楽書快評
書名 鎌倉 古寺を歩く
著者 松尾剛次
初出 2005年 吉川弘文館
 かつて鎌倉は武士の都であるとともに、宗教都市でもあった。鶴岡八幡宮から海岸線まで段葛・若宮大路という聖なる道が貫いている。八幡宮は明治の廃仏毀釈までは別当が支配する仏教色の強い施設であった。宗教都市のイメージは仏教であり、その中でも北条氏が好んだ中国系禅宗や鎌倉新仏教に結びつきやすい。だが、陰陽道も宗教都市を支える重要な要素であると思う。だが従来あまり着眼されてこなかった。「鎌倉 古寺を歩く」には珍しく陰陽師が出てくる。それだけではなく、鎌倉の仏教寺院といえば禅宗であるが、これが繁栄し始めるのが13世紀後半になってからであることを明らかにしている。鎌倉初期においては、鶴岡八幡宮,永福寺、勝長寿寺大倉法華堂など旧仏教寺院が大きな役割を果たしていたことを丁寧に示している。
 鎌倉という都市の範囲(鎌倉中)は何処までであろうか。「鎌倉中」は行政的な範囲だけではなく、宗教的な結界の話でもある。将軍御所の四隅(四角)と鎌倉中の境界(四境)で鬼気を払う陰陽道祭祀が行われた記録がある。その境は時ととも拡大する。この四境に設けられたのが律宗寺院である。「中世の鎌倉は、中心に鶴岡八幡宮があり、四隅(四境)に律寺が置かれる配置になっていた」「四境に立つ律寺とは、具体的には、西南の極楽寺、東南の満福寺(先述の通り光明寺のところに所在していたようである)、東北の金沢称名寺であろう。西北ははっきりしなぎが、相模浄福寺をはじめ、鎌倉にあったことが確実でありありながら、どこにあったのかもわからない律寺も多い」「このように、律寺は都市鎌倉の四境に配置され、四境を守る存在とする認識が存在したのである。」と松尾剛次はその意義を明らかにする。
 禅寺(律宗)として鎌倉で思い出されるのは建長寺である。山内にある建長寺は北条時頼が宋から来日した蘭渓道隆を開山として1249年に創建に着手した天皇勅願寺であり、鎌倉五山の筆頭に上げられている。現代の北鎌倉近く、14世紀後半には巨福路坂を越えると建長寺の一大門前町が広がっていた、と松尾剛次は推円覚寺測する。この建長寺前を過ぎて円覚寺に至る。円覚寺は北条時宗によって招聘された無学祖元を開山として1282年 弘安5に開かれた禅寺である。建長寺は鎌倉の境にあった刑場跡に建てられた寺院であり、これらの寺院が葬送に携わり、それ自体が葬送の場を抱え込んでいた、と松尾剛次は語る。寺院が葬式仏教と批判されるのは現代のことであり、古代にあっては寺院や僧侶は死者の穢れを避けるために葬送には携わらなかった。このことを理解することなしには鎌倉新仏教の隆盛や中国からの禅宗の輸入の意味が伝わらない。この山内荘は北条得宗家の所領となっていたが、その前は和田義盛の所領であり、さらにそれ以前は開発した山内首藤氏の所領であった。山内首藤氏が比企の乱によって滅びると和田氏の所領となり、和田義盛が亡ぶと北条氏の所領となったのである。この地は、鎌倉武士が鎌倉にやってくる大きな入り口であり、北条氏が抑えるようになった理由も分かる。四境は鎌倉中への出入り口であるだけではなく、盛場であり刑場であり,病者や貧者の追放先でありそして死体の捨て場であった。
 このような境での救民と葬送を担った禅宗寺院が鎌倉の四境に置かれたのと違い、旧仏教系の寺院は鎌倉中に多い。鶴岡八幡宮寺は明治になって廃仏毀釈によって仏教的な色彩を除かれた現在の八幡宮とは様相がだいぶ違っていた。社務、あるいは別当と呼ばれた僧侶が八幡宮の僧侶、神主を統括していたのである。初代別当は、源頼朝の従兄弟に当たる円尭(義朝の妹が母)が任命されたように「源氏の氏寺として出発した」。三代将軍実朝を殺した公暁も別当であった。
