書名 武家の古都、鎌倉
著者 高橋慎一朗
初出 2005年 山川出版社
道を知ることで、鎌倉の古代・中世の地図が頭に浮かぶ。源頼朝が鎌倉入りした頃の鎌倉には東西に走る二本の幹線道路が通過していたと、高橋慎一朗はいう。「海側の東西道は、稲村ヶ崎方面から由比ヶ浜、名越をへて三浦半島の沼浜(逗子市)方面へぬける道で、旧東海道と考えられる。このルート沿いには、坂之下の御霊社・甘縄神明社・由比ヶ浜などの、頼朝以前の建立と考えられる諸社が点在して、この道路の存在を裏づけている。」ヤマトタケルもこの道を通って東国への侵略を行った伝承の道である。
「もう一本の山側の東西道は、山ノ内方面から源氏山、寿福寺付近、大倉をへて、朝比奈から六浦へぬける道であったと想定される。このルートを裏づける沿道の頼朝以前の寺社としては、窟堂・生源寺・荏柄天神社・大倉観音堂(杉本寺)などがある。六浦道あるいは金沢街道と呼ばれた道である。鎌倉の外港六浦につながる道である。ちなみにこの道路は、のちに鶴岡八幡宮を迂回する形に変更させられたと考えられる(横大路〜筋換橋のルート)。 さきにふれた郡衙はこの二本の東西道の中間に位置し、その地点を通過して二本の東西道をつなぐ南北のルートが、ちょうど現在の今小路にあたる。」と高橋慎一朗は図解する。
二本の東西道とそれをつなぐ南北道が頼朝以前の鎌倉の骨格である。平安時代には鎌倉郡の郡衙も御成小学校付近に置かれていた。鎌倉を所領していた桓武平氏の平直方は、平忠常の乱の鎮圧に失敗した後、乱の鎮圧に成功した源頼信の息子・頼義を女婿とし、その屋敷を頼義に譲ったと伝えられている。頼義・義家・義朝と伝わったその屋敷は亀ヶ谷にあり、現在の寿福寺と思われる。ここは、「山側の東西道と南北道の交点に位置していたのである。」南北道に沿って郡衙と並ぶようにあり、また山側の東西道が源氏山を下ってきた場所に鎌倉の領主の館があったのである。源頼朝も当初、この祖父伝来の地に幕府を開くつもりであったようであるが、山側の東西道を下った大倉の地に幕府を開いた。そして、鎌倉と他を分ける四角四境祭が行われた。ただしいつ頃からこの祭りが行われたかは明らかではない。
大倉幕府跡(清泉小学校)は海沿いから見て鶴岡八幡宮の向かって右側にある。現在も西御門川と東御門川で東西を区切られ、山側には頼朝墓所(法華堂跡)があり、海側(南側)は横大路それに沿った滑川に区切られている。現在も小規模な発掘によって大倉幕府跡の検証が行われている。私が訪れた2005年11月にも発掘作業が行われていた。滑川を渡った所にはかつていわば源氏の菩提寺的な色彩を持つ勝長寿寺があった。勝長寿寺は頼朝が父義朝の菩提を弔うために「館の東南にあたる霊崛」に建立した大規模寺院であった。ここには実朝も埋葬された。法華堂・大倉御所・勝長寿寺は源氏の聖なるラインである。法華堂は頼朝の遺骨の上に立てられていた。1247年 宝治元年には宝治合戦で最後を迎えた三浦一族が法華堂に立てこもって自決して果てたところでもある。
八幡宮は源頼朝によって造営された神社である。源頼義によって石清水八幡から由比若宮(現在の元八幡)が勧請された。これを頼朝が鎌倉の平坦部の最奥部に遷したものである。八幡宮は宇佐八幡に発し、上京して石清水八幡となり、東国に遷して鶴岡八幡宮となった。源氏の氏神として、やがては東国武士の精神的支柱として発展した社である。8月15、16日に行われる放生会は、宇佐八幡宮で隼人征伐によって亡くなった隼人の霊を鎮める行事として生まれたものであるが、鶴岡八幡では流鏑馬や競馬など武士的要素が大きなウエイトを占めるようになっていた。鶴岡八幡宮は源氏の栄枯盛衰をじかに見ている。そのもっとも有名なエピソードは2代将軍頼家の息子・公暁による叔父3代将軍・実朝の暗殺である。八幡宮本殿から階段を下ってきた実朝を銀杏の影に隠れていた八幡宮別当公暁が暗殺したのであった。
