研究ノート
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   「舞姫」私考

「禮樂の門、再び開かれたり。この門や、もとこれ野人を招くためにあり。當世造反の春、よろしくこのところに来つてたたかいを挑むべし。もしその間に發明の妙機をうることあらば、今日のよろこびとなすべきのみ。−− 石川淳」

序章
 明治二十三年、西暦一八九〇年、鴎外・森林太郎歳二八の時、短編小説「舞姫」を「國民之友」に発表する。東京の根津でこの小説を書く(右の写真は鴎外の旧居跡)。「舞姫」は、私が愛読し、再読する数少ない書の一つである。この書への興味は、単なる小説への興味というよりは、この書を草した 鴎外その人への興味に根ざしている。鴎外文学の起点であるために、私は「舞姫」を読み返し、判ろうとする。
 鴎外根津旧居鴎外文学は、その根底に日本近代のあり様を問うものがある。唐木順三も、その書『鴎外の精神』の中に近代化の渦中で自己の面目を保ち得た日本のあり様と共通するものを鴎外の生涯に見ている。自己の面目を保つとは、いったいいかなることを意味しているのか。私にとって鴎外文学は文学という範疇を超えて、一個の精神が一つの近代とまみえる地点で、何を形成し得たかと問うところのものである。
 日本の近代は、典型としての西欧近代と同一のあり様では形成されることはなかった。後進的に資本主義の世界性の中に組み入れられた地域が当然にも帯びなければならなかった二つの性格がそこにあらわれている。ひとつは歴史は個々の部分を不均等につくり、であるがために力がわき起こるという不均等性。もう一つはその力によって形成される複合的な発展である。自生的な本源的蓄積過程を経ることなく、一挙に高度な資本主義的関係を社会法則にするまでに発展する。その代償としていわゆる封建的残存と呼ばれる性格を発展の中に持ち込むのである。勿論、封建的残存は残存に過ぎないのであって、資本主義的発展に必要な限りでの残存物に過ぎない。この複合的性格の解明なしには、日本近代のあり様は判らないのである。
 その近代のあり様を鴎外文学は問うている。私もまた日本近代のあり様を問わねばならない。
 日本は黒船という象徴的事件に示される、資本主義の世界化の波の中で、後進的ながら植民地化されることもなく組み入れられた。組み入れられる課程と並行して、その世界の中で生き延びるための国内の再合成、再編成が進められた。その予備段階として文化文政期が注目されねばならない。が、思想的には水戸学に始まる動きが幕末から維新を経て日本近代のあり様を定めていったと見ることができる。
 私は会沢安の草した『新論』を読んでも、「東洋道徳、西洋芸術」と語った佐久間象山の文を読んでも、そこに通じるひとつの特徴に気が重くなってしまう。精神が、ことごとく自己を離れて国家に吸い上げられてしまっているのである。確かに、ナショナリズムは、資本制社会の偉大なイデオロギーではあるが、日本の場合、国家を指す概念ではあっても、それは国民を指す概念ではなかった。このことは、国難に際しての国家的統一への欲求の激しさに比べて、統一を支えるべき人々の主体の確立がいっさい問われていないと言うことである。比喩的に言えば、日本の近代は国民なき国家の成立なのである。しかし、この明治国家がいかに強固な即自的な結束に支えられていたことか。
 『新論』の書き出しに言う。
 「謹按。神国者太陽之所出。元氣之所始。世御宸極。終古不易。固大地之元首。而萬國之綱紀也。」
