楽書快評
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書名 秘太刀馬の骨

著者名 藤沢周平
初出 1992年 文藝春秋
 題名が優れた小説はそれだけで人を惹きつける。秘太刀馬の骨は意表を突く見事な命名である。
千鳥橋(大泉橋) 主人公が不伝流の奥義・秘太刀馬の骨の継承人矢野藤蔵でもなく、馬の骨探しを行った石橋銀次郎でもなく、石橋を介添えする浅沼半十郎であるという軽さがこの小説の持ち味を生んでいる。浅沼半十郎は藩内二派閥のうち現在の主流派小出帯刀に与し、順調な人生を送っている平凡な武士である。その半十郎の悩みは家庭内での妻との不和。絵にもならない主人公の平凡さが、読む者に共感をもたらす。小説の狂言回しが主人公というインパクトの少なさが、藩内抗争の陰惨さを救っている。
 社会に生きれば、、平凡な人生にあっても波風は思いの外多く、小さな満足とたくさんの悔いに彩られる。秘太刀馬の骨の使い手探しは、読者を飽きさせない展開ではあるが、矢野家が伝える不伝流の門人たちとの派閥や立場を越えた信頼や交情は現実味の少ない話であり、人生の辛さは聞こえてこない。半十郎を取り巻くこの甘さが藤沢周平ファンを惹きつける。
 意表を突く題名によって引き込まれた読者は、藩内抗争の陰惨さにもかかわらず、妙に茫洋とした半十郎の性格をよしとする。
 そして、突然の妻との和解を暗示させる美しい場面。「結城屋の前は、無人のように静かでした。浪人者も、奥様を見て一瞬あっけにとられたような顔をしました。しかし奥様は委細かまわず無言のまま前にすすむと、短い気合いをかけて男の肩を打たれました。目にもとまらぬ早業でがんした。」平凡な人生でかいま見せる妻のりりしい姿。
 善意の人たちが生き残っていく平凡な人生の勝利にほっとする。人生に踏み込む、その絶妙の頃合いにおいて、藤沢周平は愛され続ける。(2003/10/24)