楽書快評
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0113
書名 中世都市 鎌倉
著者 河野眞知郎
初出 2005年 講談社学術文庫
 鎌倉は中世の都市である。そして時代は一挙に明治に至る。遺跡から中世の町並みを現代に浮かび上がらせたのが「中世都市 鎌倉」である。その絵解きによって鎌倉の不思議な魅力がどこから来ているのかを解き明かしている。
 経済的に未熟な東国にあって一つのまちだけが豪華な消費文化を形作った。「最盛期の鎌倉には膨大な人口があった。鎌倉に勤務することをこえて常住する武士たちも多かったはずだし、寺院は僧以外にも人を抱え、商人や職人の流入も続いていただろう。彼らの生活を支えるため、各地から大量の物資が搬入され、鎌倉内でもさまざまの物が作り出されていた。・・・武士が政権を掌握し、鎌倉が東国の中心都市となり、京都に対抗(あるいは凌駕)するまでに成長したのだ。」河野眞知郎は最盛期の中世鎌倉の人口を5万から10万人とみなしている。12世紀末、三方を山に囲まれ、残りを海に面した狭い鎌倉に一大消費都市が出現した。奥まった谷(やつ)には有力御家人の住居や別業(別荘)あるいは寺院が占領して、わずかな平野地に押し込められるように中世鎌倉人は営みを行っていた。どんな人びとが暮らしていたのだろうか。河野眞知郎が遺跡から読み取る人びとは本拠を別に持ちながら鎌倉にも出先を持つ御家人とその使用人たちである。彼らはいわば単身赴任のようなものである。権力争いと酒宴政治が生活を支配していた。今の永田町のようなものであろうか。大寺院に暮らす権力に奉仕する白衣の官僧も中世都市鎌倉を構成する。そして、このような政治中枢の人工的な都市に必要な商人、職人たちが鎌倉を、活気づける。さらに、彼らの苦悩を救済しようと黒衣の僧が街角で説法をする姿も垣間見られる。
 狭い住居には囲炉裏が切られ鍋による煮炊きと暖房とが兼ねられていた。炊事は西国ではかまど、東国では囲炉裏である。囲炉裏が切れない場所では代わりに火鉢で代用する。これらは遺物として多数鎌倉の土の中から掘り出される。
明月院のやぐら 生者がいれば、死者がでる。狭い鎌倉に墓地は作れない。谷の奥の崖に横穴を掘って火葬した骨を骨壷に入れて祀るやぐらが鎌倉にはあちこちに見られる。もっともやぐらが全て墓であったかどうかは、河野眞知郎は断定していないが。これが一般に知られた中世鎌倉の埋葬施設である。この他にも河野眞知郎は尾根の上へ埋葬したり、生活廃水を流す溝に投げ込んだりと当時の処理の仕方を示している。その中で注目されるのは海岸を埋葬地とすることである。海岸を埋葬地とする習慣は必ずしも鎌倉のみの習慣ではなく、海が近い地域ではよく見られる風習である。鎌倉で注目されるのは「中世都市 鎌倉」でも紹介されている由比ヶ浜(鎌倉簡易裁判所の建築現場)で1953年に千体を越える人骨が出土されたことである。頭骨ばかりが山のように積み上げられた首塚も現われ、新田義貞が鎌倉を攻めたときのものではないかといわれている。
青砥橋 中世都市・鎌倉は一極集中の消費都市であった。河野眞知郎も青砥藤綱が滑川に10文の銭を落として50文の松明を買って捜させた「太平記」にある故事を消費経済の現われであるとみなしている。中国貿易で輸入するものは消費経済を回す中国銭(南宋)が最も多く、これに陶器が続いている。外港である六浦や和賀江島に大型の貿易船がつながれている光景も見られたはずである。交易は狭い切り通しを越えるより、舟運が効率的である。鎌倉で発展したのは漆器くらいであり、家を建てる材木(材木座海岸という名称が残っている)や煮炊き用の炭、鍋、皿まで取り寄せなければ成り立たない都市であった。囲炉裏にかける鍋は長崎産の滑石鍋が使われ、薪や炭は安房上総から運ばれてきた。
 現代の鎌倉の町並みは、河野眞知郎によって3Dの中世に立ち戻っていく。中世に立ち戻れるまちであることが、鎌倉の魅力である。
 河野眞知郎はいう。「ここまで読みすすまれたなら、鎌倉を物資流通の中継地として(集散の中核として)草ぶかい東国へも『鎌倉的消費文化』がひろがったのではないか、と誰しもが思われるだろう。しかしじっさいに関東・中部・東北各地の中世前期の遺跡を見ると、鎌倉的消費文化はごく一部かほとんど波及していないような状態である。当時『大名』とよばれるほどの領地をもつ武士の本拠地でも、今日の『小京都』に比較できるような『小鎌倉』といえるほどの、都市的な場を形成することはなかった。」どうしてなのか。「坂東武者たる者は『質実剛健』と旨としており、お勤めで鎌倉に行ったときには役得にあずかって酒宴と『好色』の遊興にふけるが、郷里に帰れば口をぬぐっている。鎌倉は行ったときが楽しい場所で、国許にそんな軟弱なものはもちかえらないのだ。」と河野眞知郎はいう。一方的に物資と情報とを西から、人を東から飲み込むだけ飲み込んで、東国に還流させなかったあり方を「鎌倉ブラックホール」とも河野眞知郎は論じている。
「鎌倉ブラックホール」論は現代にも通じるのではないか。東京が鎌倉に代わっただけで、地方は相変わらず人物金を東京に飲み込まれ枯渇していっている。「東京ブラックホール」が現代の姿である。東京の六本木ヒルズも、いつか鎌倉の3D化された中世の町並みと同じように遠く思い描くようになる時代があるかも知れない。(2006/3/12)