楽書快評
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0115
書名 金沢
著者 吉田健一
初出 1973年 「文藝」4月
武家屋敷跡 金沢は美しいまちである。美しさの源は、加賀一揆を弾圧して生まれた北陸の封建制度である。今から30余年前の金沢のまちを吉田健一はひとつの小説に仕立てようとした。
 東京の屑鉄問屋の主である内山が主人公である。金沢の犀川沿いの高台に一軒の家を持ったところから、金沢での飲み歩きが始まる。現実の金沢なのか幻想の中のシーンなのか不明な描写は酒席から始まる。ほとんどのシーンが酒席での会話と飲んだ頭で考え付いた「高尚」な会話と幻影とである。呼ばれて飲む相手も金沢の名士であるようでもあるが、よく分からない。飲む相手も素性がよく分からないだけでなく、主人公の内山もよく分からない。高尚でありそうで、また俗物であるようでもある。高尚といい俗物といい、実は同じことであるかもしれない。金沢を舞台とした描写は、朦朧とした切れ目のない文章で続く。
 酒席でない場面を取り上げてみよう。兼六園内にある成巽閣を内山が訪れて2階の群青の壁を見たところである。「それは店の主人が言った通り余り大きな部屋ではなくて何か後世の事情でそこだけが絨毯を敷いて洋風の家具が置いてあったが眼にはその群青の壁しか入らなかった。一体に東京辺りで青空と言えば先ず頭に浮ぶのはそういう湿度の関係であってそれがヨーロッパ、或は日本でも南国になれば空が澄み渡って青いの少しも冷たい感じを与えないのが秋に限ったことでなくて青空が拡がる所にそれは温い色で輝いている。それでその下の海も青くて海でなくて川が流れているならばその岸の木が緑を濃くしてその色の取り合わせが華美に思われる代わりに日光が酔っている印象に徹して澄んで来る。その部屋の青がそうだった。そこだけが曇っている時には明るいならばそこの壁が影を増すのに相違なくてそれ程その光沢が裏日本のとは別な空の色に属していた。そしてそれからどうなったのか。その群青の空の色に変わって拡がった。」幻想はフランスあるいはフランス風の雰囲気の中に入り込む。「内山はヨーロッパの春が熱とともに色を取り戻すのだということに思い当たった。それだから空も群青になる。」的を射た表現でもあるようで、また的の縁をぐるっとめぐるだけの表現でもあるようだ。
雪囲い 切れ目のない文章と、描かれる対象のあいまさの一端を引用から理解できだと思う。極端に少ない句読点。「それ」「その」という言葉の多出。曖昧な文章になるのは当然である。この曖昧さによって、金沢を舞台としたユートピア(東洋的な無為自然)が描けたのであると分析するのは講談社文芸文庫版の解説「稀有なユートピア小説」での四方田犬彦である。「この今日に稀有なるユートピア小説が産まれたのであって、その根底にあったのは都市を再現し、そのあり方を表象しようとする意志であるというよりも、むしろこの旧都に流れている朦朧として緩慢な時間、あるかないかわからぬままに経過してゆく不可思議な時間にどこまでも身を委ねていきたいという欲求であったように思われる。」「若くしてイギリスに学び、ヨーロッパ文学をめぐって自在な教養を身につけた吉田健一が、こうした東洋的な無為自然を旨とする長編を残したという事実は、それ自体がもはや裏表の区別もつかなくなった、途方もない自己韜晦であるかのような印象を与える。」
 四方田犬彦は苦しい解説をしているように感じられる。金沢を時たま訪れる成金が、懐古趣味を満喫しているような状況設定にもかかわらず、金沢の旦那衆とともに「東洋的な無為自然」の境地を実現しているように思わせる文章を長々と書いただけではないか。現実の金沢は古都のイメージを損なわず近代都市の様相を整えるための不断の努力が行われているが、それは吉田健一の関知するところではない。主人公内山は東洋的隠者ではなく、東京を拠点に全国を駆け回る実業家であり、好く言って趣味人である。交わされる会話の空虚さ。知識や教養が加味されればされるほど、しまりのない描写となる。金沢を舞台としながら、吉田健一は別のモノを見ているようである。これは小説ではない。いわば趣味の小箱であろうか。
 その理由を四方田犬彦は遠まわしに暗示する。つまり、吉田健一が趣味の小箱のヒントにした「寺町の『つば甚』が古の前田侯墓参時の休憩所を契機として発展したことからもわかるように、犀川を見下す視座は伝統的な武士階級によって築きあげられ、洗練されてきた。・・・『金沢』でもっぱら言及されているのは犀川、それも高所からの見晴らしのよさであって、浅野川は不当に無視されている。ここに吉田茂と牧野伸顕の血を引く明治年生の文学者の感受性の枠組みを見ることができるかもしれない。」それならば四方田犬彦のいう「稀有なるユートピア小説」も明治の支配者の一族の理想郷が描かれたことになろう。中国の水墨画の脇に、西洋アンチークを飾る体の理想郷である。「途方もない自己韜晦」ではなく、あるとすれば父吉田茂をはじめ自らの家系に向けての複合的な意識(コンプレックス)であろう。
 牧野伸顕は大久保利通の次男。アメリカに留学した後1879年外務省に入省した。イタリア、オーストリア公使歴任ののち文部大臣や外務大臣を歴任した。226事件では襲撃を受けている。牧野伸顕の長女雪子が吉田茂に嫁いで生まれたのが吉田健一である。吉田健一は「母について」という文章で、パリでの思い出を書いている。「或る晩のこと、母が夜会の服装をしてどこかに出掛けることになつて、その真紅のビロードの服に眼を奪われた。女といふのが美しいものであることをその時始めて知つた。」この文章は「金沢」と違い吉田健一の感情を的確に描いている。西欧への同化を美しいものとして、曖昧なところはない。対象との距離もしっかりと安定していることで、表現もくっきりとしたものとなっている。
 父・吉田茂は高知県宿毛の自由民権活動家して著名な竹内綱の5男で、吉田家に養子に入り、東京帝大卒業後は外務省に入省、外交官の経歴を踏んだ。
 金沢を作った前田侯のような戦国時代からの支配階級ではなく、同じ武士階級出身とは言っても明治維新後に支配階級に属した薩土の新興の家系であった。金沢のような歴史的な重みを持っていないのである。この家系は英語が堪能で、外交畑を歩むことによって国内政治の支配階級に参画する。英文学者・翻訳家そして食通として名前の高かった吉田健一は、このような家系から自分の文学の業績を述べられるのは心苦しいことであったであろう。だが、「金沢」で成巽閣の青壁からヨーロッパの幻影をつむぎ出す強引さは家系の文学的な表出ではないか。また、長々と続く朦朧とした文章は東洋的な言語感覚の不足を現しているとも思える。(2006/4/16)