楽書快評
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書名 日本の古代語を探る
著者 西郷信綱
初出2005年3月 集英社新書
 11の言葉の発見の旅が「日本の古代語を探る」に載せられている。日本の古代語という言い方自体が矛盾しているようにも思える。中国渡来の漢字に表記される以前の日本語を「古代語」というのかどうか。記紀に表記された言葉が古代語そのものとは西郷信綱は断言はしていない。だが、矛盾は矛盾として西郷信綱の言葉の旅は新鮮な旅である。「タビ」(旅)という語の由来という章がある。
 「万葉集」から「鶴(たづ)が音(ね)の 聞こゆる田居(たゐ)に 庵りして 我旅なりと 妹に告げこそ」などの歌を引用しながら、旅が実は近くの門田ではなく遠くの山田に耕作にいくこと、そして山田の近くに庵(粗末な掘っ立て小屋)を建てて、そこに寝起きをすることを「旅」と言ったのではないか、と西郷信綱は推断する。旅の「古い原点」を発見する西郷信綱の手並みは見事である。そして「タビ」の語源を生み出す要素として「タブセ」を取り上げている。「唐臼は 田庵(たぶせ)のもとに わが背子は にふぶに咲(ゑ)みて 立ちませり見ゆ」を引用している。田庵は田のそばの庵、フセは伏せらなければ入れないほどの狭い庵の謂い。田庵の傍でウスを引いていた夫は、会いに来た妻の姿を目に留めて手を止めにっこり笑いながらお立ちになったのが見える、のが歌の意味である。このタブセとタビとは不可分であると微妙な言い方をしているが、農耕民の生活の中から古代語を見出そうとしている西郷信綱の姿勢は感銘する。
 タビを山田の耕作と結びつけると「万葉集」の中の有名な東歌「我が恋は まさかもかなし 草枕 多胡の入野の 奥もかなしも」に出てくる旅の枕詞である草枕も分かるのではないか。西郷信綱が解釈した歌の意味は「わたしの恋は 今もせつない 〔草枕〕多胡の入野の おく−将来もせつないことだろう」である。多胡は上野国(群馬県)の一郡であり渡来人が切り開いたことから多胡の地名が生まれた場所である。ここにある多胡碑は宮城県の多賀城碑、那須の那須国造碑とともに三碑といわれている。地方にあって文化の開けた地域であった。入野は新しく開墾した奥の山田である。遠くと奥とが重なりながら、山田の庵へいく旅が言葉の中に含まれ、そこから自然に「草枕」という枕詞が使われる。西郷信綱が言うように、草枕に対比するのが家で共寝の妻の手枕である。
 多胡のある上野は上毛野国の省略である。下野(栃木)とともに律令時代以降、毛の国といわれた。毛について西郷信綱はまた画期的な読みをおこなう。「木は大地の毛である」と喝破した。今の鬼怒川が毛野河と呼ばれていたことは知られたことであるが、なぜ「ケ」が「キ」となるのか、そこを西郷信綱は明らかにしていく。木は大地に生えている毛にほかならないと古代では考えられていたとする。スサノオが韓国に渡って「乃ち鬚髯を抜きて放つ。即ち杉に成る。又、胸の毛を抜きて放つ。是、檜に成る。尻の毛は、是槙に成る。眉の毛は是樟に成る。」との話を土台にしながら、「古代ではキ音と、ケ音とは同類で、互いに交換しあう関係にあった」とも分析している。毛野国は木の国である。上毛野、下毛野氏は祖を豊木入日子命といい、その父は崇神天皇(御真木入日子印恵命)であり、その母は木国造の娘である。きわめて木国(紀州)との関連の深い一族とも思える。西郷信綱は毛野氏の系譜を引用するが、さらに木国との関連伝承には深入りしていない。それでも、毛と木との関連は充分に納得ができる。「木は大地の毛なのだ」と口の中でつぶやくと見える世界が違ってくる。
 毛野国も含めて東国は東夷の国である。西郷信綱は「方位のことば」においてアズマのツマは「着物の褄や建物の端とか爪さきなど、ものの端を意味する語」と述べる。近畿に盤踞する律令国家の中枢からみればアズマは辺境地帯である端であった。吾妻が蝦夷と接する辺境あるならば、また隼人がいるサツマ(薩摩)も辺境のツマであった。アもサも接頭語であり、両極をツマとする律令国家の価値観が言葉として現代の私たちをも規定している。この構造を改めて認識されることが「日本の古代語を探る」目的でもある。
 西郷信綱は農耕民との関係を重要視する。したがって稲作については強い関心を示す。「『豊葦原水穂国』とは何か」という章は西郷信綱の関心の集約が現れている。稲作は日本列島の生態系の連続性に乗っているというのだ。それは1994年の雑誌『世界』の座談記録で唯是康彦氏の発言「水田というのは、日本の生態系の中でつくられてきたのもだと思います。湿地帯でアシが生えていた。そのアシがもっていた生態系が等価交換として米に置き換わった。全然生態系をこわさないで食糧増産ができた。湿地帯が水田となって、雨が降っても洪水を防ぎ、温度を緩和したり、ひとつの意味を持っていた。」に西郷信綱が「胸のおどろくのを押さえることができなかった」体験に明らかである。西郷信綱は生態系の連続性にいたく興味を抱いたらしく、葦から稲へのすみやかな移行を夢想する。
 葦原を切り開いて稲田を作ったという唯一の記事である「常陸風土記」の行方郡の「夜刀(やと)の神」の話を取り上げている。なめかたのかたは霞ヶ浦から入り込んだ潟である。葦の生える谷地が水田化され、角のある蛇である「夜刀」つまる谷戸(谷口)の神がそれに反対して耕作を妨げた故事である。水田化することの困難さを在地の地霊の反発とみなしたのか、それとも非耕作民の狩猟空間の侵略への反発を「夜刀の神」に表象したのかは分からないが、この記述では生態系のすみやかな変換の事例とは見えない。だが、西郷信綱は豊葦原水穂国の言葉が、葦原が水穂に変換されて豊かな国となる予定調和的な感慨のうちに筆をすすめている。予定調和的に「葦と稲とは同じ生態系にぞくしているけれど、葦が未開の自然であり混沌であるのにたいし、稲は人の手の栽培になる文化であり秩序であるという対抗関係も同時にそこには存する。こうした二重性を『豊』という祝辞でめでたく一語に織りなしたところに、『豊葦原水穂国』という語の独自性がある。」とみ、また「『豊葦原水穂国』という語はこの国における王制の開始を神話的に告げる語にほかならぬ」と結んで良いものなのか、不安に思う。大陸や半島からもたらされた組織的な生産・米作は組織された政治体系をも不可分にもたらした。それは日本列島の生態系、それには先住民も含まれるが、を壊さずに等価交換されたものなのかどうか、律令政治による記紀編修以前の民の暮らしと言葉へのアプローチを心がける西郷信綱に改めて、「本当にそうなのか」聞いてみたいところである。
 「日本の古代語を探る」は副題に「詩学への道」とある。感受性を大切にした言葉への接近であろうか。意欲的な古代語への探求には敬意を禁じ得ない。(2006/5/22)
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