 この思想は尊皇敬幕であり、尊皇倒幕ではなかった。が、思想的な限界は、倒幕ではなかったところにあるのではない。それどころか、敬幕を徳川絶対主義にまで煮詰めていけなかったところに思想の弱さがある。当時、歴史は天皇制国家か、徳川絶対主義国家か、の選択を迫っていたのであり、結局、天皇制国家の成立をもって、国家的統一は行われたであった。この選ばれた道は国家への精神の吸い上げの強烈さにおいて優れていた。私は、どの道を通ろうと、西洋近代の形式的な自由や平等をもってする民主国家の形成はありええなかったと思う。個人は有為な人材として国家に利用してもらうことで、能力の発揮を行う。このような国家は対外的な侵略を好んだ。『新論』が処士の聖典となったことは知られている。ここの攘夷思想は、その根底に侵略性を含んでいた。ナショナリズムについて述べれば、攘夷も開国も対外的な意識においては根は一にしていた。当時の偉大な儒者、熊本の横井小楠は、先進的なブルジョワ思想の持ち主の感覚をもって、この閉ざされたナショナリズムを論難している。
 「天地の気運と万国の形勢は人為を以て私する事を得ざれば、日本一国の私を以て鎖閉する事は勿論、たとひ交易を開きても鎖国の見を以て開く故、開閉共に形のごとき弊害ありて長久の安全は得がたし。」(国是三論)
 彼にあっては「万国の事情に随ひ、公共の道を以て」することが望まれたのである。が、開明というにはラジカルに過ぎた小楠の思想は 歴史の中で暗殺された。歴史は「鎖国の見を以て開」かれたのである。ここでは、公共の道は求められていなかった故、常に膨張主義政策としての海外侵略が内在していた。攘夷も開国もひとつの根から生まれていた以上、その幕末の争いも愚かしいものであった。
 対外的な態度は、国民なき国家の成り立ちのあり様に基づいている。後の自由民権が大勢として国権運動に吸収されて行った姿をあわせて思い浮かべることができる。 
 天皇制国家の成立という国内の政治的な動きは、後進的な資本主義化では小商品生産者の自然発生的な成長が十分には行われ得ないという経済的な課程が対応している。小商品生産者の自生が不十分なことから、彼らが作り出した自由と平等という理念や、個人が契約を結ぶことで社会を作り上げるという精神のあり様が成熟する基盤が欠けていた 。契約意識の未熟さは、天皇制国家にのみ富と権力とが集中し、国民は総奴隷的な貧困にさらされる。そして、政府がこれらの政策を断行するに当たって、西欧の後進国ドイツの資本主義化の過程を学ぼうとしたのは的を得た方針であった。
 ドイツは明治4年にようやくヱルヘルム1世のもとに統一国家を作り出し、ビスマルクが主導する富国強兵が図られていた。

 1章
鴎外生家(津和野 明治政府の要請を受けてドイツに官費留学した森林太郎は、後進的な資本主義化の過程に必要な技術を身につけるだけの被動的の人物に止まらず、その技術を使う個人の確固とした自由と責任とに目覚めた。しかし、目覚めたとはいえ、林太郎自身、このような西欧近代の理念を担い切れぬ自己にも気づくのである。それ故にこそ、洋材和魂を主張するには、その和魂といわれる精神的内容の意外な弱さを知り、唯、洋行帰りの保守主義者として振る舞うしかなかったである。林太郎はここで鴎外・森林太郎として存在することとなったのである。
 自由と平等と、それを支える責任という西欧近代に生きる主体の歴史的な性格である自我。この自我の未成熟さは、単にマイナスの要因としてのみ人々の生涯にふりそそいだのではない。確かに、ひとつの不幸であることには相違ない。けれども、大切な事は、日本の近代が、西欧近代の理念に対抗しうる理念をつくりだせたかどうかにある。このことを考えると、鴎外は、もっとも良質な明治人であったのではないだろうか。天皇制官僚として良質であるばかりではなく、反体制運動としての自由民権を含めた視野に立ってなおそのことがいえるのである。日本近代の複合的性格は、形式的な自由や平等を思想的な背景として成り立たせることなく、総奴隷的な貧困から個々人が抜け出すための立身出世主義をつくりだしたのである。国家主義的な色彩に導かれるような意識は、前述した幕末の処士から、共産主義者までつながっているのである。私は、天皇制官僚が反動で、自由民権が進歩であるなどという単一の図式を拒まなければならない。
 鴎外・森林太郎を語るに当たって、大学卒業期から留学までの時期に現れた彼の態度をとらえることによって、西欧体験を語った小説「舞姫」の導入を果たしたいと思う。
