旅行の準備においてまず悩んだことは、どの本を持っていくべきかについてだった。
 悩んだ結果、ニーチェにすることにした。 
 選んだ理由は、それが文庫本であること、いまだ読まずに部屋に積んであること、小説だとついつい拙速して読み終えてしまい読むものがなくなる恐れがあること、の三つだった。この三つの条件を満たすものがニーチェだった。そして何冊持っていくかについても吟味した挙げ句、「ツァラトゥストラはこう言った」(上・下)と「善悪の彼岸」で、いずれも岩波文庫を旅行鞄に詰め込んでいくことにした。
 ヴェトナムに旅行するのに、わざわざニーチェを持っていくとは、奇奇怪怪。ある人から見れば、「気取ってやがる」 というかもしれないし、ある人から見れば深い意味でもあるのかと詮索したくなるかもしれない。
 実際内心、奇を衒わないではなかった。「こんな奴、滅多におらんやろ。前代未聞やな」 とは思っていた。ちょっとしたジョークのつもりだった。ただし、誰も気づいてくれないかもしれないジョークだった。誰も気づかないのは、私の鞄の中を覗いたり、私が本を読んでいる横から何を読んでいるのか尋ねたりする人は、まあまずいないだろうと考えられるからだ――ほんとうにいないのか? 旅行前の準備の段階では、ヴェトナムに行けばヴェトナム人しかいなくて日本語の本に彼らは興味を抱かないだろうと考えていた。ヴェトナムの国で日本人、しかもその一部(自分ひとりだけだったりして)にしか通じないジョークを実施するこの気高さ。ほんとうのお洒落は服の裏地に気を遣う――自嘲も含めて、旅行鞄にニーチェをしのばせることは、このアフォリズムが的を射ているのだった。
 で、かの国で私は読書を嗜めたのか。ふたを開けてみれば、本を読む気になれず、ニーチェは鞄の底で角をすり減らしているばかりだった。いや、まったく読まなかったわけではない。旅行を通して、『ツァラトゥストラ』上巻を少し読んだ。山奥にこもっていたツァラトゥストラは、ある日山から降りてきて、下界の人びとに語り始める。誤解を招きそうなストーリーである。しかしもちろん、私の旅行とツァラトゥストラの下山とは、因果関係はない。
 これはあとでも書くかもしれず、また書き忘れていたともいえるが、翻訳書を持っていくことは、少し意図があった。どうせなら日本語から徹底して距離を置いてみようとしたのだ。それなら日本語に訳されていないものを読めばいいではないか。中途半端だ。そこは少し目をつぶって、要は気分の問題なのだから、――戦後民主主義と経済大国の恩恵に浸かって育った私は「印象」を大事にしてものを消費してしまうのである。だいたい語学力が足りない。辞書(英和辞典)を持っていかなくてはならない。わからない単語を想像で補いながら英語の本を読むのは想像するだけで苛々するのだった。

 さて、これは旅行で起こったことを叙述することが目的の文章であるのだが、とてつもなくくだらない個人的なことを並べ立てているなあ――「なあ」などといってメタ筆者が軽軽しく登場するのもよろしくない傾向だ。この文章を終わらせることができるのか、今からすでに心配である。私は正直な質だから、旅行記と銘打てば、嘘を書いてはいけないのではないかと緊張してしまう。といいながら、すでにいくつかの嘘をついてしまっているのだが――
 そもそも誰に向かって書いているのか、そこから議論したくなるような心境でありまして・・・いまは。
 人差し指を前に向かって突き出して、
「あなたのために書いている」
と私はいう。
 この表現も、私が頭に描くイメージは映像であって、画面からこちらに向かってしりあがり寿が描く美男子のようなオカマが、すごい勢いで宣言しているというものであり、文章に直せばこのような単純なものになり、読む人に依頼して、もう一度イメージに直してもらうことを前提にしている。
 そろそろ真面目にならなくてはいけないが、読む人というのはいわゆる『内包された読者』である。こういういいわけじみたことをつらつらと書かなくてはならないというのは、だいぶ神経が参っている証拠で――ここで強引に話が戻る――それはつまり、私はヴェトナムの旅行でずいぶんくたびれてしまったわけなのだ。
 実は話は底のほうで繋がっちゃってたりするのだけど、初めての海外旅行に何の本を持っていこうか真剣に悩んでいるということからして、ふざけていて、外国をなめていて、手痛いしっぺ返しを食らっても仕方がないようなものなのだ。私は唯物論者ではないからこういう表現を意識的に使うのだが、ありていにいえば私はヴェトナムでバチが当たったのだ。そして、私は以下の稿に、実際どのような目にあったのかを書けばいいわけだ。(なるほど)

 で、この文章の登場人物であるところの私は、さっさとヴェトナムに行ってしまえばいいのだが、今しばらく日本で準備を続けている。
 私はヴェトナム旅行に何を持っていったのか、逐一記すことは、面白いことだと思うし、私の内面を開陳するよりよほど有意義かもしれないのだが、如何せん、こっぱずかしいので二の足を踏まざるをえない。主婦は人に台所を見られるのを恥じるが、それと同じことだ。しかし、私は自分の下宿の台所を見られても冷蔵庫の中身を覗かれても、恥ずかしくない。その部分にはそれなりの美意識が表現されていると認定するからだ。自分の美意識が貫かれているものであれば、それを人が見て、笑おうが、怒ろうが、(迷惑はかけちゃいかんだろうが、)平気である。その点、私の旅行の携行品目には、まだ試行錯誤段階の、生硬なありさまが露呈していて、紹介するほどの自負は持てないのだ。
 といいつつ、一方では、たいしたことではあるまいと思うので書くが、まずは服である。二週間の旅程でもちろん洗濯を自分でするつもりで、Tシャツ3、長袖シャツ1、膝丈ズボン1、長ズボン1、靴下3、下着2、だった。パンツがたったの二枚・・・。確かに荷物はできるだけ少なくしようと標語立てていたにしても、少な過ぎは逆効果だ。いや、パンツ二枚というのは、失敗で、ほんとうは三枚入れたつもりだったのに、鞄を開けてみれば、いま穿いているのを別にして、一枚しかなかった。確認を疎かにしていたのである。幸運にも、服が足りずに困ることはなかった。現実には汚れはひどかったろうが、慣れてしまえば大丈夫。私は、眼も鼻も悪いのだ。
 他の荷物は、カメラ、蚊取り線香、正露丸、マキロン、洗濯バサミ、などだ。蚊取り線香はほとんど使わなかった。一度、ホテルの壁に穴があいているときだけ、火をつけたが、その他では窓を閉めて寝れたので蚊には悩まなかった。マラリアは、予防接種もしておこうかと迷ったほどだが、杞憂に終わった。
 杞憂か。いく度か、杞憂を経験したのだった。
 お金はトラベラーズチェックとドルで10万円分持っていった。カネは4万か5万、余った。
 それからパスポートも持っていった。パスポートは旅行の一ヶ月前に取った。パスポートは高価であった。しかしまあ、役所の手続きは思ったほど愚鈍ではなかったと感じる。ただ、顔写真のことで、私は、就職活動用に撮った、上半身だけだが背広を着て、髪の毛もくしけずった、男前の写真を用意していったのだが、サイズが合わないと拒絶され、旅券事務所の中にある写真屋で高価な写真を撮る羽目になり、しかも油断していたので、無精ひげで顔色の悪い東南アジアにいそうな顔になってパスポートに載ってしまった。
 あとは、非常食としてアーモンドチョコレートと剥き栗をひそかに鞄に含めておいた。
 それと1日使い捨てのコンタクトレンズ、このくらいですべての荷物であったはずだ。
 さて、準備で最も重要なのは、あるいは旅程についてだろう。荷物選びに加えて、計画作りにかけて、私ははなはだ稚拙であった。
 飛行機でホーチミンから入り、ホーチミンから出る。その間隔二週間、列車でハノイに行きながらまた下ってこようと、漠然と予定していた。途中で気が向けば、どの町に行こうといくつか抽出はしておいたが、ガイドブックを眺める私の姿勢は、通販のカタログに暇つぶしで目を通しているときのものと、ほぼ同じであった。海外にひとりで行くという現実を軽視していた。
 私が準備を怠るのは、二つのことに起因する。
 私は、かつて受験生であったが、それはすなわち、毎日毎日準備に明け暮れていたことを意味する。ずっと準備をしつづけていた。なぜ準備ばかりしていたのかというと、まともな答えとしては、テストがあったからだということになる。準備なしにテストを受ければ、よろしくない成績に甘んじてしまう。準備をしていれば、いちおうテストで報われるはずだった。しかしテストが終わればまた次の準備が始まるのだった。
 きりがない。いや、きりはあった。そしてそれから何年かたち、準備を怠るようになってしまったのは、その頃の準備強迫観念から開放された反動であろう。できる限り準備をしなくなってしまった。
 更にいうと、テストは問題を解くという目的のあるゲームだが、私の準備手法は、実際に問題を数多くこなしていくだけというものであり、教科書は読まず、教師の話もあまり聞かず、問題集(懐かしい響き・モンダイシュウ)を端から、答えを見ながら、経験していき、手を使って身体に覚えこませるというものだった。だから私の教科書は、使い方が丁寧だったとはいえ、傷みが少なかった。
 つまり、私は問題を目の前に置かないと、問題点が見つけられないのであった。すると、教科書を読んでもさっぱり理解できなかったということになる。私は素直で優しい少年だったから、ただ文字を並べているだけの教科書の文面を見ても、それをそのまま受けとるだけだった。構文の裏にある、いかにもここは問題になりまっせ、という作為を読み取るコツを体得できなかった――素直で優しいとは、翻訳すれば『あほ』ということになるかもしれないけど。
 と、このように、私の受験の思い出をアナロジーにして、ひとつ、準備能力の欠陥の原因を求めてみた。さてもうひとつ。
 それは、分裂症である。現代の文明社会の住人に蔓延する病弊である、分裂。科学技術と経済の発展により、情報の流通が容易になった。例えば、移動手段の向上、マスメディアの形成、サイバネティクスや構造主義ポスト構造主義によって骨抜きになってしまった物語。こういった現象が分裂病の症状だと思っています。
 電車や飛行機などというものは、動物の肉体の能力から想像できる範囲をはるかに超えていて、脳の中にある時計を狂わせる。自動車の運転をするようになると、行けるはずのなかったところへ自力で行けるようになり、万能感に捕らわれ、爽快な気分を味わう。やがて慣れるが、慣れるということは、脳の形が変わっていくことなのである。昔の距離感で街を計ることはできない。まあそれは一概に車の運転のせいではなかろうけど。
 車の運転は自分の行為であるが、電車などに乗っていれば、ただその場にいるだけのはずなのに、本を読んでいるだけなのに、はるか見果てぬ地へ移動してしまう。脳はもっぱら自分の筋肉の働きをアナロジーにしてものごとを想像するから、電車で運搬されるという現実に戸惑う。電車に乗る前の自分と、電車から降りたあとの自分の、統一が保てない。分裂するのである。電車に慣れるには、それこそ毎日電車に乗って神経を麻痺させるか、電車の運転を体験するしかない。『電車でGO』というのがあったが、テレビゲームはおよそ分裂的行為である(ここまで広くいってしまうと妄言のようだな)。
 マスメディアは人が本来知るはずのない知識を取得させる。はるか見果てぬ地の出来事を、家に居ながらにして目撃してしまう。身体は家にあるのに、眼と耳はとんでいって、離れ離れで分裂する。
 やがて、眼と耳が異常発達、あるいはフル稼働する中で、見なくていいものまで見るようになってしまった。つまり、言葉がただの記号に見えるようになってしまったのだ。例えば、飛行機に乗ってはるか見果てぬ地へ行くのは、そのままドラマチックであったのに、今では、それがただの手続きにしか見えない。攻略本を見ながらロールプレイングゲームをやるみたいに、いちいちの手続きによって、将来何が起こるのか百パーセント予測がついてしまっている。物語は、結末がどうなるのか、期待するからドラマなのである。物語についてはここであまり触れるべきではなかろうが、私の印象では、サブカルチャーの隆盛が分裂を加速させた、となる。それはともかく、「分裂しとるのは、君だけやないの?」という反問には、空港を見れば明らかで、飛行機を待っている人びとの顔は一様にすましていて、無感動である。婚姻届に判子を押すみたいに、ドラマが欠けている。
 このように、分裂している私にとって、ヴェトナムも東京も変わりなく、陸続きのようなものだ。だから危機感が持てない。危機感が持てないという点において、『問題を実際見ないと問題点がわからない』という前に述べた根拠と繋がっている。
 そして、実際ヴェトナムに降り立った私は、抜き打ちテストを課せられたわけだ。


旅人よ 計画どおりにいかないことが たくさんある
プルトニウムの風に吹かれていこう

              (甲本ヒロト 『旅人』)



 ヴェトナムの第一印象は、蒸し暑い曇った空だった。それは旅行が終わって一ヶ月以上経つ今でも、ヴェトナムに対する代表的なイメージとして残っている。そしてそのイメージから受ける感じは――これは後付けになるけれど、まさしく不快そのものである。ボーイングの快適なエアコン、少し寒いくらいの機内から外に放り出されたら、ふつう、げんなりするものである。それに、地面に立って、滑走路や空港の建物を眺め回してみると、手抜きというか、無頓着というか、外国からお客さんを迎え入れる場所にはふさわしくない雰囲気が見出された。飛行機から到着口までは変形バスに乗るわけだが、床は汚れ、吊り革は千切れてただの紐になっている。強めにエアコンされた建物内に入ると、照明が暗い。照明が暗いのは、旅行中、例外はなかった。天井を見上げれば、蛍光灯の台座は穿ってあるのに、抜け殻になっている。どうせ設備があるのなら、使えばいいのに。目に悪い。南国の日差しが窓から差し込むので照明は不要なのか。いや、ベトナムはむしろ、曇りがちな国である。電力の慢性的な不足か。その割りにエアコンはアンチ・ファジーで、贅沢である。これはエアコンの質が、冷蔵庫レベルで、よいものがまだ入ってきていないからであろうか。入国の審査は、かなりスムーズだった。軍服なのか、深緑の制服を着た小母さんが、私から書類を受け取り、あまり私の顔を見るでもなく、パソコンになにやら打ち込み、やおら書類をまた返してくれた。コミュニケーションはゼロだった。私は彼女の顔を見ながら、
――これがヴェトナム人の顔か。この女性はこの国ではエリートの部類なのだろうかしら。
と考えていた。

 だいぶ、ヴェトナムへの非難が勝っている文面である。私はこれから、悪口に近いことも書くかもしれない。醜いものは醜いと評価する。
 しかし、私はヴェトナム入国当初は、そういう自分のペースを失っていた。自分はよそ者であるし、むしろ入らせてもらっているのだから、と、へりくだった物腰ですべてに対処していた。多大な愛情を持って(かなり押し付けがましくはあった)、接していたわけだ。そういう心境が変転していく経緯は、後ほど詳述することになると思う。あまり時系列に沿った構成にはしたくないのだが、どういう順序で書き連ねるべきか、判断に迷いつつ、体力があり余っていた旅行初期の頃にもっぱら考えていたことから書いてみる。体力に余裕があるということは精神にもゆとりを与えるもので、ヴェトナムの社会の仕組みといった、硬派なことが思案できていた。



 ヴェトナムの街でいやでも目に入るのは、バイク交通の流れである。ノーヘル、ふたり乗りはあたりまえ。子供を乗せれば五人乗りくらいまでは目撃した。バイクといっても、90cc程度のホンダ・スーパーカブ改良版である。信号は、都市の大きな交差点には設置してあるが、厳密には守られない。右折のときなど、対向車が陸続と迫ってくる中へ、クラクションで牽制しつつ、隙間を探しながら突っ込んでいく。相手のほうも避けるので、すり抜けられなくはない。バイクの運転者は、老若男女を問わない。数多くの女性ライダーが、横幅の広いお尻をサドルに乗せて、姿勢正しく、疾走していく。彼女たちの多くは、マスクをしている。西部劇で見るような三角形の覆いである。マスクを装着するとき、その二つの端を後頭部で結ぶのではなく、マジックというのか、ひっつけたり剥がしたりが自由のあれで、着脱するのである。アイデア商品みたいな位置付けで、よく売れていそうだった。公害がひどいのである。マスクをしないと、埃が粘膜を傷めるのだが、それが苦痛なら、抜本的に対策を講じればいいのに、上塗りを重ねるところは、まあ日本も同じである(――渋滞するのがわかっていて、なぜ車に乗るのか)。ヴェトナムでは、車道を走るのはほとんどがバイクなので、渋滞はないといっていい。しかし、ラッシュ時に信号待ちするバイクの群れは壮観である。隙間なくバイクで道路を埋めている。日本人観光客の女の子はそれを評して、「きもちわるーい」といった。これだけ道路が過密であれば、交通事故も増えるだろう。私もバイクタクシーで移動中、心臓が寒くなる思いをいく度も経験した。私はバイクタクシーの運転手に尋ねた。
「交通事故は多いだろ?」
運ちゃんは澄ました素振りで、
「いいや、ないよ。ヴェトナムはバイクだからよ」
と強がってみせた。実際は、交通事故も急速に増えてきているらしい。運転も荒いし、あたりまえだ。良識派のヴェトナム人は、ヘルメットをかぶっている。彼らは少数派であり、顔だけ見れば、どことなく中国系の面影がある。
 バイクの群れを見ていて不思議に思うのは、どうしてそれが四輪車ではないのかということだった。それは、自動車は値段が高くて買えないからだろう。自動車をたまに見かけると、乗っているものは政府や軍の関係者か、運輸業者だけのようだった。
 しかし、日本の道路は、その高価な自動車が圧倒的である。歩行者は隅っこに押しやられ、二輪車は自動車のおこぼれを貰ってコソコソ走る。
 日本ではどうして自動車がかくも盛大に虚勢を張るかといえば、それは、自動車を買えるほど国民がカネを持っているからだろう。そして、それはその国の国力を測る指標のひとつにもなるのだろう。日本のほうが金持ちなのである。だが、私はそういう説明では納得できない(あたりまえか)、経済学を知らないものとして、素朴な疑問をもつ。確かにバイクよりクルマの方が値段は高いだろうが、程度の問題であり、どうしても車が欲しければ、しばらく消費を我慢して貯金してクルマを買えばいいのであり、貯蓄という観念をヴェトナム人が持ち合わせていないのではないかという疑問はとりあえず脇に置いておくとしても、「将来を考えろ」といって貯蓄するという知恵を授けることは可能であり、ということは、ヴェトナム人が雪崩のようにバイクの所有に走るのは、「バイクでもいいや」と彼らが結論するからではないか。もし、ヴェトナム国民が、もう少し――どの程度かはわからないけど、「クルマが欲しい」と思えば、その欲望をかなえることは、それほど難しいことではなく、ヴェトナム政府のさじ加減(大さじかもしれない)ひとつかふたつで、政策的に達成できるのではないか。
 ヴェトナムは、いうまでもなく、社会主義国家で、共産党一党独裁である。と、書きはじめたからといって、ヴェトナムの首相が誰かも知らないし(これは、誰がなっても同じだ、という表現ではない)、私は微に入り細に渡る話をしたいのではなく、あえて私の知的レベルを暴露するけど、私にとって社会主義国家とは、資本主義・自由主義国家よりも、ある程度、当局が国民の生活に口を挟んでくるというだけで、つまり、大きい政府とか小さい政府とかいうけど、比較的に過ぎず、また同一線上にあり、それらがまったく次元の違うものであるとは思わない。また、自由主義国家が、社民主義とかぬかしたり、社会主義国家が、ソ連のように崩壊したり、中国のように改革開放したり、ヴェトナムのようにドイモイしている、などということが話したいのでもない。さらに、社会主義で国を運営すれば独裁になりがちで、陰惨なことが起こりやすい、というのも知らない。ほんなら何がいいたいのか。
 それはたぶん――、これは私が旅行を終えてからの出来事だが、ヴェトナム政府のシュールな方針決定で、日本のかわいいメーカーがいくつか、ホンダとかヤマハとかが冷や水を浴びせられた。それらの企業はヴェトナムに工場を持っている。上に述べたような大量のヴェトナムバイクはほとんど日本製なのであるが、政府は輸入を認めず、国民にバイクを売りたければ、わが国内で作れ、というふうに決めている。その心は、ヴェトナム国民の雇用を創出するためであり、税金を取ったりして外貨が逃げていかないようにするためであろう。自由主義的に考えれば、企業は好きなところに工場を建てて好きなところへ製品を運んでいけばいいのだが、(社会主義)政府がわがままをいって、抑制をかけた。政府は国民のことを思いやっての行動であり、政府が企業に横槍を入れるということは製品の値段が上がると考えていいが、それでも将来的には国民生活を向上させることを計画しているのであり、また企業もお上に逆らうより、まっとうに商売したほうが安全だと判断して、頭を下げて腰を低くして微笑んでいるのである。そこではバランスを保持しなければならないのに、均衡を破るような、御無体なことを政府はしてしまった。ヴェトナムは製品の輸入は認めていないが、部品の輸入はしょうがないので、各企業ごとに枠組みを決めて認可しているのだが、それをこのたびの政府は突然、「部品の輸入はしばらく駄目」といって、工場の稼動を止めてしまった。理由を問えば、環境汚染や交通事故が甚だしいので、バイクの数を減らしたいから、であるらしい。それは政府の本音だろうけど、もし建前だったとしたら、企業からのディベートの値上げを企んでいるのでは、などと邪推もできるが、日本のメーカーさんたちは、日本の政治家に「泣きついて」いるようだから、邪推は当たらないだろう。(10月22日の新聞で、この問題に関して、進展が報じられていたが、それによると、ヴェトナム政府は完成品の輸入枠を来年から認める方針であり、ただし、工場を操業停止に追い込んでいる現在の部品枠の拡大については、現状維持するという。彼我の溝は埋まっていないようだ。)
 で、このように、国家というのは国民の箸の上げ下ろし方に、かなり容喙できるのである。なんやいいたかったのはそれだけか。すると、国民にクルマを所有させようと決心すれば、政策転換によって、かなりの程度実現できるはずだ。日本でも、何年か前から外車が増えたのは、政府が判子を何個か押したお陰である。だから、ヴェトナムにクルマが増えないのは、彼らが貧乏だからではなく、クルマを欲していないからだ、ということになる。それは誰の意志かというと、政府は国民の反映であるというレトリックを使おうがつかうまいが、政府は公害や、国民のルール無用の狼藉ぶりや、道路整備のめんどくささを考えれば、頭が痛いので、クルマはやめとこうと結論しているはずだ。
 という流れで考えると、クルマよりバイクを選択するのは、消極的に、バイクでも構わないと彼らは判断するためだろう。それだと、結局、カネ理論で推論したのと変わらない。私は、彼らがバイクでかっ飛ばしているのを見て、どうもカネ以外に、彼らの精神の奥底に、バイク的なものを希求する核があるのではないかと思えるのだ。それはヴェトナム人の性質をかなり具体的に実証的に分析することに繋がるが、私はいまのところうまく説明できない。すぱっと解剖するのは無理だから、多面的に観察するしかなく、しかし、多面的に見れるほど私は彼らに精通していないのだが、ひとつ例を挙げるなら――
 旅行の中盤、私はラオカイという中国国境の町にいた。そこは目的地ではなく、さらに山奥のバックハーというところにいきたくて、手段に迷っていると、案の定バイクタクシーどもが近寄ってくる。そいつらの中でも、いちばん気のやさしそうな兄ちゃんを雇うことにした。その兄ちゃんはヘルメットをかぶっていた。彼とは「うどん」を食いながら値段の交渉をしたのだが、バスで2ドルのところを、バイクで3ドルで手を打たせた。これはうまく値切れた例である。しかし、険しい道のりの途中、それはほんとうにいつ崖が崩れて奈落のそこへ落ちてもおかしくないという道であったが、土砂崩れでバイクを止めたとき、兄ちゃんは、
「道ががたがたなんや」
「大変なんや」
といいながら、値上げを吹っかけてきた。それはいかにも、
「ここで置いていかれたら、お前も困るやろ」
というニュアンスを言外に含めていた――いやこれは私の恐怖心から来る思い込みかもしれない。冷静になればわかることだが、兄ちゃんはカネが欲しいのであり、私を道端に放置すればそれが手に入らないから、そういう短絡的なことはしないはずである。また、凶悪犯罪をしそうにはないタイプであるのは、すでに見極めがついている。だから、兄ちゃんはただ単にもう少しカネが欲しくなっただけだろう。
 その道中に見られる風景は、実はほんとうにすばらしく、水墨画に見られる中国の渓谷のミニチュアもあれば、『もののけ姫』でアシタカがヤックルに乗って駆け降りてきそうな斜面もあり、私は、これが見れたなら、もう少し金を払ってもいいかなという気持ちになっていた。
 そして、私は夜行列車明けで、いささか疲れていた。
 で、50円ほどの値上げに応じた。兄ちゃんは、それまでの疲れた素振りが嘘であるかのように、急激に元気になり、土砂崩れの復旧工事をしている土方たちに、
「おーい、もうええやろ、通るでー」
と大声をかけた。
 やがて目的地に着き、兄ちゃんはホテルの前まで運んでくれた。そのホテルに決定したわけではなく、他にも回ってもらうかもしれなかったので、部屋を見ているあいだ、彼をホテルの前で待たせた。これがまずかった。私がいないあいだに、また別のバイクタクシーが、白人のカップルを乗せてこの街までたどり着いていたのだ。私は兄ちゃんにカネを払おうとしたが、明らかに先ほどより不機嫌である。彼から受け取ったお釣りを見れば、少し足りない。「おい、少ないやんけ」といっても、
「細かいカネがないんだ、それでいいだろ」
と妙にシリアスな雰囲気である。どうやら、白人を乗せてきた同業者から、彼らの値段を聞き込み、私よりもいい値段だったらしい。それで、兄ちゃんは、私に騙された、と早合点してしまった。白人たちは、目的を達するためには、多少の金を惜しまない。まったく、情報というのは恐ろしい。私が、「しゃあないなあ」、と釣りを受け取ると、兄ちゃんは、こいつの顔はもう見たくない、とばかりにさっさと立ち去っていった。
 しかし、私の言い分として、白人たちは、身体がでっかくて、また荷物も多く、積載量が大きいのであるから、値段が高いのもあたりまえであるといいたい。しかし、ヴェトナムの兄ちゃんにとっては、問題は重さではなく、数なのである。燃費などは考えない。兄ちゃんの念頭にあるのは、何人を乗せて、何回往復したか、しかない。これはその単純な思考を馬鹿にしているのではなく、過程を省いて、結果よければ、大満足という、合理的(?)な突進型の性質を暗示するのではないか、と考えたい。
 長いエピソードの末、『彼らは目的のためには、手段にこだわらない』、だから、移動ができるならば、クルマでなくてもバイクでもよい、と判断するのだという分析に至る。なんという大雑把な論考であろうか。まあ、クルマとバイクのメリット・デメリットについて細かく枚挙してもつまらないだろう。
 というふうに、バイクを消極的に選択する理由について考えてみた。



