
書名 酒呑童子の誕生
著者 高橋昌明
初出 1992年 中公新書
ライコウが渡辺のツナやキントキ(足柄山の金太郎)など四天王を従えて、大江山の酒呑童子という鬼を退治した話は、絵本などで子どもの頃に読んだ記憶があった。この物語の背景を明らかにしたのが「酒呑童子の誕生」である。酒呑童子は、都に疫病を流行らせる疫病神であった、というのが、高橋昌明が解き明かした正体である。人びとを蝕む病気の原因が近代医療によって突きとめられ、治療方法が明らかになるまでは、病はひたすら恐れるしかなかった。流行病は、人びとを恐怖のどん底に突き落とした。酒呑童子は、流行病の中でも「疱瘡」をもたらす疫病神であったと高橋昌明は述べる。
疱瘡は天然痘の俗称で,イモガサともいう。735年(天平7)の大流行以来,江戸末期まで50回におよぶ流行があった、といわれている。2回目の大流行であった737年(天平9)では、筑前の大宰府から起こり、死者は多数に及んだ。光明皇后の兄の、藤原氏四兄弟が、亡くなった。北家の祖・房前(57歳)、京家の祖・麻呂(43歳)、南家の祖・武智麻呂(58歳)、式家の祖・宇合(44歳)である。このような大流行に対して、できることは「祇に幣を奉って此れが速やかなる終息を祈念あり。貧困のもの疫病の徒にも振恤を加え湯薬を給わった。」「宮中に於いて僧6000人に大般若経を読誦させる」ことでしかなかった。
疱瘡は、日本にとっては大陸・半島経由で外からもたらされる疫病であった。従って、特に山陰道である西北からもたらされるものと思われた。古代・中世では都に入る西北からの入口が大江山であった。「大江山の酒呑童子の原像は、都に猛威をふるう厄神、とくに前近代日本の疾病中、最大の脅威であった疱瘡をはやらせる鬼神だった。大江山(老ノ坂、山陰道が山城国に入らんとする地点)は、古代以来厄病の都への侵入をさえぎる四堺祭(都城の道切りの祭の一種)の祭場の一つであり、元来、疫神の跳梁しやすい場所である。」と高橋昌明は説明する。
さらに、疱瘡など疫病には、赤のイメージが伴う。「疱瘡神=赤=猩々という連想は、中世までさかのぼるだろう。『大江山絵詞』で、正体を現した酒呑童子の姿が見事な朱紅色に描かれ、名前の由来をみずから『我は是、酒をふかく、愛するものなり、されば、眷属等には、酒呑童子と、異名に、よびつけられ侍也』と語っているのも、猩々(疱瘡神)のイメージが宿された結果とみたい。」と酒を呑んで赤い酒呑童子と赤のイメージから猩々へと繋がる分析を行う。このような疫病神=酒呑童子の伝承の広がりは、丹波国と山城国との国境の大江山(老ノ坂)から、丹後の大江山へ移って行く。これには都の生活圏の広がりとともに境の地の拡大が考えられる。そして、丹後は浦島太郎の伝承を始め伝説や民話の宝庫でもあった。「ともあれ、中世人にとって、丹後与謝の地が竜宮(神仙境)を連想させる場所だったことは否定できない。・・・おそらく、京都から見て南の熊野が観音補陀落浄土であるのと対をなす、畏怖と憧憬の交差する北の辺地だったのだろう。」丹後・丹波境の千丈ヶ嶽の大江山が謡曲や歌舞伎などの舞台として設定されるようになる。
「頼光と鬼の説話のきわめつきは、やはり大江山の酒呑童子の物語である。これは、南北朝後期・室町初期成立のいわゆる逸翁美術館蔵『大江山絵詞』を所見とし、謡曲『大江山(酒天童子)』、サントリー美術館蔵『酒伝童子絵詞』、『御伽草子』の『酒呑童子』を経、さらに古浄瑠璃の『酒呑童子』、歌舞伎の『酒呑童子』に続き、近世には日本人になじみ深い物語の一つとなった」(高橋昌明)。私たちが幼い頃に読んだ絵本は、このような御伽草子を焼き直したものであったのだ。
酒呑童子の誕生は、退治したライコウ神話の誕生でもある。武力を持った貴族はまた、人だけではなく酒呑童子をはじめ物の怪からも「王権」を守る者と意識されている。ライコウよりも後の世になるが、「『古事談』によると白河院は義家愛用の弓を枕元に置くことで『物ノ怪』を撃退したという。もはや、河内源氏は宗教的・呪術的要素も含めて王権を擁護する存在となっていたのである。」(「源満仲・頼光」 本木泰雄 ミネルヴァ書房2004年)と思われていたのである。
ライコウは源頼光のことであり、清和源氏の嫡流・摂津源氏の祖である。平将門の乱に登場する六孫王・源経基を祖父に、満仲を父として頼光が生まれた。後を継いだ源頼光について「彼にはほとんど武士としての事績がない。実は、このことが彼が評価される原因となった。はなばなしい合戦に巻き込まれなかったことこそが、社会と王権が安定していた証拠であり、こうした安定をもたらしたことが、武士頼光の功績と評価される結果になったのである。言い換えれば、頼光が一条朝という、王朝の黄金時代として回想される時代に生きたこと、ここに彼が高く評価される根本原因があったのかもしれない。」と本木泰雄は「王権」の観点からその評価を行っている。
