楽書快評
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書名 執権時頼と廻国伝説
著者 佐々木馨
初出 1997年 吉川弘文館
常世神社・伝佐野常世屋敷跡(群馬県高崎市) 第五代執権北条時頼は、1247年宝治の乱により有力御家人三浦氏を滅ぼし、北条氏の中でも得宋専制支配を築き、息子時宗の蒙古対策の礎を築いた人物である。37歳で亡くなる時頼には後代の水戸黄門張りの廻国伝説がある。それは佐野常世の「鉢の木」など謡曲によって広く知られている。この鉢の木にみられる名君時頼伝説が読めることを期待して「執権時頼と廻国伝説」を読み始めたが、それは裏切られた。佐々木馨の意図は、廻国伝説を引き合いに出しながら、京都の朝廷(院政)とは違う鎌倉幕府の独自政策を宗教政策の面で論じることにあった。
 それは「日本中世には、一方に天台宗を核とする『顕密主義』による『公家的体制仏教』、また一方に、真言密教と臨済禅を核とする『禅密主義』の『武家的体制仏教』が並存していた。この並存という事実が、宗教史的に中世における二つの中世国家を証明している。」これが本書のねらいである。したがって廻国伝説という題名にかかわらず、鎌倉における宗教構造が本書の大半を占めている。それはそれで刺激的である。さて分析である。佐々木馨は公家的と武家的と問わず、体制的仏教では「貞永式目」が第1条に掲げるように「神社を修理し祭祀を専らにすべき事」とするように神祗信仰と対となった仏教である。これは法然、親鸞、一遍らの鎌倉新仏教(専修念仏)の「反体制仏教」とは相違するという。
時頼墓所(明月院) 武家的体制仏教は二つの核がある。「一つは真言密教を彩る『宗教センター』としての鶴岡八幡宮であり、もう一つは、この臨済禅の象徴的としての建長寺である。」いうまでもなく、鶴岡八幡宮は源頼朝が創建した武家の都の宗教的中心である。歴代の別当職は東寺と寺門(園城寺)派の真言密教系の僧侶が独占してきた、と佐々木馨は分析する。これに対して建長寺は時頼が宋から来た臨済宗の蘭渓道隆を導師として創建した(1253年造立)寺院である。「鎌倉時代」0106)で言及したように、この臨済禅僧を尊重したが為に、後日、対中国(蒙古)強硬政策をとるという誤った路線に踏み込んでしまう。
 さて、山門(延暦寺)派への鎌倉府の拒否反応はどこから来ているのであろうか。佐々木馨は僧兵の問題と土地争いの代理人をおこなう商僧である比叡山延暦寺(山門派)への北条泰時以来の嫌悪を理由としてあげている。貴族の日常と深く結びついた山門への反発であろうか。鶴岡八幡宮別当への山門派からの就任がないことへ宗教的理由としては弱いような感じがする。しかしデータ的には山門派はいないのであるから忌諱していることは明らかである。
 時頼といえば日蓮である。日蓮はその延暦寺で学び、法華宗を創出して鎌倉府に迫ったことへの対応はどのように分析できるのか。佐々木馨は「日蓮が、『法華経至上主義』を前面に押し立てて、その天台宗の復興を叫べば叫ぶほど、幕府は日蓮を疎外していくことになる。」と述べる。この日蓮への強硬な対応は佐々木馨の「執権時頼と廻国伝説」の基調のひとつにはめ込まれている。
 以上のような鎌倉宗教史を、中世国家論を下敷きにして分析し、ようやく廻国伝説に入る。時頼の廻国伝説(佐々木馨は実際に全国行脚したという立場にある)には二つの類型があると分析する。一つは私が興味を持つ「鉢の木」等「上野国佐野より以西への廻国の主題」が「経済的な困窮を為政者、時頼が救済する『政治の旅』である。」それに対して東国への旅は「宗教の旅」であると言うのだ。佐々木馨の一貫性はこの宗教の旅において発揮される。つまり、現在の東北地方は歴史的に天台宗が盛んであった。これを改宗する旅が主題であったと語る。時代は桓武天皇の時代に遡る。南都仏教の弊害を一掃して鎮護国家政策の担い手は天台宗と真言宗であった。坂上田村麻呂の蝦夷征伐とともに、天台宗の寺院が多数建立されていった。それを「この天台宗寺院の建立の背後には、坂上田村麻呂を媒介としながら、蝦夷平定事業に血道をあげる桓武天皇とそれに重用された官僧の天台宗最澄とが、政教一如の形で結び合っていた。」と語る。天台座主は9世紀には7名のうち5名までが東国(初代義真;相模国、二代円澄;武蔵国、三代円仁;下野国、など)である。天台宗は東国へ、真言宗は西国へという区分であろうか。平泉中尊寺、出羽立石寺、奥州松島寺、そして津軽山王坊など天台宗寺院であったという。伝承では行脚僧に身をやつした北条時頼が奥州松島寺の山王七社大権現の祭礼を見物した折に災難にあり、これを焼き払い天台宗から臨済宗に改宗して新たに建立したと、寺伝「天台記」が伝えているという。また、立石寺についても「北条時頼、微行してここ過ぐ。台宗の盛んなるを嫉み、命じて禅宗に改め」た、と伝えられている。このように時頼廻国伝説は東国寺院の改宗の旅であったと推断する。
 こうして佐々木馨は「時頼の廻国は、後世の『虚構』ではなく、史実そのものであった。私たちは、その『微行』の旅立ちを、正元元年(1259)、時頼、32歳のときに求めた。まさに『中世の黄門』の発見である。」
 中世の黄門の発見が黄門伝説と同じく伝説にしか過ぎないのか、あるいはどこまでが史実でどこまでが虚構であるのか佐々木馨とは違って、不明である。だが、佐々木馨が廻国伝説にことよせて主張しようとした武家的体制仏教のあり方については明確に、その意図が分かる。「鉢の木」はさて本当の話であったのか。佐々木馨に聞いてみたい。読もうと思った理由がそこにあるので。(2005/12/31) 
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