
書名 殿様の通信簿
著者 磯田道史
初出 2006年6月 朝日新聞社
江戸時代の大名について幕府隠密がしたためた報告書のうちから、意外な実態を取り上げたのが「殿様の通信簿」である。日本的な封建時代も制度が固まってしまうと殿様は象徴となって藩(国)運営は上級家臣の合議制へと委ねられてしまう。大名が直接に藩運営にタッチできたのは徳川幕府時代の前期までである。お殿様が接することのできるのは上級家臣と奥の女性たちである。形式的な役割を超えて人と接するには「茶室」か「お忍び」で会う以外には方法がなかったと磯田道史はいう。磯田道史が最初に取り上げた「徳川光圀」は前期が終わろうとする時代に、お忍びで出歩いていた。隠密は「女色に耽りたまい、ひそかに悪所に通い」をしていると報告しているとのこと。遊里は文化サロンでもあったから、光圀はそれを求めて出歩いていたのであろう、と分析し「家康の孫という高貴な人物が、好奇心にかられて、色街に出没する。その噂があるだけで、人々の心は十分に浮き立った。そして、『水戸黄門漫遊伝説』という国民的神話が形づくられていったのである。」と結んでいる。なかなかの推論である。
岡山出身の磯田道史は池田家の話を綴っている。池田綱政は子を70人ももうけた。それも先代光政が戦国時代の気風を押し付けてくることへの反発から、「不学・文盲で、女色に耽っている」殿様であった。憧れは武家風ではない、雅びた公家風であった。
「京から美しい屏風や扇子をとりよせ、城のなかに、ならべはじめた。はじめに品物だけであったが、そのうち、生きた人間も、取り寄せるようになった。―――京女である。綱政は岡山城の奥向きを、平安の王朝絵巻に変貌させた。田舎の岡山に、自分だけの「源氏絵巻」の世界を作り、その住人になろうとした。-----指折り数えても、きりがないほど京女をあつめた。岡山城中は、京女であふれ、京言葉が蔓延した。綱政はさかんに恋歌を詠み、昼となく夜となく、彼女たちを抱いた。」親への反発で放蕩の限りを尽くした馬鹿息子そのままである。ただし、人殺しが平気な先代と違い遺言によれば「仁愛慈悲第一の事」としたためていた、ことを磯田道史は紹介している。藩の仕置きが大名本人から家臣団へ移ってしまえば、象徴としての殿様は趣味、女色くらいしかすることがなかったということができるかもしれない。特に外様大名として幕府ににらまれている大名家にとっては。
外様大名として最大の雄藩は加賀前田家である。磯田道史は前田家の初代利家、二代利長、三代利常について詳しく論じている。
前田家は菅原道真の流れを自称しているが、真実は分からない。尾張の土豪であった前田利家は当時の平均身長が160センチの時代に180センチもありその体格の有利さを利用して槍を振り回して戦場を駆け巡った。織田信長の「走狗」となって戦場を駆け巡るうちに豊臣秀吉が亡くなるころには、徳川家康の最大のライバルに上り詰めていた。前田利家の嫡男が利長である。正妻まつの子である。利長は徳川家に従いながら、豊臣秀頼を守る姿勢を崩さなかった。大阪の陣が近づくにしたがって、利長は板ばさみなる。ところが直前になって利長が突然に亡くなる。「「利長様は御自身で毒を飲まれた」江戸時代、加賀藩では、この話は公然の秘密であった。前田利長は徳川との対決をさけるため、毒を飲んで自分の存在を消し、それで晴れて前田家は徳川方として豊臣攻めに加わることができた。加賀藩ではずっと、そのように信じられてきた。」と磯田道史は述べる。二代利長が選んだ後継者は、名護屋陣中に派遣された下女ちよと利家とのの間にうまれた「お猿」と呼ばれていた弟であった。お猿が利長の目に留まり100万石の太守になりえたのは前田利家譲りの体躯を持っていたからである。「骨組み、たくましく、一段の生まれつきかな」とため息をついたと磯田道史は語っている。前田家を親豊臣から親徳川へ移すために政略結婚が行われた。9歳の利常に3歳の家康の孫娘珠姫が輿入れしてきた。そして数年後、豊臣の縁から羽柴を名乗っていた前田家に、家康は松平を名乗らせたのである。さらに、家康の側近である本多正信の子・政重を前田家の重臣(家老)に迎えることとなった。「本多を家老にしろと藤堂からいってきた。駿府の家康公の側近からも、このように書状がきている。こうなったうえは、そのほうが断ることはできない」(「本多氏古文書」)と利常に利長が諭したことを磯田道史は紹介している。22歳となった利常は大阪の陣に冬は3万、夏は2万5千の軍勢を引き連れて参加。感状を得ている。
戦いの終わった時代に利常は事あるごとに徳川幕府に楯突いて生きていった。磯田道史は次のように語る。「ただ、ひとつだけたしかなのは、利常が、織田信長がはじめた中世をぶち壊した狂気の精神を受け継ぐ最後の大名であったということである。死ぬことはどうせきまっている。生きた証に狂った面白いことをしようではないか。近世という時代を開いたこの精神は信長の生をもってはじまり、利常の死をもって終わった。」と。
最後に外様大名ではない、譜代大名の殿様を見てみよう。日向国延岡藩内藤家である。関が原の前に落城した伏見城を鳥居元忠、松平家忠らとともに守った内藤家長の一族は、その功により絶対に徳川家を裏切らない一族として譜代大名に取り立てられ、明治維新まで生き残ることができた。内藤家長は弓の名人として聞こえた剛の者であった。8万1千8百石の延岡藩は対島津家への防衛を意識した配置となっている。ところが「ともかく内藤家では遊びがはやった。『謡・仕舞・囃子等にのみ心を被取、武芸を好む一人も無し』、つまり内藤家ではもう武芸を好む者が一人もいない。」これでは郷士を含む15万人の島津軍に対する防波堤としては心もとない。
「ありあまる権力を有していたにもかかわらず、結局のところ、それを有用につかうことを知らず、ひたすら個人の享楽世界にのめり込んでいった。」平和な時代となって軟弱となったお殿様たちの様子を描いてきて、最後に磯田道史は今の日本人が当時のお殿様のようになっているのではないかと警鐘を鳴らしている。
「殿様の通信簿」は読みやすい。殿様も象徴としての人生を強いられ、なお家を存続させるために世継を設けることのみを義務付けられた。譜代大名でなければ、幕府政治に参与する場も得られず、江戸時代創世記の位置を守ることのみがお家大事の窮屈な姿が浮かび上がってきている。お殿様のできることは享楽世界に浸ることであるが幕末になると財政逼迫でそれも叶わなくなったところで、体制がひっくり返った。ひっくり返ることは「殿様の通信簿」にはでてこない。(2006/7/9)
0125