 別当の多くは寺門派(園城寺系)の僧侶が占めた。鶴岡八幡宮の代表的な行事は宇佐八幡宮や石清水八幡宮と同じく放生会である。平家を滅ぼした滅罪のためにはじめられた、いわれている。ただ、他の八幡宮と違うのは流鏑馬など武士的要素が濃厚なことである。そしてまた、このような行事に参加することが鎌倉武士にとって名誉であるとともに、鎌倉幕府内での序列を明らかにする場でもあった。源頼朝の墓所である大倉法華堂は鎌倉時代の「武士たちの、精神的な紐帯の場となっていた」と松尾剛次は述べる。江戸時代の東照宮的な存在であると比している。江戸初期に廃絶した勝長寿寺は源義朝の墓所であり大倉幕府の南にあったことから「南御堂」とも呼ばれていた。ここの別当は「将軍頼経の実家である九条家との関係で、山門僧が任命された」。永福寺は六浦道の奥まった所にあり、平泉の中尊寺二階堂大長寿院のすばらしさに心打たれた頼朝がそれを模して作らせたものである。奥州藤原氏や源義経の怨霊を鎮めるために建設されたものであり、その地を二階堂と呼ぶのはこの建物の姿から来ている。鎌倉幕府滅亡後は足利氏との関係を深め繁栄を続けた。これらの寺院はいずれも源氏三代の幕府のあった大倉の地を囲むように建っていた。「鶴岡八幡宮ほかの旧仏教の僧侶たちは、僧位・僧官を有する官僧(官僚僧)で、官僧には穢れ忌避という制約があった。そして、その忌避すべき穢れの一つに死穢があった。・・・・そのため、官僧たちは、禅・律・念仏といった僧侶(当時、遁世僧と呼ばれた)たちに葬送を任せたのである。」官僧は白を遁世僧は黒を纏っていた。
 旧仏教系の流れ、そして禅宗の寺院の役割とともに、新仏教(鎌倉仏教)系の位置もしっかりと述べられている。例えば鎌倉大仏である。これを勧進したのは浄光という念仏僧である。南無阿弥陀仏と称えると(念仏すると)極楽往生ができるという法然の開いた浄土宗の僧侶である。和賀江津を最初に建設したのも念仏僧である往阿弥陀仏であった。この念仏僧の中心人物が名越新善光寺の念空道教であり、彼が律宗の叡尊に帰依したことから律と念仏の一体化が起る。
 このような仏教の隆盛とともに、陰陽師の活躍にも松尾剛次は注目する。「鎌倉 古寺を歩く」の特色のひとつは鎌倉を宗教都市として把握し、しかも仏教寺院にあっても旧仏教系の流れと13三世紀後半から栄える中国渡来の禅宗とさらに鎌倉時代になってはじまった新興仏教の隆盛とともに、陰陽師の活動を取り上げたことである。
 源頼朝は、住吉社の神官昌長や伊勢神主の一族である大中臣頼隆に占いをさせるなど、当初は陰陽道の専門家ではない人たちが陰陽道的なことに従事していた。それは,治承四(1180)年の挙兵の頃は、頼朝は流人で、いわば反乱軍の長にすぎず、彼のまわりには正規の陰陽師がいなかったためであろう。すなわち、頼朝の将軍期は、鎌倉の陰陽道の黎明期であった。そして、鎌倉幕府が安定してくると、京都の陰陽師に依頼するようにある。その一人に安倍資元がいる。資元は当時、陰陽頭という陰陽寮のトップであった。」やがて安倍氏の一派が鎌倉に定住するようになる。鎌倉の陰陽師の代表する人物は安倍泰貞であると松尾剛次はみなし、その活躍を紹介している。安倍泰貞の活躍した時代は三代将軍実朝から四代将軍九条頼経の時代で、度重なる有力御家人の滅亡によって北条氏に権力が掌握されていく時期であった。和田の乱を前に大倉法華堂の後ろの山に光物があった。このような怪異に対して安倍泰貞が大倉御所で天曹地府祭を執り行い、更に合戦の3日前には僧侶が祈祷を行うとともに、安倍泰貞は再び天曹地府祭をおこなっている。