研究ノート
トップページに戻る


1.山田のなかの案山子
 「山田のなかの一本足の案山子、天気がよいのにみの笠つけて」の作詞家は、さいたま市にある氷川女体神社の神官家に生まれた武笠三である。明治時代の見沼田圃の情景が浮かんでくる。氷川女体神社の森はスタジイ、シラカシなど常緑樹が茂り、古代の関東の原風景を残している。この地を宮本という。「武蔵国郡村誌」には、「今の大宮男体の大神もここに座しけるをのちに今の高鼻村に移す。ゆえにここを元簸河とも宮本ともいう」とあり、はじめは一社であったかも知れない。
 女体神社の御手洗の池は四本竹の前に、形ばかり残れり。其池中の魚は皆一眼なり。」(『甲子夜話』松浦静山)と片目の魚の伝承も伝えている。

2.氷川神社の神々
 さいたま市大宮区高鼻町氷川神社にある氷川神社の祭神はスサノオノミコト(一説にはオオクニヌシノミコト)である。スサノオノミコトはアマテラスオオミカミの弟でありながら、その名が示すように「荒ぶる神」であったため高天原から出雲へと追われた神である。また、オオクニヌシノミコトはスサノオノミコトの子孫である(七福神の大黒様)。オオクニヌシノミコトは神武天皇の祖先であるニニギノミコトが降臨する以前に日本を治めていた神であり、負けて天津神に国を譲る神である。アマテラスの天津神の系譜に対してスサノオは国津神の系譜である。氷川の名称もスサノオがヤマタノオロチを退治した出雲の斐伊川を連想させる。氷川神社の縁起では孝昭天皇3年出雲国簸川の川上に鎮座する杵築大社を勅願によって勧請したとされる。「大宮市史」ではもともとは氷川神社を農耕に付随した水源の神を祭ったものとしている。また、(元)荒川を出雲の簸川になぞらえたという説もある。
 さいたま市の櫛引にスサノオの伝承が残る。スサノオノミコトがクシイナダヒメや6人の神々と出雲から来て、櫛引で一休みをした。その時に、クシイナダヒメが長い旅で乱れたスサノオノミコトの髪を櫛けずって姿を整えた。そこから櫛引の名前の由来が来ている(地名の由来では、このような伝承とは別に、「クシ」が砂丘や小丘など長く連なった高まりを意味することから、東を切敷川、西を鴨川によって挟まれた大宮台地の東側から来たものとの見解もある)。なお、櫛引の鎮守は氷川社である。
 
氷川女体神社 氷川神社は旧中山道から2kmの長い参道が続いている。また、神社の北側は急な落ち込みとなっていて、昔は見沼が近くまで入り込んでいたことが伺われる。見沼のほとりには緑区に氷川女体(ひかわにょたい)神社(三室)がありスサノオの妻、クシイナダヒメが祭神である。女体とつく神社は多摩川、元荒川、古利根川などの川沿いに30社ほどあると言われている。また、見沼の対岸には子どもの神(オオクニヌシノミコト)を祭る中氷川(中山)神社(簸王子社 中川町)がある。ここには桃山時代の板葺きの旧本殿がある。境内には御火塚があり火渡りの行事が行われている。
 大阪市住吉神社のように三社で成り立つ三位一体神は海人系神社の特色であるという指摘をする論者もいる。(木本雅康氏)
 中氷川神社縄文海進の名残である広大な見沼は埼玉県の中央を占め、江戸時代の新田開発で開拓された地域である。この縄文海進の名残に沿うようにして関東各地に約300弱の氷川神社が存在する。氷川町、氷川台などは氷川神社から由来した地名である可能性が高い。
 各地に散在する氷川神社の中でも、古いものとしてさいたま市の氷川神社の他では埼玉県所沢市山口の中氷川神社、同市三ヶ島の中氷川神社、そして東京都西多摩郡奥多摩町(旧氷川町)の通称奧氷川神社(多摩川と日原川の合流地点)が挙げられる。氷川神社をまつる人々は中、奧と広がっていったのであろう。

