
書名 魔群の通過
著者 山田風太郎
初出 1978年 光文社
水戸には「水戸っぽ」という言葉がある。土佐のいぞっこなどと同じ雰囲気のことばである。ただ、骨っぽいのではなく、水戸っぽには思想好きが一面にあり、それが悲劇を引き起こす。水戸藩は水戸光圀以来の尊皇思想の盛んな藩であった。他方では紀州、尾張とともに徳川幕府の親藩中の親藩という位置にもあった。尊皇敬幕として江戸時代を過ごしてきた。幕末において会沢正志斎の「新論」は尊皇敬幕の立場から攘夷を迫った歴史回転の書物である。尊皇敬幕・攘夷断行というイデオロギッシュな鎧をまとってりきみかえったのが幕末の水戸っぽの姿であった。今日から見れば、尊皇と佐幕とが分裂した時代状況にイデオロギーが遅れても、なお墨守した人々の間で、わずかな相違に血で血を洗う内部抗争を展開して自滅した藩というイメージが定着している。
元治元年、水戸天狗党が一橋慶喜を慕って、中仙道を長征した史実を「魔群の通過」と、山田風太郎は見なした。藤田東湖の子・小四郎に先導された水戸藩の勤王激派・天狗党が佐幕派(諸生党)と田沼玄蕃頭意尊(おきたか)指揮下の幕府軍との攻防戦の後、関東平野を横断して中仙道に入り一旦は京に向かうも最終的には加賀藩経由で京に赴く途中、ついに降伏、やがて敦賀の鰊小屋に詰め込まれて、斬首される過程を、丁寧に描いたものである。山田風太郎がこの魔群にどのような思い入れをしたのか。山田風太郎といえば風魔など忍者物が有名であるが、実は明治の史実を踏み台にして縦横無尽に、暗い絵巻物(明治物)を広げる達人である。特に自由民権運動における思想性から人間を道具としか見ない非人間的な一面を繰り返して描いている。「魔群の通過」でも長征を踏み台にして、人々の暗い心を絵巻物に広げたと、みえる。
小説の構成は、天狗党の長征後30年が経った敦賀の地で、いまは福井地方裁判所判事となっている武田猛が敦賀史談会の求めに応じて講演するというスタイルで絵巻物が広げられる。魔群が通過する都度におこる在地の人々との喜悲劇を縦糸に、若年寄田沼の妾おゆん、佐幕派の首領・市川三左衛門の娘登世と武田耕雲斎の末子源五郎(猛)と同じく耕雲斎の長男彦右衛門の子金次郎との心模様を横糸に、不幸せな人々の運命を抉るように描いている。人質としておゆん、登世とが長征に連れて行かれ、彼女らの世話を年若い源五郎や金次郎が行うなかで物語の横糸がつむがれていく。思想が嫌いな山田風太郎は希望が打ち砕かれ不幸せな運命に陥っていく人々をことさらに描くのが好きである。
「『尊皇攘夷』の旗は風になびくボロとなり、もうわらじも手にはいらず、凍傷をふせぐために布きれを巻いた足は、みな泳ぐようでありました。全員の頭には、もう尊皇攘夷などかき消え、いったい何のためにどこへゆこうとしてるのかわからなくなり、はては、これはこの世のことでなく、みずから亡者の行進ではあるまいか、と思われて来るほどでございました。そしてわれわれは十一日、木ノ芽峠を越えました。」ここで一橋慶喜の指示により加賀、彦根、桑名、小浜など3万の藩兵が千名の天狗党に立ちはだかった。加賀藩馬廻り役、現天狗党討伐軍軍監・永原甚七郎の説得により、武田耕雲斎の「慶喜さまにはお手向かいできぬよ」という言葉が改めて発せられて無条件降伏をする。物語の佳境はここからである。永原甚七郎はじめ加賀藩は降伏した天狗党に対して赤穂浪士を預かった細川藩のように義士として丁重に扱った。だが、一橋慶喜は自らの保身のために、慕って長征してきた水戸天狗党に敵対し、ついには若年寄田沼意尊に身柄を委ねる判断を下した。こうして加賀藩から引きはがされ、小浜の鰊倉に押し込められることとなる。幕命を伝えた永原甚七郎は後、慚愧の念から精神異常を呈したと山田風太郎は描いている。また、武田魁介(武田耕雲斎次男)は「梅鉢の花の匂いに浮かされてわが身の果てを知らぬつたなさ」とくちずさんだとされている。梅鉢は加賀前田家の家紋である。山田風太郎は、この永原甚七郎について武田猛の口を借りて、「千人の天狗党にまさる真の武士の花」と語っている。思想によって凝り固まった人の非人間性を追求する山田風太郎は(小説の中でおゆんは藤田小四郎に対して罵声を浴びせる「金も出世も、家族も忘れて、ただ尊皇やら攘夷やら念仏みたいに唱えて、火をつけ、人を殺し、きちがいのように駈けまわっている男たち。その熱病に水をかけてやろう。いえ、だれよりも藤田さん、あなたを憑きものからひき離してやろう、と――」。)、逆に立場を越えて人間味をもってことに当たる永原甚七郎は好みの人物である。