 福羽美静、西周らの学者を輩出した中国の小藩亀井氏津和野の医官の息子森林太郎は、明治14年東大医学部を歳20で卒業した。おそらく最年少であろう。青年、林太郎を語って、その様子をよく伝えるものに学友、小池正直の文がある。
 「僕有一良友、云森林太郎、歯廿有一、与僕同窓十年矣、今偕卒全科之試問矣、森氏為敏而嗜学」「此人蓋千里之才也、若能用将興我医道、制彼跳梁、邦家之益不亦大乎、而尚屈在槽櫪之間、以俟伯樂之顧、惟庶幾。」
 小池正直の文は、当時の陸軍軍医本部次長石黒忠悳宛の推薦文である。林太郎を陸軍に推薦した小池は後に小倉に彼を左遷した本人である。皮肉な巡り合わせというしかない。林太郎は西医の陸梁を憂えていたのであり、「若能用将興我医道、制彼跳梁 」と期待されていたのである。この期待は医学部の教師シュルツェに対して、西欧の方法を日本に輸入するのではなく、伝統の上に立って移植しなければならないとして反抗したことや、後に西欧の地でナウマンに激しく反論する姿に重なる。
 推薦文でもって若き林太郎を語ったに引き続き、陸軍入りを巡る問題を扱ってみよう。小池の推薦文が陸軍入りに役立ったことは人の知るごとくではあるが、他に林太郎の親族の役割も忘れてはならない。気持ちの中心は、「然レハ矢張双親共ノ意ニ遵イ陸軍省ニ出仕ノ外ハ無御座候」(賀古鶴所宛書簡)である。さて、親族の件であるが、これは西周を介して連なっている。西周は、林太郎の祖父の弟の子であり、先に陸軍西周生家(津和野)大丞を務め、当時、参謀本部御用掛であった。そして、西周は軍医本部長(軍医総監)林紀の弟紳六郎を養子に迎えている。さらに、林紀の叔父であり、前任の軍医総監である松本順(良順)は林太郎の父、静男の医学の師である。小西謙の推論の上に立って展開された長谷川泉の「森鴎外論」に、この経緯については詳しい。林太郎は陸軍入りに乗り気ではなかったが、また特に嫌った分けでもない。林太郎にとっても、他の有能な明治人と同様に、身を立て世に出ることが彼一人の問題ではなく、彼に連なる人々、とりわけ家族の問題であった。そして、陸軍軍医副への任官が決定された。林太郎の就職を巡って露呈した親族の連なりは、学友との関係とともに、将来の彼を定めていく大きな因子であった。ちなみに、帰国後の赤松登美子との結婚も、西周の斡旋によるものである。
 陸軍入りした林太郎は、プロイセンの衛生制度を取り調べ、その実力のほどを示したといわれている。そして、待望の逸材の実力に期待した衛生部の苦心の結果、「医務取調」のための留学を仰せつけられる運びとなったのである。
 その喜びは、鴎外その人の文から読みとれる。「航西日記」の書き出しから引用してみる。
 「此行受命在六月十七日。赴徳國修衛生學兼詢陸軍醫事也。七月二十八日詣闕拜天顔。辞別宗廟。八月二十日至陸軍省領封傳。初余之卒業於大學也。蚤有航西之志−−汨没千簿書案牘之間者、三年於此。而今有茲行。欲母喜不可得也。」
 明治十六年に、橋本綱常の欧州視察への同行を願い、聞き入れられず悄然とした林太郎が、今、天皇に拝謁し、留学に踏み出そうとしているのである。橋本綱常は、当時、東京陸軍病院長を勤めていた。綱常は安政の大獄で倒された越前の橋本左内の弟である(自紀材料)。三年の間だ待ちこがれた西欧留学が今行われようとしてる。衛生学と医務取調のため、隆盛期のドイツへの留学は林太郎に国家との幸福な一体感の情を強めずにはおかなかった。有為な人材であることを評価し、引き立ててくれた国家に応える様は、赤十字総会での活躍ぶりなどに伺える。
 赤十字総会における彼の活躍ぶりを「獨逸日記」から引用した後中野重治が、鴎外・森林太郎を作り出したのが、明治国家、就中日本陸軍であるとする観点は正確であると思える。西欧各国に先駆けて、防腐療法を軍隊に用いたことや、ジュネブ盟約を兵士に頒布して知らしめたことを始め、議会における日本最初の統計資料の作成が衛生部によって実行されたことを挙げて、
