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濡れた石畳の上、点々と椿が落ちていた。 氷雨に打たれ、くすんだ色の黒侘助。空気は湿って冷たく、ただでさえ交わす話題のない二人を、一層無口にさせた。 雨は正午前にやんでいたが、夕方から雪になるだろうと天気予報が伝えていた。 京はバイクを諦め、電車を乗り継いで来た。駅のロータリーに着くと、待ち合わせた男が丁度車から降りる所だった。男を乗せてきたアウディを運転していたのは、また京の知らない女だった。車はそのまま去り、タクシーを拾うのも馬鹿らしくなって、そこから八咫の家まで歩いていく事になった。 無言のまま、ただ歩く。 京は白い息を吐きながら、数歩先を行く黒いコートの背を見ていた。彼が何を考えているのか、知る由もない。神楽ちづるの見舞いなどという提案を受け入れた事自体、京には意外だった。 勿論、見舞いなど口実に過ぎない。 ちづるの依頼で出場したKOFは、京にとってかつてないほど不愉快な形での終幕となった。ちづるはあれ以来、療養という名目で公の場から姿を消している。八咫の御託宣を頼みにしている政治家・財界人は少なくない。彼等はこぞって見舞いに訪れたが、面会を許された者はいないと聞いた。 だが自分は、ちづるに問う権利がある。 そしてちづるは、己が知る限りの事を答える義務がある。 解消するすべも分からぬまま腹立たしさを抱えている状態に、京はほとほと嫌気がさしていた。その思いは彼も同様だろうと考え、誘ってみた。吝かでないとの返事が来た。 ――いつでも構わない。 そう云われ、逆に京の方が少しばかりたじろいだ。 つくづく、何を考えているのか分からない男だ。だが紅丸などは「あんなに思考丸出しの、分かり易い人間はそう居ない」と云う。 周囲の人間は皆、彼を理解できているようだ。ちづるも、紅丸も、彼を送ってきた女も、京が知らない彼の友人達も。 けれど、京には理解できない。男の行動が、発言が。京に対する、彼の感情が。 ……うんざりする。 思わず京は呟いていた。男との悪縁が始まってからの長い年月を、まるで無為に過ごしてきたような気に襲われたからだ。 「――おい」 声をかけられ、京は我に返った。 前を歩いていた男は立ち止まり、京の方を見ている。いつの間にか、目的地である屋敷に到着していた。神楽の表札を掲げた重厚な門扉の前、男は京に訊いた。 「神楽には、何時に来ると伝えてあるんだ」 「え? ……あ」 「……」 しまった、という顔の京を見て、庵は無表情のままだった。けれど流石に京でも、彼が呆れている事は理解できた。 |
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「こんな格好ですみません」 「いや、急に押しかけた俺等が悪いんだし」 隣に座る庵から無言の圧力を感じつつ、京は答えた。 我ながらどうかしていたと、冷や汗をかいた。連絡もなしに療養中の人間を突然訪ねるなど、門前払いを食っても文句は云えない。 通されたのは奥座敷ではなく、ちづるの私室に続いているという、こじんまりとした和室だった。10分と待たさず姿を見せた彼女は、部屋着らしい服装に着替えていたものの顔には化粧気がなく、ざっくりと結った黒髪も心なしか艶が失せていた。 「来てくださって、ありがとう」 ちづるはそう云って微笑んだ。そのままでも端正な顔立ちではあったが、以前のような威厳に満ちた空気を纏ってはおらず、かよわげに青ざめている。今更のように、彼女が今回の件で心身共に傷ついている事を思い知った。 罪悪感が、京の口を重くする。 だがそれを見透かしたように、ちづるは云った。 「ここへ来た目的が別にある事は、充分承知しています。本来なら私が出向くべき所……申し訳ありません」 ちづるは畳に手をつくと、深々と頭を下げた。 「やめろよ、あんたらしくもない」 「私の失態によって皆さんを不必要な闘いにまで巻き込んでしまいました。その上、自分の力まで――」 「頼むから、顔を上げてくれ」 京は困って、横の庵に目顔で助けを求めた。だが庵はまるで他人事のように庭を見やっている。 廊下側の障子は半分ほど開いて、咲き誇る庭の椿がよく見渡せるようになっていた。だが今は寒さで硝子戸が曇り、ぼんやりとした紅い色だけが確かめられる。 「――言葉ひとつの詫びが欲しくて、こんな場所まで足を運んだ訳ではない」 それまで無言のまま座していた庵が、初めて口を開いた。 「顔を上げろ。そして問いに答えろ。貴様に求めているのはそれだけだ。無力な只の女でしかない、今の貴様にはな」 「……」 ゆっくりと、ちづるは顔を上げた。 その表情は傷心に歪んでいるかと思われたが、庵に向けた眼差しには、感謝の念が浮かんでいた。そしておそらくは――ほんのかすかな安堵も。 不意に胸の奥をちりりと痛みが走り、京は狼狽した。 「ありがとう、八神」 ちづるの言葉に対し、だから礼も詫びも欲しくないのだと云わんばかりの無感動さで庵は続けた。 