 さて、しつこいけれど、また別の角度から、バイクとクルマ、について考えてみたい。もう一度、カネの論理を使いたいのである。上に少し書きかけたが、ヴェトナム人にとって「貯蓄」とはどうなっているのか。
 普通、将来のことを想定するから、人間は貯蓄をする。将来のため――日々の稼ぎで一朝一夕には買えない高額な商品を買うため、とか、老後のためとか、結婚のために貯蓄をする。銀行に預けて利子が得られたとしても、それは二次的なもので、たまたま貯蓄する人口が増えて、まとまったカネをどうにか利用しようと思いついた人が、カネを貸す、すなわち時間を貸してくれた人に対して、ささやかなお礼の気持ちを表したものである。個人でカネを貯めるのは時間がかかるが、横軸方向へつまり人数を増やして積分すれば、短い時間で済む。それはまっとうなこととされ、宵越しの銭はもたねえ、などといってみても、いまどき誰も誉めてくれない。ロックスターも若い頃から貯金をする時代である。夜な夜なそろばん弾いて将来設計をするミュージシャンのどこがかっこいいのかわからない、と思う人たち――まあ、彼らも、眠れない夜具の中、あした、狂人に刺されて死んだらどうしよう、と不安になったとき、ふとそういうことを思うだけである――は、やくざ映画を見るか、伝説の早死にアーティストの思い出をたどる。しかし、健康ブームで身持ちの硬い世論は、破滅型の太く短い芸術家を気味の悪いものとして、卑近な論理で葬る術を巧みにこしらえてしまっている。『長生きしたもんの勝ち。』『芸術家は言い換えると技術家であり、技術は永く伝えなければならない。』『刹那的な身過ぎ世過ぎをする職人は、自分の腕と需要予測に自信を持っているのである。』
  大衆化が進み、カネが隅々まで普及してしまったいま、人間は時間を常に意識するようになった。時間を知っているから、過去の自分あるいは他人の人生と現在の自分を比較し、そのアナロジーを未来へ当て嵌めて、当然未来も自分は生きているものと見なすので、そのいわばもうひとりの自分について、かわいいから、思いやらざるをえない。未来に存在する、もうひとりの自分、と表現したのは、旅行準備のセクションで述べた、分裂した自分、と重ね合わせるためである。
 愛すべき未来の自分を考えるとき、『成長の物語』を下敷きに使う。子供は親に育てられて大人になるし、貧乏人はがんばって金持ちになるし、ブスは数多くの異性に磨かれて美人になる、らしい。成長のイメージは、たいてい、上へ昇っていく直線だが、その横軸に時間、縦軸に幸福度の座標で右上に延びる線をイメージするために、人々は学校で算数を学んできたわけだ。学校教育はそれほど無駄にはならないものである。




 さてさて、これからが本題である。
 ヴェトナム人が、クルマをあきらめ、バイクに甘んじるのは、貯蓄するというモチベーションの土壌がないからだ、と微かに上に触れておいたが、それは、もうおわかりのとおり、彼らにとって、時間が希薄だからなのだ。どうして希薄なのか、文明がまだ成熟してないからだ、上の余談からはそういう理屈が出てくるが、文明は難しいので優しい視点に切り替えてみる。
 というより、私はある国について考えるとき、この視点で手軽にいつも納得してしまうのだが、それは気候風土がどうなっているかである。(どうも文体が持って回っていて、深く調べた挙げ句の発想であるかのようだが――)
 ヴェトナムは一年中暑い。毎日同じ気候で、季節がない。
 雨がよく降る。細長く海と接している。豊かである。穀物は、種をまくだけで、ほっておいても育っている。
 昨日も今日も明日も、同じであり見分けがつかない。昨日も今日も飯が食えたなら、帰納的に 明日も食えるのだ。それは仮定ではなく事実であり、頭を使うまでもない。
 彼らにとって、今が永遠なのである。
 昼と夜の変化はあるが、それは、平坦で地平線のかなたまで伸びる道を、タイヤが転がっていくようなものであり、リズムを刻んでいる。
 スコールは不定期に突然やってくる。予測が困難で、これが将来の不安を招きはしないか。季節が一年という長い周期の波動であるなら、にわか雨は波に恣意的に表れるノイズなのだ。彼らの街には、雑音が満ちている。なぜかしら歩道に大穴が開いている。なぜかしらビルの壁面の一部が他と違う色に塗られている。都市とは、すべて人間の意識の支配下にあり、解釈可能な要素によって構成されている、つまり人工で、ノイズの入る余地は理想的にはない。
 だから彼らには時間がない。時間を知らない。
 彼らがバイクに乗るのは、早く行くためではなく、疲れたくないからだ。暑いから、よく疲れる。
 彼らは時間にルーズで、バスの出発および到着が遅れることはしばしばである。郵便局など公共の施設が意外に遅い時刻まで開いていたりする。
 将来のことを考えても、どうせ今の状態がくりかえされているだけだから、考えない。考えられない。今が満足なら、それでいい。貯蓄などするはずがない。
 だから銀行は疎遠なものである。(まあ、社会主義だから、というのもある)
 私はトラベラーズチェックを現金化しに銀行へ行くため、バイクタクシーを雇った。銀行に着き、私は気を遣ったつもりで、運ちゃんに、中に入って待つかといってみたが、遠慮している。どうも、銀行に対して彼が恐れを抱いているように見えたのは、浅薄な思い過ごしであろうか。

 こんなんでは、国家の経営など不可能ではないか。少なくとも計画経済は無理だ。彼らの本性は原始資本主義(?)ともいうべきもので、周りの事情で国家を作らなくてはならなくなったとき、国民を纏めていくためには、厳しく社会主義でやっていくしかなかった。それは中国も事情が似ているのではないか。ミクロで国民を見ればどこまでも個人主義者ばかりで、ばらばらだから、国家体制ぐらい、ひとつの大きなものにして、上から被せておかないと、収拾がつかない。日本は逆に根っからの社会主義者の集まりだから、パッケージは自由主義でちょうどいい。黒船が来たりして、一丁団結するかとなった暁には、しばらくはうまくいくが、やがてひとかたまりに纏まりすぎて、悲劇になる。
 ヴェトナム人が時間を知らないからといって、彼らは遅れているとか、頭の使い方を知らないとか、そういう評価をするのは早計だろう。自然体で生きている、ともいえるのだ。脳と身体が分裂せずに一体なのである。



 いちおう、彼らは資本主義的発展を志している。ドイモイ以前がどうであったか知らないが、人々は活気に溢れているように見えた。私は上のほうで、政府の影響力が国民に対して強いと書いておきながら、なんだが、この人たちは時代にかかわらずこのように騒々しいのではないかと思った。
 カネや人の流通量は、もちろん総体的には日本のほうが大きかろうが、個人が一日に財布から出し入れするカネの量や、ヴェトナム人の家でじっとしている時間の少なさからして、印象的には、ヴェトナムのほうがよく動いているようだった。ひとつ観察したのは、資産が少なくて、自転車操業的に商品を手に入れなくてはならない、例えば、家に冷凍庫がないから、氷は買わなくてはならない、とか、テレビのチャンネルが少ない・マスコミがひ弱だから、誰かと話して自分の耳で情報を仕入れなければならない、ので、どうしても、人や物の流れが激しくなるのではないか。日本のように消費が行き届いてしまって、じっとしていて済むのではない。日本では、家にいながらにしてできてしまうことが実は多い。それは人の移動をカネの移動で置き換えて、さらにカネの移動もカードや振替で済ませてしまうからだ。すると、見た目にはとても静かである。
 ヴェトナムの街が騒々しいのは、誰も彼も金儲けしようとしているからだ。ああ、論旨が一定しない。時間を知らない彼らがなぜなんのためにカネを稼ごうと試みるのか。必要以上にカネを手に入れる必要はない(そりゃそうだ)。昨日と同じくらい働いて、あるいは昨日と同じだけ稼げたらもう仕事を切り上げて、うまい飯を出す安食堂で飯を食って帰って寝ればいい、と彼らは考えないのか。カネを貯めようというつもりはなくても、もう少しうまい飯を食ったり、いい服を着たりしたいとは考えるのかもしれない。
 それとも、彼らの活動は、金儲け以外の動機にもとづいているのではなかろうな、と試しに疑ってみる。ものはいいようでその疑問への答えはすぐに思い浮かべることができる。◎家にいても退屈だからとりあえず外に出ている――でも外は暑いな。◎仕事の能率が悪いので、野暮ったくエネルギーを浪費している。◎ゲーム感覚で仕事をしている。彼らは実際ゲームが好きだ。スポーツはサッカーやバトミントンやセパタクロー、ビリヤード台もよく見かけるし、宝くじもすきだ。隣の奴よりも多く稼ぎたくて、ついがんばってしまうのでは。それは勝ちたいというより、隣の奴と同等でなければならないという感情のほうがやや強いかもしれない。なぜかというと、彼らの意識にがっちり食い込んでいる、村社会の思想があるからだ。
 村社会とはアジア人を語る上で便利な言葉だが、この文章において、これから頻出するだろう。ただ、この段階では、この言葉は用いにくい。村社会と資本主義的性状の関係が、私には皆目見当がつかないからだ。上の文脈はずいぶん乱暴で、人々が勝負事をするように、日々の仕事をこなしている、となる。打ち明ければ、私は、なぜあの国の街が騒然として賑やかであるのか、わからないのだ。それは私自身が粛々とした人間であるから、想像がつかないのだろう。無理して頭をひねって、徒労を重ねても、文章を長引かせてしまうだけだ。
 そもそも、ここではヴェトナムの資本主義的成長のいびつさを指摘するつもりだった。彼らの経済発展は、まっとうは段階を経ていないのではないか。それは日本と比較して思うのだ。
 手抜き工事でドアがまともに閉まらないようなホテルにエレベーターが貫いていたり、インターネットカフェが田舎の漁村の裏通りに軒を連ねていたり、アイドルのプロモーションビデオの撮影でロケを敢行しても背景が雑然としすぎていて鑑賞に堪えない映像作品ができたり、と、それをする前にまだ他にやることがありそうな、不安定な経歴を積んでいる。比喩でいえば、土台がしっかりしてないのに、複雑な建築をしたら、北風ひと吹きで崩壊しそうな。
 そのことを旅行後、友人らに話すと、
「日本も昔はそういうふうに、前のめりでつんのめりながら、どうにかやってきたのだ」
という意見が多く返ってきた。彼らの口調に窘めるような感触が含まれていたのは、私の物語の論調が、悪口に近く聞こえたからかもしれない。
 確かに、ヴェトナムにおいて、
「ああ、日本もかつて、こんな雰囲気をかもし出していたのだろう、同じアジアよ」
と感じる場面は皆無ではなかった。では、どういう場面であったのか挙げよ、といわれると思い出せない。私はできれば、そういうありきたりな感興を持ち出してきて、あの国を鑑賞したくないと念じていたので、記憶に残りにくかったようだ。純粋とか素朴とか懐かしいとか、そういう形容詞を用いる羽目になりそうだからだ。
 アジア人としての近しさについてはともかく――黄色人種同士、なじみやすさは歴然として存在していた。実際、何人かのバイクタクシー屋は「ヴェトナム人も日本人も同じ、友達だよ」 と笑いながら接近してきた――日本とヴェトナムの資本主義の違いは、まるで異質なほどに見えた。
 国と国の何かを比較すると、それは文化として捉えられるわけで、どちらが正しくて、どちらが間違っている、という視点で論じるのは危険だとされるが、資本主義が文化なのかどうか怪しく、経済というのは勝ち組み負け組みと容赦なく断じられる性質の――物語としては安っぽい――もので、日本経済はどうしようもなく成長しちゃっているのだから、また、資本主義国家として成功している国は数えるほどしかないのだから、日本経済の履歴を見本・基準にしてヴェトナムを測るのは、偏向してはいないと思う。
 『測る』などというのは言葉の綾で、私は印象を持つほかできないのだが、やはり、ヴェトナムはだいぶ、ひずんでいると思う。要するに、インフラが整備されていないところへ、誤魔化しながらか、気づいていないのか、欲求を解消してくれる製品だけをまっしぐらに手に入れようとする。インフラは地味で快感がない。だから、ありがたみが薄い。水道の水は飲めないし、電線は図画工作の課題作品のように貧弱でいつ切れてもおかしくない。歩道はアンチ・バリアフリーで、油断していると捻挫する。年寄りはひとりで歩けない。欲望に溢れた若者しか受け入れない。敷石は浮き沈みして平らではない。暴動が起これば簡単に剥がされて飛び道具になるだろう。
 これらは、素直に判断すれば、政府の無能さが表れているだけだろう。優れた指導者がいれば、
「それは、うちの国には、まだ早い」
といって、入国を拒否するべきが、商売人にたぶらかされて、輸入してしまう。
 商品は、開発され過ぎてしまい、あまりにも広範な使用者を想定していて、いかにも人々のもとへ侵入しやすい性能を帯びているから、しかたないかもしれない。しかも、世界中がそういう商品で充満している。ゲームを例にひけば、日本では、インベーダー、ファミコン、ゲームボーイ・・・などの段階を経て、現在のゲーム文化があるのだが、ヴェトナムでは、すごろくみたいに升目を飛ばして、いきなりインターネットである(田舎の小学生がパソコンでシミュレーションゲームをしているのを見た)。それは、子供が突如大人になるようなもので、福田和也の表現を借りれば、『彼らは青春を経験していない』から、不幸だということになる。
 でも、人間は馬鹿じゃないから、欲望に翻弄される瞬間はあっても、トラブルが発生すれば、悪戦苦闘しながらでも、何とか克服していくものであり、ヴェトナム政府も、そういう人間の耐性をはじめから期待しているのかもしれない。私が旅行の準備の段で述べたように、いざ問題に直面してからでも遅くはないし、それのほうが問題点がよくわかる、という考え方もある。




 夏目漱石が『永日小品』の中の『金』という章節でこのようにいう。

「金は魔物だね」
 空谷子の警句としては甚だ陳腐だと思ったから、そうさね、と云ったぎり相手にならずにいた。空谷子は火鉢の灰の中に大きな丸を描いて、君ここに金があるとするぜ、と丸の真中を突ッついた。
「これが何にでも変化する。衣服にもなれば、食い物にもなる。電車にもなれば宿屋にもなる」
「下らんな。知れ切ってるじゃないか」
「否、知れ切っていない。この丸がね」と又大きな丸を描いた。
「この丸が善人にもなれば悪人にもなる。極楽へも行く、地獄へも行く。あまり融通が利き過ぎるよ。まだ文明が進まないから困る。もう少し人類が発達すると、金の融通に制限を附ける様になるのは分り切っているんだがな」
「どうして」
(中略)
「金はある部分から見ると、労力の記号だろう。ところがその労力がけっして同種類のものじゃないから、同じ金で代表さして、彼是相通ずると、大変な間違いになる。例えば僕がここで一万トンの石炭を掘ったとするぜ。その労力は器械的の労力に過ぎないんだから、是を金に代えたにしたところが、その金は同種類の器械的の労力と交換する資格があるだけじゃないか。然るに一度この器械的の労力が金に変形するや否や、急に大自在の神通力を得て、道徳的の労力とどんどん引き換えになる。そうして、勝手次第に精神界が撹乱されてしまう。不都合極まる魔物じゃないか。(中略)
「器械的の労力で道徳的の労力を買収するのも悪かろうが、買収されるほうも好かあないんだろう」
「そうさな。今の様な善知善能の金を見ると、神も人間に降参するんだから仕方がないかな。現代の神は野蛮だからな」
 自分は空谷子と、こんな金にならない話をして帰った。

 私がかの国で短い期間にせよ生活できたのは、ひとえにカネのお陰だった。カネに依存しきっていた。ひとりの旅行であったから余計に痛感された。話し相手は、カネだった。毎日私はカネに話しかけていた。それは概してモノローグに近かった。カネは私の声に対して無反応であった。ヴェトナムの皺くちゃの紙幣に、私はいっこう親しみが持てなかった。
 ヴェトナムの通貨は、『ドン』である。米ドルも余裕で通用する。
 カネは『記号』である。記号的なものの考え方は鍛えられているつもりであった。学校教育で、
X=なになに
を散々やらされた。
 1円は、100ドン強である。1ドルは、約120円である。
 こんな簡単な等式、御茶の子さいさい。
 しかし、残念ながら人間の脳は記号を完全に記号化することがなかなかできない。私はドンで支払うとき、しばらく沈思黙考を余儀なくされた。えーと、日本円でいうと・・・。ドン札には、矢鱈ゼロが並んでいる。数えなくてはならない。丸が4個、5個――4とか5とか、どういう違いがあるというのだ。それは翻訳作業だった。カネは言語だった。言語も記号だ。私はヴェトナム語がわからないように、ヴェトナム・ドンのこともわからなかった。別に名誉のためにいうのではないが、計算が速いか遅いかの問題ではない。
 とはいえ、言語にくらべれば、圧倒的に容易に、通貨は入手することができる。手続きするだけだ。日本国で汗水流して稼いだ日本円と引き換えに、白々しい外国の貨幣を得る。財布の中に部外者がいる。どこの馬の骨だ。
 米ドルはまだしも、親近感があった。地球上の資本主義のシンボルである。アメリカ映画でもしばしば目にする。両替してもきれいな紙幣で手渡される。
 それに引き換え、ドン。全種類の紙幣に、ホーチミンが印刷されていて、いずれも似ている。たいてい、私のところへ巡ってくるまでに、ぼろぼろになっている。角は擦り切れ、千切れそう。しみだらけで湿っぽくて、素手で触るのもためらわれる。だけれども、私のドンへの疎外感は、そういう表象の部分にのみ起因するのではないのは上に述べているとおり。他に何があるかといえば、どうも手続きを経ていることが大きいらしい。あまりにあっけない、自動販売機にももとらない、流れるような両替手続きをあいだに挟んでいるせいで、私の『労力』の結晶であるところの『日本円』と『ヴェトナム・ドン』が途切れてしまって繋がらないのである。分裂しているのである。手にしたドンを眺めてみても、途方に暮れるのである。現実はロールプレイングゲームではないのに、お金だけはゲーム感覚だった。だから、ドンを入れた財布を尻のポケットに収めていても、そこからすうすうした冷たい空気が伝わってくるのである。神であり恋人でありインテリジェンスであるはずの、また日々の生活の殆ど唯一の拠り所であるお金と、私は信頼関係を結べなかった。すると、慄然として不安がやってくる。
 さらに悪いことに、私は日本円ともかりそめの関係を続けているのだった。私は学生すなわちすねかじりであり、アルバイトはしているが、バイト代は、仕送りが振り込まれた通帳に一緒くたにして収められ、混ざってしまう。通帳に印字された数字を見ても、バイト代と仕送りを見分けることはできない。そもそもはじめから混合物であった日本円から、両替されたドン。厳密には、米ドルでワンクッションおいている。なんと疎遠なお金であろうか。
 お金は不思議なもので、元来それは手段に過ぎないはずなのに、目的のように崇められ、売り買いされている。お金の進化論を私はよく知らないが、きっとお金はいつのまにか発生し、社会環境の影響を受けながら人間に寄り添うように変貌を遂げてきた。それは人間の歴史的成長と同じく、本質は不変であろう。すべての道具が人間の身体の機能を類推し延長し強化することによって考案されるように、お金も人間の内部のどこかに潜んでいる。それはどこか。
 フェティシズムというのか、人間は身体の一部に偏執的に拘り執着することがあり、ボディビルとか美容整形とか、無用の鍛錬に没頭することがあるように、お金が大好きで嗜む人がいる。お金、お金、と連呼する人は、下品で育ちが疑われそうなものだが、まわりを見渡しても、どうやらその人の知能とか人品にかかわらず、どのような人かといっても、漠然としてしまうが、生真面目に自分の生活のことを慮っている類の人が、頭の中で問題を予想し回答を得ようとするとき、お金を媒介に、あるいは中心にして思考しているのであり、その中身が発話されるときにも、お金という言葉で口から出てしまうらしい。彼らは、お金そのものにある屈託の物語を知らないわけではないが、テレビゲームにしろ、算数の授業にせよ、お金の機能について深く精通してきている。彼らはよく知っている。お金が便利であることを。紙幣や硬貨という邪魔にもならない破片が、目くるめく商品に交換されるつまり化けるのである。
 で、そのお金が人間の身体のどこに潜んでいるのかというと、神経なのである。身体の外にある情報が五感から入力され、神経繊維上を走る電気信号という別のものに置き換えられて、脳まで伝わり認識される。脳は神経の塊であり、人間がものを考えるとき、まさに神経を使役している。お金で頭がいっぱいな人が大勢いるのも、むべなるかな。ものごとを説明するのに、比喩がよく採用されるが、それはわかりやすいのであり、頭の中は常にあるものを別のものに置き換える作業が繰り返されているのであり、お金はたくさんある比喩のひとつとして、思考の助けになっている。
 日本円が通用しないヴェトナムで、私は日本円で思考するしかなかった。不便には違いなかった。やりにくいのはいやだから、いつのまにかヴェトナムドンになれようとしていた。一週間ほどでだいぶ慣れていた。それは日本円への翻訳がスムーズにいくようになっていたのだ。掛け算の九九がそらんじられるようになるのと同じだ。小学校低学年で習った九九は、その後の学問に欠かすことができないように、外国の通貨を使いこなせることはその国で暮らすのに必要だろう。
 ヴェトナム語はともかく、英会話は流行しているらしく、語学塾が繁盛しているのも、言語はお金ほどたやすく獲得することができないからである。英語が話せることは当今の日本において、すこぶる鼻高高である。豊かな日本人は暇を持て余しているのだろう。日本語に飽き足りないのだ。余暇の過ごし方はいろいろ開発されているが、語学もそのひとつであり、広く浅く体験することがふさわしいものである。
 海外旅行は、暇つぶしのやり方のパッケージであり抱き合わせ商品でもある。彼らが日本語を途中で放り投げたように、海外旅行の中の各項目はそれぞれ中途半端につまみ食いされる。貴重な時間を大事にするため、斜め読み飛ばし読みが推奨されるのと同様である。私は空港で、楽しそうに、澄ました感じで、あれはドルでいくらぐらいした・けっこう安かった・まあまあ高いなそれはドルに直すと・・・、と、訛りのない日本語で会話する日本人のカップルを幾組か目撃している。