 「これらすべての基礎をおいたといっていい山県有朋や石黒忠悳などの力量について考えれば、鴎外を鴎外として育てるのにいかに日本陸軍が力をつくしたか、また鴎外のさきの言葉がどの程度甘えたものであるかがある程度明らかになろうというものである−−ほとんど鴎外は陸軍軍医部へ養子縁組したものであった。」(「獨逸日記」のこと)
 陸軍軍医部のもと、赤十字総会における新進気鋭の林太郎の活躍は、後進的に世界の中に組み入れられた日本が、世界に向かって精一杯の先進性の自己主張をしている様子である。精神を国家に吸い取られることによってもっとも良く自己を発揮しうる林太郎のあり様では、有為の人材になるための西洋体験は必要であった。
 同様のことを、言葉を換えていえば、
 「鴎外はまさに自由民権運動の爆発力が頂点に達した明治一七年(一八八四年)に、これを弾圧する当の絶対主義権力の側から、整備拡充をつとめつつある日本陸軍の一軍医として、ドイツ留学に発したのである。」(生松敬三「森鴎外」)
 明治一七年に「乍恐、天朝様に敵対スルカラ加勢シロ」と農民が起こした秩父事件。この弾圧策として憲兵隊の投入を決したのは内務卿山県有朋(「舞姫」の天方伯とされる)である。
 林太郎の位置をとらえてみれば、こう語るしか表現しようもないかも知れない。しかし、この弾圧する機関として軍隊が、その若さにおいて、防腐療法を用い、ジュネフ盟約を守らすべく努力をしたのも事実なのである。日本近代のあり様がここにはある。
 自由民権運動が一方では一揆主義に陥り、他方では帝国議会を通して国権主義に収れんしていったことを絶望的な気持ちでとらえるとき、唯一、鴎外を相対化する思考は、国家に自己の精神を吸い取られない形の運動によってしか生まれないと思い至るのである。それは実にわずかしかなかった可能性であり、時代の主流は常にそこにはなかった。

 二章
 ドイツ留学において、林太郎は「全く處女のやうな官能を以て外界のあらゆる出來事に反應して、内には嘗て挫折したことのない力を蓄えてゐた時」(「妄想」)を生きるのであった。この若々しさを支えているのは、彼の精神を吸収しているところの国家の若々しさである。林太郎の感受性は、建設中、普請中の明治国家に必要な技術を西洋において我がものにしていくのに役立っていたが、我がものにしていく過程で、西洋近代の理念そのものも純粋な形で享受していったのである。けれども、林太郎はなじめないものがあった。ここで感受性は「全く處女のやうな官能を以て」外界に当たることができなくなった。同様に明治国家も初発の態度を修正しはじめた。そのあり様は「舞姫」において、一人のドイツ留学生太田豊太郎の姿をもってよく示されている。森林太郎が鴎外としての歩みを始めたのである。
 私は「舞姫」を、現実の留学等の実体験に還元して解釈することを好まない。それは安易な方法である。けれども、作品物神の態度もまたとらない。所詮、小説も人間が作り出したものに過ぎないからである。この書を通して鴎外を、鴎外を通して時代精神を、論ずることが願いである。かかる全体性において、ひとつの書をとらえることを念じている。 「舞姫」が最初に発表された「國民之友」は徳富蘇峰がつくった雑誌であり、「日本人」に対抗していた。いわゆる民友社系である。徳富蘇峰は横井小楠の思想的系譜に属している。豪農を中心とする近代化を図ることで、明治維新を「維新」として実体化しようとするその主張において強く欧化主義を「國民之友」は掲げていた。植手通有は「徳富蘇峰=『國民之友』の『平民主義』は自由民権派の『士族性』−『自由主義』理論と『封建的』行動様式の乖離(および)武力的大陸雄飛論)の批判から出発する。」(「國民之友」「日本人」 思想1962/3)と分析している。
 この意味で「舞姫」にふさわしい舞台であったといえる。
 さて、「舞姫」の本文に入ろう。だいぶ回り道をしてきた。
