History



西分町の歴史をすこし・・・・・・・・・

 この西分の土地に人が住むようになったのは、縄文時代のころからだそうで、西分町の西の境に「笹川」という川が流れていて(現在は地中にうずめられ下水道となってしまったが)この川の川岸より縄文式文化時代の土器など多数出土したようです。このことから西分の土地には五、六千年前には人が住んでいたと思われます。

 この土地が「西分」と呼ばれるようになったのは、はっきりとした年代はわかりませんが、書物にかかれるようになったのは、江戸時代初期の慶長(1596〜1614年)のころからだそうで、今から四百年くらい昔のことだそうです。
 一説には、となりにある勝沼村の続きとしての集落があり、もとは勝沼村とひとつであったが、分村され西分村となったようです。なぜ分村したかは定かではないが、豊臣秀吉の検地(太閤検地)により一村単位の基準と、西分の広さが一致することから、ここで分村されて、少なくとも徳川家康が江戸幕府を開いた年までには西分村が出来たそうです。

 明治5年に多摩地区全域が神奈川県所轄となり、明治11年には郡区町村編成法により多摩郡は分割され、西分町は西多摩郡に入り、明治になり村町制が施行され(明治22年)勝沼村、日向和田村と共に青梅町に合弁し、明治26年に三多摩地区全域が神奈川県から東京府に編入される。昭和26年青梅町、調布村、霞村が合併し、青梅市が誕生した。昭和40年に西分町の東部が東青梅に編入され今の西分町の形となりました(今もその名残が続いて、石神社の祭礼や青梅大祭の時の町内周りの一環として東青梅四丁目まで毎年行っています。)。



妙見について

 古代中国ではすべての星が北極星を中心に回ることから全宇宙を司る星として最高位の神として崇拝されていました。また北極星は、北辰(ほくしん)と呼ばれ、天帝の化現した姿だと信じられてきました。北辰の辰とは、龍神のことで、北辰は、道教の中心的な神である太一神(たいいっしん)と同一視され、また、陰陽道で宇宙生成、森羅万象を司る神として位置づけられる泰山府君(たいざんふくん)とも、同一神であると見なされてきました。
 そして、古代中国における妙見信仰に仏教などの宗教思想が入ることによって妙見菩薩と呼ばれるようになった。ちなみに「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである。そして日本には六世紀ごろ伝えられたと言われている。

 妙見菩薩信仰 には星宿信仰に道教、密教、陰陽道などの要素が混交しており、像容も一定していないが、密教では尊星王(そんしょうおう)と称し、菩薩形で二臂または四臂の像で、竜の背に乗っている。三井寺(園城寺)の尊星王画像はこの種の四臂像の例である。 他に甲冑を着けた武将形で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物で北方の守り神)に乗るもの、唐服を着て笏を持った陰陽道系の像など、さまざまな形がある。

 ここまでいうと神道とのかかわりがないように見えますが、天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと) は、天地初発のときに高天原(たかまのはら)に最初に出現した神で、天中央に位置し、すべてを支配する神とされています。天御中主神こそ、神道における北極星を神格化したものなのです。天地初発のときに高天原に最初に出現した神で、天中央に位置し、すべてを支配する神とされています。天御中主神 こそ、神道における北極星を神格化したものなのです。天之御中主尊 は、「古事記」の冒頭と「日本書紀」の一書第四に登場しています。




妙見社について

 
 西分神社は古くより西分町に住むものの産土神(うぶすながみ)と仰いでおり、天之御中主尊を御祭神として今からおよそ650年の昔に妙見山の頂に祀られてから現在の場所に移されても尚、無病息災孫子繁栄の守り神として今も信仰をささげています。 妙見社(西分神社)の歴史は西分の歴史より古く、鎌倉時代末期に建てられたと言われています。ですが、これについては説が二通りあるようで、二つとも鎌倉時代の終わりころだと、記されていることから妙見社は七百年の歴史があるようです。(下記参照)
 この妙見社は初めは山頂にあったようですが、江戸末期に今の場所に移ったようです。
 西分・妙見社は安産の神様として言われることがあります。これはかつて西分神社の氏子には難産したものが居ないと言われたことから始まったそうです。


