楽書快評
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書名 鎌倉幕府と北条氏
著者 石井進
初出 2004年 石井進著作集第4巻 岩波書店
宝戒寺(北条執権邸跡) 北条氏は不思議な一族である。権力を握りながらついに幕府を開かなかった。征夷大将軍になぜなろうとしなかったのであろうか。鎌倉幕府の御家人の一人として執権というあいまいな地位(所詮、将軍家の家政組織の長でしかない。さらに得宗などは家政組織の長の一族内の総領家を意味するにしか過ぎないのではないだろうか)から抜け出さなかった、あるいは抜け出せなかった不思議。
 その不思議への答えは当たり前すぎで研究課題にもならないのか。執権得宗への権力と富の集中について石井進は丹念な論証を行う。それは大変貴重で、37年も前の「北条氏所領の構造と特質」の「九州諸国における北条氏所領の研究」(1969年に発表)論文は実証的である。これらの実証研究の上に北条得宗とともに生きてきた安達氏の位置を示した「『蒙古襲来絵詞』と竹崎末長」「蒙古襲来絵詞をほどいて地方武士の声を聞く』などは大変面白く読める。
 しかし、網野善彦との対談「鎌倉北条氏を語る―境界領域支配の実態とその理由」(1999年9月 別冊歴史読本もののふの都 鎌倉と北条氏 新人物往来社)からはじめたい。北条氏の家紋が三鱗であることやそれが江ノ島の弁才天伝承と一体となった伝説に彩られていることは知っていたが、対談は話が深い。小さな半島である伊豆国が天武期に駿河国から分かれたのは、房総半島の先だけ安房国であったりするのと同じく海の道を重要視したからであるとまず押さえている。そして北条氏は無位無官の弱小豪族とみなされているが、北条氏の本家は伊豆介を名乗っている在庁官人の一族(庶流)であり、北条氏は海の国を押さえていた一族ということになる。こうして石井進は「三鱗は・・どうも鎌倉時代の北条氏を解くキーワードのひとつになるのではないかと思っています」と述べるにいたる。これを受けて網野善彦は「そもそも、北条氏の所領が海上交通の拠点に分布していることを明らかにされたのは石井さんですよね。交通の要衝を北条氏がおさえており、その要衝はもちろん陸上交通を考えられないことはないけれども、川、海の交通要衝を確実におさえていますよね。」と。九州と東北地方とが北条氏の所領分布が密なところである。石井進は南西部は尾張国愛知郡の出身の千竈氏が代官となって薩摩半島の坊津、大泊津、あるいは永良部島、屋久島などを領有していた。北は被官安藤氏が津軽、南部地方を領有し、ついには建武の中興の楠木氏や赤松氏も得宗被官であった、と話は進展する。
 播磨国の赤松氏について石井進は「やっぱり気になるのは、後醍醐が倒幕の兵を挙げたとき、播磨の赤松氏なんかは、筧雅博さんがいうように、それまではどうみても北条氏のひじょうに重要な部下だったのですよ。それが、結局、反旗を翻す。それがなぜだったのか。それから赤松氏に並ぶのがやはり楠木氏。」それに応えて網野善彦は「私は楠木は得宗被官だったと思うのです。これまで戦前の『皇国史観』、遡れば「太平記」の評価が支配的だったので、楠木氏が御家人だったという説も問題にされなかったのですが、『高野春秋編年輯録』という高野山の編集した史書があり、これにはしっかりした文書をつかって編纂されているのですが、そのなかに元享2年(1322)、楠木正成が北条高時の命令によって湯浅氏一族の保田荘司を攻めてその旧領の紀伊国の保田庄を与えられたという記事があります。・・それから筧雅博さんの指摘ですが、正成がひじょうに深いかかわりをもっている河内の歓心寺が安達泰盛の所領だったのです。その泰盛は霜月騒動で没落して歓心寺も没収され、そのあとに北条氏が入ると考えられますが、その歓心寺に正成が深いかかわりをもっているのですから、正成は間違いなく得宗被官だったというわけです。」続けて「(吾妻鏡の建長元年(1190)、頼朝が上洛したおりの随兵の楠木四郎という御家人が忍氏と並んででてくる)つまり、楠木氏は武蔵国御家人と一緒に並んでいます。そうなると、武蔵にも楠木という地名を見つけることができるかもしれないのです。だから、駿河とはいいきれない。」楠木氏はもともと東国出身の御家人ではないかと推論するのである。楠木四郎な者が、玉井、忍、岡部、滝瀬らの武蔵七党のひとつ猪俣党の一団とともにあることから、武蔵国の利根川流域にいた一族ではないかと推測するのである。武蔵七党は弱小御家人であり、いつの間にか北条得宗家の御内人となり、得宗領の現地代官として播磨、河内など全国の経済活動の活発な地域へと散らばっていった。その末裔の一人(一族)ではないかとも思われる。
