楽書快評
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書名 寿永の春
著者 中山義秀
初出 1952年−1953年 別冊文藝春秋
 以仁王の呼びかけに応じて最初に平家を京から追い払った木曽義仲の活躍と没落とを描いた小説である。木曽義仲は武蔵国大蔵(埼玉県比企地方)に館を構えていた父・源義賢の下で育てらた。が、源義朝嫡子・義平によって義賢が攻め亡ぼされた後、木曽谷で中原兼遠によって養われ、成長した。育った地域の名前をとって通称木曽義仲という。中山義秀の「寿永の春」は特段に新しい観点から木曽義仲の活躍・没落を扱っているわけではない。通俗的な木曽義仲でさえある。ただ、表現に輝きがある。上洛を前に朝日将軍と呼ばれた姿が先ず描かれている。
 「『巴』義仲は彼女に声をかけて、『これが京の都だ。近く我等の物になる。そちは嬉しかろう』義仲の茶色も瞳孔は、熱を帯びると金色の閃光をはなつ。義仲が京都を俯瞰している眼色がそれだ。」
 軍事的な勝利によって平家を京都から追い出した木曽義仲軍は京都に進駐する。「無法の点では、清盛よりも誰よりも思いきっている。破壊の革命児みたいに、傍若無人だ。彼が山家育ちの野生人のためであろうか。それとも三十歳という、若さの故であろうか。」破壊の革命児とは通俗すぎる表現であり、木曽義仲の人物造形も画一的である。
 すぐに後白河上皇に代表される京都の政治の世界に振り回され、居場所を失う時がやってくる。木曽義仲と対比されるのが源頼朝である。彼は幼少時を京で過ごしている。そして長い流人の生活を送るという苦労を背負っている。「彼は居ながらにして、京都の形勢や朝家の内情を,知悉しているようだった。彼は20年の幽閉生活を辛抱しただけあって、用心深く物事を明らさまに云わないが、相手の急処をついている。」朝家への根回しや軍事的な包囲網を築きながら、源頼朝は木曽義仲の追い落としを図っている。
 それを中山義秀は「頼朝がとうとう上洛を決意して、本日鎌倉を出発したといい、平家がちかく入京するという噂がつたわる。情勢の逼迫で刻一刻,時間が焔をふきはじめた。」と表現をする。
 「時間が焔をふきはじめた」とはよい表現ではないか。
 没落は早い。朝日はいつまでも昇ってはいない。琵琶湖の近く敗走する木曽義仲に死が訪れる。
 「馬は狂奔して、苅田の畔道へ駈け入った。暮色がせまり、苅田にはりつめた薄氷が白々と見える。向いの松原が風に鳴って、湖の波音が高くなった。うす闇が馬上の人の上に、影深くおりてくる。馬が泥田にはまり、動かなくなった。『兼平』義仲が後をふりかえって、乳母の兄を呼ぼうとした時、一筋の矢が彼の内兜にたち、義仲は馬の頸に声もなくのめった。」
 まるで新田義貞やさらに後の世の明智光秀のような最後の風景である。
 中山義秀は「寿永の春」で何を描こうとしたのだろうか。軍事的な成功だけでは政権を維持することが出来ない。政治的な駆け引き、そして武士の世にふさわしい新たな政治的な仕組みを作り出すことなしには、政権を維持することが出来ないことを木曽義仲の哀れな姿から描こうとしたのであろうか。「寿永の春」で、魅力的な木曽義仲は描かれていない。
 それは欠けているものがあるためである。例えば、父源義賢が甥義平に討たれたのも、平良文流の秩父氏に継承されていた武蔵国留守所惣検校職をめぐる秩父重隆(加担する義賢)と畠山重能(加担する義朝・義平)の争いが起因していた。逃れて木曽の山奥で勢力を作りだした義仲が、義朝の嫡男・頼朝を心底憎んでいたというような因果の物語が、「寿永の春」には不足している。京に生を受けて育った頼朝と山育ちの義仲という対比だけでは深みが出てこない。なお、中山義秀の生きる姿は「鎌倉極楽寺九十一番地」に描かれている。(2006/6/4)
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