楽書快評
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書名 三浦半島記(街道をゆく42
著者 司馬遼太郎
初出 1996年 朝日新聞社
三浦大介義明墓所(材木座・来迎寺) 「武者どもの世」ではじまる「三浦半島記」の最後の章は「鎌倉陥つ」である。当然の配列だとも思うが「鎌倉で語るべきものの第一は、武士たちの節義というものだろう。ついでかれらの死についてのいさぎよさといってもいい。こればかりは、古今東西の歴史のなかできわだっている。」と結びちかくで述べている。読んで思うことは、司馬遼太郎の好き嫌いである。司馬遼太郎は鎌倉武士が好きで、その中でも三浦半島を拠点とする三浦一族に魅力を、源頼朝や北条一族に嫌悪を抱き、時代が下って明治以降の話では海軍のスマートさを好み、自分が参加した陸軍を嫌う。この好みにおいて異存を持ってはいない。
 「三浦半島記」は三浦半島とその付け根にある鎌倉の物語である。関東にある者のこころの中心は江戸−東京ではなく、鎌倉である。平安貴族の横暴が続く中にあって「ところが、この半島から、12世紀末、それまでの日本史を、鉄の槌とたがねでもって叩き割ったような鎌倉幕府が出現するのである。」と司馬遼太郎は述べる。この言い回しが司馬遼太郎である。
 三浦半島は三浦氏の所領である。相模国の在庁官人として「介」を務めていた一族であり、平家が政権をとるとその在庁官人の役割も大庭氏が担うようになり、不満を抱いて時代を生きていた。源頼朝の挙兵は、三浦氏にとってはこのような平家政権下での逼塞した状況を打開するものであった。三浦氏はその棟梁大介義明以下、一族をあげて頼朝の挙兵に呼応した。石橋山の戦いに敗れて、頼朝が房総に逃れる事態に対応して、武蔵国を代表する秩父平家棟梁・畠山重忠に攻め込まれるなか、三浦半島衣笠城に義明のみが落城をともにし、一族を海上に逃して頼朝と合流させた。
 この功績は絶対であった。「頼朝の開運は、三浦大介が衣笠城で死に、その党類を頼朝に提供することによってひらけた。」だが,頼朝が死ぬと姻戚の北条氏が武家政権を独り占めにした。「武士という、京からみれば“奴婢”のような階層の者が、思いもよらず政権を得た。馴れぬこの政権に興奮し、結局は、他を排するために、つねに武力を用いた。三浦氏は、骨折り損だった。」こう司馬遼太郎はまとめる。「が、そういう悲劇的な最後をも知って十分踏まえられつつも、『三浦大介、百六つ』というめでたい歌が、江戸時代の村や町をうたいながされて行ったことは、文句もせんさくもなしに、人間がいきなり地獄から救済されているように、またふかし立ての饅頭を見るように、めでたいとしか言いようがない。」三浦氏の伝承はふかし立ての饅頭か、と思う。
若宮 北条・安達氏に攻められて、この三浦一族が滅びの場所に選んだ所は頼朝の法華堂である。その法華堂は現在頼朝の墓のある階段を上がったところにあった。それを今、白旗神社のある階段下にあったかのように司馬遼太郎は記述している。このような小さな誤りは見受けられる。また鶴岡八幡宮の「若宮」を石清水八幡の「古宮」に対応するものとして、頼朝が呼んだのかどうか。「この鶴岡八幡宮が、京都の南郊の石清水八幡宮を基準にすれば若い、ということだったろう。」と司馬遼太郎のように推断する根拠はない。
東郷平八郎生誕碑(鹿児島市) 三浦半島は鎌倉の名越から来た旧東海道が通り、観音崎当たりから房総半島へ渡っていた。ここには走水神社もある。三浦半島を根拠地とする三浦一族も海の一族であった。対岸には一族の安西氏がおり、頼朝が石橋山の戦いに敗れて逃れた時に最初の受け入れを行っている。このような土地に着目して小栗上野介忠順は横須賀に艦船製造所をフランスのツーロン軍港を範として興した。それが,横須賀の発展の始まりである。「三浦半島記」には、薩摩藩出身の東郷平八郎はバルチック艦隊を殲滅した後、小栗上野介の遺族を自宅に招いて「小栗さんが、横須賀の工場を造って下さったおかげです」と鄭重の礼をいったことをエピソードとして載せている。幕末、主戦派の幕臣であったという理由で小栗上野介を探し出して虐殺したのは薩摩藩であった。
