楽書快評
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書名 長州戦争
著者 野口武彦
初出 2006年 中公新書
 江戸に住んでいる人びとからみると長州戦争であり、長州に住んでいる人々からすると四境戦争である長州征討を、江戸に住んでいる側から描いたのが「長州戦争」である。江戸幕府の幕引きとなった長州戦争を、「江戸人」(こう野口武彦はいう)の気持ちでは「ヤラナキャヨカッタ」「キチントヤットキャヨカッタ」戦いであると述べる。この気持ちの因ってきたいわれを解き明かそうとしている。
 興味を持ったいくつかの点を取り上げてみたい。政治構想。そして、軍事である。
国司信濃の墓所 政治構想でいえば、徳川幕府を担う小栗上野介、栗本鋤雲などの若手官僚も卓越した構想を持っていた。「天子を亡ぼし諸侯を亡ぼし、天下郡県の世となし、大樹公を以って天下大統領となし、才智あるもの政を執るべきの論」(秋月右京亮「続再夢紀事」)徳川政権を維持した中での廃藩置県である。小栗上野介は承久の変に倣って天皇を廃してしまえとまで述べていたという。徳川幕府の権力を高めるためには、征長は当然であり、長州藩の弱体化のみならずできれば藩の解体がもっとも望ましい結果である。当時勘定奉行であった小栗上野介はフランスに接近し、6千人の幕府西洋歩兵隊と、横須賀に近代的な造船所の建設など、意欲的な近代化政策を実施した。もちろん、徳川幕府の首脳陣はそれ自体藩主であるから、小栗上野介の過激な構想である天下郡県・天下大統領制への保守的な反発は、想像を超えるものであっただろう。しかし、第1次征長は徳川幕府にとって成功裏に終わった。野口武彦は「若し幕府中枢がこの軍事的成果に満足し、次の政治的布石を適切に打っていたら、その後の幕末史はかなり流れを変えていたであろう。」と述べている。だが、歴史はそうとはならなかった。それは政治的軍事的な布石を打つのに時間がかかりすぎた。さらに、第2次征長への軍事的な実力が不足していた。
鹿児島城山より錦江湾を望む 対する雄藩の政治構想、軍事的な準備はどのような方向と速度で展開されたのであったか。1864年 元治元年9月1日、征長総督付参謀・西郷吉之助は徳川幕府軍艦奉行・勝海舟と会う。この会談によって西郷は状況把握の「図面が見えたに違いない。」選択肢は二つ。「共和政治か、しからずんば割拠か。『共和政治』は横井小楠に由来する用語で、雄藩諸侯の合議をいう。『割拠』とは、薩摩藩が《独立国家》化して単独で富国強兵を推し進めるコースである。薩摩藩においては、強兵への道は薩英戦争の敗北によって近代化が進められた。
太田・絵堂の戦い案内 第1次征長で戦わずに敗北した長州藩では保守派政権による急進派巨頭への弾圧が始まった。これを野口武彦は「第1次長州戦争は、徳川幕府が自分の側でやれなかった内部改革を長州側にやらせる結果になった。中枢部の新陳代謝である。対立し衝突する保守・急進両派にとって、敵側の家老クラスはお誂え向きのかく首要員ぐらいの感じだったところがある。」下関に亡命中であった高杉晋作が軍事クーデターに立ち上がる。秋吉台の東にある絵堂で激戦が起り、1865年元治217日未明に奇兵隊ほか急進派諸隊が保守派政権から派遣された鎮撫軍・選鋒隊を撃破して占拠。萩に向かって進軍して、椋梨藤太ら保守派は壊滅した。こうして藩権力を奪還した急進派は1865322日、毛利敬親をして藩是を明らかした。それは「割拠」と「外恭順・内武備充実」である。割拠は西郷の言葉にもあったように藩単位の独立国家化の方針である。蝋、紙、米、塩を藩営事業化して富国強兵の元手とし、田村蔵六を抜擢して兵制改革を断行。最新式の武器は坂本竜馬の斡旋で薩摩藩の名義による調達が可能となっていた。志願兵(ボランティア)を主体とする、最新式のエミュー銃によって武装された西洋式歩兵が歴史に躍り出た。
 このような割拠と武備充実を成し遂げた長州は同じような姿勢をとる薩摩との秘密同盟を結び、第2次征長を迎えた。長州四境において近代的な武備と軍制は戦いの行方を決した。そして雲州浜田城、及び小倉城が自焼するに及んで戦いは長州勝利、徳川幕府の敗北となった。その中で14代将軍徳川家茂が亡くなり、一橋慶喜が家督を継ぐこととなる。こうして慶喜が「ヤラナキャヨカッタ」戦争を終結させる。
 このような戦闘のなかでも芸州口では紀州藩水野忠幹に率いられたエミュー銃を持った歩兵と大砲門を持った部隊、及び幕府歩兵部隊は長州歩兵部隊と近代戦を戦うことができている。小倉口でも家老長岡監物に率いられた肥後細川藩五千は銃砲で武装していた。さらに幕府千人隊(八王子同心・江川太郎左衛門領)が詰め、勝海舟が作りあげた優勢な幕府海軍も配備されていた。だが、小倉口では戦闘意欲に欠けた対応をおこない小倉城自焼にまで追い詰められた。部分的に実現していた近代的な軍事システムが、機能すれば長州一藩の兵力にはひけをとらなかったとも思える。その点では「キチントヤットキャヨカッタ」戦いでもある。
 政治構想と近代的な軍事システムが噛み合った尊王開国派が勝利を収め、公武合体開国に留まり天下郡県・天下大統領制までに意見を集約できながった側は敗北した。長州戦争は「ヤラナキャヨカッタ」ものであろうが、やらなかったからといって新たな政治構想へ集約できた可能性はやはり低いのではないか。勝海舟が再び政治の舞台に登場したのは江戸城無血開城という政治構想と無縁の場所でしかなかった。徳川幕府の中枢部の新陳代謝は残念ながら進まなかったのである。(2006/4/8)
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