鎌倉在住の陰陽師は「関東陰陽師」と呼ばれ、地位を確立していった。その地位を象徴するのが将軍護持陰陽師である。「将軍の御所に夜居するなど、将軍を護持する存在といえば、将軍護持僧が知られているが、さらに、将軍護持陰陽師というべき存在もいたのであり、泰貞はその筆頭であった。この将軍護持僧、同陰陽師の当番制は、すでに実朝将軍期の建暦3(1213)9月12日には成立していた。」「四角四境祭という祭も頼経下向以後行われている。」「そうした七瀬祓・四角四境祭といった祭祀は、天皇家・摂関家しか実施できなかった祭祀と推測され、京都から移入されたと考えられる。関東での陰陽道の祭祀の重要な部分は九条頼経の関東下向を画期として移入され整備されたといえる。」このような関東陰陽師には安倍氏のみならず賀茂氏も同じく参加している。
 賀茂氏についての叙述は「鎌倉 古寺を歩く」にはないが、これを詳しく論じているのは「鎌倉期における暦家賀茂氏の変遷」(遠藤珠紀 「鎌倉遺文研究 第15号」所収 2005・4 吉川弘文館)である。同じ陰陽師といっても安倍氏は天文道、賀茂氏は暦道を以って代々陰陽寮の官職を世襲した一族であり,官司請負制の典型例の一つとされている。王権に付随した天文・暦道の専門家集団が鎌倉に下向する意味はどこにあったのであろうか。「陰陽師にとって下向のメリットとしてまず関東の推挙による任官があった。このことは鎌倉期に陰陽頭に就任した安倍氏出身者の多くが関東下向の経験者、あるいはその子孫であることからもう窺える。彼らの中には関東に居住のまま陰陽頭に就任し,京の陰陽寮の主導権を助以下に任せている例もある。また訴訟に関しても後ろ盾として関東を頼った。一方で関東陰陽師の中には少数ながら惟宗文元、惟宗文親など安倍、賀茂両氏以外の姓をもつ人物が存在する。惟宗氏は平安期には陰陽道の氏族として権勢を誇ったが、その後は賀茂・安倍両氏との競合に遅れをとり、停滞していた氏族である。」賀茂氏にあっても傍流が鎌倉に積極的に下向した。賀茂周平流は本流である宗憲の弟の家系で、陰陽寮内での極官は権暦博士である。1236年 嘉禎2から賀茂周平流の定昌の鎌倉での活躍が記録されているという。「彼は当時すでに権暦博士に任官しており、関東に在った陰陽師の中では最高位であった。鎌倉では彗星御祈,祈雨御祈など公的祈祷のほか、将軍の二所参詣や将軍・若君御祈にも参仕している。」と遠藤珠紀は述べている。この周平流賀茂氏は定昌によって鎌倉との関係を深め13世紀半ばからは暦跋のトップを占めるようになる。また14世紀初頭からは陰陽寮の頭に任官する有力な二流の一つとなる(もう一つは宗憲流の中でも在秀流・後の勘解由小路家)。定昌流の血統が途絶えると安倍氏から友幸を養子に迎え奈良幸徳井(かでい)に下向して幸徳井流となった。暦発行を担っていた勘解由小路家の嫡流が断絶して安倍氏が受け継ぎ、江戸時代になると幸徳井家が暦発行を担い、それが幕府天文方に移行するのは後の話である。
 仏教とともに暦・天文を家業とする専門家である陰陽師の役割は古代に続いて鎌倉期においても公的な宗教行事を担う役人として必須であったことが分かる。旧仏教系の官僧と同じく、陰陽寮の役人としての安倍・賀茂両氏の役割は明らかである。新興仏教の救民と同じく、在地の陰陽師の活躍も広範にあったと思われるが、幕府の公式記録「吾妻鏡」などには、それは現われてこない。(2005/12/4)

 

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