 横須賀に勤める海軍士官は鎌倉や逗子に住んでいた。日本海海戦の作戦を担当した秋山真之少佐も若いころ逗子に住んだという。秋山真之と同期で、旅順港で沈んだ戦艦「初瀬」に第1艦隊参謀少佐として乗り込んでいたのが塚本文の父・善五郎である。塚本文は父の葬儀に東郷平八郎に抱かれて頭をなでてもらった記憶を大事に抱いている。「街道をゆく」から逸れるが、芥川龍之介は1976年 大正5 7月、東京帝国大学を卒業し、その年の12月から横須賀の海軍機関学校に勤めはじめた。そして鎌倉の和田塚に下宿した。龍之介は1978年2月、塚本文と結婚し、再び鎌倉に戻り大町字辻の小山別邸の借家を借り、そこで約1年間の新婚生活を始めた。文は「追想 芥川龍之介」の中で、「大正7年2月に私達は結婚し、4月には、田端から鎌倉大町に移転して、私達だけの新しい生活を始めました。・・・大正8年3月で主人は海軍機関学校教官をやめました。そして鎌倉にいては、文壇で活躍してゆくのには遠すぎるといって、鎌倉を引揚げました。二人限りの生活でしたし、私はもっと鎌倉にいたかったのですけれど」と書いている。楽しかったのであろう。振り返れば芥川もまたたのしい思い出があったのだろう。「主人は亡くなる年の前に何となく急に、『鎌倉を引きあげたのは一生の誤りであった』と言ったりしました。」と文は書いている。田端で芥川の一族と一緒に住むようになったその後の肩身の狭い「嫁」の生涯に比べれば、文にとってはかけがいのない「二人限り」の一年であったことがわかる。
 司馬遼太郎の「三浦半島記」に再び戻る。司馬遼太郎は鎌倉時代の三浦大介義明の自己犠牲について描いたが、「節義」に殉じる姿は、海軍のスマートさに到たるかのようである。鎌倉の雪の下にはたくさんの海軍軍人家族が住んでいた。たとえば、空母「赤城」の最後の艦長となった青木泰二郎やキスカ島撤収の木村昌福の家族である。アッツ島がアメリカ軍の猛攻にあって全滅した後、キスカ島守備隊には陸軍2429人、海軍3210人がいた。海軍少将であった木村昌福は横須賀の病院に入院していたにもかかわらず、救出作戦の指揮官として任命され、見事に全員を撤収させた。海霧を利用して撤収させたのである。木村の方針は「『一艦でも二艦でもキスカ島に突入し、一兵でも多くの陸軍部隊の収容に任じたい。海軍部隊は遠慮してもらう』。状況によっては海軍部隊は置き去りにしてゆくという。“海軍はスマートであれという明治以来の教育が、濃厚に生きている。」1957年に雑誌文藝春秋に「太平洋海戦最大の奇蹟」が載った時、「たれよりもおどろいたのは、木村家の家族だったという。昌福は、手柄ばなしを家族にもしていなかったのである。」この文章のまとめを司馬遼太郎は次のように締めくくる。「アッツ島はすべての人達が死に、キスカ島のほうは全員救出された。かれらをのせた艦がアッツ島沖を通ったとき、島からバンザイの声が湧くのをきいたという人が、何人もいた。私は、魑魅魍魎談を好まないが、この話ばかりは信じたい。」
 なるほど、司馬遼太郎の語り口には魑魅魍魎が入り込む余地はないな、と思う。その司馬遼太郎にしてキスカの奇蹟は、魑魅魍魎を呼び寄せる。鎌倉武士の節義と海軍のスマートさが三浦半島という小さな地域のなかでこだまする。(2005/12/10)
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