
書名 鎌倉時代
著者 上横手雅敬
初出 1994年 吉川弘文館
源実朝のことを中心に上横手雅敬の主張を見てみたい。雑誌などに寄稿した短文をまとめたために、文章に重複がかなりあるが、その分著者が強調したいところが分かる構成となっている。しかし、著者の意図通りに読む必要はない。
鎌倉幕府とはどのような性格を持っているのか。
上横手雅敬は朝廷(院政)の認める範囲での諸国守護権を持っていたに過ぎないと述べる。「幕府とは頼朝、頼家等の鎌倉殿が、御家人を率いて日本国の守護をする機関なのである。普通、征夷大将軍、将軍等と呼ばれているものを、ここでは鎌倉殿と呼んだが、御家人との主従関係の面からいえば、鎌倉殿の称が正しい。征夷大将軍は、御家人を率いて諸国守護にあたる鎌倉殿に対して、朝廷が付与した官職なのである。」「より巨視的に考えると、平安後期、応徳3年(1086)に発足した院政は、鎌倉末期、元亨元年(1321)後醍醐天皇が後宇多法皇の院政を停止するまで、鎌倉時代のほとんど全期間を通して存続しており、鎌倉幕府も結局は院政が代表する朝廷によって存在を承認されているのである。鎌倉時代になると、あたかも幕府が実際上の支配者であり、朝廷は形式的に存続して
いるにすぎぬかのような誤解が少なくない。しかし、文治元年(1185)のいわゆる守護・地頭の設置にしても、要するに勅許によるものであり、建久元年(1190)以降になると、頼朝は後白河法皇の下で諸国守護権を担当する有力武将としての位置を明らかにした。後鳥羽院政期における上皇主導の公武融和状況のもとでも、そのような幕府のあり方はいっそう明瞭である。」そして鎌倉幕府という武家政権の本質を、「従来の荘園秩序を否認することなく、そのなかに地頭御家人制を寄生させたのが幕府の本質」と論断する。その切り口は武家政権の画期性より、貴族のさぶろう者の隷属性にその本質を見ようとしているところから行われている。
鎌倉時代も時は移って、源実朝の時代に京都に君臨するのは後鳥羽上皇であった。後鳥羽上皇は上横手雅敬が言うところによれば、理想家肌の専制君主で、公武融和を求め、初期には鎌倉幕府とも友好的な関係を築いていたという。千幡に実朝という名前を与えたのも、また坊門信清の娘を実朝の妻に与えたのも後鳥羽上皇の意図であるという。坊門信清の姉は後鳥羽上皇の実母であり、また娘の一人(西御方)は後鳥羽上皇の間に子どもをもうけている。実朝は上皇の姻戚となり近臣のひとりの立場となった。さらに和歌に造詣の深い上皇は実朝に便宜を図って、和歌の道に導いた。このような蜜月は、だが長続きはしなかった。「実朝がこのような(突然の公事や地頭職の解任など)上皇の意に従おうとすれば、幕府内での孤立を深めざるをえないのである。」と上横手雅敬は述べる。そして、実朝は1219年(承久元年)右大臣拝賀の礼を鶴岡八幡宮で行った際に、甥の公暁に殺されてしまう。この実朝の暗殺について上横手雅敬は北条氏の関与をかたくなに否定する。頼家が比企氏によって囲い込まれていたように、実朝も北条氏によって囲い込まれていたのであって、殺すはずがないというのだ。鎌倉幕府は源氏3代が途絶えた後、あるいは途絶えさせた後、北条氏が政権奪取に向けて他の有力御家人の族滅や同族内での主導権争いをおこなっている。このことを明らかにしつつも、一つ実朝の暗殺についてはかかわりを否定するという不思議な論の展開を行っている。大江広元に語った実朝の「源氏の正統は私限りだ。子孫が跡を継ぐことはあるまい。さればせめて飽きるまで官職を身につけ、源氏の家名を挙げようと思うのだ」という言葉を北条義時への反発ではなく、自らの身体的欠陥への自覚から発せられた言葉だと上横手雅敬は解釈する。「子孫をえることは何よりも大切であり、多くの妻妾を抱えて、万策を講じる習いである。にもかかわらず25歳の実朝が、子孫に相続をさせることをあきらめえたのは、かれに身体的欠陥が突然発生したか、あるいは欠陥に気がついたかであろう。