「まずは、あのふざけた態度の餓鬼――貴様を襲った奴について教えて貰おうか」 結局のところ、ちづるもいまだ襲撃者の正体を掴めていないというのが現状だった。いかに調査の手を広げてもアッシュ・クリムゾンに関する報告は得られずにいるという。 「あんな色の炎を使う奴、うちの親戚連中にも聞いたが前代未聞だとよ」 京が云うと、問題は力よりその使途だと神楽は呟いた。 「私の力を狙った理由が分からない、それが何より恐ろしいのです」 ゆらめく翠色の炎、その向こう側で笑っていた白い頬。思い出すだけで京は苛立ちを覚える。無界を退けた直後に不意を衝かれた事だけが問題なのではない。あれほど異様な存在を、何故大会中は意識しなかったのだろう。 京とちづるの会話を、庵は黙って聞いていた。 「何者かの指示を受け、行動したのだとは思うのですが……その背後にいる者の姿が見えてこない限り、打つ手もありません」 「またネスツの生き残りがどうのこうのってオチだったら最悪だな」 冗談めかして云ったつもりだったが、京の言葉に相槌を打つ者はいなかった。気まずくなり、目の前の茶を手にする。茶碗は既に冷えていた。 ややあって、ちづるが口を開いた。 「正直なところ、私はその可能性も追っています」 「おいおい……」 「あの炎の色。私達も存在を知らなかったという事は、何らかの手術を経て人為的に生まれた能力者かもしれない」 「本気で云ってるのか?」 「だから、かつて奪った草薙の力に続き、私を狙った。そして最後に、八神を」 「……」 「そう不自然でもない考えでしょう?……あくまで可能性のひとつ、だけど」 今度は京が沈黙した。 正直な所、その話を持ち出されるのは京にとって不愉快極まりなかった。だからこそ最初に自ら口にして話題を封じようと思ったのだが、薮蛇だったようだ。 「当面、その方向に絞って調査は続けるつもりです。他に手だてが見つかるまでは」 「……何か新しい事が分かったら、すぐ連絡してくれよ。頼むから一人で情報を抱え込まないでくれ」 「約束します」 それと、とちづるは云った。 「私からもお願いです。くれぐれも、身辺には注意して下さい――八神、あなたは特に」 無論そんな言葉に庵が応える筈もない。無言のまま庵は立ち上がった。 もう用は済んだという事か。慌てて京も立とうとしたその時、最後の問いが発せられた。 「傀儡として動かされていた時……何故あのような【形】を手駒に選んだ」 唐突な問いに、ちづるは息を止めたような表情で庵を見上げていた。 「貴様が生み出した、あの醜悪な亡霊の事だ」 障子の陰から、かすかな物音が聞こえた。 ちづるが座についてからずっと、半分閉じた障子の向こうに人が控えている。その事には京も気付いていた。 「やめろ、八神」 ちづるの前である事を意識しながら、京は庵を制した。皮肉めいた笑みを口元に薄く刻んだまま、庵は京の方を向いた。 「貴様は何も思わなかったのか? 己の恥を、何度となく晒されて」 「……」 「俺は不快だったがな」 それは確かに、本来なら目を背けてはならない問題だった。 けれど京にとっては、既に終わった出来事――存在しなかったものとして、片付けてしまいたかった。 「神楽だってあるイミ正気じゃなかったんだから、理由なんて憶えちゃいないだろ」 庇うつもりではなかったが、京はそう云った。ちづるは応えず、ただ悲しげな面を伏せて二人のやり取りを聞いていた。 向かい合わせの鏡に映る、いくつもの同じ相貌。 本来なら八咫の跡目を継ぐのは姉の方だったと聞いた事がある。 クローンに関する問題が上がった時、三種の神器の中で事の処理にあたったのは八咫の関係者だけだった。草薙家は当主の不始末を認める訳にはいかないという立場から、沈黙を通した。京はその裁定に怒ったが、自分の失踪中も非難の矢面に立っていた母や一部の親戚に対し、これ以上迷惑をかける訳にはいかなかった。結局は云いなりになった形だ。八尺瓊は一切の協力を拒否した。 八咫ちづるという女にとって、姉のマキとはどのような存在だったのだろう。 そして、処理すべき【彼等】は――どのように映っていたのだろう。 「あれっきりにしてもらえるなら、俺はもう何も云わねえよ」 京は立ち上がり、廊下へ出ると硝子戸を開け放した。 「あんたは必要以上に情を寄せ過ぎたんだ。あいつらにも、自分の姉貴にも」 庭からの凍みるような空気が、室内へと流れ込んでくる。 「これ以上、傍に置かないほうがいい」 面を伏せたまま、ちづるは呻くように云った。 「殺せと――云うのですか?」 「んなこた云ってねえだろ」 ただ、と京は続ける。 「ここへ案内される途中、家の人達が話してるのを聞いた」 ――清香と細雪はもう駄目だ、やっぱり他と同じだったか。 そう話していた。 「……新しく植えた椿の話でしょう」 「ここんちの庭には赤い花しか咲いてるの見た事ないぜ」 京は、廊下に膝をついたままの人物に目をやった。 「で、お前は何て名前なんだ? 近衛白か、伯州か、それとも一楽」 彼は無言のまま、京を睨んだ。障子を挟んでちづるの傍に控えていたその顔は、京と相似の形を保っていた。 |