 つづいて、ヴェトナム語の印象を述べる。
 私は繰り返しいうように準備に迂闊であるから、やっぱりヴェトナム語をまるで学習して行かなかった。私は臆病で頽廃しきれずに、怠惰であることにもことさらな理屈を求めてしまい、ヴェトナムで言葉の意思疎通についてほぼ徒手空拳で臨んだのにも、わけがあったはずだが思い出せない――私は記録にも迂闊である。
 旅行の目的として、現地人と対話することに興味を抱いていなかったのか。しかし、それでは何のために日本人のいないところへ出かけていくのかわからない。ヴェトナム人は、白人と本土決戦を長らくしていたこともあり、英語を知っているはずだと高を括っていたのか。あるいは、『地球の歩き方』に載っている基礎会話語録を応用すれば事足りると甘い考えをしていたのかもしれない。
 で、ふたを開けてみれば、私と接触したヴェトナム人とはもっぱら英語でやり取りをしたし(英語を喋るヴェ人の数は多いとも少ないともいえないと思う)、『地球の歩き方』では会話は長続きしなかった、つまり応用できなかった(これは私の思考様式に問題があるのかもしれない)。彼らのうちで英語を喋るのは、観光客からカネを稼ぐことを生業にしている人ばかりで、市井の人々は英語など知ろうともしていない。つまり私は見知ったほとんどすべてのヴェトナム人とは、カネが縁で接近しえた。その悲しみについてはまた後で。
 ヴェトナム語は、彼らのそばで傍聴する限り、中国語とよく似ていると感じられるが、『地球の歩き方』によれば、言語そのものは中国とはまた別の系列であり、だから漢字にも馴染めなかったという。中国語とよく似ているように聞こえるのは、私の耳がおかしいのだろうか。中国と陸続きのヴェトナムは、日本以上に中華思想の影響を受けているが、言語の構造は違って、発音が似ているというのも不可解なようである。私の耳にどのように聞こえるかというと、とにかく母音が豊かであるというに尽きる。
 漢字に挫折したヴェトナム語は、ハングルのように発音をもとにした表記法を選び、アルファベットに工夫を加えて国語にしている――米ドルがむしろ自分たちのドンより重宝され、街中にアルファベットが氾濫しているというのは、他所の国の事情とはいえ、私はしょーじき、痛々しさを覚える、しかも他人事ではないかもしれない。――その工夫とは、AとかOなどの母音に?とか・を移植して、ただの『ア』や『オ』の発音にバリエーションを持たせている。アの発音は6種類もあるらしい。だから、母音が五種類しかない日本人がガイドブックに出ている会話集を朗読しても、まず通じない。『地球の歩き方』は読者が自分を読んで発音を体得できるとは最初から想定していず、投げやりである。たしかに、発音の仕方を紙で説明しようとするのは誇大妄想に近く、構造主義的に図解で舌の動きを解説したとしても、むなしい。
 母音が豊富であることは、私の受け取り方では、言語に感情が導入されている、つまりそもそも感情的な言語であるという意味になる。それは誤解を恐れずにいえば、論理的な思考には向かない言語であるとも解釈できる。論理は便利なもので、赤の他人に自分の考えを物語って伝えるのに、絶大な威力を発揮する。感情的な人、蒙昧な人も、論理を使って説き伏せられれば、納得するはず、または納得せざるを得ないはず。論理は数学を見ればわかるように、普遍であるはず。しかし現世においては、論理にも種類があるらしく、永田町の論理などといって、一部の共通理解者の間でしか通じないものでもあるらしい。つまり、「A=B」は絶対であっても、AとBに何を入れるかについては、政治的なのである。そういえば、数学でも、『公理』とか『極限』とか、妥協的な概念で政治的決着を図っているし、そうしないときりがないのだ。
 『人間=政治的=感情的=闘争的』であろうか? 議論をして、互いに論理的に説き伏せようとすると、ぶつかり合いになることが多い。特に日本人は議論が下手ですぐ怒るといわれる。やはり、論理は普遍であるなどというのは、おこがましいようだ。
「議論なんかしても、結局、力の強いものが勝つ」
と冷笑する人もいる。多数決民主主義も原理はそれである。
 しかし、それではこの言語についての文脈がもたないので、感情と理性、母音と子音の二項対立を前提に進めさせていただく(政治的決断)。
 日本人がディベート下手な理由は、人前で声を大にして喋るのが恥ずかしい、などいくつかあろうが、下手というのは、欧米人に比較してのことであろうし、アルファベットを使う彼らは圧倒的に子音の種類が多く、感情を抑制して敵を論破するのに長けていて、彼らに比べたら母音的な日本人は言葉に情を含んでいて、つまり言葉を発するに際し、感情の裏づけが欠かせないのだから、議論が下手くそと馬鹿にされてもしかたがないのではないか。それでも悔しいから、脱亜入欧して、何とか白人に負けないようにと切磋琢磨しつづけた挙げ句、近頃の日本語は母音に乏しくなっている。たとえば、『す』などは『su』ではなく、『s』と発音される傾向にある。いや、これは浅はかな見方で、う段は特にそういう発音がされやすく、もともといいやすいのだから、昔の人も省略していたはずである。ただし、アレゴリーとして、NHKのアナウンスや儀式など公的な場面では、語尾を『すぅ』などとしていたら、田舎者で、失敬で、失笑や顰蹙を買うだろうが、極東の小国が、都会のヨーロッパ人に伍していくにあたって、無理を重ねていた(センチメンタルにいえば、何かを失った)という情景が思いやられるのである。
 ではさらに母音の多いヴェトナム人が議論をすればどうなるのか。本来、彼らは議論をしたことがない、といいたいが、街なかでは、おばちゃんなどが熱心に話し合いをしている風景など目にする。母音だらけで、あれほど会話すれば、今にも火がついて喧嘩になりそうなものだが、穏やかなものである。
 それは、村社会という言葉を使えば説明しやすいかもしれない。村においては、構成員はすべて同質で、お互い何を考えているのか、手にとるように理解できる。前提として、争いが生まれないので、いくらでも話し合いができる? しかし、あれは単に熱のこもった井戸端会議であったかも知れず、言語の問題ではないかもしれない。それならば、やはり村社会で、村の中にいる限り、対立する必要がないから、母音言語が発達したともいえる。
 日本も昔はそうであった。島国の中で平和に暮らしているうちは、阿吽の呼吸で感情を露出し、泣いたり叫んだり大笑いしても、軋轢は生じることがなかった。もちろんミクロな諍いが随所に起こるのは、いつの時代でも人間であるからには避けがたいのだが、比較的、かつては予定調和に覆われていたのではなかろうか。つまり、母音がまかり通っていた。
 そこへ黒船が来航し、日本人はなまじ根性があったものだから、白人たちにおめおめと屈するのを潔しとできなかった。とりあえず、彼らと同じ地平に上がることを目標に、向こうの文物をシャカリキに輸入した。それは今も続いている。というより、ますます盛んである。駅前留学してどんどん自分から母音を削っていく。しかしそこはアンビバレントで、戦後民主主義で感情を豊かになどと仕向けられてきた現代人は、一方では母音の代償を求め、代償というか、目につくところでは、私より下の世代のものたちが、語尾を「だしぃ〜」「でさぁ〜」と伸ばしまくって、言語の子音化に抵抗しているのである。
 ヴェトナムは近代化するについて、白人たちと同じテーブルに上ろうとするほど、バイタリティがなかったので、あいかわらず、母音を保持している・・・のかどうかはよくわからない。ただし、彼らの中に、英語を喋ろうとするものが多くいる(外人からカネをせしめようとする)のを見ると、ミクロレベルでの変化が起こっているようで、論理的思考に向かない母国語をあきらめ、子音化などという付け焼刃をせず、一挙に英語に移行することで近代化しようとしているようにも感じられた。
 英語にこれっぽちも興味がなさそうな若くて声帯に弾力のあるヴェトナム少女が喋っているのを耳にすると、歌っているような、赤ん坊をあやしているような、恋人と睦言を交わしているような、とても響きのいい、ある種エロティックな声が聞こえてきて、感激する。これは、関東人が、関西弁を喋る女の子を「かわいい」と感じるのと同じ作用かもしれない。彼女たちの声は、だから音として聞いているだけでも快いが、そこは人情というものであり、何を話しているのかしりたくなる。あるいは、彼女たちと話すためにも、ヴェトナム語を学習したいと思わないでもない――まあ、話してみると他愛がなさ過ぎて、幻滅するかもしれない。いずれにせよ、彼女たちを保存するためにも、彼らは近代化を急がないほうがよいと思う(女性差別的構文かな)。
 ヴェトナム語は密教的である、とはいえ、逆に、感情を前面に押し出せば、通じてしまう言語であると考えられないだろうか。いわば、「心を開く」のである。ヴェトナム語はひとつの母音にも微妙な差異があるのだが、それは要するに、喜怒哀楽を表現するために多様なのではないかと、想像してしまう。同じ『あ』でも、怒りの『あ』、嬉しいときの『あ』など、区別される。(演劇の練習をすればいいかもしれない。)そういう変化を言語の中に取り込んでしまっているのだ。それならば、何も考えないほうが喋りやすいのではないだろうか。
 で、私はその理論を実践した。
 ケーススタディとして、私にとって馴染み深い感情、『怒り』で試してみることにした。この感情は、旅行の後半、私の表象に顕著に出現するようになっていた。理由は、身体に疲労がシミのようにくっついて取れなくなっていて苛々しやすくなっていた、またそれを洗浄する手段が満足に手に入らなかったこと、そしてヴェトナム人との不和であった。ヴェトナム人といっても、前に述べたように、観光サービス業に従事している一部のヴェトナム人である。彼らはこちらが油断していると、嘘をついたりしてぼったくろうと挑戦してくる。よくあるパターンは、バイクタクシーなどで目的地に着いてから当初の設定金額よりもはるかに高い値段を要求してくるものである。ガイドブックを見なくても、そういう危険があることは、テレビですら知ることができる。そのくらいポピュラーな現象なのであり、私はあらかじめ注意を払っていたつもりだった。だがあえなく、たっぷりと経験させられる羽目になった。詳しくは後に回すが、ここでは私の理論の検証するためのひとつの出来事を述べるにとどめたい。それは旅行の終盤、ファンティエットという田舎でのこと。
 私はこの街では、ムイネーという村に行き、そこにいくまでの沿道のヤシ海岸の風景やひと気のない砂浜でのんびり疲れを癒すつもりだった。ガイドブックに掲載されたその町村の情報は、いかにもその目的を叶えてくれそうだった――確かに、よい田舎であった。私は田舎が好きである。
 さて行くか、とホテルを出ると、宿泊客目当てのバイクタクシーたちが近寄ってきて、私を取り囲む。どこに行きたいのかも聞かず、「乗れ、のれ」と後部シートを促す。
 目的地がはっきりしているので、すぐに交渉を始める。スムーズである。しかし、何となく、彼らの目論見が的を射たことが悔しいような、他のバイクタクシーにしようかと仄かに思ってしまう。
 数人居並んでいる運ちゃんたちの顔を見比べて、いちばん気のやさしそうなのを選ぼうとする。しかし、どれも五十歩百歩である。迷っているうちに、彼らの中で暗黙の順序が決められているのか、現場にもっとも早く待機していたのか、ひとりの男が私の面前に威勢よく押し出してきた。その男はそれほど悪そうではない。いつのまにか彼と交渉することになった。
 私は、眉間にしわが寄るくらい、不機嫌に、
「ムイネーまでだ」
と宣言する。しかし、発音が適当でないのかしばらく通じない。方向を指差したり、ガイドブックを見せたりしながら、ようやく行きたい場所は伝わった。
 早速出発しようとバイクにまたがる男を制止して、
「(おい、カネのことだがな、)20000ドンでいいだろ」
と、低めの値段を提示してみる。男は、首を横にふり、ふり、
「40000だ」
と指を四本立てる。私は、話にならへんなという感じで、他の運転手を探す素振りを見せながら、
「行って、帰って、30000だ」
といってみる。男はあっさりと、首振りを縦方向に切り換えた。私は念を入れて、
「往復だぞ」
と腕を大きくUターンさせる身振りをしながら確認した。男はただうなずくばかりであった。
 で、バイクタクシーの運転手も、客が乗っているあいだは愛想がいいものである。道沿いの建物を指差しながら、あれは何これは何、と教えてくれる。ただし、ヴェトナム語で何をいっているのかわからない。私は、さすがに、相手の好意に対して、黙ってくれ、とはいえず、聞き流している。しかし、また油断していると、ガイド料など上乗せして請求される恐れがあるから、できるだけ無感動を装う。装うというか、何をいってるのかわからないのに、感動は湧いていない。私は、さすがに、相手の好意に対して、それが好意であるというだけで、感動はできず、すれっからしてしまったかなと憐憫をむしろ覚えた。これは、相手がヴェトナム人であるに限らず、日本で日本人を相手にしているときも思うことである。
 私は、ムイネーに着いてから、男を待たせておいて、しばらく自由に動き回るつもりでいた。しかし、「ここで待っていてくれ」という意思を伝えるのが至難の業である。下手すると、無賃乗車を疑われる。どう言おうか、ぐずぐずしているうちに、男が先にたって歩き始めてしまった。
――まずいな。
男は、「こっちだ」といわんばかりに観光スポットへと私を導いていく。私は日本にいるときの愚鈍さを発揮して、怯えながら後についていく。せめてもの気休めに、お前はたまたま私と同じ方向に向かっているだけなのだ、と内心で念じ、そういう雰囲気が発散するよう努めた。つまり、きわめて無感動であるように見せかけていた。
 このようなことだけ書いていると、男との内面の葛藤だけがあり、何を観光しているのだ、という誤解が生じそうである。頭の片隅では懊悩しながら、眼は美しいヴェトナムの海の景色をスキャナーのように眺め尽くしているのである。
 そこは外国人よりも、ホーチミンの住民がよく来る観光地であるらしく、平日で静かな(休みの日は市場で賑わうらしい)海水浴場は、一組の家族客が占有していた。孫から祖父母まで、みな海水に浸かって遠い嬌声を響かせている。
 他には、近所の漁民が何かをとっている。近寄ってみると、生き物ではなく、小さな貝殻を網でたくさん掬っているのだった。その貝殻は土産物に加工されるらしい。「近頃は供給過剰で、値崩れがして、苦しいよ」という雰囲気の夫婦であった。
 砂浜の隅のほうでは子供たちが岩場で魚を追いかけている。ナイロンに穴をあけた簡易網で小魚をコーナーに追い詰める。意外に魚は捕まっている。私は彼らにカメラを向けた。すると、そばについてきていた男――浜の端っこまでいっても、何もないぞという感じで、帰りたがっていた――が、子供にポーズをとるように命じた。私は自然に遊んでいて欲しかったのだが、きょうつけした子供の写真もよかろうとシャッターを切った。その子供たち以外にも、何人か子供の写真は撮った。元気溌剌な少年もいれば、ヒトデの干物を売りつける悲しそうな顔をした女の子もいた。彼女は、写真を撮ったんなら、ヒトデを買ってよ、と迫ってきたが、ヒトデはどうにもならない。気まずいことに、彼女の妹らしいよりいっそう小さな女の子は、レンズを向けると姉の背後に隠れ、無理に追いかけると、ついに泣き出してしまった。ヴェトナムは子供を大事にするので、大人が怒鳴ってくるのではと恐れて、早々に立ち去った。
 砂浜を出て、我々はベンチで休憩した。男は瓶詰めジュースを2本、ウエイトレスの少女に注文した。それはヴェトナムではポピュラーなジュースで(名前は『ナンバーワン』だったと記憶する)、ガソリンのような色をしていた。味は炭酸の抜けたオロナミンC。不可解なことに、ジュースは男のおごりだった。
――これはよろしくない兆候だ。
あとで何が起こるのか気がかりで、ジュースを飲んでいるのか、ガソリンを飲んでいるのか、わからない。しかしその謎は奇妙に解けたかたちで、――そこからの帰りしな、男はガソリンスタンドに寄って、ガス代を私に払わせたのだった。それでジュースの符合がついたわけだ。
 腹も減ってきたので、男と別れるためにも、ホテルに帰ることにした。ヤシ並木と心地よい空気を堪能する一方、別れ際のドラマへの緊張が高まる。
 男はホテルへ向かう道の途中、あさっての方角へハンドルを切ったので、どこへ行くのかと様子を窺うと、路地へ入り、民家の前にバイクを止めた。
――まさか、誘拐?
そこは男の家だった。コンクリートブロック製の平屋の薄暗い家の中へ、男は消えていった。しばらくすると、女と一緒に出てきた。女は男の女房だった。彼女は、南部のヴェトナム人にしては色の白い、頑丈そうな歯並びをした、明るい色の薄い生地でできたノースリーブの服を着ていた。女は私に何か話し掛け、私は何をいっているのかわからないが、悪いことは言ってないようだと判断して、愛想笑いを浮かべた。彼女は図に乗ったのか、輪をかけて喋り始めたが、私の反応が鈍いので、クエスチョンマークを顔に浮かべて話を止めてしまった。
 男は手に四角い塊を持っていた。米で作ったお菓子だった。お土産にくれた。あまり美味そうには見えなかったが、後で食べると、一口目はそれほど悪くなかった。日本へのお土産ができたと、私は喜んだ。
 ついに、別れのときが来た。それはおもむろにやってきた。
「60000ドンだ」
男は言う。私は、いちおう、聞き間違いかなと、耳を疑ってみる。男は真面目な顔で、
「60000ドンだ」
と繰り返す。私は、30000だとはじめに言っただろと反論する。男は典型的な開き直りで、
「それは片道料金のことだ」
と受け付けない。男は何か合図のようなものを飛ばしたのか、近くにいたバイクタクシー仲間が近寄ってきた。
 なんということだ。どうして、この国は、こうも疲れさせることばかりなのだ。休む暇がない。私は怒り心頭に発した。
「なにをぬかしとんじゃ、こら。おれは、なんべん、ゆうた? 往復や、て。おまえはうなずいとったやないか。往復で30000やろが」
私の口から出てきたのは、母国語・関西弁だった。男は明らかにたじろいだ。男は黙ってしまい、仲間の男が前に出てきて、弁論を始めようとした。
「あほ、お前は関係ないやろ。ひっこんどれ。お前に何がわかるんじゃ。おれの相手は、おい、お前や、おまえ」
私は関西弁をまくし立てた。彼らはひるんでしまい、よこしまな怪物を呼び覚ましてしまい、何とか鎮まってくれないものか、という風に、後ずさりをしはじめた。私は、興奮し、気分もよくなって、言葉を無意味に積み上げた。
「おい、これだけいうてもわからんのか。なに? なにゆうとんや、わからへんやんけ。はっきりゆうてみい。あかん・・・。おまえは。おまえは、わかるやろ。なっ、わかるやろ。ほらみてみい、わかるていうとるやないか」
男たちの表情がこわばってしまった。仲間の男が自分のバイクの荷物入れから果物を出してきた。毒々しい姿形の赤いタンロンという果物だ。それを私にくれるという。私は言葉に詰まってしまった。急におとなしくなった。その果物は、お供え物だった。
 結局、男は30000ドンで納得した。男は腰が引けていた。
 私は40000ドン支払った。我々は握手をして別れた。男の手は湿って冷たかった。




 と、このように、ヴェトナム人には関西弁が通じることがわかった。関西弁は日本語の中でも、情緒豊かな、母音を多く含む言葉である。ヴェトナム語と同類である。私の理論の正当性は証明されたのではなかろうか。感情的な言語を使う彼らには、こちらも心を開いて、胸襟を開いて、打ち解けあうことで、お互い密接に通じることができるのだ。私は感慨無量であった。私はホテルでナイフを借り、果物を切って食べた。前に食べたのより、水っぽくて味が薄かった。
 そしてこの論旨も薄い。私は感情の類型を確たるに把握していないのかもしれない。怒りというのは、感情であるよな。私は感情と母音を結びつけ、子音と対置して二項を比較して話を続けてきたわけだが、獣が怒って、大声を出すとき、母音を使ったりはしないで、『ぎゃー』『がるるる』などと、子音を敵にぶつけるのではないか。これを指摘されると、これまでの話が、いかがわしいものになってしまう。
 感情を考えるに及び、獣と人間を類推するのが、どの程度ふさわしいのかも疑問であるが、そのような獣の喚き声は、怒声というより威嚇というべきかも知れず、敵をまったく排除したいという欲求から発し、ゆとりがなく、敵は異物でエイリアンで、そのような命がけの状況の過酷さが、母音と子音の混同を誘い、母音を突き抜けて子音に至らしめるのではないか。人間の社会においてそれほど熾烈な場面に見えることは、まずないし、少なくとも私は旅行中、文明に片足を突っ込んだまま、どころか、肩までどっぷり浸かって、過ごしていたのである。――以上は補足というか蛇足である。