参照諸説

 一つ目は、鎌倉末期から室町時代にかけてこの地方の領主であった三田氏は垣武平氏(平正門の先祖)の一族で、この垣武平氏は妙見信仰がつよく秩父に妙見社を勧請したことから、この三田氏はこのことからこの西分の土地に妙見様を勧請したものであると言う説。

 二つ目は妙見社の麓にある宗徳寺の山号を妙見山と称え開山を華芳峰大和尚禅師といい、この開山禅師が鎌倉時代末期の文保二戌牛年三月二十八日(1318年に寺の守護神として山頂に勧請したと言う説の二つあるそうです。




西分町の山車について・・・




 西分神社遷宮百年祭の記念として昭和47年に製作されました。他の山車と同じ「黒漆塗り・面取りに朱」をベースに、欄干などに沈金を施した青梅の山車で唯一といわれる極彩色に塗られています。囃子座の天井には、飛鶴が描かれ、欄間には蛙股が付いています。鬼板は懸魚の龍を睨んで、素戔嗚尊が奇稲田姫を擁して剣を抜いている、額は鎮守の北斗七星の妙見菩薩にちなんで、「北辰」とし妙見尊の座である亀を縫い込んであります。








 素戔嗚尊・須佐之男命(スサオノノミコト)・・・日本神話の神。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋戸にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を天照大神に献じた。

 奇稲田姫・櫛名田比売(くしなだひめ)・・・日本神話の女神で、脚摩乳(あしなずち)と手摩乳(てなずち)の娘。八岐大蛇(やまたのおろち)のいけにえとなるところを、素戔嗚尊(すさのおのみこと)によって助けられ、その妻となった。稲田姫。

 天叢雲剣(あまくものつるぎ)・・・三種の神器の一。日本神話で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国の簸川(ひのかわ)上流で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、その尾から出たという剣。のちに、熱田神宮に祭られる。草薙剣(くさなぎのつるぎ)。

 八岐大蛇(やまたのおろち)・・・日本神話にみえる頭と尾が八つずつある巨大な蛇。出雲の簸川(ひのかわ)上流にいて、大酒を好み、毎年一人ずつ娘を食ったが、素戔嗚尊(すさのおのみこと)がこれを退治して奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、その尾を割いて天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得たという。

 



石神社について

 石神社は西分神社(安産の神)の枝宮にして本宮より辰の方 宇石神平に鎮座(現在よりやや東) 本社の杓子をうけ門宮にかかくればよく疫病を守護するといい伝う 東は武蔵 北は信濃 西は尾張 伊勢 までの諸国にしか存在しない神である その検地の縄を埋めた所に祭るという神聖な地主神である。

 御祭神は 道反乃命(ちちかえしのみこと) で 安産の神 子供の神 である。
 
 御神徳は 商売繁盛 家運降昌 縁結び 病魔を防ぎ 喉の病気や 風邪の神として信仰され社に杓子を供えその杓子で患部をなでると快癒すると伝えられている。







西分年表

西暦 和年号 事項
B.C.1万年〜5千年頃 縄文時代  今の西分町の近辺に人が住み始める
1300年〜1400年頃 鎌倉時代後期〜
室町時代前期
 妙見社建造
1596年〜1614年頃 江戸時代初期(慶長)  西分村の制定
1760年〜1869年頃 江戸時代末期  妙見社の移動
1869年 明治2年  妙見社を西分神社と改称する
1872年 明治5年  遷宮の大祭をあげる
 無格社より村社となる
1889年 明治22年  青梅町に合弁
1965年 昭和40年  西分町東部が東青梅に編入される
1972年 昭和47年  西分神社遷宮百年祭
 現在の山車の制作

西分の年表を簡単ですが載せてみました。間違った所や、もっと詳しい情報、などなどございましたら御一報ください。

最終更新日2008/05/10

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