楽書快評
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書名 平安の春
著者 角田文衛
初出 1999年 講談社学術文庫(1983年 朝日新聞社)
 私が着目したのは「実朝の首」である。しかし、平安の春にふさわしく平安貴族文化に触れないわけにはいかない。77歳で崩ずる日まで専制君主として振舞った白河法皇の生涯である。白河法皇は後冷泉天皇の1053年 天喜元年に皇太弟・尊仁親王(後三条天皇)と藤原茂子(閑院流・権中納言 藤原公成の娘、権大納言 藤原能信の猶子)との間に産まれた。そして、白河天皇は34歳で、8歳の善仁親王に譲位し(堀川天皇)、院政を敷く。堀川天皇は29歳で(1107年 嘉承2年)崩ずると、復位することさえ意図したと伝えられる。が、5歳の宗仁親王(鳥羽天皇)を位にたて、院政を強化する道を選ぶ。白河法皇は権大納言 藤原公実の娘・璋子(たまこ)を養女とし昼は懐に抱き、夜は添い寝をして養育した。やがて成長すると「法皇は娘、弟子、愛人として璋子を鍾愛し、璋子もまた父、師、愛人として法皇を慕い、二人の間には独特な愛情が生まれたのであった。」(角田文衛)。法皇は璋子を鳥羽天皇のもとに入内させ、1117年に17歳で女御、1118年に中宮に立てられた。中宮になった後も、法皇との関係は続き、璋子は1119年に白河法皇の子、顕仁親王を生む。鳥羽天皇の第1子である。「鳥羽天皇は、この皇子・顕仁つまり崇徳天皇を『叔父子』と呼んでおられた。」という。1124年、「白河法皇は鳥羽天皇に退位を命じ、5歳になった顕仁親王を位につけられた。」崇徳天皇である。国母となった璋子は待賢門院として女院に列し、一院(白河上皇)、新院(鳥羽上皇)、女院(待賢門院)の仲は睦まじい様子であった。角田文衛は三院そろっての熊野御幸が4回も行われ「目的は参詣であっても、途中では南紀の美しい海岸と深山幽谷を見物することができたから、法皇にとって、愛孫たる上皇と、掌中の珠たる女院を伴った熊野詣は,得がたい愉楽であったに相違ないのである。」このような不思議が古代にはあったのである。
 院政は正規の律令体制ではなく、院にはべる近臣と院の北面にさぶろう武装した人びとによって成り立っていた。「白河法皇は、男色の傾向もあったようである。」と角田文衛は述べる。「平忠盛も、前述のとおり、法皇より懐妊中の古女を賜わった。この点から推測すると、忠盛もまた院の寵童の出であったようである。」産まれた子どもが清盛である。忠盛は「院の別当、待賢門院の別当として院の近臣となり、他の武門とは異なった姿勢をもって勢力を涵養していたのである。」また、院の財源は国衙領の確保、増大を政策として掲げ(荘園の非合法化)、それを前提とした受領を成功(じょうごう)によって任命することで得たものであった。国家財政が院に絡め取られていった。その絶大な権力を我が物として君臨した白河上皇も77歳で崩じた。
 白河上皇の後は、鳥羽上皇の時代となる。崇徳上皇の後に天皇となっていた近衛天皇が1155年に17歳で崩ずると、待賢門院と鳥羽上皇との間に生まれていた雅仁親王を位につけ後白河天皇とした。これによって皇子の重仁親王の登位を望んでいた崇徳上皇の恨みを買うこととなった。このような対立は鳥羽法皇の崩御(1156)によって保元の乱を引き起こすにいたる。乱は後白河天皇、関白・藤原忠通、信西入道、そして清和源氏の義朝、桓武平氏の清盛が勝者となり、崇徳上皇は讃岐国へ配流された。こうして白河上皇が作り上げた不思議な古代の風景は、武者の世を呼び起こす火種となり中世を招きよせた。
 保元平治の乱から源頼朝の蜂起を経て鎌倉幕府が成立した。平安の春の終わりである。しかし、角田文衛は武者の世にも話を及ぼす。例えばそれは「実朝の首」である。敗者の死体はバラバラにされる。生き返らないようにとの強迫観念であろうか。首といえば、平将門が思い出される。京で獄門に晒された将門の首は関東へ飛び帰る(千代田区大手町に首塚がある)。また、以仁王とともに平氏打倒をいち早く掲げて敗北した河内源氏の源頼政の首は郎党に抱えられて関東をさまよった後、古河に至る(古河に頼政神社がある)。三代将軍源実朝の首にまつわる話を角田文衛は取り上げる。
鶴岡八幡大銀杏 鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」や慈円の「愚管抄」に見られるように、1219年 承久元年正月27日午後6時頃、源実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参拝に向かう。八幡宮の楼門に入ったところで北条義時は気分が悪くなって帰宅する。その頃から雪が降りはじめた。深夜に及んだ神拝がすんで本宮から石段を降りたところで、八幡宮別当の公暁によって切り殺された。暗闇での出来事である。階段脇の大銀杏に隠れていたともいわれている。公暁は源実朝の甥に当たり、2代将軍源頼家の子である。父・頼家は祖父北条時政、母北条政子、叔父北条義時によって将軍職から降ろされ、伊豆に押し込められた後に1204年、暗殺されている。永井路子はこのように描いている。「頼家は一年後に伊豆で死ぬが、それは尋常な死ではない。北条氏の手勢に殺されたことはほぼ確実で、『愚管抄』は、なかなか捕えてられないので、とうとう首に紐をまきつけたり、急所を押さえたりして殺したと、そのむざんな最後を伝えている。」(『源頼朝の世界』)愚管抄は「サテ次ノ年ハ元久元年七月十八日ニ。修禅寺ニテ又頼家入道ヲバ指コロシテケリ。トミニエトリツメザリケレバ。頸ニヲヲツケ。フグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ」と、そのすさまじき様を描いている。