 「舞姫」は、豊太郎が西欧体験で受けた心のたかぶりを鎮めるための回想の形式をとる。たかぶりはまた悲痛な心をともなった体験をもたらした。悲痛な心を静める回想は自らに西欧体験が悲痛なものでしかなかった理由を問う書き方でもある。岡崎義恵は「鴎外と諦念」で「愛だけでなく、愛を喪失した悔恨があり、悔恨だけでなく、その悔恨の原因や成立を反省する知性」を見ている。伊藤佐喜雄も同様に「春は、繰り返して云うが、鴎外の場合ひとつの知識であった。」(「森鴎外」)と発言している。あいまいな「知」の使用であるが、いわんとすることは伝わってくる。この書は西欧体験を自問する形式をとるのであるから、知的であることという印象を与える。問題はその後なのである。
津和野遠景 まず、西欧体験以前の自己を回想する。家を巡る思い出は、豊太郎の場合、「嚴重なる家庭の教」であった。教の道に遵って、身を立てるべく留学の機会を得たのである。「我名を成さんも我家を興さんも今ぞと思う心の勇み立ちて」鹿島立つのであった。林太郎の初々しい心の勇みが伝わってくる。
 豊太郎はベルリンに立ってもはじめは明治国家に吸い取られた精神が自己を生かすための「功名の念と檢束に慣れたる勉強力」で自分を律していた。明治国家に必要な技術だけを西欧から切り取って来ることが、豊太郎の担うものであった。切り取ったものを使うのは官長であった。近代日本が西欧をそのまま輸入しても同じように動くものではない。必要なものを切り取ってくるのもよい。けれども、切り取ったものを官長のみに独占させるのではなく、切り取った本人が活用できるものでなければならない。不満はそこから起きる。
 「唯だ被働的、機械的の人物となりて自ら悟らざりしが今、二十五となりて既に久しくこの自由の大學の風にあたりたてばにや心の中、何となく穏かならず、奧深く潜みし眞の『我』は次第々々に表てに顯れて昨日までの我ならぬ我を攻撃するに似たり」
 教の道から離れた豊太郎は「獨立の思想」を抱こうとする。が、豊太郎が回想するに、そこで見た自己の内面は、あまりに弱々しい姿であった。「弱くふびんなる心」と鴎外は表現している。西欧近代についに同化できずに悲しく帰国する豊太郎にとって、一体化を貫けなかった自己を弱くふびんと回想することも分かる。自己撞着がないとはいわない。しかし、独立の思想を弱くふびんな心に重ね合わせずには示し得ない実体があったのである。自由なると叫び、独立の思想といわれるものを西洋近代の物差しではかれば、決して弱くふびんなものではないであろう。けれども、国家に精神を吸い取られる事で自己の発揮を行うことを倫理としてきた人間が一切の関係から離れて裸のままに立とうとした場合の寒々とした心持ちを思ってみなければならない。ましてや、西欧近代が、教の道から自己を離した媒介とはなっても、それに一体化できぬ人物であったなら、その心はいかににさみしいものであったことか。
 閉じこもるべき殻を持たなくなった豊太郎は西洋の三百年の歴史を刻んだクロステル港の古寺を望んで恍惚となることが幾度もあった。この場所でエリスと巡り会ったのである。エリスは西欧近代の象徴という性格を与えられている。豊太郎はこの象徴性に惹かれたのである。
 ナウマンとの論争で鴎外が使った表現、すなわち「真のヨオロッパ文明は純粋の意味の自由及び美の認識に存するのではないか」を受けて、木下杢太郎はいう。
 「自由と美との認識による人性の開放−−その基礎の上に『舞姫』もまたこの、『ぼたん』の詩も解釈せられねばならぬ。」(森鴎外の文学)
 エリスは自由と美との精として意識されたのである。クロステル寺を望む心持ちとそれは別段代わりはなかった。しかし、この自由と美との精エリスは身を売らねばならぬほどの貧者として描かれている。その理由は豊太郎が、身を立て世に出るために伴う被働的な関係にいや気を起こし、かかる富への階梯から離れようとしていることに基づく表現である。その傾向性が、富と無縁に生きる者への共感をもたらしたといえる。富と無縁でありながら、いや無縁であることによって輝くばかりに美しい乙女に惹かれたのであった。貧家の女に似合わない垢抜けた美しさは、舞姫であるからに他ならなぬが、豊太郎とっては三百年の積み重ねによって成った西欧近代の美であると感受されたのである。感受するとか、認識するとか、は常にこのような形でもってなされる。勿論、豊太郎の共感が持たざるを得ない現実は、豊太郎の認識の甘さを鋭く突くかも知れない。