2月1日、永覚寺境内で田沼意尊による判決が下された。斬罪352人、遠島101人、水戸藩引渡し130人という過酷な内容であった。「日本の刑罰史上でも、戦国時代は知らず、徳川期にはいってからは、一挙に352人死刑に処せられたという事件は他に聞いたことがありません。」というものである。その境内での天狗党軍師山国兵部と佐幕派市川三左衛門とのやりとりが次の暗い絵巻物の展開を暗示させる。「勝負あったな」という市川に対して山国は「ふくろうみたいな声で笑いました。『話は逆になるが、見よ、お前らの大将結城寅寿が死んだとて、お前ら奸党は結構生き返って来たのではないか。―――地上にそっくり同じことが繰り返しては起こらんが、どうせたがいに似たような人間のやることじゃから、似たようなことが起こるんじゃ』」
市川三左衛門は小浜で天狗党の息の根を止めた後、水戸に帰っては赤沼牢に閉じこめていた天狗党関係者を処刑する。武田耕雲斎の妻は、塩漬けにされた夫の首を膝に抱かされたままに首を切り落とされ、源五郎の弟たち10歳の桃丸、3歳の金吾も斬首されている。この他牢に入れらていなかった天狗党関係者にも粛正の嵐が吹き荒れた。諸生党には加増の大盤振る舞いが行われて我が世の春となった。
しかし、春はわずか3年しか持たなかった。慶応4年、明治元年、小浜藩預かりの天狗党残党(遠島が引き延ばしにされていた)に官軍としての出勤が命じられた。21歳になっていた武田金次郎は水戸に官軍として乗り込んだ。そして赤山牢につながれていた天狗党の家族を救い出すとともに、諸生党への報復をはじめる。百数十人が諸生党の残党として切り捨てられた。それを山田風太郎は「奸党一掃。――それはまさに流血の大交響楽でございました。」と武田猛に言わせている。その直前、市川三左衛門は諸生党1500人を引き連れて奥州へ長征を行う。会津藩や長岡藩ととともに新政府への徹底抗戦を行い、また間隙をぬって水戸城奪回作戦も敢行する。だが、反撃もここまでであった。歴史の歯車は後戻りにはならなかった。その後も一人逃亡した市川三左衛門もついには捕縛され、逆さに磔を行うという中で、娘登世をはじめ市川の家族の前で武田金次郎の命令で処刑された。それは敦賀で武田耕雲斎をはじめ一族が目の前で殺された処刑の繰り返しである。その時、市川三左衛門は「金治郎っ・・・勝負は、まだじゃっ」と咆哮したと描かれている。
狗党と諸生党との徹底粛正の繰り返しは、幕末初期には思想的にも運動上も日本の中心にあった水戸藩にあって人材を枯渇させ、明治になってからは何もない不思議な地域となってしまった。「ご承知のごとく、彼らは屠殺され、日本は攘夷などどこの話かという顔で明治の幕をあけた。そしてその後もつづいた、水戸の内部の惨劇は、攘夷もイデオロギーもない、血で血を洗う復讐ごっこの反覆で、あとにはだれもいなくなった。人事すべては空とは地上の相のならいではありましょうが、それにしても、これほど徹底して見当ちがいのエネルギーの浪費、これほど虚しい人間群の血と涙の例が、未来を知らず、少なくともこれまでの歴史上ほかにあったろうか」と武田猛は嘆いている。
さて、小説も終わりに近づいた。市川三左衛門がこだわった勝負はもう思想の次元とは関係ないものとなった。裁判所判事・武田猛が明治の世になって取り扱った事件が老行商人に零落した武田金次郎と老女郎となった登世の死であった。「あれは明治最後の仇討ちではない。最後の復讐ごっこではない。時と場所こそちがえ、あれはまさしく哀切な心中にまちがいなかったと」と武田猛がのべるのが最後の句である。報復の連鎖から哀切な心中に読み替えることで、山田風太郎は「魔群の通過」を終わろうとした。そこに暗い絵巻物の救いを見出そうとしたのであろうか。
山田風太郎にどのような人生の屈託があったのかは知らない。繰り返し語られる思想に殉じる人々への嫌悪は、かえって山田風太郎のコンプレックスを伺わせる。魔群という言葉自体に思想にいかれて、好き放題に行って自滅した人々というニュアンスが濃く、魔群に投じた人々への哀切さは感じられない。酷ではないか、と思う。幕末に門外不出の書であった「新論」が密かに書き写されて全国の活動家の思想的なバックボーンとなっていった水戸学思想波及の凄みと、その思想主体たち武田耕雲斉達の悲劇的な結末をと二つながら描いた小説を望むものである。(2006/5/13)
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