楽書快評
トップページに戻る
書名 生きている義親
著者 南條範夫
初出 1974年 講談社
 源義親は河内源氏の源義家の次男で嫡流となり、為義、義朝、と続き頼朝に繋がる。だが、対馬守となって九州に下向した折に、乱暴を働き隠岐に流されるも、配所に行かずに出雲でまた乱暴を行う。これによって平正盛の追討を受けて、梟首された人物である。白河院政下での武家棟梁の座が源氏から平氏へ移り変わっていった要因のひとつに上げられる。平正盛は義親の弟義忠の舅、であり伊勢平家平正衡の子にして忠盛の父、清盛の祖父である。源義親を討ち取った功により但馬守に任じられる。これが公式の歴史書の概括である。南條範夫は、源義親が実は出雲では殺されてはいなくて、その後も諸書に生き返っては梟首された話が出てくることを、推理仕立てに取り上げた。「生きている義親」は講談社の推理小説特別書下しシリーズの一篇として発表されたものである。
 したがって歴史小説のように源義親が躍動するのではなく、南條範夫の分身である片岡寛一郎が、編集者桜井哲也の兄の行方を捜す話を重ねながら、源義親の生死を推理するという構成となっている。生き返っては院政に迫る源義親の行方を推理する片岡寛一郎の楽しみが伝わってくる。歴史小説を組み立てる作家の資料収集や取材旅行、そしてわずかな材料から歴史物にまとめる絵解きの過程を、「推理小説」風に書いたものである。歴史小説家の舞台裏の種明かしを思わせる。
 では、歴史小説家の種明かしの材料にされた源義親をどのような人物として造形されているだろうか。院政に媚を売って貴族の列に準じようとする父・源義家と相違して武家の独自政権の樹立に向けて一貫した人物として源義親をみなしている。「大日本史」にある「嘉承2年、朝廷平正盛ヲ以テ追討使トシテ之緒ヲ討タシム。天仁元年、誅ニ伏シテ首ヲ右獄ニ梟セリ。・・・・義親既ニ誅ニ伏スルノ後、?ゝ義親ト偽リ称スルモノアリ、或ハ捕エラレ、或ハ殺サル。」を裏扉に載せて、4度生き返り5度梟首されたのも、庶民が政権に叛逆し続ける不死のヒーローをそこに求めたからであると、とらえられている。
 片岡寛一郎は桜井哲也に向かってこのように語る。「大胆な叛逆児というのが、君の義親像じゃなかったのかね。義親は出雲にいる間に京の状勢を聞き知ったり、資通と話し合ったりした結果、白河院こそ源氏一族の最大の敵だと考えるようになったのじゃないかな。後三年の役を私戦として褒賞を与えなかったのも、義家の因循をよいことにして碌な官位を与えず奴僕の如く使ったのも、義綱を義家の対抗馬として源氏勢力の分断を図ったのも、義国を常陸合戦を理由に足利庄に押し込めてしまったのも、みんな白河院の計らいだ。義家の死を聞いてから、義親は、それまで父に向けていた憎悪の凡てを、白河院にむけたのじゃないだろうか。」
 そしてこんなエピソードを述べる。平正盛が義親の首を携えて京に凱旋したときのことである。「いわゆる俗書に伝わっているところだから、どこまで信憑性があるか分からないが、正盛の行列が、鳥羽殿の前あたりに差しかかった時だ。鋒の先につき刺された義親の首は、無念の形相凄まじく、大きな口をきっと結び、太い眉の下の両眼は閉じられたままながら、無限の憤怒と怨恨とが、くぼんだ眼窩のあたりに凄絶なものを漂わせている。行列がちょうど、女車を立てて簾の間から覗いている白河院の眼前を通り過ぎようとした瞬間、その首が、カッと両眼を開いて,白河院の方をきっと睨みつけ―義親見参―と、大声で叫んだ、というのだ。」
 平将門の獄門首を連想させる描写である。将門同様に庶民のなかで生き続けた源義親は各地に出没して院政を揺さぶる。白河院が没すると、源義親の役割も終わる。「こうして義親は、京と眼と鼻のところで、京へ乱入し、白河院に一泡ふかせる機会を待っていたのである。だが、その好機の訪れる前に、白河院は没してしまった。今や、義親は最大の仇敵を喪い、流浪20数年を支えてきた報復の対象を亡くしてしまったのだ。義親は、限りない寂寥を感じた。」京に立ち戻った源義親の心境を片岡寛一郎はこのようにも推断してみる。「賊名を払拭して貰ったら、為義に代わって源氏の棟梁の地位につく。実力を持って平氏一門を圧倒し、更に摂関家の下僕たる従来の地位を一擲して、天下の覇権を狙う―」京に立ち戻った源義親は二人も現われそして同時に暗殺されるという結末がやってくる。
 同時に二人の義親が殺された後も南條範夫の推理小説はまだ暫く展開するのであるが、「生きている義親」の姿をほんのわずかの資料からつむぎ出してみせたところにこの小説の特色がある。桜井哲也の行方不明となった兄の姿にダブらせて小説の進行をしているところが読物としての味付けであり、読者サービスなのであろうが、それで「推理小説」としての深みが加わったとは思えない。院政という特殊な政治スタイルに対する政治的な革命まで源義親が射程に入れていたとは到底思い描けないが、武家政権が出現するまでの勃興期の典型として取り上げることは意義深いことである、と思う。源義家亡き後に義親の追討を命じられた弟義忠(平正盛婿)の登場がないのが残念である。(2006/6/19)
0123