トップページに戻る
書名 頼朝の死
著者 船山馨
初出 1955年 小説新潮
鎌倉の海(光明寺裏山より) 源頼朝の死については謎に包まれている。いわば鎌倉幕府の公式史料である「吾妻鏡」にも直接に源頼朝の死を扱うことはなく、稲毛重成の亡妻のための橋供養を営んだ記事に付随して描かれているのみである。不思議なことである。従って、武士が馬から落ちて、それが為に死ぬことことがありえないとして、暗殺説などたくさんの疑問がでている。船山馨は「頼朝の死」では俗説の一つである亡霊を取り上げて短編小説とした。
 御家人稲毛重成の亡妻は、北条時政の娘であり、政子の実妹である。脇役で出てくる畠山重忠も政子の実妹を得ている。皆、鎌倉御家人という狭い世間の中で身を守るために政治的な血縁を網を幾重にも重ねる。相模川の橋供養にわざわざ源頼朝が出向いたのも親族であるからだ。
稲村ヶ崎 その帰りのことである。稲村ヶ崎の見える海辺の道で「頼朝は烈風の中に馬をとめて、眼まばたきの消えた眼を据えて、じっと海を睨んでいたが、その眼の熱を帯びた病的な輝きのなかに、ありありと恐怖の色が宿っていた。手綱を握ったまま、時折り拳が痙攣していた。」それは亡霊を見たためであった。波間に「平家の亡者度どもじゃ。先帝が二位禅尼に抱かれて負わす。知盛、教盛、教経らもおる。宗盛親子もおるぞ。」そして稲瀬川を渡ってまもなく、「おのれ、参河に、伊予、うぬもか、義高」と叫びながら「竿立ちになった鬼鹿毛の背から、逆落しに頭から地に墜ちる頼朝の、風に袴を剥がれた二本の足が、くろずんだ空間に一瞬の弧を描くのが灼きついた。」と船山馨は描写する。先帝は壇ノ浦に沈んだ安徳天皇、知盛、教盛、教経、宗盛はいずれも平家の一族。参河とは弟三河守範頼、伊予とは伊予守義経、義高とは娘大姫の婚約者であり木曽義仲の息子である。「死者の幻影が、病み衰えた頼朝の心を襲ったのであろう」と説いている。
 船山馨はこれ以上幻影については推論を深めない。死期を悟った源頼朝、その妻政子、そして北条一族の思惑に筆がすすむ。源頼朝は死の床にあって平家のみならず親族の犠牲の上に握った「鎌倉の権力」について思い沈む。「いまとなってみると、犠牲の大きさ、痛ましさ、虚しさばかりが心にひろがっていて、なにひとつ、得たという実感のないのはどうしたことなのであろうか。こんなはずではなかったのに、ただ厖大な呵責だけを背負って、無一物のまま死んでゆこうとしている自分を発見してしまった。」
 死の床に横たわる源頼朝の前では、生存中に自分たちの足場を築いておきたい北条氏一門の暗躍が続く。病気に臥せっている大姫を宮廷に入れる工作、平家の嫡流「六代」の処分の決断を北条時政、政子が迫る。自分の死を悼むのではなく、生き死にが政治の道具にされる姿を見て、虚しさの依ってくる訳に思い至る。近くにさぶろう和田義盛、畠山重忠に源氏の世にこだわらぬように諭す。「そのようなことに、こだわるなと申すのじゃ。人は権力などと無関係に暮らせれば、それがなによりじゃ。」このおもいはしかし、誰にも理解されぬままに亡くなる。「建久十年一月十三日寅の刻(午後四時ころ)のことである。五十三歳であった。」と小説は結ばれている。小説の終わり近く、医者の診断さえ母政子の政治的な思惑から受けさせてもらえない大姫の姿は、源頼朝の子どもたちの暗い未来を暗示させる。事実、源氏嫡流は頼家、実朝しか続かず、それも母政子と北条一門による政略のよるものであった。鎌倉の権力は内から食いつぶされていった。そして中世的にタフな一族が鎌倉幕府の実権を握るに至った。もう一つタフな三浦一族の族滅によって北条得宗支配が完成した。
 船山馨の描きたかった源頼朝像は政治的人間になりきれなかった権力者の姿である。権力に上り詰めるために政敵や親族を倒してきた虚しさが亡者の幻影を引き寄せ、幻影が政治的な策謀以外に何物も自分の身の回りにないことを悟らせる。深い絶望のみが源頼朝の死を招きよせた。これは一つの近代的な頼朝解釈である。(2006/5/7)
0118
楽書快評