 ついでに、次の話にも関係するのだが、ヴェトナム人の視覚のことについてこじつけておく。しつこく述べるように、ヴェトナム語は音声重視の言語である。文字を当て嵌めるのに困ってしまうほど、口で話して耳で聞く言葉である。これは識字率の問題も絡むかもしれないが、ヴェトナム語を使っていると、耳ばかり鍛えられて、目でものを見る能力が比較的退化していくのではなかろうか。目が衰えるほどはないだろうけど、耳の芸術、音楽とか歌唱演劇などは根深く発展し、重視もされ、予算も傾注される一方で、絵画や映像は、拙いままでいるような印象がある。
 駅のような公共の大きな施設では、油絵が飾ってあったりするのだが、多分ヴェトナム人の描いたものと思うのだけど、なんともまずい絵なのである。私は絵のことはよく知らない。感動という点では、音楽で胸を打たれることはあっても、絵画でがーん、とすることはない。そのような私でも、ハノイ駅に飾られていた、二・三畳ほどもある、花畑の絵は拙劣なのがわかった。構図は、花畑と背景を分ける水平線がひとつと、花畑の中に延びる斜めのあぜ道で、無意味である。奥行きも描けていなかった。
 社会主義国では、普通、芸術は大切にされ、国策とはいえ、立派なものが育てられる。絵画でいえば、中国など、街頭に大きな絵看板が立っているが、内容は、毛沢東とか、人民が希望に燃えている姿をそのまま描いているものであるとはいえ、筆遣いは迫力がある。なにしろ、人民を騙して盛り立てていかなければならないのだ。ヴェトナムでは国威発揚の芸術も少ないようだったが、それ以外の、商品の広告にせよ、店の看板にせよ、告示でしかないものばかりだった。
 これは日本に住んでいるから余計に気になってしまうのかもしれない。広告というのは芸術の機能をあまねく発揮して作られるものだが、広告は欧米より日本のほうがすすんでいるといわれて久しい。絵で人を喜ばせることを追究する漫画も、日本のものが圧倒的である(最近はどうかしら)。なぜ日本人が絵を使って物語をするのが得意になったかというと、漢字のお陰であるという。ただの漢字ではなく、訓読みと音読みの二面性を持った漢字である。漢字は象形文字というくらいで、絵なのである。しかも日本で使われるとき、それをどう読むか、どう発音するかは、文脈で判断するしかない。すなわち、漢字は読みとしてよりも意味として用いられる。絵で意味がある漢字を並べて文章を作ることに慣れ親しんでいる日本人は、自然、漫画を重宝するのである。
 ヴェトナムでも、『名探偵コナン』の翻訳を熱中して読んでいる子供が見かけられた。私が見た範囲では『コナン』だけであったが、良識的漫画の代表という太鼓判をヴェトナム政府に押されたのだろう。海賊版という感じではなかった。ヴェトナムの子供に受けているのを見ると、彼らの視覚が退化しているなどということはなく、ただいままでにこういう面白いものがなかっただけで、新たな発見をしているようであった。



 ここまで独りよがりな空想をあたかも論述してきたわけであるが、いい加減、潮時を迎えて、旅行中に出会った出来事や人びとについて記さねばならない。その前に、もうひとつだけ――ヴェトナムの美について概要をおいておきたい。
 『美』などという言葉を持ち出しちゃったら、背伸びして話を続けることに呻吟しなくてはならず、持ちこたえられないので、簡単に――私は年若の男であるから、どうしても女性に目がいってしまうし、また視力低下の原因でもあるところの視覚的な美しさについて、どうしても惹かれてしまう。
 私には身体的特徴として、耳鼻関係の凡庸さがある。耳が遠く、鼻が詰まっている。音楽は単純なものが好きで、歌は言葉の響きを重視する。においは、すべてのにおいが不快である、それはつまり、心地好いにおいがあたりに漂っていても、それを感じられていないのであろう。味覚と触覚に関しては、私は美しさを感じ取る状況にいない。触覚にそもそも美しさがあるのか怪しいし、食事については、話せば長くなる。
 そういうわけで、私は物見高い旅行をしてきたつもりである。眼だけは品質管理を疎かにせず、目薬を頻々と注いだ。なにしろ街は埃っぽい。雑然としている。日本でもそうなのだが、街並みの美しさは感じなかった。だらしないという印象が先に立つ。ゴミはあたりまえに落ちているし、敷石がはがれ、でこぼこし、基礎工事の段階からかもしれないが、道は歪んでいて水平を保てない。どうせやるなら、きちんとすればいいのに。そういう部分に美しさが現れる。自然の美しさ、というものはあるが、街をほったらかしにしておいても、やがて自然が美をもたらしてくれるのを期待するのは、気の長すぎる話だ。放置された街が美しくなる頃には、人間がいなくなっているだろう。
 このあたりから話はややこしくなってしまうのである。本来の美は、人工的なものの中にあるのか、自然の中にあるのか。それぞれの極端に二種類存在するのか。美はしかし絶対のものではなかったか。日本の金持ちは、自宅の庭に意匠を凝らして人工的な自然を再現して、眺めて愛でるが、これは人工か自然か。
 わからない。美について、考えることに切りがあるのか、わからない。打っちゃっておいて、他のことを考えたほうが、時間を有効に使えるのではないか。下手な考え休むに似たり。美しさなど、感応するものであるから、自分が美しいと思えば、それが美なのであるか。特に、現代は個性を大事にしてくれるから、自分なりの美を楽しんだほうが賢いのではないか。しかし、自分に致命的な欠陥があり、ゴミくずを鑑賞して喜んでいるだけであったら、どうしよう、と悩むのが普通ではないか。
 思い惑っていても、美しいものが見つかるわけではなく、美しいものを目の前にして、他にももっとすごいものがあるのではないか、という貪欲さに答えるためにも、要するに、数多くいろいろなものを見るしかないか、という結論に至る。ものが見たいならテレビを使えばいいではないか、という反論にも、カメラの後ろにあって、レンズが捕らえきれなかったものがそこに行けば見つかるはずだ、という同じような考えに帰着する。いずれもポジティブである、ということだ。私に限っていえば、「ポジティブじゃなければ、外国には行けない」(フィリップ・マーロウ風に)、のであった。


 ヴェトナムの女性は美しいと巷ではいわれていた。ガイドブックにも書いてあったと思う。私は日本の女性に飽きたわけではないが、それがどのようなものなのか、楽しみではあった。
 彼女たちとのいちばん初めの接近遭遇は、飛行機の中であった。ヴェトナム航空のスチュワーデスだ。海外旅行前の興奮やジェットエンジンの唸りなどと入り混じって、飛行機の中で私の心情は揺れ動いていたわけで、その眼から見て、スチュワーデスたちは期待にそぐうものではなかった。彼女たちは赤紫のアオザイを着ていて、エキゾティシズムを演出していたが、肝心のサービスが手抜きで、美しさもへったくれもない。乗客はほとんどが日本人であったが、たまにいるヴェトナム人の客に対して見せる彼女たちの笑顔は、日本人に対するそれと、質が違うのだった。外人に囲まれて小さくなっている同胞の不安を和らげるために、それは当然の笑顔だったのかもしれないが、贔屓目に見ても、日本人が好きではなさそうだった。しかし、その笑顔は、自分に向けられたのではなくても、笑顔そのものとしてみれば、素敵であった。顔の裏側からにじみ出る、自然な笑顔だった。オフィシャルではなかった。つまり、その制服としてのアオザイが、彼女たちにとっては窮屈そうに見えるのだ。(といっても、ヴェトナム航空の客室乗務員の半数近くは、男性であったが。しかも、男の方がてきぱき働いていた。)
 「スチュワーデスをしているような女性は、ヴェトナムではエリートの部類に位置するのかなあ」という眼で私は彼女たちを眺めていたが、エリートだからといって女性の魅力にも秀でているものでは、どこの国でも、ないだろうし、彼女たちでもって他のヴェトナム女性を測るのは浅慮である(ただし、彼女たちは平均より、明らかに背が高かった)。だから、飛行機から降りれば、念頭から切り離してしまおう。しかし、離陸前の救命胴衣の説明のとき、モニター画面を使わず、狭い通路に立った彼女たちが実際に装着して見せてくれるのは、照れくさかった。
 ヴェトナム女性に関するうわさとして、なで肩で、胸が小さくて、尻が横に広くてでかい、というのもある。さらに、そういう体形に合わせて生み出されたのが、アオザイであるという。アオザイは都会より田舎のほうで多く見かけた。私は日本で和服を着ている女性を街なかで見かければ注視してしまうが、それと同じようにアオザイは目立った。真っ白なアオザイを着て、背筋を伸ばして、自転車をこいでいく女の子の姿は、私の脳裏に刻まれている。昼下がりにスコールがやってきたとき、それはものすごい雨量であったが、びしょ濡れになって家路をたどるアオザイ女性たちは、そ、爽快であった。私はホテルのベランダから高みの見物だった。
 女の人のお尻が大きいといううわさはほんとうで、バイクに乗った女性のサドルの上の尻は、後ろから見れば、自転車のサドルに乗っているかのようだった。それでも身体は痩せている。腰のくびれは、チューリップの球根のようである。要は、子供を産みやすい体格であるのだろう。どうして、子供をたくさん産む必要があるのか、朝飯前にはわからない。また別の理由からだろうか。
 ヴェトナムの女性たちは、なかなかにお洒落である。日本の女性と同じく、ファッションに気を使う。髪にも高いシャンプーを使ってそうだし、服装は日本の流行に近い――それでも日本で同じ格好をしていればどこかが異質に見えそうだが、いずれにせよ、熱心である。散髪屋・美容院も多い。これは、また村社会という言葉を使うけど、自分と同質であるはずのまわりの人間がしていることは、自分もするべきだし、きれいな格好をしている女がいれば、自分も彼女と同じになれるはずである、と考えるのではなかろうか。だから、芸能人とかが使う化粧品は何か、いつも注目している。芸能アイドルは、いわば隣村の評判の美人に過ぎない。これは私のつたない観察であるが、アイドルタレントと街なかの女性のファッションは似通っているように感じられた。また、ときたま振り向かせるほどの別嬪な若い女性もいたが、男の眼を引くという状況には見えない(私の眼は引く)。ムラ社会では色目にウツツを抜かせば、近親相姦になる? 個性などという海のものとも山のものとも知れない概念はさておき、彼女たちのたゆまぬ努力、工夫は美しさに繋がるはずだ。
 それにひきかえ、観光客の白人女性たちの、みすぼらしい格好。身体はでかくて、迫力があるし。思い切って飛躍した意見を述べさせてもらうと、ヴェトナムで見かけた女性で――いい方が難しい――かわいい、魅力的な、きれいな、美人な、セクシーな、いい女な、のは、いちばんが日本の女の子で、ついでヴェトナム人、白人の順であった(無論、若い女の人たち)。ヴェトナムにとどまらず、日本において比べてもそれは同じではないか。とにかく、私には、日本にいる女たちのほうが美しく見えるのだ。もちろん仮想的な議論であって、平均をとればの話である。
 結局、ヴェトナムの女性は美しいといわれても、日本の女のほうがよろしく見えた。それは、私が保守的だからではないか、とか、日本の女のほうがカネを持っているから、とか、おしゃれの感覚がすすんでいるから、とか、これは特に男連れの女の子に関してだが、海外での心細い生活で頼りになるのは隣にいる恋人であり彼に手厚い扱いをしてもらいたいから――いい方が難しい――男としての能力を発揮して欲しいから、優しくして欲しいから、女としての媚態、とはいわずとも、愛情表現をたっぷり出して、いるから局所的に好い様子に見えたのか。逆に、海外を満喫しようとして全身全霊で生きているから、その生命力が輝いて見えたのかもしれない。





 ここからは、概ね時系列に沿って、ヴェトナムでの見聞を述べていきたい。
 と、いいながらまだしつこく、離陸前の飛行機の中。ヴェトナム航空のボーイング。スチュワーデスのことは既に書いた。ほかに触れることがあるのか。誤解を恐れず率直にいってしまうと、乗客がほとんど日本人であり、パイロットがヴェトナム人であるということについてである。そんなこと過剰に意識するほうが疑われるのだが、あえて、もしこの飛行機が墜落すれば、確実に政治問題だな、しかし、はて、ほんとうに日本政府は外交イシューとして取り上げるのだろうか、などと考えてみた。日本の外交力の無さは衆目の一致するところだが、相手がヴェトナムだったら、多少でもこわもてになれるものだろうか。だが、日本人観光客がヴェトナムでかなりいいようにあしらわれている(私も含まれている)のを見れば、日本人の代表である政府も、同じようになし崩しにされてしまうのではないか。けれども、日本政府を信頼するわけではないが、飛行機の墜落は誰も浮かばれないものであるからして(機体の残骸が海に浮かぶのが関の山)、相手の寝つきも悪くなるだろうし、乗客は死んでも死にきれないなどということにはならないだろう。人の感情など当てにはならないから、そのためにも保険がある。しかし、私は航空会社とどういう保険契約を自分が結んでいるのか調べていなかった。保険など存在していなかったのか。その辺をうやむやにしてしまうリスクと、契約のしおりの細かい字を解読する労力・コストとをはかりにかけて、私は努力を惜しむことにした。旅行保険には入っておいたし、平気だろう、と思ってみたが、第三者の保険屋が出る幕でもないのではないか、と考えは循環していった。つまり、私はいつも、飛行機に乗る前はナーバスになってしまうのだ。
 実際、墜落するのかどうか、であるが、偏見を前面に出していうと、南国人というと、怠け者が多いような思い込みがあり、うっかり、例えば砂糖と塩を間違えてしまった類のミスを、しでかさないか――これは自分の命にかかわることであるから、避けては通れない議論であると思う。それなら、真面目な人種として知られる日本人のパイロットであるなら安心できるのか。いや、近頃の日本人は、自慢できるほどの勤勉さをどこかへ失っているといわれている。これは私の旅行後のことであるが、日本の航空会社の副パイロットが、ホーチミン空港で仕事前の景気付けにウイスキーを飲んで、ヴェトナム人の空港職員に注意されたという事件があった。彼のせいで離陸が数時間遅れたという。一体どこの国のパイロットなら信用できるのか。これはもう、他人を信じていいのか、というレベルまで一般化される議論かも知れず、逆にむしろ、ヴェトナムのような発展途上の社会主義国では、エリートがまさに選良と呼ばれるに等しく、パイロットなどという高級な仕事についている人は、エリートが消滅した日本の感覚では、パイロットにしておくなどもったいないといった人材で、彼が操縦するなら、個人的に信頼できるのではないか。――そこまで疑問に思うなら、取材でもして調べてみろ、というものだが。
 パイロットはよくても、また機体が上等でも、どこの工場で機体の整備しているのかも――疑いだすと切りがない。私は、まわりの日本人の乗客の顔を見渡してみた。年齢層が高い。まわりが年寄りばかりであるという、その一点をあげつらえば、こんな死にぞこないと一緒に落ちるのはいやだな、となるが、彼らを個人個人観察すれば、善良な慈しむべき人たちに見える。若い奴のほうが不遜で同情できない。とにかく、この人たちとなら一緒に死ねると思えるように、少しでもよいところを探そうとした。
 飛行機は関空を飛び出した。関空からの離陸は、昨年沖縄に行ったときもそうだったが、窮屈そうに螺旋しながら高度を上げていく。操縦が難しそうである。すると、上昇の途中、がくっ、と機体が急降下した。体感では、かなりの高さを落ちたようだった。このまま落ちつづけるのか。私は息が止まった。客室のあちこちから、悲鳴が上がった。まだ上昇の途中とはいえ、この高さからだと、死ぬかな、幸先の悪いフライトであった。飛行機はなにごともなかったかのように、体勢を整えた。パイロットの言い訳はなかった。これはパイロットが下手くそであると判定してもよい操縦ミスではなかろうか。
 すぐに昼食が出された。私は空港で機内食は出るのかと確認しておき、腹を空かしておいたので、残さず食べた。ただ、何を食べたかは思い出せない。味は悪くなかった。
 私は二人掛けの通路側に座っていた。窓側、つまり私の隣は女の子だった。年のころは二十歳くらい。私ははじめ彼女を見たときヴェトナム人だと早合点した。というのは、独りだったからだ。普通、日本の女の子が海外に行くとき、誰かと連れ立っていくだろう。隣の彼女は留学生か何かで、一時的に帰国するのだろうと私は予想した。彼女の外観も、ヴェトナム人といわれても不思議ではないと見なされた。これは、私にヴェトナム人のデータが不足していただけか、それともヴェトナム人に対する先入観がないといえるのか、実は彼女は日本人だった。それがわかったのは、ヴェトナムの入国のための黄色い書類を書いているときだった――隣り合わせた縁なのだから、もっと早く、顔を合わせたときに挨拶を交わしていればよかったのだが、果たして言葉が通じるのかしら、と弱気になったというのは言い訳で、単に私の人見知りする性格の仕業だった。また、「彼女のほうから、声をかけてくれればいいのに」と開き直れるほど私は傲慢ではない。
 私が書類を書き始めると、彼女も紙を取り出した。書くでもなく、じっとそれを眺めている。私は、ひょっとしてペンがないのか、と気を効かして、「書くもの、貸そか?」と提案してみた。日本語は通じなくても、身振りで伝わるだろう。彼女の返事は素っ気なく、
「いえ、大丈夫です」
 私は少し憮然としたが、彼女の日本語は、どうやらネイティブのそれらしく、日本人であることがわかった。それなら、黙って並んでいるのも気まずいので、話してみようか、と機を窺ったが、取り付く島が小さかった。
 なぜだろう。私は怪訝な人物に見えるのだろうか。彼女は、海外に行くにあたって、用心深くなっているのだろうか。独り旅らしいし。
 独り旅? これは、まかり間違って、話の弾みで(話ができればの話)、私とふたりで同道、全行程ではなくても旅程の一部をともに過ごすという流れに、向かっていかないとも限らない――気圧の低下で、妄想勝ちになっている。しかし、彼女に魅力がないというのではないが、誰かと一緒に旅行するというのは、まったく想定外で、事件としては面白いかもしれないが、望まないものではあった。疲れそうだから。
 私は覗くでもなく、様子をちらちら見ていると、書類の「滞在先住所」という項目を埋めるためだろう、彼女は絵葉書を取り出して、それの送り主の住所を書き写し始めた。向こうに知り合いがいるのだ。絵葉書は紛れもない日本語で書かれていたから、日本人の、しかも文面からして、彼女と同年代の友人らしい。独り旅でないことがわかった。
 ところで、かすかに驚いたのは、彼女のパスポートが、日本国発行ではなく、大韓民国となっていることであった。あれっ、韓国の留学生か何かかしら。私には、まず留学生ではないかと疑ってみるくせがあるようだが、絵葉書に書かれた宛先の名前は、日本人風であった――私はいったい、どこまで観察しているのだ、いやらしい――ことからして、在日のひとであるようだった。私は思わず話し掛けていた。
「それ、そのパスポート、韓国って、なってるけど、きみ、韓国の人なんか。日本人やと思とったわ」
彼女は振り向いて、私の顔を数秒見たかと思うと、また前を向き書類に視線を戻した。
「ええ、そうなんです。在日韓国人なんです」
言い方があいかわらず、投げやりなので、私はまずいことでも訊いたかと、怯みそうになった。私は、在日の差別問題があるのを知っているし、もうだいぶなくなっているのだろうと推測していた。日韓共催のワールドカップでは、韓国の勝利に沸く在日の人びとの映像がテレビで放映されていた。また、破綻した朝銀に当局の捜査員が乗り込んでいくとき、建物の入り口を在日北朝鮮の人たちだったはずだが、バリケードのように固めて、日本の役人に対して、
「帰れ、帰れ」
とシュプレヒコールをあげているのも見た。日本語で怒鳴り散らすその北朝鮮人をテレビで見た私の友人は、朝銀を使って北朝鮮に不正に送金していた事実を指摘しながら、「あいつらこそ、帰ればいいのだ」と憤慨していた。
 正負のエネルギー、いずれにせよ、みな溌剌と活動しているようだから、私は上のような推測をしていた。しかし問題はデリケートである。言葉遣いにすら気をつけなければならない。
「そうか、君はただの日本人やないわけなんやな。おれなんかただの日本人やで。でもそれも何となくいややから、自分で、在日日本人と呼んでみたり・・・・・・、まあ、これはある作家の受け売りやけど」
彼女は再び振り向いて、私の顔をちらっと見て書類に戻った。前と違っていたのは、彼女の顔に仄かな微笑が浮かんでいたことだった。しかし、やはり無愛想である。私はどうやらわけのわからないことをいう奴だとして、距離をおかれたようだ。私は機内サービスのウイスキーをちびちび舐めていた。フライトアテンダントに、「ウイスキー」と注文すると、水割りではなく、オン・ザ・ロックで出てきた。私は気が小さいので、取り替えてもらうことができず、ロックでも少しずつ飲めば同じだ、と辛抱していた。ただし、ウイスキーは美味かった。バーボンだった。バーボンはアメリカ人が粗雑に作った酒というイメージがあって、敬遠していたが、見解を改めることにした。というよりも、ヴェトナム航空の用意しているウイスキーが上等であるということなのだろう。私は早速酔いの回ってきた頭をもてあまし、眠ることにした。ごそごそ、体勢を整えていると、横から声がかかった。
「あの、そのガイドブック、貸してもらっていいですか」
「えっ、ああ、もちろん」
ガイドブックには書類の書き方まで載っているのだが、彼女はまだ書類に取り組んでおり、私のガイドブックのほうが丁寧な説明だと見て、それを参照にしているのだった。
 彼女も書き終えると毛布をかぶってしまい、それから特に何という会話を交わしたわけではなかったが、彼女のほうこそ気を遣っていたのかも知れず、旅行の出足から気疲れさせてしまったかと、気に病まないではなかった。


 やがて飛行機はヴェトナムに降りた。まだ片手で数えられるほどしか飛行機に乗っていないが、着地の瞬間というのは、思いのほか乱雑な衝撃がある。また、機体が発する、エンジンの音かブレーキの音か分からないけど、必死な感じの機械の悲鳴が聞こえるのも心細い。ホーチミン空港の滑走路は私の気のせいかもしれないが、舗装がゆるいようだった。窓枠の外にはヴェトナムの土地が広がっている。それがヴェトナムであると知覚できるのは、この飛行機がヴェトナム行きであるからに過ぎない。この飛行機の中から覗く眼には、どうしても先入観が宿る。滑走路のアスファルトのひび割れた隙間から、雑草が生えていそうな――確認した訳ではないが、印象はあった。それを助長するのは、どんよりとした曇り空である。山も高い建物もないから余計にそう見えるのか、雲のかたまりが頭の上にのしかかってくるように低く見えた。雨粒は落ちてこないが、今にも水を吐き出したそうな分厚い雲である。雨の在庫はふんだんにあるが、降らせるのが面倒だから水が溜まるに任せている。排水タンクは、それでも老朽化しているのでその継ぎ目から時おり水が漏れて出て、なん滴かの雨をこぼしてしまう。
 雑草は濃い緑色を呈する。それは液体の雨が降るからだけではなく、空気中の湿気で十分なのではないか。飛行機から出てまずエアコンに慣れた体が感じるのは、その湿度であり、用心深い私は空気の組成までも、自分の体にすぐには馴染みがたいものなのではないかとことさらに思うのだった。私は要するに、早くも気圧され気味だった。
 空港を出る前に、ヴェトナム・ドンを手に入れておくべきだという強い思い込みがあり、証明が足りないのと曇っているのとで薄暗い空港施設内に両替所はないかと探した。屋台のような一角があり、そこでどうにか20ドル分両替をした。数字を検算するゆとりはなく、相手次第になっていた。落ち着かなくてはならない、と自省することもなかった。空港から街なかまで距離があることは知っていった。空港の出口に私が顔を出すと向こうから最初に近寄ってきた男が運転するタクシーに乗った。その男は空港内にいた官僚ヴェトナム人とは打って変わり、ガラの悪いおっさんだった。自分のクルマのまわりに休憩中のほかの運転手がたむろしているのを、一喝のもとに追い払った。何を意味しているのはわからない、日本のそれとは異質なその怒鳴り声は、むしろ私の胸に響いた。
 タクシーから見られる街の風景は、そこが異国であることを過剰なまでに示していて、衝撃的なニュースがテレビ画面に映っているのを見たときのように、私の目は奪われ、ついでに私の思考も強奪され頭はしばらく働かなくなった。しかしそれで自分が外国にいるという実感が湧いたわけではなく、ただの映像を眺めているだけではないかと頭の奥のほうが主張しているのだ。それはリアリティに溢れた、高画質で未編集のビデオ映像である――これで外国を実感できなければ、最後までこのままなのではないかという危惧は、後付けながら思う。あいにくタクシーの運転手は、普段から私は乗り付けないためか、ただのよそよそしいおっさんに過ぎなかった。ただ目的地に着いたときのおっさんは豹変し、メーターの数字を私がしっかり確認する前に消してしまい、ヴェトナム語でワンワンまくし立てるので、戸惑う私はあえなくドルで支払ってしまった――何となく皺くちゃのドンがお金に見えなかったせいもある。恥ずかしながら、少し多めに払ってしまった。『地球の歩き方』に、空港からホテルまでのタクシーがこの国での最初の勝負であるから、気を引き締めていかなければならないと書いてあるのをあとで読み、穴があったら入りたい気持ちがした。たかがガイドブックに私の行動が既述されているとは。侮るなかれ。予習不足が祟った最初の例である。
 ホテルがいくつか立ち並んでいる通りに降ろしてもらったわけだが、タクシーに乗ったときと同じく、私はいちばんめに入ったホテルで、部屋をとってしまった。そのホテルには、老人がバスに乗車するときのようにのろのろしたエレベーターがついていた。部屋にはエアコンとテレビと扇風機と湯の出るシャワー。はじめだから贅沢してもよかろうというつもりだった。しかし、はじめの夜、寝つきの悪い私は旅先では毎度のことながらなかなか寝入ることができなかった。



