まわりの誰も気にしていない。
この時代の小説は
その人物がどういう階級に属するのかを
しっかり把握して読まないといけない
(とぼくは思っていた)
が
主人公の階級がいまいちわからない。
ひどい学童期からして
かなり低階層なのかと思いきや
まわりからは
「坊ちゃん」
とちやほやされる。
これは
途中でキャラ設定が変更されたとしか
ぼくにはみえない。
これはしかし
もう少しまじめにとらえてみれば
これが書かれた時期のイギリスでは
ちょうど中産階級が発生しようとしていたとも
予想できる。
ただし
まだ姿は見せていない。
上と下の間はデジタル的で
それをアナログ化するために
苦労されている。
その影響が
下層階級としかみえないペゴティが
とてもまともな正しい人物として
描かれてしまっていることに
現れている。
これは読み方を間違えると
差別をなくそうキャンペーンみたいに
受け取られるかもしれないが
作者にそういう意図はないと思う。
ペゴティは
現代でいう
中の下
の階層であるべきなのに
いきなり
下
の階層に配属されているのである。
主人公はもちろん
中の上である。
このあたりは
読みにくいととるか
面白いととるか。
その他
アグネスとの恋愛
(ドーラの立場は
どうなるのか
といいたいところだが
アグネスと結ばれる場面の迫力は
すごすぎるというしかない)
当時の
オーストラリア
という存在の意味
(物語にとって
別れというのは
非常に重要なモチーフであるが
それをどのように描くか
この作品では
オーストラリアをたくみに
あるいは棚ボタ的に
配置している。
これは
死
とは違って
再会することができるのである)
といった
面白いポイントが
いくつもみつかる。
とはいえ
長さに伴う退屈さからは
いかようにも
免れえない。
モーム
「世界の十大小説」
岩波文庫
を読んでいるが
ディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」を読んで
上に述べたぼくの想像
――これが書かれた当初は
中産階級が存在しなかった――
はどうやら誤りであったようだ。
よくある小説のように
すぐれた資質の人物が属する階級は
上流である
というようにしたくても
ディケンズは上流階級の人間が
どういうものなのか
よくしらなかったらしい。
だから
いろいろな人物を描くにも
中流以下の人間を使うしかなかった。
ところで
モームがいうに
ミスター・ミコーバーは
物語史上最高峰のキャラクターらしいが
ぼくはそのような感想をもたなかった。
キャラクターの面白さは
劣化するのだ。
キャラクターは
物語同様
まねをされるものであるが
物語とは違い
古びてしまう。
現代では
ミコーバーレベルのキャラクターは
ゴマンといる。
キャラクターは
ありとあらゆるメディアで
出演を要請される。
ミコーバーのような
頭がいいのか悪いのか
何かをしゃべらせれば演説になり
しょっちゅう書いている手紙の文体は古風で
独特なセンスをもち
いろいろなことに手を出してみるが
どれも失敗し
いつも借金に押しつぶされており
けれども落ち込むのではなく
いつも明るく
しぶとく生きていて
奥さんからは信じてもらっている
憎めない男
というキャラクターは
――すぐには思い出せないが
「コパフィールド」以降
ありふれてしまっているだろう。
塩野七生
「ローマは一日にして成らず」
あまりフィクションばかり読んでいると
ノンフィクションもよんでみたくなり
しかし
歴史はほとんど純フィクションのようなものだが
娯楽として読むぶんには
やはりこれは事実なのだと
信じながら読むことになり
気が楽なのである。
筆者は
なかなかいいことをいう。
「信じることも大事だが
つねに疑いをもっていることを
やめたくはない」
とキリスト教史観の学者たちを皮肉る。
これは塩野氏オリジナルではないが
「貧しいことは恥ではないが
貧しさを克服しようとしないのは
恥じである」
ぼくはこれに補足して
「また
貧しさから脱け出そうと努力して
結局脱け出せないのも
恥じである」
といいたい。
こうゆう人間こそ
貧しいのである。
自分が貧しいことに
気づかないのが
いちばんいいな。
しかしこれでは
「つねに疑いをもっていること」
をやめてしまっている
あるいは
暗愚である。
大友克洋
「スチームボーイ」
大友さんのアニメでの演出は
きわめて常識の範囲内である。