さて、鶴岡八幡宮を見るのに若宮大路を述べないわけには行かない。1182年 寿永元年 頼朝は妻政子の安産祈願の為に海岸近くから八幡宮への参詣道を自ら造成した。若宮大路は純粋な宗教施設として基本的に他の道路と隔絶していた。わずかに直交するのは「下馬」と呼ばれる三ヶ所のみ。上ノ下馬は若宮大路北端(三の鳥居前の横大路)、中ノ下馬は鎌倉駅近くの二の鳥居付近(東西道路の「宇都宮辻子」)、下ノ下馬は大町大路との交差点(下馬四つ角)。若宮大路の真ん中には段葛と呼ばれる一段高い参詣道がある。段葛のいわれは葛石(縁石)を置いたことによると高橋慎一朗は述べている。発掘調査によると若宮大路は路幅が33.6メートル東西に幅3メートル深さ1.5メートルの側溝が設けられていたという。両側に並ぶ武家屋敷は若宮大路に背を向けて立てられ表門は反対側に開いていたと考えられる。若宮大路は交通路ではなく、鎌倉という都市にある宗教的な空白地帯であった。このような大規模な宗教空間は源頼朝嫡男・頼家の誕生を願ってのことではあったが、母方の外戚の北条氏によって将軍職を奪われ、伊豆修善寺において暗殺される未来を予見したものは誰もいなかったであろう。宗教的空白地帯は、寺院が戦時には防御施設に転用されるのと同じく、兵力の速やかな移動を可能とする軍用道路に転換した。1213年 健保元年の和田合戦はこの若宮大路において行われた。縁戚ということで台頭する北条氏に反発した和田義盛が武蔵・相模の御家人(横山、土屋、山内)とともに興した反乱であったが、三浦氏が北条氏側に鞍替えしたことで和田合戦は北条氏の勝利に帰した。
ここで北条氏の動向を鎌倉の地歴に併せて考えてみたい。それは幕府(御所)の移転である。大倉御所は源氏三代50年間の幕府のあった場所である。1219年正月に源氏将軍家が途絶えた同年7月、頼家の女(竹御所)を母に持つ摂関家の九条頼経が将軍候補として鎌倉入りする。同年12月に大倉御所が焼失し、頼経は北条義時大倉亭(二階堂大路東側)に入る。これを二階堂大路仮御所と高橋慎一朗は呼ぶ。成長した頼経は1225年 嘉禄元年12月、執権北条泰時によって若宮大路近くの宇都宮辻子御所に入居、元服して将軍に任命される。更に1236年、北側の宇都宮大路御所に移転。ここは1333年 正慶2年まで続く。問題はなぜ大倉の地から北条氏は御所を動かしたか、である。議論の中で「大倉御所は頼朝の墓(法華堂)の下にあって、縁起が悪い」という意見が出されたことを紹介し、「したがって、大倉からの移動は、源氏三代の御所とその背後の頼朝墓、御所南側の義朝をまつる勝長寿院があり源氏将軍の記憶につながるような場所を離れ、新しい体制をつくろうとする北条泰時らの意図が反映されたと思われる。」と高橋慎一朗はいう。この指摘は極めて正しいと思われる。これによって大倉を通る山側の東西道路から南北の小町大路へと御家人の住居や経済の中心が移っていったことが伺わせる。小町大路の先では旧東海道と交わる。古代から鎌倉を成り立たせていた二本の東西道路のうち、山沿いの幹線道路から海沿いの幹線道路へと経済活動の重心が移っていった。このように源氏の記憶から逃れようとする北条氏に対して、宝治合戦に及んだ三浦氏が御所移転後も西御門に屋敷を構え、族滅の地を法華堂に選ぶように源氏の記憶につながっている御家人もいたのである。なお、鎌倉幕府の北条政権を武力で打倒した足利尊氏が室町幕府を開いた後、鎌倉府を置いた場所は北条氏の記憶につながる若宮大路東側ではなく、源氏が開いた山側の東西路である。大倉からさらに奥まった浄明寺が鎌倉府跡である。
「武家の古都、鎌倉」はこの後も鎌倉の七口(名越坂、朝比奈・巨福呂坂、亀谷坂、化粧坂、大仏坂、極楽寺坂の切り通し)への北条氏族の配置を、名越をメインに論述し、宗教や中国(宋、元)貿易など多岐にわたる鎌倉の古代・中世の姿を明らかにする。鎌倉を訪れる時には、事前に読んでみたい一冊である。目の前にある鎌倉が武士の古都にタイムスリップする。(2005/11/26)

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