 これは私だけではないことだろうが、街を歩いているとヴェトナムの人々はひっきりなしに声をかけてくる。私にコンタクトをはかろうとする彼らのほとんどすべてはバイクタクシーであり、金儲けが目当てであり、いちいち反応していては前に進まないので黙殺すればいいのであるが、特にヴェトナム入国当初の私は、まだここがどういう国(どこの国) であるかもわからず、平素にかわらず、近寄ってくる人すべてに慈しみの心をもって接しようとしていたので、声のするほうに顔を向け、あるいは足を留めて応対していたのだった。
 大げさにいえば、私は日本を代表してヴェトナムを訪問しているつもりであった。私の一挙手一投足には日本が反映され、私を通して、ヴェトナム人は日本がどういう国であるのか参考にするはずである。私は私設外交官のつもりであった。もちろんボランティアである。
 すべてのヴェトナム人が私からカネをふんだくろうとしていたわけではなく、時にはまったく虚心に、あるいは好奇心でもって私と接近遭遇を試みる者たちがいた。それは子供たちである。メコン川をボートに乗って巡航しているとき、沿岸で生活をしている子供たちは、私の視線に気づくと、しばらくぼんやり見つめあったあと、手を振ったりする。私は手を振って挨拶を返す。反応を得ると子供たちは喜んで歓声をあげたりする。無邪気である。屈託がない。そこはメコン川の支流でジャングルの奥深くという感じであり、いわば文明の恩恵の器からこぼれ落ちた人ががんばって住んでいそうだと先入観を持っていたが、それは見当違いで、貧乏どころか裕福そうに見えた。電線も配されているし、インフラも整備されている。そんな中で育てられた子供たちである。さらには、ヴェトナム人は子供を大切に育てる。私は子供たちと手を振り、ささやかな意思疎通をし、不慣れな嬉しさがこみ上げてくるのである。
 子供たちは私設外交官としての私の職務に張り合いを持たせてくれる。私は笑顔をふりまく。子供たちも笑顔である。好感触である。彼らが成長したとき、きっと日本に対してよい印象をもってくれているに違いない。彼らの中に将来、仮に日本と近接した仕事、例えば外務省の官僚になったりする者が現れないとしても、国民感情として、日本に親しみをもっているのといないのとでは、国際的な付き合いにもかかわってくるはずである。ヴェトナムが日本にとってどれほど重要な国であるのか詳しくは知らない。しかし、卑近な表現でいえば、日本が困っているとき助けてあげようと、あるいは助けないまでも邪魔はしないでいようと、してくれるだろう。何十年経っても同じアジアに所在するもの同士、仲良くしたいものであるし、何十年後かに国を担っているのは、この子供たちである。私は彼らに予防外交をする。今の日本外務省は当てにならない。日本の外交官は腑抜けである。あいつらはグローバルな視点もなければ、血の通った外交もできない。ここはひとつ、民間が奮起するほかはない。私は河岸の子供たちの笑った顔を見て、成果は上々であるなとほくそえむ。
 しかし、冷静になってみれば、子供たちが私を指して日本人であると認識しているかどうかの保証はない。ただの異人さんであるかもしれない。これでは肩透かしを食らったようなものだが、私はめげないのだ。彼らがつとに日本に対する親しみを抱いてくれればそれにこしたことはないし、それが大きな目的ではあるのだが、多少徒労に終わる面があっても、けちけちしない。私は日本の役人ではないのである。ひとつの目標しか目に入らない、視野狭窄の役人根性など唾棄すべきである。私がなに人でもよいではないか。子供たちにとっての広く外人に対する抵抗感が減退してくれれば本望なのである。成人した子供たちが、すべての外国人に心を開いてくれれば、世界が間違った方向へ向かうことはないはずだ。
 だがしかし、ひょっとすると、子供たちにとって、私は異人さんは異人さんでも、まったく見知らぬ人というレベルでしか見えていない可能性もある。子供たちの頭の中で、私はただの外部の人間として抽象化されているのではないか。私が手を振って喜んでいるのを見て、「あいつは敵ではない」 と、安心しているだけではないのか。
 子供の心の中を見透かしたつもりで欣喜雀躍するのは拙速だ。自分の子供の頃を思い返してみる。―――適当な思い出がない。小さい私は、たまに外人を見たとしても、積極的に干渉しようとはしなかった。遠くから控えめに眺めているかして、遠慮していただけだ。児童心理を分析する術を持たないが、前近代的な怯えじみたものはなかったのは確かである。
 よい例証にはならなかったが、私設外交官はくじけない。沿道の子供たちへの微笑を絶やさず、手を振りつづける。子供たちは私が手を振ると喜ぶ。私は天皇のようである。子供たちにとって陛下も私も同じようなものである。違いは、私がよれよれのティーシャツを着てボロ舟に乗っている点である。いや、それがすべてであり、かつ子供たちを見くびってしまっているのかもしれない。子供たちはもし仮に親善訪問した天皇陛下を前にすれば、態度を改め、厳かに背筋を伸ばすかもしれない。私設外交官は非力である。

 ヴェトナムのすべての人たちに愛情をもって接する。
 これは外交官としての私の心構えであった。まあ、身構えるまでもなく、博愛の精神は文明人として当然備えておくべき器量である。いうまでもない。ヴェトナムの国はお世辞にも文明が行き届いているとはいえず、先進国である日本から発展途上国に来たものが、優越感に浸って居丈高になり、背伸びしながら見下して歩いているような、そわそわとした気持ちが私にはなかったといっても、うそにはならない。私は極めて謙虚な姿勢であった。バイクタクシーが、
「ホォイ、オイ」
と奇怪な、不躾な声で勧誘してきたとしても、私は無視せず「いらない」 といって拒否する。しかし、バイクタクシーの客引きの奇声は、たしかに道の向こう側からも聞こえるよく響く声ではあるが、客を客とも思わない失礼な発声でもある。しかもそのように無遠慮な、なめたような声のかけ方をしているのは、私に対してだけで、白人の観光客などには御者然としてへりくだっているように感じられる。これは妄想であろうか。日本人は馬鹿にされている。ただし、日本人である以前の問題として、私が独りで歩いていたことも大きいだろう。また、私は自分でいうのもなんだが、優しく柔和で、穏やかで理知的な人工的な顔をしているので、ヴェトナム人からしても、泥水をかけても野蛮に怒り狂いそうに見えないのかもしれない――こういう資質が外交官としてふさわしいのかどうか。あるいは、内に秘めている慈愛の心が外見に表出してしまっているのかもしれない。そこをつけ入れられて、たやすくひと仕事しようというバイクタクシーが近寄ってくるのではないか。
 ヴェトナムに入って二三日目、ミトーという南部の町にいたときのことである。この街でメコンクルーズに参加するかどうか(次のカントーという街にもメコン川くだりはあるのだ)迷いながら、ぶらぶらしていると、雨がぱらぱら落ちてきたので雨宿りに木下に潜った。雨脚は強くなるだろうか。空を見上げているとシクロに乗った男が手を挙げて合図を寄越した。赤い野球帽をかぶったその男は雨が降っているのに気づいていないかのようである。その赤帽は客引きのようでありながら、「乗るか?」という素振りは見せず話し掛けてきた。
「日本人か?」
赤帽は英語を知っているようだった。ただしひどくブロークンな英語でほとんど原型をとどめていない。『ジャパニーズ』は『ヤパニー』であった。私は、そうだ、と答えた。
「あー、トウキョからか?」
「いや、大阪だ」
「おー、オサカか」
厳密には京都であるが、空港は大阪であったし、大阪のほうが知名度もあり通じやすいかと考えて、そう答えておいた。案の定、赤帽は大阪を知っているようだった。
「オサカに俺の友達がいるんだ」
「ほんとうか?」
と、問い返しながらも私は半ば信じていた。
「彼は日本でウォークしている」
「なに?」
「ウォーク、カネを稼いでいるんだ、ハタライテ」
『work』の発音が聞き取れなかった。ときどき英語を喋るヴェトナム人に出会うが、それは観光業に従事しているからであり、英語を喋る人口は多くないと思われる――けっこうたくさんの人が英語を喋るような印象があるのは、観光客である自分に近づくのが仕事だからである。
 しかし私はその赤帽が必死に英語を喋ろうとしているのを見ても、日本人の私が珍しく、また英語が通じて喜んでいる話し好きなおっさんだと思わずにはいられなかった。あわよくば私からカネをふんだくろうとしているはずだ、と頭の一方では思いながら、疑心暗鬼を前面に出すことはできなかった。それは私が彼らに愛情を持っているからであり、また反面、話し相手が欲しいような、あるいはこれも旅行の一部だと功利的に考えてもいた。それに赤帽の振る舞いも、悪そうには見えなかった。肌の色は濃い褐色で、目が茶色で、メラネシアとかそういう系統の血が流れているようだった。
「ひとりか?」
「そうだけど」
「ひとりで歩くのは危ない、盗む奴がいる」
「そうか」
私は赤帽の言うことを聞いて、注意しなければならないなと気持ちを新たにした。私は素直だった。
「いつまでヴェトナムにいるんだ?」
「だいたい二週間で帰るつもりだ」
「ミトーに二週間か?」
「ちがう、そのうちハノイの方にいくつもりだ」
「あー、そう・・・」
男は言葉を途切れさせた。何か考えているのか、言葉を探しているのか。雨は本降りになる前にやんだようだ。私は赤帽とそろそろ別れたかった。少しばかりしつこいような気がし始めていた。昼飯も食わなければならない。言い出しかねていると赤帽がまた口を開いた。
「おまえはトウキョかオサカか? ひとりか? 危ないぞ」
また同じ質問である。しかし私は律儀に大阪だと答える。赤帽はボキャブラリーの限界に達しているのかもしれない。
「もう行くよ、ありがとうね、腹も減ったし、それじゃ」
と私は離脱を試みた。赤帽は食いついてきた。
「昼飯? どこの店だ。いい店を知っているんだ、連れて行ってやる、乗れ乗れ」
赤帽は自転車にまたがった。自分で探すから、いい、といっても、赤帽は私を店に連れて行くのが既成事実であるかのように、「乗れ乗れ」とうるさい。私が歩き出そうとすると自転車で回りこんで付きまとう。結局私は根負けしてシクロに乗ってしまった。私も初歩的なことは予習していたので、乗車賃のことを尋ねてみた。驚くべきことに、赤帽は、
「up to you」
と答えて澄ましている。私は信じられなかったが、かといってただ乗りするのも悪いので、いくらか包まないと駄目だろうなと忖度しはじめているのだった。歩き疲れていていたのか、シクロは心地よかった。
「日本人は友達だ」
赤帽は自転車をこぎながら言った。過去に余程日本人に親切にしてもらったのだろうな、と考えていた私は想像力が足りないのだろうか。赤帽はときどき後ろから身を乗り出して笑いながら建物を指差してなにやら説明している。気のせいか、赤帽はリラックスして、ますますわかりにくい英語を話すのだった――これはあとになって分析できたことだが、客を捕獲することに成功して気を緩めているだけであったのだ。シクロは街中を練りながら進む。どこがどこだかわからない。私はまともに風景を鑑賞していられなくなってきた。ちゃんとレストランに向かっているのだろうか。赤帽がまた話し掛けた。
「ユアー ビューティフ」
「あん?」
この男は、私が美しい、といったのか。咄嗟に思いつくのは、これはまずい、ということだった。この男はホモかもしれない。私は一年前の沖縄での出来事を思い出していた。どこかへ連れ込まれるのではないか。逃げようかしら。私は鞄を持つ手に力を込めた。襲いかかられたらどうしよう。赤帽の体は小さい。格闘になればぶっとばすこともできそうだ。それに今は街なかを走っている。しかし、こいつがホモだというのは早とちりにもほどがあるのではないか。彼らからすれば、先進国の日本人というのは美しく見えるものかもしれないぞ――自惚れはなかったといえばうそになる。私は動転していた。しかし、これもやがてわかったことだが、彼らのいう『ビューティフル』というのは、シンプルに前向きな感情を既述しているに過ぎず、ナイスとかグッドに近い意味なのである。私がハノイに行くというと、ハノイはビューティフルだ、と返す。いわば、彼は形容詞をほかに知らないのだ。だから赤帽は単純に、おまえはいいやつだ、といって私をおだてただけなのだった。
「レストランはどこなんだ」
私は焦れきってしまった。街なかのヴェトナムの人々は、シクロに乗る私を珍しそうに眺めている。これでは私が観光に来ているのか、観光されに来ているのか、どっちか判別できない。
「おれの家がすぐそこなんだ」
赤帽は言った。なにっ、やっぱりおれを密室に拉致監禁して、縄で縛って―――シクロは路地を通り、未舗装の草の生えた道に乗り入れた。
「stop!  stop!」
私は英語で叫んでいた。シクロは止まった。目の前には物置のような小屋があった。
「おれの家だ」
どう控えめに見ても、掘っ立て小屋であった。壁は木の板を並べただけで、とりあえず屋根は載せてあった。私はシクロから降りた。赤帽は家の中に入ろうとしている。子供がふたり、男の子と女の子、どこかから現れた。
「おれのキッド(子供)だ」
子供たちは私をじろじろ眺めている。私が笑いかけると、つられてニヤニヤして、ふたりでじゃれている。隣の家(のように見えた)から女性がやってきた。ノースリーブのワンピースを着て、髪はぞんざいに纏め上げられている。
「おれのワイフだ」
私は胸をなでおろした。奥さんがいる横で、暴行をはたらいたりはしないだろう。奥さんはよく観察しないとわからないほどうっすらと微笑んでいた。私は子供たちをカメラで撮った。奥さんは私のカメラを見ると静かに姿を消した。赤帽が家の入り口から手招きしている。私はまだ少しためらいがあったが、ついに足を踏み入れた。家の中は暗かった。隅のほうには何が置いてあるのか判然としなかった。かなり古いテレビが置いてあるのはわかった。私は地べたに敷かれたマットレスのようなものの上に座らされた。私はくつろげなかった。これが平均的なヴェトナム人の住まいというのだろうか。広さは六畳ぐらい。ふと気づけば床には水が溜まっている。地面にタイルを敷いただけのようだ。子供たちが犬を連れて入ってきた。子供たちは、例に漏れず、屈託がなく、笑い声は澄み渡っている――誤解のないようにしなければならないが、快活な子供たちを書き記すことで、貧乏でも健気な一家、というのを物語ろうとしているわけではない。家の中に悲惨な印象はまったくなかった。ただ、私の眼から見て、不便だろうな、と思うまでである。
 赤帽は紙切れを取り出した。ポラロイドだった。
「まえにおれが彼女のガイドをしてやったんだ」
写真に写っていたのは、なかなかきれいな日本の女性だった。いかにも女子大生の顔をしていた。赤帽は次々紙切れを私に見せる。ひとつは名詞であった。山梨の大学の教授の名前が書いてあり、裏には、「この人は信頼できます」 と日本語で書いてある。他には、写真もあったが、それには白人の男が寝そべっているのが写っていた。
「彼はおれの友達で、オーストラリア人だ」
その白人は長髪で、刺青をしていた。私は、へえ、と思いながら見ていたのだが、それがでっち上げだとはそのとき気づいていなかった。後で『地球の歩き方』を読めば明々白々に「日本語の手紙に気をつけろ」 と書いてある。予習不足の私はまんまと騙されていたのだが、しかし、まるっきり嵌められたというわけでもなく、赤帽の話にうなずきながら、胡散臭いものが思念から消えることがなかった。日本語の文字は歪んでいたし、白人はいかがわしかった。いずれにせよ、あの大学教授の名詞はどういう経路で赤帽の手に渡り、あの女子大生はいったい誰なのだろうか。
 ただし、正直なところ、それらの『手紙』は私を油断に導いた。それに加えて、愛情をもって接している私と、金づるを逃すまいと一生懸命愛想よくしている赤帽が、しばらく一緒に過ごしているだけで、打ち解けた感じが生じないわけにはいかなかった。私は、子供たちの写真を送ってやろうか、とまで提案していたのだった。これでは篭絡されたといても弁明できない。まるで北朝鮮に対する日本外務省のアジア局のようである。しかし赤帽は私の申し出に対して、聞こえなかったような振りをしてうやむやにした。何かまずいことに触れられたかのようだった。善良な私は彼の態度をこう解釈した。日本から郵送するにも、彼は住所を持っていないのではないか。彼はそれについて引け目を感じているのではないか。赤帽の家は、空き地に日曜大工で拵えました、というような雰囲気がないわけではなかった。そんな家に番地は付与されないのでは――これはまあ、大きなお世話だったのだろう。
 私と赤帽は家を出て、ようやくレストランにやってきた。レストランは町外れにあり、かなり大きな構えで、食卓は屋外にあった。私が来店すると、店の者たちが取り囲むようにして現れた。ほとんどが女で、少年が大小ふたり混じっていた。赤帽はこの店の馴染みのもの、つまりよく観光客を引っ張り込んでくれるのだろう、店の女と親しげに話している。私は不安で胃が痛くなってきた。
「値段はどのくらいするんだ?」
私は、値段のことをうんぬんするのは野暮かな、と体裁しながらも、こらえきれずに尋ねた。
「高くはない」
赤帽は答えた。もうここまで来れば、仕事にけりはついたとばかりに、態度が素っ気なくなった。店の女が、料理は何にするか私に尋ねているのを、赤帽が通訳した。何があるのか訊き返すと、鶏肉とか、魚とか、蛇とかいろいろあるという。私はいちばん安そうな魚にした。すると、少年の大きいほうが網を持って再登場した。魚は生け簀、といっても地面に掘られた池、というか溝のようなところに飼われているのだった。少年は網で魚を掬うと地面に放り出した。魚は大物だった。魚は地面の上でのたうち回っている。少年は木の棒で魚の頭を、ぱこーん、と、どついた。魚はおとなしくなった。
 私はテーブルについた。あまり食欲はなかった。赤帽はどこかへいってしまい、かわりに女が私の隣に座った。私は、その女が何者なのか、どういうつもりで私の隣にいるのか、わからなかった。私は、この女は店の家族のもので、暇つぶしに外人を近くで見ようとしているのかな、くらいに考えていた。女は私の顔を見てニコニコしている。私も笑顔を返す。女は、目元がキャサリン・ゼタ・ジョーンズに似ていなくもなく、美人でなくはなかった。笑うと、がっしりした歯並びが覗けた。歯はタバコの吸いすぎで黄色かった。化粧が濃いくて顔色が白かった。
 私は女に、英語が喋れるか、と訊いた。女は私が何を言っているのか既にわかっていなかった。私は『地球の歩き方』を取り出して、会話集のページを開いた。とりあえず名前を聞いてみた。ガイドブックどおりに発音したつもりだったが、通じず、書かれた部分を指で示すとようやく意味が通じた。彼女の名前は・・・、もう忘れた。というよりも、会話しているとき、もう頭に入っていなかった。ヴェトナム人の名前は覚えにくいのだ。
 次に、年はいくつか、尋ねた。十九、だという。見ためより若かった。普通、ヴェトナム人は若く幼く見えるものだが、その女は逆だった。
 次は何を聞こうかと項目をたどっていると、女は私の手を握ってきた。女の手は温かく乾いていた。当然、私はぎくりとする。はじめの疑問に戻る。この女はどういうつもりで私の隣にいるのだ。私はただ昼食をとりに来ただけ(のつもり)だ。女は『地球の歩き方』を覗き込みながら、私に体を寄せてくる。これは単純に彼女が馴れ馴れしい性格なのだと、私はそのとき解釈していた。たまたま、彼女が男への依存心が強い女だというだけ。赤帽に対する彼女の態度も、店の中でひときわ親密さに溢れていた。こういう女はよくいるだろう。私の手の上に載せられた彼女の手は、擦るように動いたりもする。私がハンサムだといって褒めちぎる。私が他の女とやり取りしていると、彼女は席を外し、どこへいったかと思っていると、突然私の背後から抱きついてきた。ついでに私の胸元をまさぐるのだった。背中には彼女の胸が押し当てられた――注・ヴェトナム女性は胸にパットを入れていることが多いらしい。彼女は私に向かって、
「アイラッユー アイラッユー」(アイラブユー)
と連呼したりする。
 さすがに私の心中は穏やかではない。私は気を取り直すために、椅子に腰掛けなおした。だいたい、盛り上がっているのはこの女だけで、他にも休憩しているのかテーブルに座っている女はいたが、彼女たちは退屈そうに傍観しているだけだ。
「またいつものやつが始まった」
あるいは、うすうす気が付きつつあったが(『愛情』が奥歯に挟まっているせいで、私は対人における判断力が鈍っていて、後手後手にまわっていた)、彼女はホステスに過ぎず、まわりの女性たちは、
「お勤めご苦労」
と思って眺めているだけなのではないか。私はあくまで、こちらから彼女に触ることはしなかった。彼女の陽気なコミュニケーションは、一方通行だった。うっかりこちらから触ると、勘定に数字が積み上げられる恐れもあったし、それより怖いのは、
「うちの娘に手を出しやがったな」
という、ムラ=家族の反発だった――これは私の偏見も含まれているようだが、しかし、日本でも娘さんを傷物にされた恨みの感情は存在するし、礼儀や形式の裏側にある理念はもともとそういうものだろうし、ヴェトナムではそれが比較的強いのではないか――やっぱり偏見か。
 しかし、彼女の行為がすべてビジネスライクだったのか、疑問なのは、しばらくしてガイドブックのネタも尽きて、会話が途切れがちになったころ、同時に、彼女の熱意も潮が引くように冷めていったことだった。仕事だったら、責任をもって、どうにかして接待しようとするものではないか。すると、彼女の行為は、気まぐれな好意だったのだろうか。それとも、ただ、仕事をサボっていただけなのか。
 やがて、魚が料理されてやってきた。丸揚げである。魚を前にすると、私は忘れていた胃の痛みを思い出した。これはどうにもただでは済みそうにない。赤帽は魚を指して、
「死んじゃった」
と嘆いてみせた。あんなに元気に飛び跳ねていたのに――これはヴェトナムの庶民的な死生観の一片だろうか。
 どうやって食べればいいのかと怯んでいると、隣に別の女が座って、魚の身をとり、ライスペーパーでいちいち包んでくれた――私は追い詰められているのだった。
 魚は、胃が縮んでいるにもかかわらず、おいしく食べれたのだが、その骨が見えてくるにしたがって、気は滅入っていくのだった。食事中は例の女は席を外しっぱなしだった。彼女の役目は食前の退屈を紛らせることだったのか。交代でやってきた女は、肉づきがよく、押し出しの強いタイプだった。私は満腹になり、放心状態に陥った――。
「ワンドーラー」 (1ドルおくれ)
などといいながら、私をからかう小さい少年を相手に、食後のお茶を飲んでいると、ついに請求書がやってきた。その額を見たとき、愕然とした私は茶を噴き出しそうになり、もちろん眼も疑った。何かの間違いではないか。昔、テストの答案を返されて、予想外に悪い成績だったとき、他の生徒の答案を誤って受け取ったのではないかと、名前の欄を確認する――そういう気分で、頭の中で私はドンを円に換算した。何度計算しても、約1500円という結果になる。「なんやねん、これ」 渋っている私を見つめる店の女の視線は冷たい。ボッタくりは明らかであるが、ごねれば、怖いお兄さんが登場するかもしれない。私は赤帽のほうを見た。赤帽は目を逸らしつつ、苦笑いしている。
「高いなあ、これ」
私は請求書を赤帽に見せるようにしながら呟いた。
「ノー タカーイ」
『高い』という日本語は通じるのだった。赤帽がヴェトナム語交じりの英語でいうには、魚は100グラム100円の値段で計算すると最初に説明したはずだ、だからお前はカネを支払わなければならない、という。
 私はテーブルの上の請求書を凝視しながらしばらくくよくよしていた。支払ったからといって破産するような金額ではなく、煩わしいからさっさと金を払ってこの場を放り出してしまったほうがいいかとも考える。ホステス付きで腹いっぱい食べたのだから、そのくらい払うのは当然だともいえる。しかし、それは敗北を意味し、ありきたりな間抜け日本人観光客のひとりに成り果ててしまう。それにヴェトナムの健全な商道徳の育成を妨げることにもなる。といっても、どうしようもない。うんうん唸りながらなかなかカネを払おうとしない私を見て、店の女たちはあきれてものも言えなくなっている。進退極まったと見て、私は言い値を払って店を出た。