・・・源氏が途絶えるという絶望感が、実朝を異常にしたのである。」実朝の身体欠陥説はどこから導かれるのであろうか。上横手雅敬はその推断の根拠を示さない。彼自身が言うようにそれは「作家の領域」でしかないのではないか。「愚管抄」に北条政子と後鳥羽上皇の乳母である兼子との間で、実朝に子供ができないことが話し合われたことがあったことを上横手雅敬は傍証としている(「実朝をめぐる謎」歴史と人物1979年2月号所収)。だが、それは身体欠陥に及ぶ話ではないだろう。鎌倉府内での政争に実朝暗殺を位置づけることが第1義である。当時、対朝廷(院政)への対応が極度に緊張している中で、鎌倉府の意思統一が急務であった。意思統一に向けた政争の中に、実朝暗殺はある。
実朝が殺された後、幕府は上皇の皇子雅成親王、頼仁親王(西御方の息)のいずれかを鎌倉殿に迎えたいと奏上した。これに対して結局、摂関家(九条道家)の三男三寅が下向することとなった。1221年(承久三)5月、ついに承久の乱が起こる。後鳥羽上皇は鎌倉府との融和の糸口であった実朝を失い、強硬路線に転換して行ったのである。だが、後鳥羽上皇も朝廷をまとめていたわけではない。上横手雅敬は朝廷対武家という単純な図式を否定する。「相当の武士が上皇方に加わったに反して、旧勢力中の最大の武力を擁する大社寺の僧兵は、ほとんど動いていいない。貴族の大多数も乱には関係しておらず、中心となった貴族中での最高官は、権中納言坊門忠信であり、大臣以上は一人もいない。これが乱が後鳥羽上皇の側近のみで戦われ、貴族・寺社の多くが局外中立の態度をとり、したがって乱は貴族・寺社勢力対武士勢力の総力戦とはならなかったことを意味している。」
承久の乱後速やかに、北条氏は鎌倉幕府を源氏3代の大倉の地から移す。大蔵幕府は源氏3代の幻影が色濃く残っている。上横手雅敬はこの転換の意義を高く認める。その根拠を源氏の独裁政権から御家人の合議制へ政治体制の転換に求める。「頼朝以来鎌倉の大倉にあった幕府(将軍の御所)にかわり、宇津宮辻子に幕府が新造され、頼経がここに移転し、その翌日評定衆による最初の評議が行われたのである。この幕府移転は規模こそ小さいが、思想的には朝政における遷都にも匹敵するほどの意義をもつ事業であった。すなわち、頼朝から政子にいたる独裁政治にかわり、合議的な執権政治の発足を象徴する事件だったのである。」「合議的な」という言葉に重点が置かれているが、北条氏の「執権政治」という言葉に歴史の重点を置く必要がある。すでに2代頼家の時代から合議制は実施され始めているのだから。このような合議制は、諸国行脚伝説のある北条時頼によって得宗専制にたやすく移行する。
得宗支配は蒙古対応によって頂点に達する。そしてそれは蒙古への必要以上の強硬外交として多くの苦難を西国に与えた。「鎌倉時代の禅僧には中国からの渡来者が少なくない、幕府はかれらを通して海外知識を入手することができた。しかしこれらの禅僧の海外知識には偏向があった。蘭渓道隆にしても、時宗が招いた無学祖元にしても宋の人であり、祖国を蒙古に侵略されただけに蒙古に対して強い敵意を抱いていた。かれらから与えられた知識は、蒙古に対する時宗の極度に強硬な外交政策としてあらわれ、必要以上に事態を紛糾させたことは否めない。」また、蒙古軍の占領政策にも触れて、長期の占領は不可能であることを予想しているなど、神風に見られる「神国」思想を厳しく批判して、極度に強硬な外交政策が実は戦争に導く最悪の結果をもたらしたと鋭く分析する。
上横手雅敬の論述は新基軸をだす。その論は新鮮である。実朝暗殺をめぐる推断、とくに身体欠陥説には疑問を、そして大倉幕府からの移転の動機には別の視点を抱く以外は、鎌倉時代の光と影を掬い取っていると思う。(2005/12/25)
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