この「演出」という用語は曖昧であるが
たとえば
大友さんのアニメに出てくるキャラクターは
観客が考えもつかないような行動を
とるようなことはない。
喜怒哀楽は
喜怒哀楽として演技される。
必要なことはセリフで喋られるし
画面の構図は説明的である。
教科書どおりの映画作り
(ぼくは教科書を読んだことはない)
といえると思う。
これは大友さんの映画を
侮っているのではない。
オーソドックスな手法で
どうして「AKIRA」のような
とんでもない世界を作ることができたのか。
――――――――
これは次の日の日記として挙げてもよかったが
大友克洋
「ブギウギワルツ(boogie-woogie waltz)」
「Good Weather」
を中野のまんだらけにて購入した。
前者2100円
後者3800円。
吝嗇者のぼくにとっては
思い切った買い物であった。
これらは短編集である。
どれも物語としては
十分に昇華していない
起承転結のバランスがよくない
作品ばかりである。
これは
大友さんに与えられたページ数が
少なかったから
というより
ひょっとして
大友さんは
漫画を描くのがめんどくさい
あるいは(これは解説にも述べられているが)
描かれたものが
自分のイメージにぜんぜん追いつかない
ので
途中で投げ出してしまっている
と考えたほうがよさそうだ。
漫画の「AKIRA」は
中途半端に投げ出し続けてきた漫画への
けじめとして
腰を落ち着けて(椅子に拘束して)
描かれたのではないか。
「AKIRA」は大友さん唯一の長編といえる。
「童夢」は構成からして
長い短編である。
ぼくがはじめて接した大友克洋は
「童夢」だった。
高校のときだった。
これは決して早い出会いではない。
田舎に住んでいたことが
出会いを遅らせた
とかそういうことは考えない。
「童夢」は衝撃的だった。
いまでもそのときの感覚を思い出せる。
作品中の超能力者たちが
宙に浮かんでいるのを見て
ぼくの腰も
椅子から浮かび上がるような感じがしたものだ。
で
映画の話であるが
短編集を読んでいると
同じ作者が「スチームボーイ」を作ったとは
にわかには信じられなくなってくる。
漫画の登場人物は
次のコマで何をしでかすか想像できないし
カットとカットの間に
必要と普通考えられるものが
省略されている。
一転
映画ではどうしてわかりやすさに重点をおいた
演出をするのか。
映画は漫画と違い
多人数で作るものだから
他者へ説明可能でなければならない
とかゆうことも考えられる。
それとも大友さんは
(上述のように
大友さんは
漫画への個人的な「恨み」みたいなものを
もっていると仮定してだが)
(つまり
映画こそ
作家としての力を傾注すべきものだ
と大友さんが考えているとして)
(傍証として
「気分はもう戦争」
の原作者・矢作俊彦氏が
「ららら科學の子」で三島由紀夫賞をもらって
インタビューで語っていたことによると
「ららら科學の子」のアイデアを
漫画にしようと大友さんにもちかけたが
大友さんは
漫画は金にならないから
やらない
といって断ったという)
ジャンルは問わず
物語はわかりやすいもののほうが
のぞましい
と考えているのかもしれない。
ところで
宮崎さんも
今年アニメを公開するが
大友さんと同じように
「城が動く」
ということをモチーフにしている。
どちらかがアイデアを盗用したというのではなく
客観的にみれば偶然なのだが
二人の天才が同じ年に同じようなアイデアを
披露するというのも
すごいことである。
しかしながら
大友さんの「スチームボーイ」における
動く城
は
宮崎さんの「ラピュタ」
が基礎にあるようだ。
もちろん
今年の宮崎さんの
動く城
も
「ラピュタ」
応用編である。
モーム
「かみそりの刃」
読みはじめる。
冒頭1−1節はいいのだが
それからしばらく退屈が続き
心配になるが
主人公ラリーが
戦争中命を救われた話を
もらしてから俄然
面白くなってくる。
まったく
モームという作家は
どうしてこうも
ぼくに近しいテーマを選ぶのだろうか。
構成は
あいかわらず
ぎこちない
(上述のラリーの告白の場面も
ページ数が足りずに
スパッと終わってしまった感じだ。
これは雑誌連載などではないようで
意図的にそういう場面構成をしているのだろう)
が
この拙さがまた
真に迫ってくるのである。
今朝は
世界恐慌が起こり
社交に熱中していた連中が
ばたばたと倒れていくところまで読んだ。