 町から町への移動はバスか列車が用いられることが多いが、バスには二種類あり、旅行会社が運行している観光地と観光地を結ぶオープンツアーバスというのと、ヴェトナムの人が生活のために使っている路線バスがあるが、観光客向けのバスはエアコンも効いている日本でも走っているようなバスで乗り心地はよく、現地の路線バスは外国の払い下げのいつ廃車にしてもおかしくない車体のバスで値段は安い。私は高い昼食を食ってしまった反省もあり、安いオンボロバスにヴェトナム人に紛れて乗っていた。
 しかし、サービスは最低である。定時に出発しないのはもちろん、決まった停留所もないから乗客は道端で手を挙げて乗せてもらうので、頻繁に停車して苛々する。エアコンはいちおう付いているようだが老人の咳きのように非力で窓を開けざるをえないのだが、そのかわり埃がひどく、眼と喉をやられる。
 ヴェトナムの食堂ではおしぼり(これがまたひどい代物で、消毒液に浸けただけで洗濯をしていないらしく、汚れが平気で付着している、しかも薬品臭い) が有料で出されるのだが、空気の汚染が進んでいるヴェトナムでは必需品というにふさわしく、長距離の移動のあと首筋を拭ったりすればオシボリは心胆寒からしめるほどに真っ黒になる。少しでも手洗いを怠ると、爪と皮膚の隙間に雑菌が入ってひりひりする羽目にもなる――私は日本にいるときでもよく手を洗うほうだが、日常の感覚では足りないのである。
 長時間バスに揺られていることは、諸般の事情でストレスはたまるが、退屈は感じないのだった。窓外の風景を眺めているだけでも飽きないし、疲れのせいか眠気が気安く寄ってくる。
 大きな町は国道で繋がれており、路線バスはそれを一直線に突き進む。道なき道を好きなように切り拓いた様子で、道路は限りなくまっすぐに伸びている。信号はまったくないので高速道路と機能は同じ。クルマの性能がもし良ければ上限なくスピードは出されるだろう。前を走るトラックがもし遅ければ、片側一車線なので対向車線を走って追い越す。それはあくまで国道だから、自転車も走れば歩行者もおり、沿道には人が住んでいる。高速道路の傍で子供が遊んでいるようなもの。危なっかしい。
 それでもなんとか交通を保っているのは、クラクションの力が大きいかもしれない。とにかくクラクションをよく鳴らす。何もないところでも、リズムをつけるために鳴らしている。しかもクラクションは馬鹿でかい音である。相手が誰でも構わず、喧嘩になるのではないかと思うほど鳴らしまくる。クラクションがコミュニケーションの手段になっている。第二の公用語のようなもの。
 だから、もし道の真ん中に犬や豚が寝そべっていれば、クラクションを鳴らさないのである(日本だったら脅す意味で鳴らすだろう)。それは、相手が畜生だから、言葉が通じないと思って鳴らさないのである。
 クラクションの尖った音が鼓膜に刺さっても痛みを感じなくなった頃、ひとつ商売のネタを思いついたのだが、クラクションの音色にバリエーションを付けて売れば、儲かるのではないか。日本の暴走族みたいに、パラリラいわせるような部品をヴェトナムで売るのである。オートバックスあたりに持ち掛けてみようかしら。



 私は惨めなレストランの次の日、カントーという町へ入った。有名なマーケットがあるのをガイドブックで眼にとめていた。
 カントーで泊ったホテルのオーナーは、中国人ぽい顔をしているなと思っていたら、やはり華僑だった。年は五十過ぎくらいの朗らかなおっさんで、私がホテルの横の茶店でコーヒーを飲んでいると話し掛けてきた。最初は英語で話していたが、彼は私のガイドブックを見て漢字の部分が読めるといって誇らしげにしたので、筆談が始まった。
 彼は自分のことを『華僑人』だと書いた。また、本に印刷されている『旅行保険』という漢字を英語に翻訳して『tour/insurance』と書いた。
 彼は嬉しそうに、おれは四ヶ国語がわかる、ヴェトナム語と中国語と英語と日本語だ、わはは、といって自慢した。この程度の日本語理解でこれほど自信を持てるこの華僑の図太さを日本の英語教育は見習わなければならない。彼は両親が中国の福建省かどこかの出身で、彼自身は生れも育ちもヴェトナムらしい。多くの兄弟がいて、アメリカやオーストラリアで活躍しているという。こないだもアメリカにいる兄から手紙がきて、遊びに来いといわれている。私が大学で工学を勉強しているというと、彼の息子も大学生で、コンピューターエンジニアリングを学んでいるという。
 彼は中華思想の持ち主で、日本語も中国から輸入したものだとか、日本人は言葉を中国人に教えてもらったのだとか、中国がいちばんすごいとか、アジアはすべて中国の影響のもとにあるとか、中国のことを絶賛した。近頃の中国は海賊版のメッカである。私は、そうだそうだ、と笑いながら頷いて聞いていた。おっさんも笑顔を絶やさず嬉々として喋る。明朗なナショナリズムである。ただし彼はヴェトナム人である。だから彼のナショナリズムは微妙に屈折している。彼はしかし屈託がなさそうで、中華思想のロマンティシズムにほろ酔い気分である。彼は歌を歌いはじめた。この歌知ってるか? いや知らない。ヴェトナムの有名な歌らしい。私も日本の有名な歌を歌って返さなければならないかな。笑顔も強ばる。私は日本の有名な歌を知らない。

 夕食からホテルに帰ると、また新たなヴェトナム人が現れて、日本語で話し掛けてきた。この男の笑顔は、普通のヴェトナム人とはどこか異質である。
「私は、大学で、日本語お、勉強、してました」
「上手ですね」
「すこし、話しませんか」
「いいですよ」
私はいまだに、彼は自分の日本語を試してみたいと思っているに過ぎない、などと寝ぼけたことを考えていた。ホテルのソファに座らされた。会話はしかしほとんど英語で交わされた。話はやがて、メコンクルーズの話題へ滑り込んでいった。水上マーケットがあって、とてもビューティフルだ、としきりに勧める。
「行きたいですか、いってみたいですか」
「まあ、そうだな」
そして値段の話になって、私はようやくおかしいなと思いついた。男は大学を出ていると言った。ヴェトナムで大卒ならば、観光客相手の浮薄な仕事に就いているはずがないと、思い込んでいた。やはり、外人が落としていくカネというのはでかいのだな。
「あなたはこのホテルの人ではないのか」
「ちがうちがう」
旅行会社のオフィスから来ているのだ。大きな会社の支部だ。明日の朝、水上マーケット、どうだ。朝日がビューティフルだ。写真たくさん撮る。朝五時出発だ。一時間20ドルでボートを貸しきりだ。10時過ぎに終わるからしめて100ドルだ。どうだ。乗らないか。
 100ドルはどう考えても高すぎる。水上マーケットを見ないならこの町に何しにきたのかわからないなと頭の片隅で考えながらも、
「そんなに払えない」
と断った。男は食い下がらない。行きたいといったじゃないか。なのにどうして乗らないんだ。わからないな。
 私はガイドブックを開いて、値段の相場を調べた。だいたい、高くても30ドルくらいである。それを男に伝えると、それは間違っている、その本は古いのではないか。今はそんな値段でどこもやっていない。もしその値段のボートが他にあったら、私は耳をそろえてあなたにお金を返すよ。
 しかし、この『地球の歩き方』は今年改訂された最新版である。いったいどういうことだ。私は、男の話に耳を傾けながら、それでも相手の言うことの理を求めているのだった。この男は業界に入ったばかりで、相場を知らないのではないか。私は悲しいほど良心的なのだった。これはひょっとすると、英語で会話をしていることも原因のひとつかもしれない。私は英会話に慣れていない。学校教育以外で英語を使うのはこの旅行が初めてといえる。だから、相手の言うことを聞き取ろうと、心を込めることになる。あげくに、聞き過ぎることになってしまう。余分なものまで聞いて納得しようとしてしまうのだ。
「わかりました、いくらなら払えますか、限界の値段をここに書いてください」
と男は私にペンを手渡した。書きにくいボールペンだった。私は40ドルと書いた。私はそのとき、ガイドブックより相手の男を信用したことになる――なんだか悪い旅行者の例を書いているような気がしてきたな。
「・・・・・・」
男は私の書いた数字を読むと、表情を失って、あるいは消して、黙り込んだ。数字が読めないだろうか、とはじめ思った。しばらくすると、男は顔を上げて私の眼を見据えた。男の表情は、真面目というか不機嫌というか怒っているというか、威圧的なものに変化している。
「これだと、私は、何も、おいしく、ありません。むちゃくちゃです」
「しかし、100ドルなんて、旅費にも限りがあるんだ。だいたい、いま財布の中にそんなに入ってない」
「いくら持ってますか」
こんな質問に答える必要はないのだが、
「40ドルとあとドンが少しだ」
と返答をした。かろうじて、私は本当より少なめの額を言った。
「40ドル・・・」
男は首を横に振った。
「二週間ヴェトナムにいるといいましたね。それじゃあ足りないんじゃないですか」
「トラベラーズチェックだよ」
これも教える必要はない。
「ちょっと見せてもらえますか、あなたのトラベラーズチェック」
どういう権限でこの男はものをいっているのだろうか。まともな商談ではない。ところが、私はそのとき、見せるだけなら構わないか、と結論した。私の頭は狂っていたのか。男は私のトラベラーズチェックを手にすると、一枚一枚めくり始めた。
「いい匂いだな」(good smell)
と、感に堪えぬというように細かく頭を振った。TCが匂うなどということを、私は知らなかった。あとで確かめてみよう。まあ、上等なインクで印刷してあるというだけなのだが。私はさすがに不愉快になり、奪うようにTCを取り返した。男の顔には、なぜか愉悦が浮かんでいた。
「わかりました、私の負けです、私の限界はこれです」
といって、男は紙に数字を書いた。60ドルであった。いきなり40ドルの値下げである。私はそろそろこの男と話すのに疲れはじめていた。馬鹿らしくなっていたのだ。時間もかなり経っている。
「これではっきりした、私の答えがあなたを満足させることはないであろう」
と私はいった。またしばらく沈黙が流れた。男はわざとらしく、ゆっくりとボールペンを胸のポケットにしまった。
「日本人はこれだから。白人は駄目だったら最初から断る、日本人は長く話しても結局駄目という、時間の無駄」
殺し文句である。男はホテルの玄関に去っていった。
 そうか、私は日本人だったのか。男のいうことはまったくの横暴なのだが、私は落ち込んだ。私と男の交渉を横で聞いていたホテルのフロント係が、私の横に座った。決裂した交渉を仲介してやるというのだ。もう少し値下げできるだろうという。私は好きにしてくれという気分だった。フロント係はすぐに男をつれて戻ってきた。男は帰らずに表で待っていたらしい。それからすぐにまとまって、結局41ドルに落ち着いた。男は最初の笑顔に戻っていた。明日の朝五時に別の男がホテルまで迎えにくるという。

 脳が疲労で締め付けられるようだった。時計は八時をさしていた。部屋に帰って早く寝よう。立ち上がると、ホテルの華僑人オーナーが若い男を連れてやってきた。彼は大学生で日本語を勉強しているから、話し相手になってやってくれ、という。私はげんなりとしたが、無下にもできず、しばらく付き合った。その学生はおとなしくて控えめで繊細で好青年だった。旅行代理店のあの男のあとに会えば、誰でもいいやつに見えてしまう。20分ほど話すと、私は疲れたから休ませてくれといって部屋に引き揚げた。青年の日本語は、『こにちわ』『おげんきですかあ』程度のものであった。何年かしたら日本に留学するつもりだという。
「また日本で会いましょう」
ということにはならずに別れた。
 部屋にはエアコンがついていたが、電源を入れると芝刈り機のエンジンのような音がして、すごくうるさい。それでも『TOSHIBA』というステッカーが貼ってあった。ただし、隣の部屋の似たような外観のエアコンには、『NATIONAL』のステッカーが貼ってあった。表の通りからは、カラオケが聞こえてくる。ミニコンサートのようなものが催されており、見知らぬ歌手が歌っていたが、それもやがて静かになった。私は耳栓をして寝た。



 翌朝、ドアをノックする音で目を覚ました。時計を見ると五時を少し回っている。目覚ましが聞こえなかったらしい。寝過ごした。
「ちょっとまっててくれ、すまない」
ドアの前にいる男に大声で伝えると、私は急いで身支度をした。
 外はもう薄明るい。日の出を見るために朝早く起きたのに、もう太陽は昇ってしまったのではないか。
「まだ、大丈夫だと思いますよ」
とガイドの男は言った。そのガイドは前歯が無かった。第一印象で、堅気に見えなかった。この男は本当に約束のガイドなのだろうな。私を騙してどこかへ連れ去ろうとしているのではなかろうな。寝起きで不安定な頭はろくなことを考えない。しかしそのガイドは話してみると、なかなかいいやつだった。よく日本人をボートに乗せるという。日本語を勉強中だという。
「日本人言うね、スイジョオマーケットオ、うふふ」
水上マーケットの日本語の発音がおかしいらしい。ガイドは「スイジョオマーケットオ」を連呼して、ひとりで笑っていた。私は彼の眼にも優しくて、扱いやすそうな男に見えたのだろう、機嫌がよかった。
 小さなボートには私とガイドが乗った。ボートは水に浮いているとじわじわ船底に水がたまるので、ガイドは定期的に水を掻き出していた。太陽がそろそろ昇り始めると、
「きれい、きれい」
とガイドは嬉しそうだった。光が水面で穏やかに反射していた。太陽が全身を現すと、ボートは上流へ向かって進んだ。静かな川面に、ボートの軽薄なエンジン音が漂う。沿岸は民家の裏側が並んでおり、小さな子供たちが歯を磨いたり、顔を洗ったり、朝食のあと片づけをしている風景が見られた。二時間ほど行くと、水上マーケットのポイントに到着した。そこはいくつかの細い川の合流点になっていて、奥地に住む人たちが品物を舟で持ち寄って、市場を形成する。私のボートは舟が密集している中へぐいぐい突っ込んでいく。舳先がごつごつぶつかる。舟の群の真ん中あたりでボートは停船し、他の舟に舫いつけられた。ガイドの知り合いの舟らしく、女が数人乗っていた。ガイドはパイナップルを女から受け取ると、私にくれた。パイナップルには細かいゴミが付着していたが、日本で食べたことがないほど甘くておいしかった。私は腹が減っていた。ガイドが屋台の舟からうどんを買うのを見て、私も朝食をとることにした。うどんのだしには、バナナの花がたくさん浮かんでいた。冷えていた胃袋が温められた。しかし、うどんの屋台のおばちゃんは、どんぶりと箸をメコン川で洗っていた。しかもさっと水で流すだけ。胃袋が冷めるようだった。見なければよかった。食中りはしなかった。
「すこし話があるんだが」
ガイドが私に向き直った。お金をあと千円上積みすれば、もっと奥のほうまで乗せていってやるが、どうか、という。旅行会社の男を通さない、違約行為を勧めているわけだ。面白そうだ。しかしすぐに承諾してもガイドが図に乗るだけだ。私はもったいぶって見せて、水上を行き交うたくさんの品物を指差して、あれはなんだ、これはなんだ、とガイドに仕事をさせた。ガイドは、いかにも早く返事が欲しそうだった。笑顔が少し歪んでいる。そのとき急にスコールが降った。私はテントの下に隠れた。私はガイドに諾意を告げた。さらに700円に値切らせた。ガイドはドン紙幣をポケットにしまうとタバコをつけて一服煙を吐いた。スコールがやむと、小さな商船たちは自分の村に帰っていった。水上マーケットのお開きである。
 そのあと、ジャングルの奥のほうまで、割増料金分入って行ったわけだが、大して面白くはなかった。岸辺の子供たちとすれ違いの交流をしただけだった。
 メコン川の支流をどこをどう進んだのか、昼近くになるとガイドは舟をとめた。出発した場所とはまったく違うところだった。ここはどこだ、誘拐されたのではかろうな。ガイドは舟から降りて岸から手招きしている。そこは民家の縁側のようなところだった。ガイドは民家をぬけて路地に出た。私はあとに従った。連れて行かれたのはガイドの家だった。裏口から招じ入れられた。靴を脱がされた。家の床はタイル張りで、靴下の足の裏にひんやりと気持ち悪かった。奥の部屋から音楽が大音量で聞こえてくる。その部屋に入ると、女が床に寝転んでいた。女はガイドの奥さんだった。奥さんは起き上がり、私に軽く目礼すると、台所に消えていった。床には蟻が一列縦隊で進軍していた。そこはリビングらしく、メーカー不明のミニコンポが置いてあった。ソファに座らされた。ガイドが本を持ってきた。日本人観光客にもらったというヴェトナム語の会話集だった。日本から郵便で送ってもらったらしい。ガイドが壁にかかっている額を指差して、
「女房だ」
といった。額縁には女の写真が納まっていた。「きれいだろう」、と彼は自慢したいらしかった。私はお世辞を言わなかった。ガイドがまた私に何かを差し出した。それは多機能付きデジタル時計だった。世界各地の時刻や、未来のカレンダーがわかるやつだった。
「朝の四時にアラームが鳴るようにセットしてくれないか」
と、ガイドは私に依頼する。日本人ならわかるだろう、というのか。とにかく、私はボタンをいろいろいじってそれらしい状態にして時計を彼に返した。
「これで四時に鳴るのだな」
ガイドは念を押した。
「オーケーだ」
私は適当に答えた。確信はなかったが、責任持てん、という気分だった。
 お茶も何も出ず――どうやら私はあの時計のために招かれたようだが、家を出た。ガイドがホテルまでバイクで送っていくという。こんなところで放置されたらたまったものではない。家の外には近所の子供が集まっていた。悪ガキ風だったが、「よっ」、といって手を挙げると、子供は照れながら手を振って返した。
 ガイドの家からホテルのある大通りまでは、家の軒下のような路地裏を通り抜けるしかなく、そこをかなりのスピードを出すので、ジャッキー・チェンが敵に追われているときのように、危険だった。
 私とガイドは一緒に昼飯を食って別れた。昼飯代は私が奢った。ホテルの部屋に戻ると、シャワーを浴びて、ベッドに倒れこんだ。

 もうこの町ですることは残されていなかったが、疲れていたのと、今日が独立記念日で銀行が閉まっており両替できず、旅行会社への支払いを明日に延ばさざるをえなかったのとで、もう一泊することになった。旅行会社のあの男は、次の日朝早く、ホテルの前で待ち構えており、銀行までついてきた。カネを払うと、いかにもビッグ・ディールだという風に、神妙に札を数えていた。
 夕方になると、街はお祭ムードだった。電飾のメリーゴーランドが回っていた。日が落ちても子供たちは家に戻らないのだった。若い男は女を後ろに乗せて二人乗り。私はビールを飲んだ。タイガービールだ。ヴェトナムに来て最初のアルコールだ。ひどく酔った。いつもより酔いが回る。ここは外国人のよく集まる店で、私の隣のテーブルでは、太った髭もじゃの白人のおっさんが次々にビールを空けていった。テーブルの上には空き缶が十本近く並んでいた。通りを行き交う大勢のヴェトナム人を眺めながら、私はいい気持ちになっていた。ビールでこれほど酔うのは、どうもストレスが溜まっているかららしい。私はこの国に来て、人に気を遣いすぎているようだ。
 目の前を通り過ぎる少年の一団の中に、見覚えのある顔があった。昨日の夕方のことだった。私は果物と氷をミキサーにかけた、シェイクのようなものを食べながら、夕闇に溶けていく街並みを眺めていた。そこへ少年がやってきて、私の面前に座り込み、カネを恵んでくれという。少年は私のズボンの裾をひっぱったり、自分の腹を押さえて「腹が減って死にそうだ」とジェスチャーで示してみたり、とにかく、てこでも動かないというように、しつこい。少年は穴の開いたシャツを着ており、顔は洗ったことがないかのように汚れていた。眼が疲れ果てたように絶望していた。私は憐憫を感じて、20円を手渡した。少年は金額を確かめると、かすかに顔をほころばせた。しかしものすごく喜んだように見えた。少年は街に消えていった。私は泣きそうになった。
 その少年が、翌日の夕暮れにまた現れたのだ。ガラの悪そうなグループだな、と少年の手元に目がいくと、ナイロン袋を見つけた。ナイロン袋の中には何が入っているのかよくわからない。シンナーか何かの遊び道具ではないか。昨日私が与えたカネがそういうものに化けたのか。考え直してみると、少年の眼がとろんとしていたのは、普通の子供ではなく、大人のそれに似ていただけだったのかもしれない。少年には、『小僧の神様』は存在するのだろうか。
 私はビール代を払ってホテルに戻った。