 惨殺された父を持つ公暁が叔父を付けねらい、さらに将軍職を得ようと思い込んだのも頷けるところである。だが、時代は清和源氏の惣領の継承ではなく、鎌倉幕府という体制の維持発展が第1義的な課題となっていることを公暁は理解することはできなかった。公暁は凶行に走る。実朝の首を持ち、雪ノ下の北谷の後見人の坊に向かう。食事をする間も首を放さなかったという。そして、三浦義村に使いをやって、将軍にするように取り計らうように述べさせる。公暁の乳母は三浦義村の妻であった。乳母夫を頼ったのである。三浦義村は自宅に来るように返答するとともに、北条義時の許に伺いの使者を送る。義時の返答は誅殺である。三浦義村は一族の協議によって誅殺と定め、討手に長尾定景を指名した。公暁は鶴岡の北面の峯から西御門路の義村の屋敷に赴く途中で討手と遭遇。長尾定景の郎党・雑賀次郎が組み付く中に、定景が公暁の首を刎ねる。この首は義村を介して北条義時の首実検に供される。義時は公暁の顔を良く知らないといって、疑いの心を示した。翌28日未明のことである。
勝長寿院跡 28日午後8時頃には、実朝は雪ノ下字大御堂にある勝長寿院に葬られた。しかし、この時は実朝の首は発見されていなかった。角田文衛は次のように述べる。「実朝の首は、承久元年正月28日の戌の刻、すなわち送葬時までは未発見であった。しかし何時までも放置出来ないことであるから、政子の命令で29日ごろに大規模な山狩りが行われたに相違ない。そして『愚管抄』(巻第6)の伝える通り、『実朝が頸は、岡山の雪の中より求め』出されたのであった。」公暁が討ち取られた現場にあったと思われる。常識的に見れば、この首は勝長寿院に体とともに納められた、と見ることができる。 
 実朝の首の話はここで終わらない。神奈川県秦野市東田原にある墳丘が実朝の首塚であるという伝承が残っている。秦野市は波多野氏が支配する地域であった。長尾定景の手に加わっていた武常晴が実朝の首を手に入れてそのまま波多野氏を頼って埋葬した伝承である。これを角田文衛は実朝の側近であった武常晴が出家するとともに、供養塚を営み、実朝の後生を弔ったという「穏当な解釈」をあげている。もちろん不穏当な解釈もできる。それはなぜ、北条義時は病と称して途中で帰宅したのか。公暁の凶行計画を知ってのことであろう。同様に、三浦義村を公暁はなぜ頼ったのか。暗殺計画に三浦一族も関与したが、北条義時が逃れて生きていることを知って公暁の口封じに転じたのかも知れない。三浦一族は「友を食らう」と評されたしたたかな一族である。永井路子はこのように言う。「しかし、公暁側は大きな失敗をした。目ざす実朝は殺したものの、義時と思って別人を殺してしまったのだ。それ以前に危うく義時は事態を察知して自邸に逃れている。・・・・結果として、北条は公暁と三浦の内通を見逃すかわり、三浦の手で公暁を処分させた。三浦のほうは、北条を狙ったことを不問に付す条件で公暁を裏切った、ということになる。」(「源頼朝の世界」)。このような不穏な経緯の中で実朝に近い郎党が公暁暗殺隊に加わり、そして実朝の首を三浦義村に渡さず、三浦一族と関係の良くない波多野氏を頼った、という図式も考えられる。このほか、角田文衛は高野山・金剛三昧院にまつわる所伝、京都・遍照心院の本尊 阿弥陀如来像にまつわる所伝をあげている。
 「得がたい愉楽」のなかで恣意的な権力にふける古代末期の専制権力者、そしてそれぞれが特権に見合った「得がたい愉楽」にふける貴族社会。これに取って代わって中世を切り開いた武家の血生臭さ。「平安の春」の解説で瀬戸内寂光は「人間は愚かで好色で、権勢に弱く、救われざるものとみなした上で、人間と生まれた運命を、生き貫かねばならない人々の宿命に、角田先生は慈悲にみちた目をそそがれ、しかし、あくまで冷徹な視線をゆるめず、歴史の語る真実を我々の前に見せて下さっているようである。」とまとめている。歴史の真実は明らかにするほど不明な事柄が現われ、不穏当な解釈を呼び起こす。隠された真実は伝承の世界と裏表である。
 武士の血生臭さは日常的な緊張を強いる。軍事国家であるからだ。だが、律令制度以来、摂関政治そして院政と形を変えてきた古代社会の腐敗、退廃を目の当たりにして、よりましな文官政治であったと見なすことは出来ない。平安の春は濃密な闇を抱えている。(2005/11/14

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