この後
ラリーがどうなっていくのか
まったく楽しみである。
上記モームの「かみそりの刃」
をさらに少し読んだが
世界恐慌に関して
ヴァチカンのローマ教会は
“ガラ”がやがて起こることを
ちゃんと知っていた
というくだりには息を飲んだ。
ローマ教会の子飼いの人間たちには
アメリカの株を手放すようにとの
アドヴァイスが伝わっていたのである。
これは小説だから
もちろんうそかもしれないが
ありえそうだと思えるこの感覚が
鮮烈である。
モームはすごい小説家だ。
訳者の中野好夫が書いているが
モームはホモだったという。
本のカバーの折り返しのところにある
モームの顔写真をみて
Queenのフレディ・マーキュリーに似ているな
と思っていた。
ぼくは
フレディは
世界最高のヴォーカリストだ
と
ちなみに考えているが。
フレディはけっこう早死にだが
モームは長生きした。
92歳まで生きたが
死ぬ数年前から
老醜をさらけ出していたという。
歌手みたいな体を使う芸術家は
早死にすることが
天才の必要条件だが
小説家の場合
長生きして
醜い姿をさらすほうが
かっこいいだろう。
モーム
「かみそりの刃」
読み終わる。
ラリーの将来については
(上記のように)
非常に期待していたのだが
いまいち物足りない結末だった。
訳者の中野好夫がいうように
ラリーというキャラクターは
未完成に終わったようだ。
未完成とはいえ
作者が最後に
誰しもハッピーエンドを望んでいるだろう
といやみったらしくいうように
結末を与えるとしたら
こうならざるを得ないかもしれない。
ラリーというキャラを
よりカリスマティックに描くなら
インドかどこかで
行方不明にしてしまうのがよい。
しかし
行方不明は物語として
自滅行為だ。
自滅の美しさしかえられない。
良識のあるモームは
それをしなかった。
全ての主要キャラに
それぞれ結末が与えられ
あたかもディケンズの
「デイヴィッド・コパフィールド」
を思わせる。
三島由紀夫
「春の雪」
新潮文庫
三島を読んで
またしても翻訳小説を
読んでいる気持がした。
しかも
間然としない
完璧・完全な長編恋愛小説である。
以前読んだ
島田雅彦の「美しい魂」は
かなりこの小説をテキストにしているようだ。
ただし
このテキストのほうが
より禁忌に触れ
より深刻である。
島田のほうは
これに比べると
現在の日本を舞台にし
現在の日本で出版されるという
事情はあるにしても
いわゆる
スキャンダラスに堕している。
「豊饒の海」
は三島の遺作で
テーマ・構成も壮大だとのことで
難解な部分もあるかと思いきや
読みやすい。
三島は多くの娯楽小説の傑作も残しているが
大衆向けの技量も
この遺作には遺憾なく発揮されている。
キャラクターは豊富であり
泣きも笑いもエロもある。
モーム
「要約すると―summing-up」
文学青年としてのぼくにとって
それほど面白い本ではなかった。
哲学的な内容に偏っている。
「世界十大小説」のほうがよい。
モームを研究するには
しかし
必読であろう。
モームの性癖・生立ちが
ところどころに
散見される。
モームはこの本を
かなり個人的な思い入れで
書いているようで
それは本の中でも
遠回りに言い訳がしてあるが
ほかの
読者を楽しませる目的を明確にもって
書かれたものにくらべ
読みづらいこと読みづらいこと。
しかしながら
小説家・芸術家になるとは
どういう状況なのかと
いうことを窺わせてくれる。
モームの時代と現代では
環境がぜんぜんちがうが
現代に置き換えて
小説家になるとは
について
酔ったような
鈍い感じの頭で
考えさせられる。
三島由紀夫
奔馬
読みはじめる。
ぐっすり眠ったあとの
寝起きの鈍い頭のような感じで
小説がはじまって
いっこうに面白くならないので
大丈夫かいなと心配するが
「神風連史話」
とそれに対する本多の手紙のあとから
大衆小説家としての三島の技量が
発揮されてくる。
こういう構成をとったのも
三島の意図だろう。
筆が迷って
ふらふらしたまま書き出して
そのまま残してしまったのでは
なかろう。
憂国の士を気取った勲少年が
この後
どうなっていくのか。
まったく楽しみである。
三島由紀夫
「奔馬」
「暁の寺」
暁の寺の第一部なんかでは
仏教用語の連発による
哲学的思索の連続で
読むのに苦労する。
しかし
奔馬の勲のクライマックス
(法廷シーンの
戯曲風のものなど