 私は私設外交官としてこの国に入国し、愛情を持って人々に接しようと意気込んでいた。もう、ほころびが見えはじめていた。
 芥川龍之介の『朱儒の言葉』に、
『わたしは両親には孝行だった。両親はいずれも年をとっていたから』
というのがあるが、私の場合は逆かも知れず、むしろ、
『私は老人には孝行できなかった。彼らは両親ではなかったから』
といえるほど、老人が嫌いである。今の豊かな日本を築き上げたのは、老いた人たちである(まだ死んでいない人のうちでは)。その日本の御老人に対してすら、愛情をもてないのに、どうしてヴェトナムの人々を敬愛することができるのか。積分ができないのに微分方程式を解くようなものである。それは無理である。細心の注意を払って、取り繕ってみたところで、いずれ破綻する。私は開き直ることにした。
 というのは、冗談にもとられるかもしれない軽口で、私設外交官などという言葉を思いついたのは、いつだったか忘れたけど、ひょっとしたら日本に帰ってきてからのことかもしれない。はじめて日本の国境の外に出る旅行であり、いつ身体を壊すか、いつ言葉の通じない犯罪者に眼をつけられるか、戦々恐々の日々であったのに、外交官などしている暇はなかった。ただし、実際、謙譲の意識は普段よりも多く持ちあわせていたかもしれない。それは、自分が招かれざる客(まあ、ビザはもらったけど)であり、頼るものがまったくいないところ(外務省の出先機関や、保険会社の出張所はあるだろうけど) で、でかい顔をして、肩で風を切って歩くわけにはいかない、という常識から、へりくだっていたまでのこと。積極的な敬意はフィクションである。
 といっても、自分の精神を、羊羹を切るみたいに、すっきり分割できるものではなく、どういう対人感覚を持ってヴェトナムにいたのか、詳しくはわからない。それが変遷していたとすれば、ただ疲れていただけかもしれないのだ。日本にいるときのように、しかめっ面で過ごしていたほうが楽ちんなのではないか。



 カントーをあとにしたその日、ハノイ行きの列車に乗った。南部を出て北部へ向かう私の胸のうちには、粘土細工の希望が秘められていた。
 しかし列車はまずかった。サイゴンからハノイまで丸二日間列車の中。選択を誤った。ハノイに着いたときにはずいぶん衰弱していた。この列車で体調をがたんと崩した。大げさにいえば、これで精神と身体、両方とも欠損してしまったわけだ――事実はそうくっきり分別できないけど。
 ちょっと想像力を使えば、この国の列車に41時間揺られつづけることがどれほど負担になるのか気づくはずだった。
 外の風景を見たくても窓が汚れで曇っているし、エアコンを付けているので、原則常時閉鎖。また、見たとしても、窓外の風景は意外に単調。どこまでも水田。海は見ない。北に向かうに連れて牛が水牛に変わり、百姓の子供たちがこちらに向かって手を振っている。便所の排泄物が彼らに降り注ぎはしまいか。水道は水が出ないことはなかったが、うっかり歯ブラシを洗面所に置き忘れること二回、しばらくして取りに戻るとすでに無かった。エアコンはエアコンではなく、冷凍庫のように冷気を出す一方で、しばらく作動させると寒い――しかも私は、二段ベッドの上段で、頭のすぐ横に送風口があった。本を読んでいても乗り物酔いしてしまう。運動不足解消のため、車両を移動してみようにも、全部の車両は椅子かベッドで占められており、隣の車両の硬い椅子に座って辛抱しているヴェトナムの人々の横を通ってうろうろするわけにはいかない――夜中に便所に行ったとき、隣の車両を覗くことになったが、暗闇の中、椅子に座って静まっている人々は怖かった、中には寝ずに目を開いておられる人もいて、闇に目の光が浮かんでいた。この列車はヴェトナム国民の体力を奪い、ひいては国力を減退させることになるので早急に改善したほうがよい。そんな列車には私のほかに白人の旅行者も一組ほど同乗していたが、彼らは背も高く窮屈そうで、おかしなことに、乗降時にしか姿を見ず、ひょっとするとベッドにずっと横たわっていたのではないかと思われ、その忍耐には同情を禁じえない。
 ただ、救いだったのは、同室の人たちが上質であったことだ。四つあるベッドのうち、下の二つは老夫婦で、上段は私とサラリーマン風の青年だった。童顔で笑顔が人懐っこい青年は私に気を配ってくれたし、老夫婦は食事のたびに果物を切って私にくれた。ただし、梅のような果物は熟してなくて酸っぱかった――私はそれでもまずいとはいえず、微笑んで食べていたが、老人は、この外人味覚がおかしいんとちゃうか、という顔でこっちを見ていた。老夫婦は私のように(彼らに比べれば)図体の大きい言葉の通じない異物が長時間近くにいるのは苦痛だったろうが、そのような素振りは露ほども見せていなかった。特に爺さんはばあさんの(横幅の広い)お尻に敷かれているようで、列車の旅でストレスのたまったばあさんに鞘当てを食らっているようだった。それでも、爺さんは「イヒヒヒ」 と笑ってすましていた。二人とも健啖家であったが、食事をすべて残さず、しかもいちばん早く平らげるのはばあさんだった。老夫婦はホーチミンに住んでいる息子夫婦に会いに行った帰りらしかった。出発間際の個室内は見送りの人々でいっぱいだった。ハノイで降りるとき、CDラジカセなんかのお土産を大量に抱えて、私は運ぶのを手伝わされた。別れの混雑のさなか、タクシーに乗り込む爺さんを捕まえて挨拶すると、彼はびっくりしたように、さっと手を差し出してきた。私はあわててその手を握った。多分、お互いに握手する習慣を持たない者同士だった。
 彼らはヴェトナムの美しい人たちだった。老夫婦は農家で、青年は労働者、だとしたら、それらの職業は、人間の典型であるといえるだろうか。
 この列車の行程は、小津安二郎の『東京物語』を思い出させた。移動というのはこのように体力がいるのが本来のかたち。しかし参っているのは私と青年のふたりだけのようでもあった。とにかくあの老夫婦は、長生きするだろう。



 ハノイではまずハノイからホーチミンまでの飛行機のチケットを取った。列車で途中下車しながら帰るつもりであったが、もうこりごりだった。その飛行機の中、私は爺さんと隣り合わせになったのだが、彼は列車で同室になった爺さんを髣髴とさせるところがあり、穏やかでどこか滑稽味があった。爺さんは飛行機に乗るが初めてのようで、離陸の瞬間恐ろしさのあまり、私の手を握り締めるのだった。機内食が出たときもふたの開け方がわからず、私のやり方に倣っていた。
 それは二時間ほどのフライトだったが、着陸したとき、なぜか涙が溢れてきて、こぼれないように耐えるのが辛かった。そうとう疲れていたらしい。疲れはだいぶ、回復していたはずなのだが――

 ハノイでは一泊。
 老夫婦たちと別れて駅から出ると、また気が遠くなるほどの人だかりで観光客を捕まえようと、網を張っている。私は半ば自らそのクモの巣に引っかかった。老夫婦たちとの落差が激しく、戸惑うばかりで、選んでいる余裕がなかった。早くホテルで休みたくもあった。私を捕まえたのは、大学生のバイトだった。顔が汗と脂でてかてかしている小男だった。男は私を捕獲したことで興奮していた。ヴェトナムはどうだ? と訊くので、
「私は疲れた」
と答えると、軽々しく笑い声を上げた。こういう種類の若者は、日本でも見かけることがあるかもしれないと思った。
 ホテルの部屋に着くとまずシャワーを浴びた。バスタブが付いていた。湯の出る勢いがゆるいのはともかく、ここぞとばかりに体を洗った。髪は二度洗い。バスタブの湯を抜くと底に泥のようなものが沈殿していた。私の身体から出た垢だった。
 ベッドで休みたかったが、銀行とヴェトナム航空に行かなくてはならず、外に出て歩いたが、地図を頼りに歩いても、それらしき通りが見当たらない。せっかく風呂に入ったのに汗が出る。しかたなくバイクタクシーに乗る。用事を済ませるともう日が暮れかかり、帰りも再びバイクタクシー。こいつが曲者で、しばらく走ると、道に迷ったと言い出した。バイクタクシー仲間に道を尋ねながらようやくホテルについたとき、余分に走ったのだから運賃を割増にしてくれ、といってきた。太い野郎だ。私は、冗談きついぜ、と笑いながら彼の肩を叩いた。
 翌日は、(懲りていながら) またしても列車に乗らなくてはならなかった。北部に来た目的は、中国国境と山間の少数民族だったのだ。
 ホテルのマネージャーのような男が、中国国境のラオカイ行きのチケットはもう売り切れているかもしれない、おれが買ってきてやろうか、そのほうが確実だ、といって、ガイドブックに載っている値段より高い金額を提示してきた。私は彼の親切を断り、自分の足で駅の窓口へ向かった。チケットはすんなり手に入った。チェックアウトの時、チケットは取れたよ、と私がいうと、彼は、
「お前はラッキーだ」
といってくれた。ふふふ、ラッキー、ラッキー。
 マネージャーはさらに、私の頭を示して、
「ナイス ハット」
という。帽子を誉めているのだ。私は豆鉄砲で撃たれたような気持ちがした。しょぼくれた、みすぼらしい帽子だったが、ヴェトナム人の趣味にはあうのだろうか。それとも、
(こいつ実はホモか)
それはまたしても誤解だった。請求書を見ると、約束の値段より1ドル高い。私は早速抗議した。何なんだ、この1ドルは。男は、よく見ろ、と紙面を指差す。『tax』云々と表記してある。
(ふざけろ)
おふざけが過ぎる。だが素直に支払った。私は無理やり笑った。むなしい嘲笑だった。

 国境のラオカイ行きの列車は夜の出発だった。それまで時間を潰さなくてはならない。私はハノイで手持ち無沙汰になった。観光スポットはいくらでもあろうが、興味がなかった。興味がなくても一通り眼を通しておくのが、正しい旅行消費者の姿だ。しかし私は疲れるのが嫌さに、公園でぼんやり腰掛けていた。誤算だったのは座っているだけでも暑さで体力が奪われていくことだった。日陰のベンチを選び、横になっていると、係員に注意された。
 肩に天秤をかついだおばさんと眼が合ってしまった。彼女は果物売りだ。痩せて皮下脂肪の少ない引き締まった皮膚をしていた。彼女は荷を肩からおろし、「さあさあさあ」 みたいな調子で、ニコニコと梨の皮を剥きはじめた。そのナイフはきれいのか、手はいつ洗ったのか、と思いながら、手渡された一切れを口に入れた。胃の調子が悪く、梨は魅力的だった。その梨は二十世紀梨よりはるかに劣っていた。私が飲み込んでしまうのを見届けると、おばさんは続けて皮をむいた。おばさんの柔和な笑顔に急かされるように、私は一個丸ごと食べてしまった。このおばさんは私からボッタくろうとはしないだろうと希望的観測を含めて夢想していたのに、100円請求された。ああ、高い。私は幻滅しつつ、60円しか払わなかった。おばさんは、肩が凝って死にそうなんだ、という風にジェスチャーをした。何かぶつぶつ呟いているのは、呪いの言葉だろうか。しかし、おばさんの顔からは笑顔が完全には消えていなかった。笑顔がシミになってとれないのだろう。おばさんは私から離れると、向こうのベンチに座っていた、若いカップルの前に立ち止まり、こちらにちらちら視線を飛ばしながら、なにやら噂をしている。いたたまれなかった。
 Tシャツ売りのおばちゃんもいた。ゴミ袋に、洗濯物のように押し込んだシャツを抱えて、威勢よく、
「一枚1ドルでいいよ。買ってよ、買ってったら。それじゃあさ、三枚1ドルでいいからさ。ねえ、ちょっと。ほら、こんなにいい生地使ってんだよ」
しかし、それは新品とは思えないほどぺらぺらのシャツだった。私は、自分のシャツを指でつまみながら、もう持ってるからいらない、というと、
「なにさ、そんなもん。そんなボロより、こっちのほうがずっといいよ、買ってよ」
ひどい言い草である。




 国境のラオカイ行きの列車では、日本人バックパッカーふたりと乗り合わせた。この国に入国して一週間、日本人と話をするのはこれが最初。同じ個室に入るとき、挨拶がうまく口から出てこない私をいぶかしんで、
「日本人ですよね」
と確認した。そうですよ。しかし、私は何者に見えるのだろう。
 バックパッカーというのは、つまりアウトローであり、社会から逸脱した人たちである。彼らふたりと話をするのは楽しかった。ひとりはもう外に出て一年余り経っており、後半年ほどで戻る予定で、大学を卒業して就職せずにそのまま来たという。もうひとりはもうすぐ二十九で、仕事をやめて、また外に出てしまった、
「一度出ると、いったん戻ってもまた出ちゃうんだよね」
彼らの印象は、逞しくはあったが、健康そうには見えなかった。疲れに溺れているようでも、快活だった。他の白人旅行者とも積極的に情報交換をしている。大学生が、テストの情報を同級生同士で交換している様子に似ていた。
 私もこの際いろいろ話を訊いてみようと、身を乗り出した。米軍を相手取った犯罪の一味に加わりかけた話や、――彼らはアジアを巡ってきているのだったが、中でもヴェトナム人は最悪だ、という意見で彼らは一致していたり、タイ人は馬鹿で、インド人は「ゴミだと思えば、彼らにも優しくなれるんだよ」 と、粗暴な口振り。しかし、彼らの志操は常軌を逸したものではなく、私は彼らにたがの外れたような人格を期待していたのだが、日本の社会に生息していても何ら不自然ではない。飯がうまい、とか、女がたいしたことない、とか、そんな話が多い。
 つまるところ、彼らが諸国を遍歴することの目的は、麻薬と女にあるようだった――これは誤報であり、私の所感である。しかし、初対面の私には明かせないこともあるという雰囲気があった――つっこんで問い詰めれば、白状してくれたかもしれないが。それに、二人のあいだでも(彼らは二人連れではなく、国境までの道連れだった)、お互い、自分のほうが貴重な経験をしているのだ、という牽制と駆け引きがあり、はっきり出来事を語らたがらない。
 いずれにせよ、私には彼らのような生活はできない。自分の身体が心配だし、未来が不安である。彼らはきっとそれらのリスクに対して保険はかけているだろう。巧みな情報収集力にものをいわせて。私にはシステム的な情報に対する欲求が乏しい。日本にいても、病気や遭難への怯えを払拭できずにいるほどである。利用すべきものは存分に利用すればいいのに、できない。つまり、システムを信頼できない。彼らは、システムからはみ出しているようでいて、システムの恩恵に浴している。それが文明人のよりよき姿である。
 一時間ほど話をして就寝した。なかなか眠れない。ベッドが木の板だからだけではない。日本語で話したことで精神が昂揚してしまったのだ。他愛もない。彼らは、正直なところ、日本で対面していれば、これほどコミットするはずもない輩であったのだが、この国で一週間ぶりに会った日本人としては、愛おしいほどだった。日本人というより、日本語というべきである。日本語。彼らの日本語はむしろ軽薄であった。しかし、それでも、ヴェトナム人とのわけのわからない英語での会話を強いられてきた私にとっては干天の慈雨だった。日本語であったなら、こちらの意図する微妙なニュアンスが伝わってしまう。日本語はこんなに便利だったのか。日本にいれば仲良くなれそうにもない、というのは思い込みで、我々はこんなに親しかったのか。
 修学旅行のような短い睡眠を経て、目覚めると夜が明けていた。向かいに寝ていたバックパッカーに、何時に着くのか、と尋ねられ、予定では到着まで一時間ある、と答えた。すると彼はまた毛布をかぶった。が、列車はしばらくすると、停車してしまった。私は彼に嘘の情報を流してしまったことになる。駅を出ると、彼はすたすた歩いて、中国の国境に向かってしまった。もうひとりのほうは、サパ行きのツアーバスに乗って去る。私はひとりになった。これほど田舎に来てもしつこいバイクタクシーはいる。それでも運賃は幾分か安い。それで中国との国境を眺望した。山奥であるが、中国の、こちらから見える部分は、とても賑やかである。けばけばしいともいえる。ヴェトナムに対して虚勢を張っているのである。心意気やよし。負けじと、ヴェトナム側も、せっせと土木工事を催している。砂ぼこりが眼に痛い。
 それからバックハーに行く。その道のりはすでに書いた。
 バックハーはヴェトナムで最も居心地がよい場所だった。涼しくて、人が少なくて、静かで。避暑地に来たつもりで体力回復を図った。
 バックハーの人々がまたすばらしかった。異人の私に対して寛容なのである。狭い街なのであるが――軽く歩いて一周できる――散歩していても、怪訝な眼差しに出会うことはない。無関心といえばそれまでだが、そっとしておいてくれる。
 バックハーは近在の山間少数民族の人々の集う市場であり、雑多な人柄が昔から行き交う場所である。異人に慣れているのである。そこへ、日本人や白人が混じったからといって、びくともしない。
 また、この街がまだ観光地ずれしてないともいえる。けれども、この説よりもやはり前者の、この町の伝統が外人を受け入れるのだと考えたい。もうすでに旅行者は眼に余るほど入っていたし、次の日は週に一度のマーケットの日だったが、外人観光客はバスで続々と運ばれてきていた。この街のおかげで、国はかなり外貨を稼ぐが――社会主義の建前もあり、山越え谷越えの山奥にもかかわらず、重機がたくさん搬入され、インフラが整備されつつあった(この街の郵便局から実家に電話をかけたら、母親の声が明瞭に聞こえた)。やがてこの街がどう変化していくのか、それを確かめるためになら、私はこの国にまた来てみたい。
 ここが醜い街に変わることはないだろうと思うのは、マーケットがお開きになったあとの状景を見るからかもしれない。マーケットがたけなわの頃、底が抜けるのではないかと思えるほどいた人口が、雲散霧消したあと、私の感覚は抜け殻のような寂漠たる空気を読み取るのだが、街の人は鈍いのではないかと思うほど定常である。彼らにとっては落差がなく、連続なのであろう。これほど落ち着いているのなら、かわりっこない。
 これまで散々この国の悪口を書いておいて、ようやく安息の地にたどり着いたのだから、もっと称揚の言葉を並べたらいいようなものだが、残念ながら私は誉めるのが苦手である。かわりにどういう人がいたのか書いておく。
 私のホテルの前に食堂があった。この街には二泊もしたのだが、毎日その食堂には出かけた。腹の出たオヤジさんと、気立てのよいおばさんのふたりが応接してくれる。オヤジさんは会っていきなり私に焼酎を勧めた。体調の自信がなかったので、私はビールを注文した。オヤジさんはがっかりしたようだった。次の日、オヤジさんはいなかったが、私は焼酎が飲んでみたくて、おばさんに頼みたいのだが、言葉がまったく通じない。くんずほぐれつの意思疎通があったあと、ようやく焼酎にたどり着いた。とても強いのだが、飲みやすく、あと味のいい酒だった。焼酎は店のおごりだった。また、ホテルのベランダに椅子を持ち出して私は通りを眺めていたのだが、親父さんは眼下にあり、終始、汚らわしいところがなかった。孫娘の相手をしたり、犬とじゃれたり。
 この街を出るとき、バスにはまだ時間があるので、ガイドブックに載っていたレストランでバナナケーキを食べた。その店のおじさんにガイドブックを見せると、本の写真は店を建てかえる前であり、また、小さな子供の写真も掲載されていたが、それはお向いさんの息子だといって嬉しがり、本を持って奥へ入って奥さんと珍しがっていた。おじさんはバスにはまだ暇があるからここにいればいいといってくれた。バスが来るとそれを止めて私を乗せ、手を振って見送ってくれた。
 バスがまたすごい代物だった。ドアが壊れて閉まらないので、油断していると、外に放り出されることもありうる。しかも、断崖の山腹の道を下っていくので、車体のすぐ横は奈落まで繋がっている。ドアが開いているからよくわかる。その山道を、ほとんど無駄な減速なしに、厳密なシフトチェンジと的確なハンドル捌きでぐいぐい進んでいく。運転手は、見れば、やはり只者ではない雰囲気を漂わせており、眼光鋭く、邪推するに、ヴェトナム戦争でアメリカ人をひどい目に遭わせたりして・・・。それに引き換え、バスの車掌がだらしない若造で、私は外人料金を取られたし、乗客の娘さんにちょっかい出したり、客の荷物をゴミのように扱ったり、終いには運転手に怒鳴られてしょんぼりしてしまった。彼は気を遣ったのか、私にタバコを勧めてきたが、もともと吸わないし、断った。私も気を遣って、吸ってやればよかったか。少し後悔した。




 バックハーの日曜マーケットでもそうだが、ヴェトナムの国では、値札というものがない。これぞまさに資本主義を象徴している。マーケットで白人女性が民族衣裳を買うか買わないか、少数民族の女性と値段交渉をしているのをみて、さすがだなと感心する。ヴェトナムで生活するのに疲れる大きな理由が、これである。飯を食うにも、いちいち気合を入れてかからなければならない。値札を書いておいてくれと思う。
 しかし、値札は値段を固定する、つまり未来を確定してしまうものであり、資本主義に反する。資本主義は、未来がどうなるかわからないから、みんな、面白がって参加するのである。社会主義のヴェトナムではそれが自然と遂行されている。ただし、それは偏頗な見方で、過度の村社会であるがゆえに、値札がなくても諍いが起こる心配がないとも解釈はできる。村はどこも均質であり、ものの値段もみんなが知っている。ただ困るのは部外者のみ。だが、そんな仮想的な村社会が実在するのか。ヴェトナムにもいろんな人はいる。最近は人の行き来も激しい。
 そこでスーパーマーケットも少しずつ作られているようで、私もミネラルウォーターなどそこで買ったが、値札はもちろんついている。蛍光灯で店内は明るい。同じ水でも商品によって値段が違うのが一目瞭然。ただし、値札なしで売られているものより平均的にやや割高(社会主義的コスト?)なのが難点。
 例外もあった。ハノイのその食堂では、壁に値札がぶら下がっていた。私は感激してうどんを注文した。店の主人は、頭が薄く、眼鏡をかけ、痩せて、苦労がにじみ出ている。主人は私が席に着くと、扇風機の電源を入れ、こちらに向けてくれた。うどんは彼の小学生くらいの息子が拵えて、行儀よく運んできてくれた。息子にあとを継がせるつもりで早くも修行させているのか。いや、そうではなく、将来息子が社会に出たとき困らないように、ひとつでもいいから技術を身に付けさせてやろうという親心のようにも見えた。主人は店の奥に座り、雑誌を熱心に読んでいる。
 いま思い出したが、バックハーのいくつかのレストランでは値段つきのメニューが置いてあるのだった。上に書いたバナナケーキのレストランでは、丁寧に、紙にしるしを付けて、口頭以外で、注文する方法を採用しているのだった。
 値段のないメニューで思い出す店がある。ラオカイ駅でのこと。バックハーからバスでラオカイまで戻ってきたはいいが、駅が閉まっている。途方に暮れていると、女の子の声が斜め下から聞こえてきた。
「あのう、ミスター」
とても、か弱い声である。駅があくまでまだ時間があるから、自分の店で休んでいかないか、という。客引きである。私はあらゆる客引きに拒絶反応を示すようになっていたので、なるべく彼女のほうを見ないようにして、
「チケットはいつ売り出されるの?」
と尋ねた。駅の近くで商売しているのだから知っているだろう。しかし彼女は曖昧で、たぶん五時、とかいっている。まだ一時間ほどある。列車の発車は七時。私は彼女の店に行くことにした。
 彼女は改めて見れば、とても背が低かった。私の胸元に頭が届くほど。まだ女子高生くらいに見える。店の手伝いをしているのだろうか。
 店はすぐそばにあった。他に客はいない。まだ開店直後といった風情で、テーブルも雑然としている。商品の陳列棚も空っぽ。彼女はメニューを持ってきてくれた。値段が載っていないが、種類は多い。オレンジジュースもある。それを頼んでみた。しかし、今はないという返事。冷蔵庫のところまで私を導いて、ここにあるものしかない、という。私はファンタ・オレンジをとった。ぼんやりとしながら飲んでいると、彼女は私の横に座り、英語で話し掛けてきた。
「ミスター どこから来たのですか」
「日本だよ」
彼女の声は、慣れない英語だから余計かもしれないが、かわいらしい。体形はありがちなヴェトナム女性だが、顔はどことなく和風である。夥しく汚れたポロシャツを着ている。着飾ればもっと美人になるのに。店は彼女のほかに、同い年くらいの女の子ともっと小さい男の子。みな子供である。もうひとりも女の子も英語を少し喋る。こんな田舎のどこで英語を覚えるのだろう。
「昨日も、日本人がここに来ました」
「ああ、ほんまに。男の人、女の人?」
「女の人でした」
「ひとりで? じゃないわな」
「ふたりでした。優しい人たちでした。少し喋りました」
「ふーん。ところで、ハウオールドアーユー?」
「?」
私は彼女に親しみを覚え、意図せず日本語が混合してしまうのだった。英語も私の発音が悪いのか、不確かである。ガイドブックの会話集のページを開いた。
「あー、二十一です」
「えっ、見えへんなあ、ほんならあっちの子は、いくつ?」
「十八です」
この国の人は幼く見えるにもほどがある。向こうの女の子と男の子は姉弟だという。この店は、彼女――名前は聞いたけどすぐに忘れた――の親のもので、親はどうしてるのか訊くと、家にいるという答え。家で何してるのか。しらないわ。
 私は鷹揚になってビールも飲んだ。
「ボーイフレンドはいるのかね?」
「いないわよ。あなたは?」
「いない」
私は正直に答えた。質問の矛先をもうひとりの女の子に向けた。ただし、同じ質問。女の子は、なぜそんな質問をするのかわからないというように、首をかしげた。
「私は十三歳よ。いるはずがないじゃないの」
「あれ、君は十八じゃないのか」
「どうして」
「彼女がそういった」
女の子は彼女に対して叩くふりをして怒った。女の子は少しきつめの顔をしていて、癇性があるようで、弟と喧嘩をしていた。英語も、話しはじめて通じそうにないと、すぐに諦めて中断してしまう。それでも、汗に濡れた顔はつやつやして健やかで、将来美人になりそうだ。私はアルコールで酔った。
「ぼくは君が好きだな」
彼女は笑いながらいう。
「Why?」(どこが)
「笑顔」
彼女は輪をかけて笑った。照れたのか、この外人、しょうもないことゆうとる、と思ったのか。彼女は女の子に向かって目配せのようなものを送り、女の子は私の顔をじっと見つめていた。私は恥ずかしかった。
 やがて五時になった。ビールの残りを流し込み、また食べに戻るから荷物を見ていてくれといって、駅へ向かった。チケットはすんなり手に入った。店に戻ると他の客がいた。私の荷物は他のテーブルに移動させられていた。私は夕食もついでに済まそうとメニューを見た。鶏肉入りうどんにした。店には彼女の叔母と妹が来ていた。料理は叔母がやっていた。女の子は叔母さんの腕前を見習おうとしていた。彼女は新たな客を捕まえるために出かけていった。私は寂しくなった。もっと話をしていたかった。私はうどんに唐辛子を入れた。口の中が燃えた。そして食べる速度が落ちた。ゆっくり食べていれば、彼女はまた私の隣に戻ってくるかもしれない。しかし彼女は忙しそうに店の前を通りかかる外人に声をかけている。外人たちは店の中を一瞥すると、通り過ぎていった。店が狭いのだ。私は勘定をすることにした。私は彼女を手招きした。財布を見せていくらか尋ねると、彼女は店の奥に視線を向け、女の子の指示を仰いだあと、謝るように、三百円もらいます、といった。こういう店の相場より少し高い気はしたが、どうでもよかった。おつりを持って店の奥から戻ってきた彼女の手にはバナナがあった。
「ヴェトナムのバナナです。有名です。おいしいですどうぞ」
と、私にくれた。
「わはは、ほんまに、ええの? ありがとう、もらうわ」
日本語が口をついて出た。
 私は日本に戻ってきてから、なぜ彼女たちを写真に撮らなかったかと激しく悔やんだ。その頃、疲れのせいか、カメラのレンズを通してものを見るのが面倒になっていたのだ。カメラは鞄にしまわれたままだった。
 彼女に見送られて、駅の構内のベンチにやってきて、私は早速バナナを食べた。丈の短いモンキーバナナが三粒、皮が薄くて身が丸々している。むせるほど甘かった。



