書名 よみがえる古代文書
著者名 平川南
初出 1994年 岩波書店
 古代(律令時代)では宝物は黄金、鉄、朱(辰砂)、とともに漆であったという。漆は食器を作るときに使われるという現代のイメージしかないが、大規模建造物には必須であった。特に、寺院や官庁などの建造時には大量に必要となり、これを確保するのはたいそうな仕事であったという。漆を使うには器に入れ、それを和紙で蓋をする。和紙は貴重品であり、反故紙を使って蓋をする。漆に浸かった和紙は蓋の丸い格好のままに保存される。そこに、古代の文字を発見することができる。漆紙文書というらしい。この漆紙文書を発掘し、古代の戸籍、暦、そして兵士の欠勤届などの行政文書を読み取る根気のいる作業を通して、古代の歴史を明らかにした平川南の姿が「よみがえる古代文書」(岩波新書)から浮かんでくる。
 現場は多く、宮城県の多賀城跡。平川南は1969年から宮城県多賀城跡調査研究所に勤める。780年の蝦夷の反乱で多賀城が消失した時期の漆紙文書が、赤外線テレビカメラによって解読可能となる。何が浮かび上がってくるのか。
 例えば、ただ人名を列挙した欠損の多い13行の文書から、今まで知られていなかった軍団と兵士の姿を解き明かす。蝦夷の反乱鎮圧の後、征夷大将軍坂上田村麻呂が築いた胆沢城に、勤務する兵士の名簿(兵士歴名簿)であることをまず確認する。そして、郷名と戸主の間に記された数字がたまたま8から50までであることに着目する。唯一2例登場している戸主、駒椅郷(陸奥国柴田郡の郷名。胆沢城に勤務する名取団に属す)の「丈部犬麿」(はせべいぬまろ)についた数字がどちらも21であることから「丈部犬麿」固有の数字であることが分かる。平川南は最高値が50であることから、一里(郷)50戸制の行政単位を思い起こす。今まである村を人工的に50戸ごとに区切り、端数は余戸里(あまるべのさと)とされた。なぜ、このような人工的な作業を全国的に強いたのか。「この編戸の大きな目的のひとつは兵士の徴発にあった。律令の規定は先述したとおり、1戸の成人男子(正丁)3人のうちから一人という規定だったが、---要するに1戸から一人の兵士をださせたということである。」「つまり、『八』から『五十』までの数値は、各郷の戸主にそれぞれつけられた『戸番』ともいうべきものではないか、という推測である。しかも、この『戸番』は兵士徴発に有効に活用されたらしい。下段の各行の頭に付された合点(、)は、照合の痕跡を示すものだ。」
 実に優れた推理である。発掘もそれだけでは漆によって保存された古代の反故紙。そこから、古代を解き明かす。解き明かした文章の意味に興奮して眠れぬ夜をすごしながら、古代史解明の画期的な手法を平川南はひとつ確立した。うらやましくも贅沢な人生である。
 延暦9年から14年にかけての胆沢・志波地方の蝦夷討伐には10万人の動員がおこなわれたという。東北地方のみならず東国全体に平川南が解き明かしたような厳しい徴発がおこなわれたことであろう。この本によると、奈良末から平安初期の国家掌握人口が約540万人から590万人と推定されている。人口比にしても多大な徴発であり、人々の悲しみはいかほどのことであったことか。それは、討伐される蝦夷にとっても同様のことである。(2003/12/28)
楽書快評
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