楽書快評
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書名 鎌倉極楽寺九十一番地
著者 中山日女子
初出 1992年 講談社
極楽寺山門 母に叱られた記憶である。「私が今も忘れられないほど叱られたのは、上林暁さんのことでだった。父が亡くなったあと、いろいろな方が母にお見舞いの手紙を下さったが、ある日郵便受けに奇妙な手紙を見つけた私は、『ねえ、ねえ、見て。上林暁さんてまるで子供のような字なのねえ』と笑いながら母に手紙を手渡した。封筒は上質の和紙だったが、宛名も差し出し人も鉛筆でヨタヨタとした字で、まっすぐでなく、斜めに倒れそうに書いてあった。母は私を厳しく見つめながら、『そんな軽薄な娘に育てたおぼえはありませんっ』といい放った。『上林さんはね、御病気なのよ。執筆も口述なさっていらしていらっしゃるのよ。そんな方がわざわざ一字一字を大変な努力を払って書いて下さったその御親切が、あなたにはわからないのっ』私は母の見幕に気圧されながら、『でも・・・御病気って知らなかったのですもの・・・』と力なくいいわけをした。『御病気を知らなくたって、高名な方が鉛筆でこんな弱々しい曲がった字を書いていらっしゃるのを見たら、察しがつくというものじゃないのっ。そこまで考えないでものをいうあなたがあさはかですっ。情けない。』本当にそうだったのだ。私は軽薄、あさはか、と指摘されたことが骨身にしみて恥ずかしくて、今でも思い出すと顔が赤らむ。思慮の足りない欠点は今だに直っていない。」
 このような記憶を持つ者は幸せである。著者を叱った母・すみは著者によって「のん気で、真面目で、善良で、愚直なまでに誠実な人」と評されている。「父の先妻と母は同じ町内の出身だった。私の姉の結婚式に出席する赤田さんのおばあさんを、母は鎌倉まで送って来たのだ。母は都内で習い事をしていて、東京の地理に詳しかった。会津から出たことのない老婦人を鎌倉まで送り届けた母の荷物を、父は無法にも押えてしまって、母を帰そうとしなかった。途方にくれた母に、父は結婚を申し込んだ。」会津の大地主で貴族院議員の家庭に育った母は旧会津藩主松平容保公の写真を持って、水戸天狗党の浪人の孫である歳が大きく違う父のもとに嫁いでくることになった。
 父・中山議秀は福島県西白河郡大屋村の水車小屋に生まれた。中山日女子の曽祖父は幕末に天狗党に加わり、逃れて山奥の滑里川という集落に落ち着いた。このことを「碑」という小説で描いている。次男であった祖父・竹蔵は寄居宿の本陣の娘だった祖母スイと結婚して大屋村の水車小屋で水車業を営む。よそ者として仲間はずれにあいながら、無学な祖父は祖母に字を学び一代で白河屈指の大地主になりあがっていった。その竹蔵とスイの三男として議秀は生まれた。東京の大学を出た議秀はペンネーム中山義秀を名乗り「厚物咲」で芥川賞を受賞した。この間、極貧と無頼とによって先妻や子供を失った。その後も、鎌倉極楽寺に住みながら泥酔の毎日をおくる。娘・日女子や飼い犬を伴って飲みに鎌倉の町まで出かけることがあった。そして連れて行ったことさえ忘れて帰ってしまうこともあった。「父は子供どころか犬まで忘れてきたことがあった。実によくできた犬で、江ノ電に乗って帰って来た。乗客の中に、『中山さんの犬』と見分けた人がいて、極楽寺の駅で降ろしてくれたのだろう。」
極楽寺駅前の小川 敗戦後の混沌とした世の中を筆一本でのし上ろうとするエネルギーが無頼の姿をとって現われている。だが、鎌倉文士として戦後のまもなくを生きた人びともすでにいない。中山義秀をはじめ大岡昇平などたくさんの人物が「鎌倉極楽寺九十一番地」には現われ去っていった。父の死後5年、母も五月の夜半「脳の血管が切れたのだと思うわ。・・・・すまないわねえ」といって突然に死んでいった。人の姿を描きながらその心の姿まで感じさせる文章を書くのは至難の業である。中山日女子の「鎌倉極楽寺九十一番地」は無頼の父の孤独と母の誠実さが伝わってくるみごとな文章である。
 先日、江ノ電極楽寺の駅を降りて坂道を登っていくと、大きな昆布を背負った女の方が坂を下ってくるのに出合った。ともに歩いていた妻と息子と互いに目を交わした。この「鎌倉極楽寺九十一番地」を読んでその謎が解けた。父との思い出が書かれた「十字架を背負って」の章。「小さい頃から、歩いて十分ばかりの稲村ヶ崎の海辺を連れられて歩いたが、その頃の父は、私の幼いことなど無頓着だった。180センチの長身の歩幅で、どんなに急いで歩いても、子供に追いつけるものではなかった。」とある。旅人は地理が分からない。極楽寺は坂を隔てて稲村ヶ崎から10分の距離でしかないことが分かり、昆布の謎が解けたのである(2006/4/29)
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