書名 我が愛する詩人の伝記
著者 室生犀星
初出 1958年 中央公論社
室生犀星で思い出されるのは「蝉頃」という詩である。40年余前には中学の教科書に載っていたと記憶している。夏の季節感を感じさせる詩として選ばれたのであろうか。
いづことしなく
しいいとせみの啼きけり
はや蝉頃となりしか
せみの子をとらへむとして
熱き夏の砂地をふみし子は
けふ いづこにありや
なつのあはれに
いのちみじかく
みやこの街の遠くより
空と屋根とのあなたより
しいいとせみのなきにけり
どこが気に入ったのか。「はや蝉頃となりしか」のフレーズである。今でも蝉が鳴きだすと、このフレーズが口をついて出る。読みとしては、蝉の鳴き声を聞きながら、今は東京にあって、金沢での自分の不幸せな幼年時代を、夏の暑さのなかで思い出している情景である。
室生犀星が69歳になって『婦人公論』に連載した11人の詩人の肖像が「我が愛する詩人の伝記」である。登場する詩人たちは大先輩の島村藤村をはじめ室生犀星が交流した人々である。それはまた、自らの詩人としての経歴を、かなり感情込めて描いたものである。伊藤信吉は、この点を捉えて「もう一人の詩人は誰か、犀星その人である。11人の『伝記』をとおして、実際には12人の伝記が語られたのである。」(新潮文庫版解説)11人への愛し方はさまざまである。特に読み心地のよいのは功成りとげたのちに、出会った軽井沢での年少の詩人たちの肖像である。堀辰雄、立原道造、津村信夫たちである。
彼らの「伝記」を読む前に、高村光太郎への憎しみに満ちた愛を見なくてはならない。江戸職人の名人(高村光雲)の家に生まれ、洋行してはロダンに私淑し、「青鞜」の表紙絵を描いたこともある長沼智恵子との生活、そして名声を自然に引き寄せる、高村光太郎へのコンプレックスを室生犀星は包み隠さず表現する。いや、包み隠さない振りをすることで、あるストーリーを創作したとも言える。智恵子と住む千駄木のアトリエの話である。「千駄木の並木のある広いこの通りに光太郎のアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れ、白いカーテンの時は西洋葵の鉢が置かれて、花は往来のほうに向いていた。あきらかにその窓のかざりは往来の人の眼を計算に入れた、ある矜と美しさを暗示したものである。千九百十年前後の私にはその窓を見上げて、ふざけていやがるという高飛車な冷たい言葉さえ、持ち合わすことの出来ないほど貧窮であった。こういうアトリエに住んでみたい希みを持ったくらいだ。四畳半の下宿住いと、このアトリエの大きな図体の中におさまり返って、沢庵と米一升を買うことを詩にうたい込む大胆不敵さが、小面憎かった。」そして、勇気を振るって呼鈴を押した室生犀星が見たもの。「放心状態でいたのでコマドの内側にある小幅のカーテンが、無慈悲にさっと怒ったように引かれたので、私は驚いてそこに顔をふりむけた。それと同時にコマド一杯にあるひとつの女の顔が、今まで見た世間の女とまるで異なった気取りと冷淡と、も一つくっ付けると不意のこの訪問者の風体容貌を瞬間に見破った動かない、バカにしている眼付きに私は出会ったのである。」「再びカーテンが引かれたが、用意していた私はこんどは驚かなかった。ツメタイ澄んだ大きくない一重瞼のいろが、私の眼をくぐりぬけたとき彼女の含み声の、上唇で圧迫したような語調でいった。『たかむらはいまするすでございます。』」「三度目に訪ねたのは一ヵ月後のある午前中であったが、ツメタイ眼は夫のほかの者を見るときに限られている。夫には忠実でほかの者にはくそくらえという目付で、やはり追い払われた。」田舎者室生犀星が見た「智恵子抄」の智恵子のツメタイ眼である。もっとも智恵子も福島の田舎出身であったが。彼女もまた光太郎へのコンプレックスを抱いて、「東京には空がない」という言葉とともに別の世界に閉じこもっていくのであった。それに対して室生犀星は40数年前の屈辱を書き記すことでコンプレックスを相対化させたのである。
堀辰雄、立原道造、津村信夫の話になると室生犀星の筆は優しく甘くなる。「立原道造の思い出というのは、極めて愉しい。軽井沢の私の家の庭には雨ざらしの木の椅子があって、立原は午前にやって来ると、私が仕事をしているのを見て声はかけないで、その木の椅子に腰を下ろして、大概の日は、眼をつむって憩んでいた。」「彼は頬をなでる夏のそよ風を、或る時にはハナビラのように撫でるそれを、睡りながら頬のうえに捉えて、その一すじの区別を見きわめることを怠らなかった。追分村と周辺の景色にとらわれた彼は、そこに住む堀辰雄という男のいう言葉と、その風貌からもいろいろ教えられたれたものを毎日の交際でたくわえていた。」26歳で夭折した青年は追分のイメージを「のちのおもいに」を歌っている。
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたいやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を
立原道造のとろけるように甘い詩句と同じように室生犀星の甘い思い出は、望んだ文壇での名声から来る余裕であったか。高村光太郎夫婦への手厳しい思いとはまるで別人の文章である。我が愛すると本当はこの3人を指すのであろう。立原道造だけでなく堀辰雄、津村信夫も幸せな幼年時代を過ごしている。そして品のいい青年たちであった。金沢の裏千日町に64歳の元武士の老人(小畠弥左衛門吉種)と34歳の女中(ハル)との間に生まれた室生犀星は6歳で他家に出され、そこからまた寺に養子に出された。養母から「女中の子」と蔑まれて育ったのであった。彼の学歴は尋常小学校3年、14歳で終わっている(詩集「室生犀星」年譜 新潮社)。孤独な少年は、慰められた犀川からとってペンネームを犀星と名乗る。このような悲惨な幼年時代を筆一本で抜け出た室生犀星であってみれば、若い詩人たちの甘さはかけがえのないものであったことだろう。
軽井沢は文学者として大成した証の場であったが、室生犀星の金沢は会うことのなかった実母への思慕と、義母への憎悪の地であり、それがばねになったのである。いつまでも室生犀星の耳には夏になると蝉の声は「しいい」と聞こえていたのだと思う。