さまざまな文体を駆使し
三島の作家としての完成度を
これでもかと示してくれる。
ストーリー的にも
大ボスを見事に刺し殺し
見事な名文で終わるところ
(切腹した瞬間に
まぶたの裏に
赫奕たる太陽が
昇る
というあれだ)
など
誰が読んでも飽きないように
なっている。
暁の寺・第二部では
三島のエロ美学を堪能できる。
慶子という熟女が登場するなど
「レター教室」のアイデアが
ほとんどそのまま流用されている感じはあるし
ラストで
のぞき穴から
熟女とタイのお姫様の
レズシーンが見られる場面など
安直ではないかと
(エロ読者として
大好きだが)
も思える。
ところで
本多の若いころからの
主張的な文脈の中で出る
「歴史」という言葉の意味が
最初よくわからなかったが
暁の寺で本多が金を手に入れ
過去も未来もなくなったときに
ふとさびしげに口から漏れた
「歴史」によって
その意味が通じた気がした。
歴史(history)というのは
物語であり
物語の中でも
大多数の人間に
真実だと信じられている物語のことである。
優位な青年としての本多には
歴史がつきまとうのである。
つまり
大多数の人間に
正しいと信じられる人物にならなければならない
と若かりしころは思い込んでいたわけである。
それを
ここでは「歴史」という言葉で
見事にアナロジックに表現してしまった。
(というか
国語力の不足で
歴史という言葉には
もともとそういう意味も含まれているのか
どうかしらない)
ハイロウズ
「Do!! The★MUSTANG」
このなかに
「ズートロ」
という曲がある。
ズートロ
ズートロ
ズートロ
ズートロ
と繰り返すだけの歌詞である。
ぼくははじめ
なんのこっちゃ
と思っていたが
ある掲示板の書き込みで
ずーっと
ロック!!
とあったのを見て
豁然大悟である。
ここに至ってようやく
この曲が傑作であることがわかった。
こんな理解のしかたでは
音楽のよさなど
わかりはしない
のかもしれない。
しかし
とにかく
ずーっと
ロック
なのである。
この曲は音楽(ロック)史上に
ひそかに燦然と輝く名曲だと思う。
どうしてそう思うのか?
ハイロウズとブルーハーツについては
まだ何もいえないという状況なのである。
ぼくの了見が未熟なのである。
しかしそろそろ何かいわなければいかんかな
とも思っている。
ブルーハーツ/ハイロウズについていうことは
自分の精神・思想史に触れてしまうことになるのである。
でもまあ
ちょっとずつ
でもなあ。
バルザック
「谷間のゆり」
岩波文庫
なかなか見事な恋愛小説である。
しかし
三島の「春の雪」には
及ばないだろう。
主人公はモテモテなのだが
あまり羨ましくないのは
どういうわけだ。
二人の美女に惚れつ惚れられ
結局
最後に突然登場した小娘に
きっぱり振られる。
(突然登場
とはいえ
バルザックは「人間喜劇」のなかで
同じ人物を異なる小説の中で
複数回登場させているのだが)
二人の美女
とはいえ
いずれも人妻である。
この時代(1800年前半頃)
いわゆる恋愛をするのは
既婚者ばかりだったのか
と
フランスの小説を読む限り
そう思う。
独身の適齢期の男女は
恋愛する余裕もなく
親が決めた結婚を受け入れる。
結婚というのは
いうまでもなく
(とはいえ
現代ではいわざるを得ないのだろうが
一応)
恋愛とは別の問題である。
とはいえ
男と女の問題であるからには
恋愛問題と重なる部分はある。
裏返せば
性欲の部分ではないかと
思わんではないが
面倒なので略す。
主人公の男と伯爵夫人の恋愛は
精神的なもので
なんとも隔靴掻痒というか
まじめに同情的に読めば
なかなか美しい話なのである。
この時代の良識・常識は
こういう物語を求めていたのか
遅れているというか
大変な世の中であったのだなと
思わせられる。
が
最後の主人公への娘の手紙を読んで
これはそういうまじめな小説ではなかったのだな
と教えられた。
しかし
あのテンションで書き続けてきた物語を
最後の10ページほどでひっくり返すというのは
すごい。
最後の手紙は
当初から計画されていたものなのだろうか。
解説を読めば
バルザックはこの小説の出版を巡って
版元ともめていたようだから
悪意をこめてぶちこわしたのか。
それとも
最後の手紙も全然生真面目なものなのか。
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