3.杖部・武蔵宿禰
 135年、兄多毛比命(えたもひのみこと)が无邪志(むさし)国造に任命され郡家郷(さいたま市)に政庁を設けたが、大化の改新で国造制が廃止され武蔵国府も多摩郡の府中に移された。その下に21の郡を置き郡司を任命した。その一つが足立郡である。埼玉県北足立郡から東京都足立区に至る広大な地域である。その区域はまた見沼のほとりでもあった。国造は足立郡司として残り世襲するようになった。
 丈部(はせつかい或いは、はせべ)直氏は大化改新以来の武蔵国造の系譜を引く地方豪族であった。「日本書紀神代天磐戸」に「天穂日命(あまのほひのみこと)、此れ出雲臣、武蔵国造、土師連等の遠祖なり」と記されている。
 奈良時代中期、足立郡司丈部直不破麻呂(はせべあたいふわまろ 武蔵宿禰)は、恵美押勝(藤原仲麻呂)に対する誅伐に功があり、地方豪族としては異例の栄達をとげ武蔵宿禰の姓を賜った。娘の家刀自(いえとじ)も天皇近侍の采女として従4位下に進んでいる。足立郡司の郡家郷は足立郡司が祭った氷川神社のある大宮区から氷川女体神社のある緑区三室にかけての地域と思われる。氷川神社は丈部氏の力によって名神大社という社格を与えられ(延喜式神名帳)、封戸三戸が与えられている。こうして武蔵一宮の地位を確立した(それまでは府中にある小野神社)。
 原島礼二氏は「武蔵氏は、相撲の元祖と伝えられるノミノスクネの後裔、土師氏(菅原道真の一族)や、出雲氏と同族の関係になった。いわゆる出雲系の神がみをまつるのが、これまた出雲系の武蔵氏集団だった。」(「古代の東国の風景」)と定義している。
 武蔵宿禰の後裔、武蔵武芝の名前は、平将門の反乱の折りにでてくる。天慶2年(939年)武蔵国の権守興世王と介源経基が足立郡司武蔵武芝と対立したのを機会に武蔵に平将門が侵攻し、やがて新皇を名のるようになる。「将門記」には武芝を評して「郡司は正理を力となす」「誉ありて謗なし」としている。しかし、武蔵武芝はこの争いの中で平将門側にたったため、没落した。代わって足立郡司は武蔵武芝の女婿の菅原氏へと移り、氷川神社の祭司職も菅原氏に移った。平治の乱に名前の見える足立遠元は鎌倉幕府成立後に公文所寄人にも名を連ねる有力御家人である。武蔵武芝の末裔とも言われるが定かではない。

4.縄文時代からの思い
 氷川神社の他にも国津神を祭った神社は武蔵には多い。久伊豆(ひさいず)神社は越谷、岩槻など元荒川支流を沿いに約80社がある。祭神はオオクニヌシ、その子コトシロヌシである。オオクニヌシを祭る神社は行田市の前玉(さきたま)神社(鉄剣の出た稲荷山古墳を含む埼玉古墳群の中にある)。毛呂山町や寄居町にある出雲伊波比(いずもいわい)神社、鷲宮町の鷲宮(わしみや)神社などもある。武蔵国の神々は天津神ではなく、国津神である。
 このことから、縄文海進の名残の見沼のほとりに最初に進出したのは国津神を祭る人たちであったことが伺える。直ちに結びつけることは出来ないが、出雲から来た人々であったかも知れない。東京湾をさかのぼり荒涼とした見沼の湿地帯の小高い丘丘に一族の神を祭る。そのもっとも大きな神社が氷川神社である。氷川女体神社の鳥居は見沼の方向を向いてたっている。丸木船の出土に見られるように見沼を生活の場とする人々が見沼から拝む神社であった。享保10年の氷川女体神社宮司が出した願書(武蔵国一宮女体簸川明神諸事控)によると古くは岸から300間ほど離れた見沼の中に鳥居が立っていたという。まるで厳島神社の鳥居のようである。
 縄文人が小舟をこいでいた見沼は江戸時代初期に関東郡代伊奈忠治によって見沼溜井がつくられ、享保年間、八大将軍吉宗が紀州から連れてきた勘定吟味役格井沢為永により干拓され、一本足の案山子が立つような田園に変わった。江戸を支える穀倉地帯と変貌した。
 そして、農民が手早く現金収入を得るために見沼の鯉、鮒を獲る場所ともなった。幕府は漁労鑑札を出してこれを制限をした。そんななかで無鑑札で魚を捕る者は一生盲目になると噂が広まっていった(「見沼田んぼを歩く」) 。片目の魚の伝承と通じる幻想が見沼を覆い始める。
 そして今、東京近郊に残る最大の緑地として見沼は注目されている。人々の住まいは緑地のすぐそばまで進出している。

 追記1;明治元年、天皇は京都から江戸に入るや、氷川神社に行幸を実施し、氷川神社を武蔵国総鎮守とした。このことを重要視した見解がある。『よむ』埼玉の謎特集1991には「天皇の氷川神社行幸とは、かつて祖先が追放し、屈服させたはずの国津神に対して、東京を鎮護する神としての『復活』を祈願する儀式だったといえないだろうか。」これは天津神の系譜に属する天皇家にとって屈辱以外のなにものでもない。この氷川神社行幸を仕掛けた仕組みは謎のままである。しかし、明治2年に、持統天皇以来始めて伊勢神宮を参拝し、江戸城を皇居と定め宮中の賢所には伊勢のアマテラスの御霊代を祀るようになる。
 追記2;『よむ』の特集の件を追記として載せた。その企画者が原武史である。講談社学術文庫『<出雲>という思想』により詳しく、平田篤胤が主導したオオクニヌシを中心とする神道との関連で論じられている。

【参考資料】
図説 浦和のあゆみ(浦和市総務部行政資料室編)
『よむ』埼玉の謎特集1991/9
図説 埼玉県の歴史 河出書房新社
新編 埼玉県史図録 埼玉県
見沼 その歴史と文化 さきたま出版会
古代東国の風景 原島礼二 吉川弘文堂
歴史公論5 雄山閣出版
さきたま文庫21「氷川神社」 さきたま出版会
さいたまの地名考  岩井茂 さきたま出版会
埼玉県伝説集成 韮塚一三郎編著 北進図書
見沼田んぼを歩く 小林義雄 農文社
<出雲>という思想 原武史 講談社学術文庫
氷川神社と見(御)沼