 清水茂は小説に十分「點化」できなかった事実の重み、という言い方で「舞姫」を論難している。
 「外国人だから、既成の人間関係を超えて、純粋な同情がかけられるのがたしかなら、また既成の人間関係に煩わされることのない、その場かぎりの『臨時娼』的自己処理の可能性をエリスのがわにのこしているともいえるのだ。」「エリスの『君は善き人なりと見ゆ』という直感的期待の中にも、『彼の如く酷くはあらじ−−又母の如く』という追いつめられた中での偶然性への投企、自己転身の賭と一体となった、より小さい不幸への選択の意識がはたらいていないといえないのだ。」「冷静に読むなら、『鎖したる寺門の扉に倚りて声を呑みつつ泣く一人の女』とは、異国の夕景の中に浮んだ可憐な仙姫ではなく、あきらかに、しいられて街頭に立たざるを得なくなった、一人の非力な、どん底に生きる娘にほかならない。」(「エリス」像への一視点)
 エリスとの出会い、そして交情に、清水が述べる解釈が成り立つ要因は確かにある。しかし、私はこれを欠陥として見なすことはしない。豊太郎の共感のうちにエリスの弱味につけ込もうとする欲望が潜んでいたかも知れない。留学生仲間に「速了にも、余を以て色を舞姫の群れに漁するものにしたり。」とされる状況があったのである。そのために、豊太郎も免官され解職されたのである。清水の裏から鋭くえぐってくるような見解だけでは鴎外の小説に點化された意味を見失う。中野重治は「灰色の現実のなかで時には犯罪のふうをさえおびて」いる、と述べる。豊太郎は犯罪のにおいを持ちながらも西欧近代に手を触れたのである。豊太郎はエリスを西欧近代の精として認識している限り、現実のエリスの苦悩、貧困から身を売らねばならない悲しみ、を理解しても判ることはなかった。異邦人の目である。エリスとの生活もそれは灰色の現実の中におかれた生活ではなく、西欧近代の美との交感であった。私はこのように考える。要は、「舞姫」を読む側の関心の中身である。
 国家から見放され、国家と自己とを結ぶ媒介も母の死によって、切れた。母に示される家族は立身出世主義の温床であった。彼は現実を失ったのである。この「危急存亡の秋」に、豊太郎を救ったのはエリスであった。エリスのさしのべる手に、クロステル寺に惹かれるのと同じように、恍惚として導かれたのである。
 「今我數奇を憐み又別離を悲みて伏し沈みたる面てに鬢の毛の解けてかかりたる、その美しさ−いぢらしき姿は余が悲痛、感概の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て恍惚の間にこゝに及びしお奈何にせむ」
 ここに責任放棄のいいぷりがある。西欧近代の本質を我がものとして生きるのではなく、単なる憧れとして、エリスにすがりついた。西欧近代の本質を生きていないところに豊太郎の弱さがあり、ある意味では責任のとりようがなかったともいえる。
 エリスにすがって危機を乗り越えようとうする豊太郎の気持ちとは別に、親友相沢の援助があった。豊太郎をなお国家に有為な人材と信じる相沢は彼の職を斡旋する。「このまゝにてクにかへらば學成らずとして汚名を負いたる身の浮ぶ瀬あらじ」と思う豊太郎に援助を拒む理由はなかった。豊太郎はこの後エリスと相沢に示される二つの極の間を振り子のように揺れる。
 西欧近代の市民生活を豊太郎はエリスともにしばらく送ることとなる。
 「エリスと余はいつの間にか有るか、なきかの財産を合して憂きがなかにも樂しき月日を送りぬ」
