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楽書快評
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書名 となり町戦争
著者 三崎亜記
初出 2005年1月 集英社
 舞坂町という小さな町がとなり町と期間限定の戦争を行った。期間は9月1日から3月31日まで。戦争の内容は拠点防衛、夜間攻撃、敵地偵察、白兵戦の限定4項目である。これ以外の期間並びに戦争行為は行われない。舞坂町に住む主人公の北原修路が戦時特別偵察業務に任命されたことからとなり町戦争に巻き込まれる。日常生活ではほとんど戦争を実感できないままに限定4項目のひとつ敵地偵察が始まる。やがて総務課となり町戦争係の香西さんと隣町の「分室」で夫婦を装っての敵地視察の任務に就くことになる。だが、戦争は見えてこない。実感できない戦争が、この小説のテーマである。このテーマにそってとなり町との「戦争」を描いてみたことが評価されている。
 主人公が、戦争の実態を聞きたくて町内説明会に参加したところで繰り広げられたやり取り。香西さんの弟が立ち上がって質問した「肝心の“なぜ戦争をしなければならないのか?なぜ、となり町の人間と殺し合いをしなければならないのか?”ってことは、ぜんぜん説明していないじゃないですか。」ということは、この小説で全体でも明らかになってこない。作者はこの点に関心はないようである。見えないのは戦闘行為ということなのだろうか。その中で戦死者の数がひとつ浮き上がって見えてしまう。戦争は地域活性化の町役場の事業として議会の承認の元に遂行されている、と設定されている。
 小説の中ほど、となり町に設置された「分室」に、となり町で戦争を請け負っている公社が査察に入ることが判明したところから物語は急展開していく。見つけられてはならない偵察員記録表などを抱えてとなり町からの脱出行が始まる。それによって「戦争の音を、光を、気配を、感じ取る」事となった。だが、それは戦争の一部でしかない戦闘行為の実感ではないのか。
 確かに戦争はお役所の仕事である。国と国との戦争は戦争を遂行する役所、たとえばアメリカ合衆国では国防省が所管する。舞坂町では総務課となり町戦争係が所管する。年末年始など間に奇襲攻撃のようなことはできないのか、という主人公の質問に香西さんは答える。「今の時代はやはり地域住民の意向を無視しては戦争や工事はできないんですよ。五時に終わる工事が六時に延びただけで役場に苦情がくるくらいですから。それに戦闘の場所や時間に関しては、まず委託しているコンサルティング会社がいくつかの案を作成し、それを元に戦争推進室で協議、その後文書として起案して、室長、助役、町長と決済を取るのに最短で十日ほどかかります。法律上の文言に関わってくる場合はさらにその間に文書審査もありますから、もっと時間がかかります。ですから、例えば、相手の町が今ここの兵備が手薄であるとわかっても、じゃあすぐにそこを攻撃する、っていう対応は不可能なのですね。」このようなお役所風の言い回しに、戦争小説の新しい姿を感じた読者もいることだろう。だが、戦争という条件をかぶせれば、人の死が殺人として扱われなくなるのか、という主人公のわだかまりは新しいテーマではない。
 また、戦争の評価についても行政的な視点から香西さんは次のように述べる。「確かに二つの町は、お互いを敵として戦ってきましたが、それと同時に、別の視点から見れば、戦争という事業を共同で遂行したとも考えられます。となり町の協力がなければ、戦争を始めることも終えることもできないわけですから。それに、勝敗を判断するのは私たち行政体の役割ではありません。行政の立場として死者の数で勝敗を決定することはできませんし、これは他の事業でもいえることですが、事業費の枠や予算規模の違い、それぞれの町における長期計画の中での今回の戦争の位置付けなどを勘案すれば、単純に勝ち負けという視点で判断することは非常に難しく、あまり意味を持たないように思えます。勝ち負けというものが決まってくるとしたら、それは最終的には両町のトップ判断ということになるでしょうね。」これも不思議なことではない。二つの町による共同事業であるのだから。
狙いは町の活性化である。となり町では終戦復興特例債によって町民ホールなどの建設が計画されている。特例債によるハコもの行政のために戦争というイベントが二つの町の協力で進められたのだ。終戦復興特例債は日本国政府が認める特例債なのであろうか。特例債によって日本国政府が地域間戦争を推奨する理由はどこにあるのだろう。「となり町戦争」で戦争が分からないのは、その原因である特例債の発行の合理的な理由が不明であるからではないか。見えないのは戦闘行為ではない。戦争という大義によって人が死に、また主人公に死の危険が迫っていたことは描かれていた。その背景にある必然性の理由である。
 分室での二人の共同行動が終わり、結婚も解消。こうして主人公は日常の中に戻っていく。だが、主人公がつぶやくように、「こうした、変わらぬ日常のその先にこそ、戦争は、そして人の死は、静かにその姿を現す」のであろうか。戦争が民族や宗教、地域間の歴史的な憎しみ、あるいは領土的野心、天然資源に対する利権などから発するのではなく、行政行為として進められる側面を強調するのであるならば、やはりとなり町戦争を特例債によってコントロールする日本政府の意図への踏み込みが必要ではなかったか。戦後復興特例債こそが神の手である。
 最後のページに到っても「となり町戦争」の戦争は見えてこない。(2006/7/17)