書名 頼朝の精神史
著者 山本幸司
初出 1998年 講談社
表紙に「古代から中世への扉を開いた男、源頼朝。冷徹酷薄な政治家。人情あつき信仰家。二つの像に引き裂かれた『心の闇』は深い。本書は、その分身ともいうべき梶原景時や側近集団の役割に注目しつつ、一介の流人から、徒手空拳から鎌倉殿へと駆け登った、稀代の政治的人間の真実に迫る。」と謳われたとおりの内容である。
頼朝は、平治の乱で敗北し平家の一統である池禅尼のとりなしで一命を取りとめ(「頼朝助命の主役となったのは、池禅尼・頼盛母子と、頼盛の家人の宗清であったが、もともと平家一門の中で、清盛と、忠盛の後妻である池禅尼およびその子の頼盛とは、必ずしも円満な関係ではなかったらしい。」「そして頼朝との黙契でもあったかのように、『平家党類、前内大臣(宗盛)巳下、一族を率いて西国に出奔す』という平氏都落ちの際、『頼盛卿の一類は京都に留まる』という仕儀となった。」と山本幸司は平家一門間の不和を明らかにする。)、その後の伊豆での長い流人生活から人生をはじめた。苦労人の頼朝は、政権奪取後も、この長い流人時代に尽くしてくれた家人、乳母、親族、援助者への変わらぬ慈しみを持ち続けている。他方では、源氏内部での競争相手となる人びとに必要に圧力を加え、また御家人への取扱の平等性を重んじる政治的な人間像を山本幸司は具体的に示す。義家で頂点を極めた清和源氏は一族の内紛もあって勢力を弱め、平氏一門に武家の棟梁の座を一端は奪われた。そこから頼朝の流人生活が始まることを思えば、源氏の棟梁の座を奪いかねない競争者を容認することはありえなかったであろう。
源氏の流れをくむ有力者も頼朝を棟梁とする鎌倉府の御家人として扱うことが源氏以外の他氏からの信頼を得ることでもあった。「数においても質においても有力な手勢をほとんど持たなかった頼朝が、一方おいて一門・一族を偏重せず、御家人たちへの対応にも衡平を旨として、公平を失せぬように細心の注意を配り、他方、そうした政治行動の基礎となる情報の収集に注力するに当たっては、頼朝個人に直結し、いわば文字通り頼朝の耳目爪牙となって活動する人びとが必要であったことはいうまでもない。そうした人びとの一つの極が侍身分における頼朝の代弁者としての梶原景時であり、また他方の極が侍身分以下でありながら頼朝に直結することによって、時には御家人たちをさえ超える一時的・臨時的権力を行使した雑色たちだったのである。」公平な扱いには正確な情報(耳目)が必要であり、そして的確な執行代理人(爪牙)が必要であった。当初、鎌倉府は頼朝個人の巨大な個人経営によって成り立っていたとみなしてもよいかも知れない。側近集団の役割、現在の組織で言えば、秘書部屋の機能が体制の創設期には強く求められたのであろう。
梶原景時一族は、その秘書団を構成するに最適な一族であったと山本幸司はみなしている。「頼朝と関わる歌の詠まれた場は、合戦の行路、狩場、上洛の途次などである。そうした折に主君頼朝に随行して詠まれた和歌は、古代において天皇の出行に随行した際、勅命によって詠進された従駕応詔の歌と同じように、一種の祝言というべきものに他ならない。それは王権にとって欠くことのできない儀礼であり、後に述べるが、早くから神官・禰宜・僧侶などの宗教者を集め、寺社の整備にも力を入れていた頼朝の、広い意味での王権の基盤確立の一環だったと見なすことができるのである。そして景時の一族がそうした祝言者としての役割を担ったのは、単なる偶然ではなく、それもまた景時一族の頼朝政権における重要な役割の一つだったのだと私は考える。」個人秘書団は、個人に依拠しなくても体制として動き始めると必要性が希薄となる。梶原景時一族の役割は終わる。頼朝の死とともに梶原一族の族滅の時が訪れた。
山本幸司は頼朝の精神のあり方、ひいては鎌倉府の精神のあり方について、宗教施設とのかかわりからアプローチを行う。平安時代の貴族たちが怨霊を恐れたように、鎌倉府の武家も殺してきた数だけの恐怖を持っていたかのようである。すでに知られているように、鎌倉市二階堂にある永福寺は、1992年(建久3)に、奥州平泉にあった中尊寺の二階堂大長寿院のすばらしさにこころを奪われた頼朝が、それを模して作らせた寺院である。地名の二階堂もそこから来ている。この寺院は、源義経、藤原泰衡ら数万の人びとの怨霊を鎮めるために創建されたのである。武家の都・鎌倉を象徴する鶴岡八幡宮も保元平治以来の頼朝に敵対して滅ぼされた怨霊を鎮める役割を担っていた。鶴岡八幡宮の創建の目的と、それに奉仕する供僧の出身氏族に山本幸司は着目する。「最盛期の鶴岡には25の供僧坊があった。その初代供僧を見ると、半ばを越す16人は源氏によって打倒された平氏の関係者である。」「平家一門以外の人間についても、供僧の中には、将軍ないし鎌倉幕府にとって危険人物と何らかの縁のある人物が見受けられる。実朝を暗殺した公暁についても同じことがいえる。なぜ頼家の子息で実朝に対して恨みを抱いている可能性のある公暁を、他ならぬ鎌倉の中心部の鶴岡八幡宮の別当に任命したのか。しかも公暁に加担したとして供僧を改補された3人、すなわち静慮坊良祐、円乗坊顕信・乗蓮坊良弁、さらに訴訟の結果として還補されたとはいえ、いったんは供僧を免じられた実円坊猷弁を含めれば4人もの人びとが、いずれも『平家一門也』『平家一門脇殿孫』『平家一門の人也』『平家一門也』と」ある。「こうした供僧たちの出自を説明できる理由を考えるとすれば、鶴岡が創建された重要な目的として、鎌倉幕府に敵対した人びとを中心に、保元・平治以来の合戦に敗れた人びとの怨霊の鎮魂ということがあったということになろう。」「このような記録からいえることは、怨霊の子孫など霊の好意を持ちそうな人が、その祭祀に当たる必要があるということなのである。」この視点は卓越している。
武家は人殺しを家業とする。頼朝が開いた鎌倉府から始まる日本の軍事政権は、常に敗北した人びとの影を背負って成り立っていた。その頼朝の死は突然に訪れた。この死のありさまを、鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」は不思議なことに死後十数年も過ぎた頃に明かす。相模川にかかる橋(稲毛重成が造営した橋)の新造の橋供養に出かけた帰りに落馬して亡くなった、というのである。この記事は、稲毛重成が畠山重忠を讒訴した罪で誅殺された不吉さをも述べている。「頼朝の死の背後に敗亡した人々の怨みや彼によって命を失った人びとの怨霊の祟りを見る、当時の人びとの見方を間接的に裏付ける」記事であると、山本幸司は述べ、さらに「保暦間記」には、橋供養からの帰路に、滅ぼされた源氏一族の志太義広、源義経、源行家らが現われて頼朝と目を合わせたなどのことがあり、病みついて没した、との記事も紹介している。
近世・近代が抜け落ちたまま、中世が突然に降りてきたような鎌倉の町を歩くと、甲冑に身を固めた怨霊たちが現われてくるように感じられる。深い「心の闇」を持った頼朝もその一人である。(2006/1/22)

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