 この憂きがなかにも楽しきと回想された二人の様子はまことに心温まる情景である。たとえば珈琲店での待ち合わせの場面など大変好い。実地に、西欧近代を学び、自由と美とをもって、自己の生活理念としていく方向を向いている。それは、「今まで一筋の道のみ走りし知識は自ら綜括的となりて同郷の留學生などの大かたは夢にも知らぬ境地に到りむ」と述べている箇所で知ることができる。豊太郎は西欧近代の名も無き生活者として生き始めているかに見える。エリスはやがて豊太郎の子を身籠もる。我が子を身籠もったことを知らされた豊太郎は、だが、率直には喜ぶことができなかった。
 「嗚呼、さらぬだに覺束なき我身の行末なるに」
 とつぶやかざるを得なかった。欧州大陸の片隅に埋もれることに動揺する豊太郎。丁度その時、相沢は豊太郎の才能を生かす道をもって立ち現れる。相沢の論理は明快である。豊太郎の苦悩を切り捨てることにおいて有効な論理である。エリスとの交情は豊太郎の弱い心の表れ−ここでは長者の教を守れなかったことを指す−であり、現在は「目的なき生活」であると断定する。
 「人を薦むるは先づ其能を示すに若かずこれを示して伯の信用を求めよ又た彼少女との関係は縱令ひ彼に誠ありとて、縱令ひ情交は深くなりとて人材を知りての戀にあらず慣習といふ一種の惰性により生じたる交わりなり意を決して斷てと」
 この主張は再び被働的の人物となる道ではあったが、豊太郎は気付かない。気付かなかったと回想されている。唯、自己の才能が発揮できる場を得てうれしかったのである。貧しいが楽しいエリスとの生活を思いながら、他方では相沢の指し示す道へとよろめきだしていった。徐々に天方伯にその才を重んじられるようになり、ペエテルブルグへも随行し、十分に活躍することができた。豊太郎の得意が伝わってくるような表現である。「舌人たる任務」による活躍は、確かに林太郎が赤十字総会で活躍した情景を偲ばせるものである。エリスにとって不幸であったのは豊太郎に伯に応える十分な才能があったことである。エリスは得意の豊太郎に向かって思慕の情をあらわにし、そして訴えるのである。ベルリンで初めて相沢に会うべくで出かける豊太郎に向かって「縦令富貴になり玉う日はありともわれをば見棄て玉はじ」と語りかける。今や、その危惧は現実のものと成りつつある。
 しかし、豊太郎は今しばらく、エリスと相沢との間を揺り動かねばならなかった。それは、豊太郎が自己の才能を生かすこととエリスとの交情とを統一したい望みを棄ててはいなかったからである。中野重治はいう。
 「彼は決して、恋愛をとるか世俗の功名をとるかという二者択一で単純に一方を取つたのではなかった。(忍月の評には、問題をそういうふうにとった傾きが全くなくはない。)結果としてその形になりながら、二者の統一がどこかで望まれているている点の文学へのはじめての表現、ここに『舞姫』の力が生まれたのであった。」
 中野の言うとおりである。鴎外もそれを望み、「舞姫に就きて気取半之丞に与ふる書」にそれがみえる。先回りして言えば、西欧近代を媒介としつつ、日本近代の独自の理念をつくらなければ、恋愛と世俗の功名の二者の統一はありえなかった。
 ペエテルブルグから帰って、エリスに会えば世俗の功名の念も失せて、エリスへの交情の念が一層募る。だが、天方伯に呼び出されれば、また出かけていくのである。そして、天方伯にともに帰国することを命じられる。富貴への道は被働的の人物になるしか開けないのである。豊太郎には二者の統一を行う場がなかった。相沢の言葉に従ってエリスとの関係を断って、日本における富貴への階段を登ろうとしているのである。
 「若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽きかえさん道をも絶ち、身は廣漠たる歐洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念の心頭を衝て起これり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、『承はり侍り』と應へたる」