頼光の四天王を代表するのは渡辺綱である。だが、「後に頼光四天王に数えられる平貞道、平李武、公時の三人は、頼光の有力郎党等として『今昔物語集』(巻28―2)に登場するけれど、そこには綱の名は見えず、四天王という呼称自体がない。渡辺党の摂津源氏への臣従が確認できるようになるのは、頼政の代まで待たねばならなず」と歴史的にもまた物語の世界でも四天王ではもっとも新しい人物である。渡辺党には2流があり、嵯峨源氏と藤原南家(遠藤)流である。渡辺綱は嵯峨源氏流渡辺氏の始祖と伝えられる。この渡辺綱が実は酒呑童子伝説の鍵を握っていると高橋昌明は、論を進める。「さらに、綱の語られざる事情を探ってみる。状況証拠的にいえば、鎌倉前期、遠藤渡辺氏に比して源姓渡辺氏の退潮がはじまったところに登場の背景があるように思われる。遠藤渡辺氏の家国は、一族出身の文覚(もんがく)上人の勧めによって頼朝挙兵時から頼朝の軍勢に加わり、その後西国出身の御家人ながら、東国御家人なみの待遇をえて鎌倉殿・北条氏に近習の侍として仕えるようになった。加えて承久の乱で、源姓渡辺氏主流が京方に味方したため、保持していた渡辺惣官職も没収され遠藤氏の手中に移った。両者の力量に逆転が起ったのである。こうなれば、斜陽の源姓渡辺氏が、一族の歴史をふりかえつつ、傷ついたアイデンティティの回復につとめることも、起りうるだろう。その渦中で始祖伝承にめざましい一頁を加える動きが始まり、綱が造形された可能性はないか。」これが高橋昌明の謎解きである。
このような謎解きに、王権にまつわる伝承として読み直したのが「酒呑童子の首」(小松和彦 せりか書房1997年)である。魂の形象化された珠は「龍とか鬼とか狐といった、その時代の特定の社会集団が表象する『外部』の形象の衣を身にまとって現われる。」このような分析の視点から源頼光によって切り取られた酒呑童子の首について、それも珠であると述べる。「酒呑童子の首や大嶽丸の首、那須野の狐の遺骸は、王権を脅かした『外部』の象徴であった。王権はこの『外部』を捕捉し、それを『中心』に運び込んで独占したのである。『外部』はいまや王権の手中にあった。『外部』は『中心』に回収され、『中心』に秘匿されねばならない。いや、上野千鶴子の言に従っていえば、『外部』としての鬼の首が帝や院の手中に入ったとき、その王権が超越性を持った『中心』として成立(再構築)されたというべきであろう。」王権の中心に回収された外部の象徴=酒呑童子の首は、中世の人びとが王権を成り立たせるのに不可欠な空間である「宇治の宝蔵」に収蔵されることとなる、と読み解く。中世後期の王権が衰退した時期に、酒呑童子を征伐し首を宝物として「幻の博物館」に収蔵することによって王権の繁栄がもたらされる説話が語り出されたと、結んでいる。確かに、酒呑童子の物語が成り立ったのは時期的に王権の衰退時期であり、現実の喪失と物語上での回復という分析である。渡辺綱への高橋昌明の視点と、小松和彦の視点は重なる。小松和彦は「王権」という視点を加味して分析したのであった。
確かに、「王権」に結びつけて伝承を解明していく方法は有効であると思う。が、その時代時代の「王権」の変化・変容こそが歴史であり、「王権」として一括する手法には、いささか違和感を持つものである。清和源氏の系譜に繋がる武家の世である室町期に成立したと思われる「酒呑童子」についてみれば、源頼光・渡辺綱という英雄たちが、清和源氏の系譜を負っていることこそが第1義である。江戸時代になっても、人々は疱瘡をおいはらってくれるように強い英雄や豪傑の絵をはって祈った。それは例えば、金太郎、桃太郎や鐘馗そして「我家は鎮西八郎為朝の家なり」とするという貼り紙(会津地方)や疱瘡絵である。そして村々では、道祖神とともに境には疱瘡神の石塔が見かけられた。写真の左側にあるのがは鎌倉市の十二所(じゅうにそ)神社の境内にある疱瘡神である(右側は宇佐八幡)。このような民間伝承と結びついて酒呑童子の物語が受け継がれてきたのである。それは必ずしも王権の守護者を意識した伝承ではないであろう。(2006/1/9)
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