
書名 つわものの賦
著者 永井路子
初出 1983年 文春文庫
これは永井路子の鎌倉幕府論である。鎌倉幕府の性格規定は思うほどには明らかではない。貴族が支配する古代の王朝国家から、武士が支配する中世へと移行したのかどうか、論議が分かれている。頼朝が開いた鎌倉府は、所詮、院が支配する日本の軍事部門を担ったに過ぎないではないか、という視点が存在する。平将門が掲げたように新皇に即位して新たな政府を作り出すとは、鎌倉府は主張していないからである。
永井路子は近代的な政治のあり方から中世を見ることは間違っていると正す。
「あるいは、頼朝が復位、復官したことで、西国国家の律令体制の前にひざまずいた、と見る人もあるかもしれない。しかしこれはいささか近代的な解釈である。近代における革命はしばしば、それまでの官僚機構から法定系まですべてを否定した形で行われる。が、中世にはその変革はもっと捉えどころのない形でやってくる。東国が西国のそうした体系をずっと認め続ける。それどころか、その後も、東国のいくつかの国の国司は西国から受けいれるし、荘園の所有関係もそのままだ。しかし、もともとこうしたゆるい網をかぶせられた形の『くに』のあり方こそが中世の特色なのだ、ということはすでに書いた。こう見るならば、やはり未成熟ながら、東国国家はここに成立したというべきではないだろうか。」「近代の国家は国境線を明確にし、1メートルでもこれを犯せば大問題になる。今や海の上までその線を引こうとしているが、中世はその辺はかなりぼやけていて、所有権が幾重にも重なりあっているのだ。・・・こうした土地と人との交錯した支配関係こそが中世そのものなのであって、こうした関係の出現する前と後は、やっぱり区別しなければならないだろう。」
ゆるい網こそが中世の特色、と永井路子は述べる。このゆるい網は日本だけではなく、中世西欧にも見られる特徴であるとも語っている。では鎌倉府が始まる以前の東国はどんなところであったのか。それは西国にとって搾取の対象でしかなかった植民地・東国である。西国の視点で描かれた「平家物語」に現われる坂東武者の姿はバーバリアンへの恐れと嘲笑とにみちている。その源平の合戦は、永井路子に言わせれば「この戦いが、東の『くに』の西の『くに』に対するはじめての勝利だったことだ。今までは搾取の対象でしかなかった植民地・東国は先進社会に挑み、これを圧倒したのである。彼ら一人一人の富は、この時点でもなお平家のそれに及ぶべくもない。文化的な差はそれ以上だ。」
搾取の対象であった農業経営主が、その地位を改善・保全し、一所懸命ならば報われる体制を築いたのが源頼朝に始まる鎌倉府であった、と永井路子は語る。これは東国の視点から物語を紡ぎ出そうとしているからである。坂東太郎と呼ばれる利根川の流れに沿った交通の要地・古河に育った永井路子ならではの、東国への肩入れである。農業経営主としての武士ではなく、王朝国家に奉仕する職能によって武士の在り様を、模索する議論もあるなかで、いわば古典的な視点にこだわって、「つわもの」を見ていこうとしている。こうした視点から功名手柄に明け暮れた熊谷直実、武蔵武士の棟梁・畠山重忠、「愚管抄」で「鎌倉本躰の武士」と呼ばれた梶原景時、姻族の北条氏、地元の雄族・三浦氏、乳母関係の比企氏など多彩な東国武士を登場させながら、永井路子は鎌倉幕府の在り様を示している。中世は捉えどころがない、と永井路子は言う。一縄にくくれないということであろう。鎌倉武士の魅力は、個人の武士、武士団の個性の多様性、多彩さである。いずれも一所懸命の顔でありながら、日に照らされて噴出す汗の臭いが違う。耕す田畑によって耕し方も、できる作物も違うのである。
ゆるい網という永井路子の視点は、近代国家のイメージから歴史や古代・中世国家を見ないための、有効なアプローチであると思う。搾取されるだけの植民地・東国という視点については、その心持を共有しつつ、なお保留しておきたい。また、下の総括の「二つの政権の並立時代」という表現についても違和感がある。
永井路子は鎌倉時代を総括する。「「植民地だった東国地方が1180年に変革を開始し、この年(1192)一つの節を迎えた、というふうに見ておきたい。といっても、これを機に東国が西国を圧倒し、日本全部が武家の世になったというのでは決してない。国境もぼやけているし、経済的な権利も重なりあってはいる。が、東国は一応植民地的従属からは脱した。一方西国国家内には東国の御家人は地頭として根を張りはじめているし、以後、日本はきわめて不安定な二つの政権の並立時代に入るのである。」(2006/2/5)
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