 豊太郎は人の海に埋没することを怖れた。いかに特操がないと自ら責めても、エリスと一緒に暮らす限り、自己の発揮を行う場が一生涯訪れないと思い始めた豊太郎に「承はり侍り」と答える以外の方法は残されていなかった。
 西欧近代に媒介されつつ、西欧に同化することなく自己を立たせる道は、豊太郎が選んだ以外にもあった。それは、自己の才能を国家の有用性によって発揮するのではなく、人の海のなかで暮らす喜びの中に自分を見出していく道である。それは、森家のなかでは影の薄かった父、静男の徳を偲んでのちに書かれた「カズイスチカ」の翁の様子に通じるものである。
 「翁は病人を見てゐる間は、全幅の精神を以て病人を見てゐる。そして其病人が輕からうが重からうが、鼻風だらうが必死の病だらうが、同じ態度でこれに對してゐる。」
 明治国家は有用性において、この翁を十分評価することはできない。翁のこの美しい魂を認めることができない。鴎外その人も、ここに描かれた翁から遠く隔たっている。西欧に同化することなく自己を立たせる道は、翁の態度を踏まえて、日本近代の倫理を築くことにあった。
 豊太郎は、けれども、選んだのである。後のだめ押しは相沢によって行われた。相沢によってエリスは精神的に殺されたのである。自由と美との精は豊太郎の手の内からこぼれた。残るはエリスとその子と老母の生活だけである。自由と美という幻想のはがれたエリスとの生活は、生活の現実を以て処理する。「生計を營むほどの金をば殘し置」いたのは、灰色の現実における唯一の解決策である。それはエリスへの未練から出た行為ではなく、事を荒立てぬための現実的な処置であった。
 豊太郎の回想は終わった。悲痛な心も、現在に至るまでの必然をたどることで鎮まった。後は天方伯の片腕として国事に参加することを意識的に選びとった人生の長い船旅がはじまる。
 鴎外文学が目指したもの、それは「舞姫」においてよく読みとれる。この書で言い表していることは、かつて一度も問われなかった国家的統一を支える人々の主体の問題である。一個の精神が、ひとつの近代とまみえた地点で発せられた問いである。それは、国家に自らの精神を吸い上げられることで成り立つ日本近代のあり様であり、吸い取られることで成り立つ自己を冷静に見つめる態度であった。問いであり、同時に日本近代の道義への模索であった。被働的な自己を意識化することが、西欧体験を描いたこの書の結びであり、鴎外文学の始まりである。

 終章
 「舞姫」の文体は文語体である。日夏耿之介はこれを雅文と規定し、雅文は「凡そ存在するものの陰翳の美しさとフレシキビリティとを傳ふること繊細巧緻」であり「この雅文體を採り用ゐ、金属性の音響と新興時代の新感情の鑄型としたのが鴎外であった。」(鴎外文学)と語っている。日夏の評が「新興時代の新感情の鑄型」と呼んだものを、中野は「歴史と?外とが試みた最後のひといくさ」と語っている。最後の、そして絶望的な戦いとされた小説が、直ちに新しい感情の鋳型であったところに複合的に発展する日本近代を見出す。
 無意識に官長に従属するのではなく、自分から意識的に選び取って彼の才能を天方伯に提供する豊太郎の精神風景。その陰翳を鴎外の雅文は見事に映し出している。花鳥風月の雅文ではなく、新感情の陰翳を表す文体。
 「『舞姫』の景物描写にはひとかけらも習慣的な語法はのこっていない。作者がじぶんからえらびとった対象の必然的な環がつらねられている。」「美文調を、前近代的な伝統を自分にゆるしている鴎外の意識を象徴するものとして、そこから表現的な話体へ接近しようとする『舞姫』の意企は先取された意識にたいする自己否定の作用を象徴するように。」(言語にとって美とは何か)と評する吉本隆明の目は正確である。慣習的な語法から離れ、自分から選び取った必然的な言葉の環がつらなってこの書の文体となっている。
 最後に。発明の妙機を得ることができたかどうか、自問してみる時である。
                       (1975年11月26日)