
書名 生きて候
著者 安倍龍太郎
初出 2002年 集英社
本多政重という人物を知っている人は少ない。私の記憶にあるのは本多正信という老獪な参謀の子どもで、直江兼続の婿養子となり、やがて加賀百万石の筆頭家老となった不思議な人物である。安部龍太郎は一時、徳川家康の下から一向一揆に走った本多正信が居ついていた加賀の話を根にして、本多政重の人物造形をおこなう。さわやかな好漢として描かれている。
金沢御坊が織田信長の軍勢に根絶やしにされた記憶が、事あるごとに本多政重には思い出される。その阿修羅の場面にあって、父・正信は脱出してあくまでも戦う道を選ぶ。「だから一緒に御坊を逃れようと誘ったが、加州一揆の有力者の娘だった母は頑として応じなかった。自分はこの方々と運命をともにする責任がある。どうかこの子を連れて落ちのびてくれと、幼い政重を正信の胸に押し付けた。正信はためらった。お前をおいていくわけにはいかないとかきくどいている間に、御坊には火が放たれ、敵は、門前まで迫っていた。何百挺もの鉄砲の音、地を揺るがす軍勢のどよめき、女や子供たちの断末魔の叫び・・・。と、母は突然懐剣を抜き放ち、己の胸に突き立てた。自ら命を絶って、正信と政重を行かせようとしたのだった――。」安倍龍太郎が本多政重に与えた原風景である。
「美しく己の命を使い切れ」という養父の遺言を胸に、武辺者として戦場を駆け巡るうちに、前田利政や豪姫、そしてその夫となった宇喜多秀家、さらに島津義弘と出会う。憎まれ役として登場する兄・本多正純など多彩な人物が現われ、武辺者としての限界を知り、そして戦から政へと舵を切っていく。「近衛信尹は戦より政が大事だと言った。正信は上に立つのが豊臣だろうが徳川だろうと、民百姓にとっては同じだと言い放った。一介の武辺者には受け入れ難い考え方だが、朝鮮での戦の悲惨を目の当たりにし、万民の平安を実現する道を求めつづけてきた政重は、確かにその通りだと思うようになっていた。この国に生きる大多数の者たちにとって、大切なのは日々をつつがなく生きることだ。それさえ保障してくれるなら、上に立つ者が誰であろうと関係ないのである。」
前田家の筆頭家老となって後の姿を安倍龍太郎は、豪姫の口から語らせる。「先ほど利政と祭りを見物してきました。今年の作付けもいいようで、家臣領民とも安堵いたしております。これも安房守さまのお陰だと、本多大明神のお札をかかげている者までいたのですよ。」と。母を失い、自分も生まれた一向宗のかつての王国の跡に立った感慨を、政重自身の口から聞きたかったところである。もっとも、前田家が本多政重を重用したのは、徳川家との政治的な折衝を担わせるためであったと思われる。それは、本多家が家紋を立葵にしていることからして、前田家での立場が、「葵」の効用にあったことは自然である。ちなみに、前田家は、菅原道真の後裔を称し、梅鉢を家紋としている。
戦国末期に現われた不思議な人物である本多政重が、父正信に似て一筋縄ではない人物であり、その紆余曲折から見ても「さわやか」さでは言い表せない人生を送ったと思う。だが、本多政重について「生きて候」以外に知っているわけではないので、これ以上に人物を語れるわけではない。
最後に、小説としての不満を上げれば、島津に匿われていた宇喜多秀家を、豪姫を伴って訪ね、あるいは本多正純がこれを追って薩摩に現われたなどのシーンは飛躍しすぎでいて興がそがれる。そして、正純を悪者にした分、ストーリーが単純化され、さらに前田家との関係が重んじられたために、直江兼続とのかかわりがほんの数行となってしまったことは残念である。
前田家の筆頭家老として5万石を領した本多政重の系譜には、明治維新直後の執政となった本多政均がおり、城中二の丸で暗殺されている。政均の家臣たちは2年がかりで、処罰を免れた暗殺者たちを仇討ちにしている。本多家の屋敷は兼六園脇にあった。本多の森や藩老本多蔵品館がある。下屋敷跡付近は本多町という地名が残っている。なお、前田利政は能登21万石の太守となったが豊臣寄りの姿勢を持ち、ために太守の座を退けられている。のち、この家系は加賀前田家の家臣八家のひとつ前田土佐守家(1万1千石)となる。この家系からは、加賀騒動の主・大槻伝蔵を失脚させた前田直躬が出ている。前田土佐守資料館は長町の武家屋敷跡近くにある。金沢には、まだ前田百万石の夢が息づいているようである。(2006/2/26)
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