楽書快評
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0116
書名 もしもし山崎方代ですが
著者 山崎方代
初出 2004年 かまくら春秋社
ふるさとの右左口村は骨壷の底にゆられてわが帰る村
 いい歌である。左右口は「うばぐち」と読む。心が帰る山梨の寒村には父母の思いも詰まっている。やまざきほうだい、と読む。母が48、父が60を越したときの子どもで、生き放題、死に放題の方代と命名したそうである。「年譜」によると1943年、チモール島クーパンの戦闘で右目を失明、左目も視力が0.01となるも、再び戦場に戻る。そのとき受けた砲弾の破片は頭に止まっていた。「砲弾の破片のうずくこめかみに土瓶の尻をのせて冷やせり」と歌う。山崎方代は生卵が好きだったようだ。滋養強壮、それだけではない。こんな歌も歌う。「みごとな卵である 鉄砲玉もとほらない・・・・」
 傷痍軍人であった山崎方代に定職は難しかったのであろう。放浪の末に、山崎方代は58歳のとき、鎌倉手広に草庵を結ぶ。そして、71歳、1985年に心不全で亡くなると、気に入りであった鎌倉瑞泉寺にて通夜・葬儀が行われた。
瑞泉寺石庭 瑞泉寺について山崎方代は次のように書いている。「風は6月の候である。鹿おどしの筧の竹の音をききとめながら石段をゆっくりとすすんでいくと、山門前の左側に吉田寅次郎の碑と竝んで吉野秀雄先生の歌碑がしっとりと雨にぬれている。石文の面は古りて白い杉苔のような苔が生えひろがって花さえつけている。・・・この書院庭園は一枚の鎌倉石からなり、風雪のたくみがかなづる彫の深い東洋一の作庭であると思っている。そがいの十八曲のそば路をもつ錦屏山は正にヒマラヤ山脈のそしりを受けているかのようだ。卯の花おどしのうの花が白く咲いている。錦屏山瑞泉寺、この寺の創建作園は夢窓国師である。夢窓疎石は甲斐の国の東八代郡右左口村字心経寺の生まれで安国寺の住職であった。瑞泉寺の住職木下豊道和尚さんがある日、お前は夢窓疎石の落とし子ではないかとくすぐられて顔を赤くしたことがあった。」土砂に埋まっていた一枚岩の作園が300年の空白を越えて掘り出された当時の思い出を語りながら、この庭の様子を「地獄の庭から呼びかけてくる声」と山崎方代は聞いている。瑞泉寺の2月の頃の歌を見てみよう。
したたれる左手首かかげてすすみゆく渕のほとりの鐘さびにけり
冬の日が園に溜って赤いので両手でそっと掬いあげてみる
 ぶっきらぼうな表現のなかから、空気の温度が伝わってくる。そして心の温度も。長い放浪生活の末に住み着いた鎌倉手広の新興街は性にあったようである。「六畳一間の住いの裏は鎌倉山であるが、庭は広い。一丁先の青蓮寺鎖大師の庭の広さの一部とみなしているからである。・・・銀杏拾いは熊野神社、榧の実拾いは鎖大師である、どんぐり遊びの団栗拾いは鎌倉山である。何から何まで、御八ツあそびはことかかないように出きていてたのしい。・・・拾い集めた銀杏の実をビニールの袋に下げて、角の守田屋さんで立飲みである。一ぱいのコップの中の酒と一丁の豆腐の前の、精一ぱいの私の人生でござりまするよ。守田酒店を出ると、今もわずかに残っている古い鎌倉の往還で土の路である。両側は田圃で、路のへりには彼岸を迎えるために曼珠沙華の花ざかりである。咲きつらなる赤い花と稲穂とが重くかさなり合って秋の日をはねかしていた。」曼珠沙華は地方によってさまざまな呼び方があるようだ。キツネバナもそのひとつ。山崎方代は「あかあかとほほけて咲けるキツネバナ死んでしまえば死にっきりだよ」と歌う。曼珠沙華はやはり自分の死を思いださせる。「死んでしまえば死にっきり」ではなく「だよ」がついているところがいい。
 鎌倉山の側の手広に草庵を結んだ山崎方代は鎌倉の歌をたくさん残している。草庵から覗いた風景であろうか。「冬がれの小枝に下がりゆられいるみの虫ほどの安定もなし」「一日に一食をとり籠り居ると春の朝日が射し込んで来た」「こんな所に鎌倉郡りの道があり鞍掛稲の匂いしるしも」
 人は世俗の欲に悩まされ、人生の瑣事に追われて歳月のみが過ぎていく。山崎方代のようには生きられない。「生き放題、死に放題の方代」もそれを行うには精神的なタフさが必要であっただろう。(2006/4/22)