楽書快評
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書名 草枕と旅の源流を求めて
    万葉の多胡・田子浦の歌
著者 吉田金彦
初出 2004年 勉誠出版
金井澤碑 万葉集に収められた歌に「安我古非波麻左香毛可奈思 久佐麻久良 多胡能伊利野乃 於父母可奈思母」(吾が恋はまさかもかなし 草枕多胡の入野の奥もかなしも)がある。群馬県吉井町は律令時代に作られた多胡郡の地である。ここで歌われた東歌である。この歌に草枕ということばがでてくる。吉田金彦は草枕の解明を始める。まず、草については、水陸交通の結節点をクサとみる。港に当たる「津」と同じである。だが、律令時代の多胡郡にはクサの付く所はない。そこで上野国府から多胡郡衛に至る道を考えると、「上野国府のあった前橋より多胡への進入路は、烏川の佐野橋を渡り、金井沢碑・山ノ上碑のある山裾を回って多胡碑に来る道順が考えられる。金井沢碑−山ノ上碑−多胡碑という上野国の有名な三碑の道順である。私はそれを多胡の道と呼ぶ。」多胡の道が郡衙跡に建てられたと思われる多胡碑近くで鏑川を渡河する地点を馬庭の渡しと見て、これをクサと吉田金彦は主張する。次は枕である。吉田金彦は「マma(潤・入江・湾曲した処)−クラkura(谷・低い処)」という。この解釈からすると「渡しの潤谷」と意味する。馬庭は地形から見てもマma(潤)ニハ(祭りごとをする処)であるとも述べる。ここが地相から見て「草枕」の発祥の地であると断言する。このような使われ方は「前枕詞」であるとも述べる。「以上の考察で、『草枕』の源流が『渡しの潤谷』的地相語で、多胡に前置されたのは古代の馬庭村あたりの河岸段丘だったろう、と言う論証を得たと思う。」クサマクラとマニワとは近いといえば近い。遠いといえば遠い。推論としては大胆で楽しめるが、状況証拠の積み重ねをみる思いである。古代のついての検討では、確実な山ノ上碑証拠を臨むべきもないが。
 このような論証は「入野の奥」でも続く。奥は万葉仮名ではもともと「於父」。これは大宮・大家・大御門など言うオホ(大ofo)の変形で、多胡郡に在った大家郷を指す、と考える。「入野」を多胡の実際の土地柄を考慮して考えると「山間に入り込んだ野ではなくて、『人が入っていった野』で、主語は人間である。」「ここ『入野』は、渡来人が入って来たという多胡の地そのものを、ずばり、指しているのではなかろうか。」こうして、解釈は「多胡という入野、入野の中の大家、そこにいる人」ということだ、と吉田金彦は語る。「まさか」は「マ(目)サカ(さかい、境界、坂)で目の当たり、現場の意味だと解く。こうしてこの一首は「作者は境界になっている鏑川の馬庭の河岸段丘に於いても、また、向う岸の多胡郡入野にある大家に於いても、何処にいてもせつなく恋しています、というもの。」と歌われたものだ、となる。
多胡碑覆堂 多胡碑は711年 和銅4年に甘楽郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等、の6郷を割いて多胡郡を設置したことを刻んだ碑である。吉田金彦はさらに多胡郡には「俘囚郷」(「和名抄」)もあり、鉱山労働に従事するために強制移住させられた蝦夷のコロニーが多くの渡来系の人びとともに多胡郡を構成していたとみなす。そこで多胡郡を「給」せられた「羊」なる人物は渡来系のひとびとではなく、俘囚のリーダーであると新見解を披露する。それは羊が中国の羊の意味ではなく、かも鹿として考えられ、フサ毛の髯男というイメージからする見解である。羊は蝦夷に使われた名だと見るのだ。それはこれまでの通説に反するものである。「続日本紀」には天平神護2年に「上野国にある新羅人の子午足ら193人に姓を吉井連と賜ふ」という記事に、多胡碑にある「羊」を結び付けて羊は新羅系の人であるとの解釈が一般的である。
 吉田金彦はこのあと多胡郡の各郷の郷名を検討する。それは俘囚郷の重要性を引き出すための検討である。緑野郡から割かれて多胡郡に当てられた武美郷は「吉井町の東部、黒熊・深沢・多比良から藤沢市の南部、別所・金井・鈩沢(たたらさわ)・日野にかけての山岳部である。」この地域には古代鉄に関する地名や金くその出土を見る。「多胡郡から古代鉄が産出していた。鉄の産出に伴って必要な俘囚が向けられ、産鉄向上に貢献させるのが俘囚郷の狙いであったのだが、鉄も鉄人も守秘性があるので、調べなくては分からない点が多い。」このような重要な役割を担った俘囚であるから羊として多胡郡を与えられたのだと、推断する。
 俘囚郷の重要性を指摘することは大切だと考える。俘囚の歴史的な役割は評価されなくてはならない。だが、この緑野郡、多胡郡などの開発・立郡の決定的な役割は渡来人による田園開発と織物・陶器そして鉱山開発である。律令制度にあっては口分田を確保して公地公民制を実施するために立郡されるのである。その上に立ってはじめて、織物、陶器そして大仏開眼に必要な鉱物資源の確保が考えられるのである。もしも俘囚の役割があったにしても、それは強制移住によって鉱山労働供給の為になされたことであり、奴隷労働に近いものではなかったか。多胡碑、金井沢碑、山ノ上碑の碑文は渡来人でなくては刻むことはできなかったであろう。郡における支配層は俘囚ではなく、新羅系渡来人であったとみなすのが、在地の歴史観だと思う。吉田金彦の「草枕と旅の源流を求めて」は足と国語学で得た貴重な論述が見られる。ただ、結論のいくつかには「論証を得た」という印象をもてなかった。(2005/11/20)
 
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