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書名 戦国時代の終焉
著者 斎藤真一
初出 2006年 中公新書
関東において戦国時代の終焉は何を契機にしているのだろうか。「関東の夢」を抱いていた後北条氏の没落の契機として、真田氏の沼田城を北条勢が襲い、これが豊臣秀吉の勘気を被って小田原合戦へと繋がっていったとするのが、歴史の通説である。斎藤真一はこれに先立つ1584年、天正12年に、西においての小牧・長久手の戦(豊臣秀吉対織田信雄・徳川家康の戦いであった)に連動した東の戦いとしての沼尻の戦いに注目する。
氏素性も分からない伊勢新九郎が、打ち立てた後北条氏(鎌倉幕府執権であった北条氏と区別するために後を付ける)は瞬く間に相模国小田原を中心として関八州へ領土を広げていった。後北条氏の夢は関東制覇であった、と斉藤真一は押さえる。西から領土を関東平野に広げるに当たって、難所は河である。現在の利根川にそった渡河地点が課題である。上杉謙信は関東管領職を世襲した上杉氏を譲られて以来、常に関東平野への野心を失わなかった。越後から山並みを越えて関東平野を横切り、北条氏の小田原を囲んだこともあった。しかし、それも越後に雪が降るまでの間のことである。こうして雪の季節を除いて上杉謙信は信濃へ、関東平野へと出兵を繰り返した。
だが、戦国末になってくると後北条氏の勢いは着実に関東を覆い始め、北関東の雄族である常陸の佐竹氏、下野の宇都宮氏、あるいは信濃から出張っている真田氏がかろうじて対抗しうる状況となっていた。織田信長が本能寺の変で突然に亡くなって、すぐに関東を仕切っていた滝川一益は土豪の反乱にあって京へ引き返していった。これには後北条氏の思惑が働いていたと見なすのが妥当であろう。政治的な空白が東関東および信濃に現れた。この地域に野心を燃やすのは後北条氏のみならず、徳川氏も同様であり、甲府盆地で両者は戦いとなった(若神子の戦い)。この戦いにあって後北条氏に属していた真田氏は突然に、徳川方に味方をする。やがて、徳川、後北条氏は和睦した。和睦後、徳川・後北条氏は密接な関係を築く。そのなかで徳川氏は真田氏を見捨てることとなった。和睦では、上野国にある真田領は後北条氏へ引き渡される内容となっていたが、真田氏はこれに頑強に抵抗、後北条氏は上野国内の領有化に向けて、軍事行動を起こす。斎藤真一はこの後の後北条と反北条の興亡を詳しく述べていく。
すでに1582年 天正10年、沼田の真田氏と厩橋城(現前橋)に立てこもる毛利北条(きたじょう)貴弘を後北条氏は攻めたのであった。1583年 天正11年9月には、厩橋城は後北条の手に落ちる。これに危機感を強めた反北条勢は佐野城の佐野宗綱(下野国唐沢山城)が中心となって、後北条氏側に加わっている由良国繁(上野国新田)、長尾顕長(上野国館林)兄弟への懐柔工作を強めた。この懐柔工作は成功した。同年12月には後北条方の富岡氏が立てこもる小泉城(上野国)が攻め立てられた。「反北条勢の念願であった由良国繁・長尾顕長の翻意が実現した瞬間であった。これにより天正5年以来維持されてきた新田・館林・藤岡・榎本・小山ラインが破られたのである。」と斎藤真一は分析する。後北条方はすぐに援軍を派遣する。小泉城南の巨海(群馬県邑楽郡大泉町古海)付近に舟橋を架けることからはじめられている。軍勢を素早く確実に渡河させるには、利根川に舟を並べその上に板を敷いて臨時の橋として使用する。本書の眼目である沼尻の戦いの前哨戦が始まったのである。雪解けで増水した利根川に舟橋を架けて、渡河した後北条軍は小泉城の救援のみならず、裏切った由良・長尾兄弟にも攻めかかった。1584年 天正12年の3月のことである。長尾顕長の足利城が標的となった。反北条勢の大名である佐竹義重は3月下旬に常陸国太田から宇都宮に入り、4月には宇都宮国綱とともに出陣。