 食事の話が続いたところで、ついでにヴェトナムの食べ物について纏めておこう。
 おおかたの日本人のヴェトナム訪問者と一致する意見だと思うが、ヴェトナムの料理は美味い。まずいものは食べなかった。列車で出される弁当も、こちらの胃が弱っていなければ、きっと味がよかったはずだ。彼らは、おいしいものばかり食べているから、頽廃するのではないかと思うほどである。
 とはいえ、私はグルメとは対極する食事ですましていた。ほとんど毎食のように、『フォー』という、うどんを食べていた。なぜだか胃腸の具合があまりよくないせいで、簡単に腹に収まってくれるうどんが有難かった。私の舌は凡庸であるから、うどんのだしが何かききわけることはできなかったが、だしというより、香辛料優位の味付けらしかった。そしてスープの上にゆずを絞って、何かよくわからない葉っぱをちぎって載せる。葉っぱは味付けのためではなく、精力をつける効用があるらしく、旅行の最初の頃寝つきが悪かったのはそのせいではないかと推測される。麺以外の具は、鶏肉か豚肉が多い。いちど魚の肉の入ったのを食べたが、これも美味かった。
 ご飯はいわゆるアジア米というやつで、パサパサしているが、たいがい炒めたり上におかずを載せて食べるのでちょうどよい。上に載せるおかずは自分で選ぶ。鶏の揚げたやつを載せて甘辛いソースをかけたご飯は、どこの店か忘れたが、食欲がないにもかかわらずスプーンが進んだ。メコンクルーズのガイドと一緒に飯を食ったりしたとき、おすすめだといって、カエルを食わされた。彼はしゃぶるように食べ尽くして、カエルを骨だけにしてしまった。食堂の床は食い物のかすで汚れているが、それは彼らが、ぺっと吐いて捨てるからで、それでもよくできたもので、どこからともなく現れた犬がその残飯をくわえて持っていってくれたりする。
 床のゴミといえば、市場などで道が交差した場所があると、その中心にゴミが山のように溜めてある場面をよく見かけた。もの凄い臭いだし、通りにくい。ゴミ箱を売ればきっと儲かるだろう。ヴェトナムは豊かな自然がゴミを還元してくれていたから、ゴミを人間が処理するという考え方が今までは希薄だったかもしれないが、経済が発展してゴミが増えてくれば、これまでのようにはいかない。もうそろそろ衛生思想も浸透されるだろうから、タイミングをつかんで、軒下において置くようなプラスチック製の大きなゴミバケツを販売すれば、たちまち普及して――みたいなことにはならないだろうか。でも、ヴェトナム人は清潔好きでもあるから・・・・・・。ゴミ箱が無いように思ったのは、私の観察不足だろうか。しかしまあ、ゴミ箱で儲けられるというなら、私が気づくより早く日本の商社などが手をつけているだろう。
 日本の企業といえば、バイクや電化製品もさりながら、食品メーカーもヴェトナムに進出しており、国道沿いに大きな看板が設置されており、「Oishi!」 と謳い文句が添えられている。食堂で店の奥さんから、「オイシ?」 と尋ねられたりするが、これは観光客が周知させたのだと思っていたが、それよりも、大企業の宣伝のほうが理由として大きいようだ。
 散々ヴェトナム料理を誉めておきながら、これを書くのは気が引けるが、――あるうどん屋さんでのこと。早朝、出勤前の男たちで店はいっぱい(サラリーマン風の男が、箸を使うとき、それをティッシュで拭いたのを見て、ああ、やっぱりヴェトナム人も気にするのだな、という感慨を持った。私はその頃には、きれいに洗ってあるようには見えない店の箸にも平気になっていた)。忙しいから店の外に調理台を設置して、奥さんは流れ作業でうどんを作っていく。手際がいいな、とぼんやり彼女の挙動を見ていたが、ふと、気になることがあった。どんぶりを並べておき、スープを注ぎ、大きな鍋で湯がいた麺を放り込む。そのスープを注ぐ時点でのことだが、奥さんは液体を注ぐと同時に、白い粉を目分量で、ばさっと加えた。その白い粉が、どうも『味の素』に見えてしかたがない。これは重大だ。『ヴェトナムの味』と珍しがって喜んで食べていたら、それは実は日本企業が大量生産で作り上げた味だったのか。
「ヴェトナム料理は日本人の舌によくあう」
という、評価も耳にする。もしあの白い粉が――そりゃ、日本人にあうわな。
 すでに書いたけど、私は旅行の最後にファンティエットという町に来ていた。そこは田舎の漁村であった。ここにきて私は、いちどくらい、ガイドブックに載っているようなレストランで、美味そうなものを食べてみてもいい頃ではないかと、もくろんでいた。カネは残ってしまっている。時間も余っている。この街では海の幸が食べられる。よし、海老を食べよう、と決定した。
 そのレストランは平日の昼間だからか、ひっそりしており、オープンしているのかも疑わしく、店の入り口を覗いていると、二階の窓から女に手招きされた。客は私のほかには、太った親子連れが一組いるのみ。
 ウエイトレスがメニューを持ってきた。値段は記してあった。メニューは英語でも書いてあった。しかしよくわからないふりをして、ウエイトレスにいろいろ尋ねた。店の隅にはウエイトレスの女たちが客が来るのを待ってたむろしていたが、私の担当の彼女は、外人は面倒だから、あなた、行ってくれない? と押し出されるようにして来た感じだった。彼女はふっくらとした平凡な顔をしていたが、笑うと眼が優しかった。私はエビフライとご飯と魚のスープを注文した。長らく待たされて、やってきた皿の上には大量の太い海老が載っていた。熱いのを口に入れると、油がきついけど、贅沢な気持ちがする。
 私は満腹になった。会計は700円。
 次の日、胃腸がびっくりしたのだろう、腹がゆるくなっていた。



 ファンティエットでは、最後の二日を過ごした。この町へはホーチミンからバスで行くのだが、これがひどいバスだった。バスといってもワンボックスのワゴン車である。雨が降ってじめじめしているのに加え、ぎゅうぎゅう詰めの車内で、若い車掌が権勢を誇示しようとしている――この車中での私の心理状態は文学的に書けば面白いかもしれない予感はあるが、もうそろそろこの文章も終わらせなければならず、筆者の筆を持つ手が疲労を訴えていることもあり、軽く触れるにとどめておく。
 私は車掌に強いられて、最後列に四人掛けで座らされていた。車内の空気は湿気で重く、両隣の男たちは汗だかなんだかわからないもので濡れている。特に片方の男は、思い出したように、病的に咳き込む。顔色は寒色系である。スピーカーからはヴェトナムの歌謡曲がわめき、車掌は窓から首を出し道端の客を拾おうと声を張る。このまま五時間。私は発狂しそうになった。私は車掌を睨みつけていた。途中で何人か客が降りると、ようやく三人掛けになった。爺さんが病人に窓際の席を譲ってやった。私は反対側の窓際にいたが爺さんが、席を換われてといってくる。私は無視した。すると爺さんは私にぴったり寄り添うように座り、ときどき咳をしては私に触れてくる。病気をうつそうというのか。
 日も暮れてきた。雨はやまない。車掌が私になにやら話し掛けてくる。何をいっているのかわからない。どこで降りるのか聞いているのだろうか。私はこの道沿いのホテルを予約してあったので、そのホテルの前で止まってくれると有難かったが、その意思を伝えることは不可能だった。車掌はガキ大将みたいに、何か冗談めかし口振りで笑っている。この国では子供はとても大切に育てられるが、こういう男を見ていると、甘やかせ過ぎなのではないかと思えてくる。
 車掌は、このバスはファンティエットは通り過ぎるだけだといっているような気もする。止めて欲しければ場所を指定せよということか。私の汗は冷や汗に変わった。私が途方にくれていると、同乗の客が私の肩に手を乗せ、真面目な感じで何か言う。「心配するな、私が何とかしてやる」 とでもいっているようだった。家に泊めてくれるのか? しかし、ホテルはあるはずなのだ。その客の感動的な態度も私の心を和ませることはなかった。私はとにかくホテルの名前を連呼した。車掌は、「何いってんだ、こいつ」 という顔のまま。万事休すかと思われたとき、覚醒剤でもやっていそうな頬のこけた怖い顔をした運転手が、「ここだろ」 みたいにいいながら、クルマをとめた。まさしくそこだった。私はクルマを降りた。天にも昇る気持ちで、去っていくバスに手を振った。
 ホテルに入ると宴会をやっていて騒がしい。誰かの結婚式だった。



 ファンティエットでは、海辺で時間を潰しただけだった。海は期待したほどきれいではなかった。特に、散歩していて迷い込んだ、とある海岸は、広々としていて海水浴場にふさわしいようだったが、波打ち際をよく見ると、無数の人糞が転がっていた。向こうでしゃがんで海を眺めているのは、いままさに用を足しているのではあるまいな。気がついてみれば、私はにおいに包まれていた。すぐにそこを立ち去ることにした。そこは漁村の路地を抜けて出たところであり、外人は珍しいようで、じろじろ見られた。私を手招きする、漁師の女房風の三人連れは恐ろしかった。私は微笑みながら、急いでいるふりをした。いま思えば、あの女房たちと話をするのも面白かったかもしれない。
海水浴場は砂浜が狭かった。泳ぐつもりはなかった。寝椅子に座ってジュースを飲みながら海を眺めていた。
 学校の制服を着た女の子たちが砂浜で遊んでいた。水際で走り幅跳びのようなことをして、お尻を濡らしている女の子もいたが、その子はそれに頓着していなかった。それに、女の子同士で相撲のようなこともしていた。女が強いのである。
 浮き輪で遊ぶ少年たち、砂場にしゃがんで隠れるでもなく水着に着替える女性を眺めていると、チューインガム売りの少年が近寄ってきた。いらないといっても立ち去ろうとしない。まあひとつくらい買ってもいいか、と思い値段を訊くと、指で、
「2500ドン」
という。しかし、ガムの包装紙には「2000ドン」 と印刷してある。私は、ボッタくられるのに嫌気がさしていたので、たった500ドンにこだわって、2000ドンしか払わなかった。すると少年は、それは間違っている、という風に、承知しない。十いっても怒っているのではなく、困っているのに近い。私はガムを返した。
 少年は、私のそばで地面の上に座り、なにやら鼻歌のようなものを呟いている。私はガイドブックを取り出し、少し話してみることにした。年齢を尋ねると、十四だという。仰天した。少年はどこからどうみても小学校中学年にしか見えない。それは身体の小ささだけではなく、精神の幼稚さも原因らしく、私のガイドブックをとると、絵本でも見るように遊びはじめた。掲載されている写真に興味があるらしい。適当な写真を指差して、「これ、なあに?」 というふうに、私を見るので、「ハ・ノ・イ」 と答えた。そこはハノイの風景だった。私の念頭には、少年はハノイをテレビか何かで見たことがあるだろう、というのがあったが、どうやら少年はハノイを知らないらしく、――私の発音がまずかったのかもしれないが、彼はどのページのどの写真を見ても、
「ハノイ、ハノイ」
と繰り返すのだった。あるページにドン紙幣が全種類印刷されてあったのだが、少年はそこに目を留めて、一枚一枚、金額を数えていった。小学生が勉強をしているようだった。ガイドブックの会話集のページで、発音を諦めて、文字を指で示しながら少年に意味を伝えようとしても、何かぶつぶつ言うだけで、合点がいかない。
「あっ」
ひょっとすると、少年は字が読めないのではないか。
 少年は私に飽きたのか、去っていった。他の客を探しにいく、という風には見えなかった。私はチューインガムを買わなかったことを後悔した。
 そこで、次の日もまた、――他に目当てもなかったので――同じ海岸にいった。すると少年がいた。昨日と同じ商品を携えている。しかし着ているシャツの模様がかわっていた。私は早速ガムを買った。2500ドンである。私は微笑みながら顔見知りに対するニュアンスを出してみたが、どことなく、暖簾に腕押しであったのは、どうやら、少年は私のことを覚えていないらしかった。覚えていないというよりも、昨日相手にした外人と、いま目の前にいる外人が一致しない、といったほうが正確かもしれない。私はまた少年にあえて、少し安心した。少年は、他の物売り少年たちの群れに混じって、和んでいるようだった。



 日本に帰る飛行機の時間が近づいていた。ファンティエットから空港のあるホーチミンまでは、バスで帰る。行きしなで懲りたので、6ドルのオープンツアーバスのチケットを買った。バスは二時にホテルの前まで迎えに来てくれるという。チェックアウトの直前、シャワーを浴び、帰る準備を終え、あとはバスが来るのを待つだけだった。
 もうすぐ日本に帰る。それは、まあ、既定の事実だ。感興は湧いてこない。
 旅程の半分が過ぎたころ――ハノイにいた頃は、早く日本に帰りたくてしかたがなかった。いま帰りのバスを待っているこのときになっては、そうは思わない。急ぐ心境はなくなっている。もちろんこの国にずっといたいというのではない。やり残したことがあるといって焦燥するわけでもない。
 あと十数時間で、私は日本の地面に立っている。ここは日本ではないが、海の向こう、北のほうにずっと行けば日本がある。眼で見たわけではないが、知っている。日本ははるか遠い。そこまで行くには時間がかかる。飛行機で行くにせよ、船で行くにせよ、泳いでいくにせよ、それなりの時間がかかる。私は飛行機で行く。飛行機だったら日本まで五時間半。その時間は、私の前方に用意されている。私は用意されたものを椅子に座って賞味するだけだ。向こうが運んできてくれる。
 私は日本に帰ってからのことを思わないではなかった。日本に帰れば、ああして、こうして、誰に会って、何を話して・・・・・・、同時に、私はヴェトナムでのことを思い浮かべる。あの時はひどいめに遭った、あれは助かった、あの人はいいひとだった、ほんとうにいいひとだった、あの人は私のお礼を聞かずに去っていった、というより私は感謝の言葉を知らなかった、それはヴェトナム語を知らないという意味ではない、日本語でもあのときの感謝を表す表現は知らない、私はあの時だけ神がいればいいのにと思った、神を用いる以外に十分な感謝はできないと思った、――あの少年はこれからどうなるのだろうか、と思えばまた未来に向い、あの少年はこれまでどうして来たのかと思えば過去に向かう、そしてヴェトナムに来る前の日本のことを考える。時間がおかしい。これは要するに、ヴェトナムのゆったり流れる時間に自身が染まってしまったということだろうか。
 というのは嘘で、なかなか来ないバスに、私は苛立ちを募らせていた。私はホテルの玄関のソファで待っていた。私はホテルの部屋の(壊れかけの)卓上ランプに致命傷を与えてしまっていたので、ばれないうちに早く立ち去りたくもあった。ホテルの支配人は、私に懸隔のないサービスをしてくれたが、私がそこで待つことを勧め、また遅れているバス会社に電話もしてくれた。彼はどこかしら破格の人で、瞼にはいつも憂いがあり、ため息が似合いそうな理知的な雰囲気があった。私が待っていると、日本語を勉強しているというホテルマンがやってきて、話し相手になってくれた。彼は、いつか日本に行きたい、といっていた。私は、日本に来たからっていいとは限らないよ、といいそうになった。
 それにしてもバスが来ない。もしバスが来なければ、どうしよう。飛行機に乗れない。日本に帰れない。大変だ。
 一時間遅れてバスが来た。待っているあいだは、怒鳴ってやろうかと意気込んでいたが、バスが来たことの喜びで、怒りは忘れた。ホテルの人たちに手を振って、私はバスに乗り込んだ。
 乗客はほとんど外人だった。そしてほとんど座席が埋まっていた。まさか座れないというのではなかろうな。いや、後ろのほうに席は空いている。しかし、相席になりそうだ。しかも、日本人の隣だ。私は、「失礼」 みたいなことをいって、彼女の隣に座った。彼女たちはどうやら四人組らしいのだが、二人掛けの座席をそれぞれひとりずつで占めているのだった。二人ずつ並んで座ればいいのに、と私は思わないではなかった。私はこれからホーチミンまで五時間くらい、日本人と隣りあわせで過ごさなくてはならない。
 しかし、とりあえず、バスの中は快適だった。上質のエアコンが効いていて、息が楽になったようだった。バスはヒュンダイ製の観光バスだった。
 バスの中でするべき選択肢は、寝る、隣の日本人と話をする、本を読む、の三つが挙げられたが、ひとまず本を開いてみてもあいかわらず活字が頭に入らないので、話し掛けてみることにした。彼女は東京の大学生だった。最初タイに入り、ダイビングをやって、そこでビザを取りヴェトナムにやってきて、これからカンボジアに行くという。そして自称貧乏旅行。私より過酷な旅行をしているようだった。逞しいものだ。これはやはり、彼女たちが東京の人間だからだろうかとも考えてみる。東京の人間は、並大抵の刺激には満足できなくなって、ついに自分の命を賭けにしてサバイバルをするしか道が残されていない――しかも女である。私は自分の旅行の話をするのが恥ずかしかった。それでも日本語を使う快楽でか、話してしまう。やがて、バックパッカーのときと同じようにヴェトナム人の悪口を言い合うことになるのだった。しかし、バックパッカーのときほどの日本語を使える悦びはなかった。日本語への飢えがなくなっているのだった。
 日本人と日本語で喋りながら、エアコンの効いた座り心地のいい車内から、窓外の風景を眺めると、そこがヴェトナムであるようには見えないのだった。日本の僻地のように感じられた。もう、日本に帰ってしまったも同然。しかし、バスを降りると、そこはやはりヴェトナムだった。私は旅行の最後に、日本に戻るリハーサルをしたようなものだった。よいめぐり合わせだった。彼女はまだ一週間、日本に帰らない。私はお先である。



 日本に帰って思ったのは、かわらない、ということだった。普通、自分のまわりの状況が、――ヴェトナムと日本と――確かに変化しているわけだから、それをテーマにいろいろ思いあぐねてみるものだろうが、そのテーマは適当なようには思えなかった。日本は私は出国しているあいだ何も変わっていなかったし(いや、小泉首相が訪朝を決めたり、村上春樹の新刊が店頭に並んでいたりはしたが)、私自身も変わらなかったし、ひょっとするとヴェトナムも日本も同じようなものかもしれなかった。関西空港から、梅田を経て京都に帰る道すがら、よそよそしさを感じるだけだった。私自身が、旅行によって多少図太い人間に変わってしまったかもしれない、と微かに期待もしたが、電車のシートに座れば、瞬間的にもとの小心な性質に戻った。
 この旅行は、喩えるならば、『千と千尋の神隠し』だった。千尋は、トンネルを通って非日常的な世界に迷い込んでしまう。旅行も非日常性を味わうためにするものである。千尋も旅行をしたのだ。それが自発的なものか強制的なものかはさておく。
 千尋は神隠しにあって、ひどいめに遭う。まったく常識はずれな世界で苦難を乗り越える。ちょっとずつ成長したようでもある。しかし、千尋はやがて元の世界に戻る。しかも、ここが重要だが、千尋がトンネルを入っていくアニメーションと、トンネルから出て行くアニメーションは、同一のものである。同じ絵を二度使っているのだ。つまり、入ったときも、出て行くときも、同じ。千尋は何も変わらない。トンネルから出るとクルマがぼろぼろになっているが、それは時間が過ぎただけ。ただ一点変化したのは、千尋の髪の毛を束ねているゴムが、魔法の込められたゴムひもであるということ。それは、ささやかな宮崎監督の願望である――あるいは観客への迎合、いや気遣いだな。
 好意的に解釈すれば、誰しも能力を持っているのだから、子供たちがふてくされているのは、それを発揮できるような環境がないだけで、子供はいまも昔も変わらない。非日常的な世界に放り込まれれば、どんな子供でも、それなりに、普段とは違った生き方をしはじめる。
 私の旅行は神隠しだった? ただし、千尋と違って、ドラマもカタルシスも美しさも、何もない、悪あがきのトリップだった。


(了)












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