
書名 もの食う人びと
著者 逸見庸
初出 1994年 共同通信社(1995 角川文庫)
バングラデシュのダッカで残飯を食べる。逸見庸の「もの食う」旅はここから始まった。ダッカのスラム人口は170万人に及ぶという。すえた臭いの残飯を逸見庸は食べる。だが、それは「食べる」旅の序の口にしか過ぎなかった。1991年、フィリッピンで焼き畑農業に従事してきた山岳民族アエタ族はピナトィボ山の爆発で山の生活を捨てざるを得なくなった。そして、或る者はインスタントコーヒーのファンになり、或る者はジンの味を覚えた。アエタには酒を飲む習慣がなかったというのだ。「酔って考えることと、さめて考えることがちがうなんておかしなことだ」という。この正しい意見に答えるすべはない。再びピナトゥボの自然に帰れる見通しもないまま、おかしな習慣に毒されつつあるアエタの未来に言葉を失う。
人々がこうむる災害は自然災害のみではない。人災が実に多いのである。人災、それはたとえば戦争である。人が引き起こす災いのうちでもっとも悲惨なものは戦争である。逸見庸はフィリッピンのミンダナオ島の「食の悲劇」について語り始める。災いの主は日本兵である。「村人たちは口々に言ったのだ。『母も妹も日本兵に食われてしまいました。』『私の祖父も日本兵に食われてしまいました。』『棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられてしまいました。』」敗戦後もミンダナオ島に残留していた日本兵による組織的食人行為である。
ユーゴスラビア内戦では民族・宗教の対立から、全ての地域に人による災いが降り注いだ。村が戦場となった老婆は一人そこに住む。「よく晴れた日、搾りたての牛乳の缶を両手にぶらさげて歩いていたら、いきなり戦車が現れて、ドッカーン、ドッカーンと砲をぶっぱなしてきた。アナは仰天し、牛乳缶を落とした。夫が胸を押さえて倒れた。義理の息子も死んだ。数日でアナの髪は真っ白になった。『それからは、なにを食べても味がしなくなったのよ。』」人はどうして生きるのか、どうして食べるのか。そして、その日の命をつなぐように食べる人々が、どうしてこのように多いのか。人による災いの一つは戦争である。戦争の多くは国家に自己を重ねる錯覚によって生じることが多い。「あらゆる種類の錯覚のなかで、国家に自己を重ねる錯覚(最近ひどく増えているように思われる)を、私はためらいなく敬遠する癖がある。国家単位でものを発想してはならない。このことは私にとって生命線である。」と逸見庸は文庫版あとがきで語っている。このような姿勢の人間は信用できる。
人災は、戦争だけではない。1986年4月、ウクライナ・チェルノブイリ原発事故は5000万キュリーの放射能物質で世界を覆った。原発近くの村々は今でも立ち入り禁止地帯である。だが、人々はそこに立ち戻ってきている。原発から南西20キロのイリイェンツィ村に立ち戻った72歳の老婆は、もっとも危険だといわれるキノコを森から取り、危険だといわれる林檎から作った酒・サマンゴを飲んでいる。「事故後モスクワなどを転々、翌年『村のきれいな空気が懐かしくて』一人で戻ってきた。『放射能ったって年寄りにゃ関係ないって話しだし』と」。インフレが進むウクライナで住める場所はここにしかなかったのかもしれない。逸見庸はいう。「危ない。しかし、危険地帯の住民はいまや帰還者だけではない。ホームレス、脱走兵も空き家に住みつきはじめているのだそうだ。人数はつまびらかでないが、最近の傾向だ。その日の命をつなぐために、緩慢な危機を選ぶ。そんな人びとが増えている。」緩慢な危機を選ぶ。あるいは緩慢な死を選ぶ。
それは、ウガンダでも同じだ。バナナ畑のある家での出来事。30歳の女性ナチャッジャは妊娠中にエイズで夫を失っている。逸見庸にガイドは言う。「彼女も感染している可能性がきわめて高い」「そのナチャッジャは壁のローマ法王の写真の下で、はだけたココア色の乳房を赤ちゃんに含ませていた。赤ちゃんは目をつぶり、母は目を細め、一筋の真っ白な乳でつながっている。いまはバナナの葉のざわめきもない。静かだ。この褐色の赤ちゃんも、われわれ日々もの食う者たちの一人なのだ。働き手がない。安全なミルクが買えない。危うい母乳を飲ませてでも、さしあたりいまを生かすしかない。世界にはこんな食の瞬間もある。ほんとうに静かだ。私だけが震えていた。」
生きる営みと「もの食う」営みは密接である。ダッカにはじまる「もの食う」旅では緩慢な危機を選ぶ、あるいは緩慢な死を選ぶ姿を多く見た。このルポルタージュが書かれて10年以上が経った。2006年の現在、貧富の差が急激に広がる日本列島でも、世界にさらにあふれる「こんな食の瞬間」が訪れているように思う。(2006/7/28)
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