斎藤真一は「沼尻の合戦の緒戦においては、両者の問題とする地域感覚に大きな相違があることが分かる。北条氏政・氏直は小泉城を救援する目的で上野国を、佐竹義重・宇都宮国綱は小山を中心とした下野国南部を意識していたのである。」と述べている。「戦場となった沼尻は佐野・藤岡間の交通の要地で、佐野から東進すると藤岡方面と北東の岩舟(下都賀郡岩舟町)方面への分岐となる地であった。」5月初旬には合戦が始まる。斎藤真一は「古先御戦聞書」の佐竹勢三千余騎、北条勢三千五百余騎が実数に近いのではないかと推断している。戦いは長期に及んだ。
沼尻の合戦は、斎藤真一は小牧・長久手の戦いに連動した関東においての戦いであるとの視点を設けている。徳川家康は関東の新興勢力後北条氏と、豊臣秀吉は上杉景勝らと結ぶとともに関東では佐竹義重と結んでいた。この日本列島中に連動した戦いのさなかにあって接点の弱小豪族は処世の選択を厳しく問われた。沼尻の戦況が滞っているなか、後北条氏は常陸国小田の梶原政景(太田道誉の子)を寝返らすことに成功した。「小田は沼尻と佐竹義重の本拠地太田を結ぶ中間地点にあたる。」1584年7月22日、沼尻の合戦は和議を持って終結した。終結後も戦いの引き金となった由良国繁(金山城)、長尾顕長(館林城)との攻防は続いている。この兄弟は結局、敗北して再び後北条氏に帰順した。また、後北条方にあった冨岡六郎四郎は小泉城を根拠とした土豪であったが、城を後北条氏に委ね、一族は後北条氏の家臣団に組み込まれる道を選択した。「北条領国の境界で先祖伝来の地を守るよりは、北条領国の内部で北条氏政・氏直に奉公するほうが、家を存続できると判断したのだった。」逆に、佐竹義重は梶原政景を攻める。だが、伝統的な豪族連合の北関東氏族地域は、沼尻の戦いの後も、徐々に後北条氏によって切り崩されていった。大きな川を防衛線とする北関東の豪族連合は、防衛ラインを失ったことで、崩壊していく。下野国壬生・鹿沼両城を拠点とする壬生義雄が後北条氏に寝返った。壬生は宇都宮から10数キロの地である。1585年12月には、宇都宮まで一気に後北条軍は侵攻する。1586年になると皆川広照も後北条氏に帰順する。だが、このように「北条の夢」がそこまで来た中にあって、「中央の次元では必ずしも北条氏政・氏直に形勢優位ではなかったことに気づく。」と斉藤真一は焦点を明らかにする。
「小牧・長久手の戦い以来の関係が、家康の上洛をもって清算された。織田信雄・家康と順次個別に関係が改善され、東国では北条氏政・氏直だけが取り残される結果となってしまった。徳川家康というオブラートが剥がされた北条氏政・氏直は政治的に一段と大きな存在となった。」と斉藤真一は述べる。やがて、徳川家康を介して北条氏にも上洛するように催促がくる。ぐずぐずと時を費やすうちに、天下静謐・停戦命令に反して真田氏のこもる上野国沼田城への攻撃を始めた後北条氏は誅伐「小田原合戦」を受けて没落する。「『北条の夢』は露と消え、『豊臣の天下』が列島を覆うこととなった。」と斉藤真一は語る。戦国時代を象徴する松永久秀、斉藤道三と並ぶ下克上の代表者伊勢新九郎に発する後北条氏は、全国規模の下克上の代表者・木下藤吉郎によって滅ぼされた。その始まりが沼尻の戦いであったというのが本書の主張である。もうひとつ、小田原後北条氏と北関東豪族連合の接点であった利根川等の大河の重要性が具体的に示されている。すなわち、新田・館林・藤岡・榎本・小山ラインである。点在する小豪族の城や舟橋の用いられ方である。この点に関してはさらに詳しく知りたいところである。
「関東の夢」は「天下の夢」には敵わなかったのである。東北の夢に賭けた伊達政宗は遅参しながらも小田原合戦に間に合い、幕藩体制に生き残った。後北条氏の決断の問題と比較できるのではないか。(2006/7/23)