 経済感覚のある弱小御家人などを北条氏の被官化し、全国的な交易のネットワークを作り出した。全国制覇の、そのきっかけとなったのは蒙古襲来の危機意識である。こうして得た富の独占体制は、反発を招く。対談の終わりに石井進は「ストレートに実現したのかもしれない。それによって北条氏は全国的な交通網、あるいはそうした場に対する統一的な支配体制を手に入れた。けれども、そのために、むしろ矛盾の激発を招いた。交通の重要な拠点を次々と支配下におき、どんどん新しい連中を手下に組み入れていく。そのため、結局彼らの不満をそらすところが・・・。」「なくなっちゃったわけですよね。全部、手に入れてしまったために。」悪党をも組織化した得宗が、欲張りすぎて壊滅したという図式であろうか。それにしてもこの楠木、赤松氏の御内人説は学会の定説になっていないのだろうか。今でも、得宗支配対悪党の構図が一般的に流布されているのだが。
 さて、このような北条氏得宗支配の進展と壊滅を眺めた上で、改めて基礎となった研究「九州諸国における北条氏所領の研究」を追ってみよう。九州地方での北条氏支配は12世紀末までは肥後国阿蘇社であり末社3箇所が明らかなだけである。が、13世紀初頭、北条氏勢力確立の第一の画期である比企の乱に際して日向・大隈・薩摩三国にまたがる島津庄地頭職を島津忠久から奪って北条氏所領(後に薩摩国守護職、島津庄薩摩方地頭職は返還)とした。こうして筑後・肥後両国の守護を大友氏から北条一門の名越氏へ移り同じ名越氏が守護であった大隈国、他の北条氏が守護であった日向国とあわせて九国中四国が北条氏領となり、守護領が北条氏の所領に加えたれた。13世紀後半は蒙古来襲の危機に乗じて得宗支配が確立されていく。それは北条氏一門の内紛としても現れる。得宗庶兄時輔(六波羅探題)が反乱の企図ありとして誅殺され、これに連座して得宗に匹敵する勢力をもっていた名越時章も誅殺されたえん罪事件で、名越氏は三カ国守護を没収され、後に得宗寄りの一族に配分される。安達氏が族滅した霜月騒動に関連して肥後国守護代安達盛宗と武藤景須資の反乱(岩門合戦)による没収地の大半も北条氏一門に与えられたという。九州の所領面積は20.5%におよび、なお北条氏の所領の分布を見ると豊前国門司関、豊後国佐賀郷などの軍事・交通上の要衝をおさえ、肥前国では有明湾に望む地域、肥後国では郡浦、葦北庄内佐敷など港湾の地、そして坊津、大泊津そして志布志湾沿岸など港湾施設と後背地を得て、それを結ぶ「網の目のようにとりむすぶ交易網を想定することができる。」と述べている。
 北条氏の三鱗の紋を掲げた船が北は津軽の広大な得宗領などから集めた交易品を積んで、得宗守護領である若狭国の良港を経由し、坊津などを経て中国(明)との交易が行われていたイメージを思い浮かべることができる。それはまた、坊津から、北条氏の守護国である土佐国や佐賀郷そして瀬戸内海を経て鎌倉の外港・六浦(金沢流北条氏の拠点)に至る交易路を考えてもいい。このような現地を支配する北条氏(得宗)被官は先の対談で出た人々以外では安東蓮聖が有名である(北の安藤氏とは違う一族)。摂津国守護代であり、多田院、生魂新庄、福嶋庄、美作庄などの得宗領の支配者、和泉、但馬国内に所領を持ち、播磨国福泊の港湾の築堤工事を自力で行い、さらに豊後国佐賀郷の給主としても現れる。さらに借上を兼業している。彼を佐藤進一は「富裕大名の被官、すなわち将軍家の陪臣であって、厳密な意味で御家人でない人々は主家の富力蓄積を直接担当しつつ、また自らも急速に有徳人化してゆく」(「幕府論」)好例として示している。
 「吾妻鏡」は安達氏と金沢北条氏近くの人々によって編纂されたことを指摘し、また「蒙古来襲絵詞」の竹崎五郎兵衛李長が褒賞を得ることができた幸運はどこから来ているかを、石井進は解き明かしていく。合戦において姉婿三井三郎資長が与力として力を貸してくれたばかりか、鎌倉に行く道で歓待した烏帽子親三井左門尉李成は周防国守護代(守護は評定衆二階堂行忠)であり、恩賞を与えたのが御恩奉行である安達泰盛であったが、泰盛の弟左衛門尉長景は二階堂行忠の娘婿であった。李長が甘縄の安達邸を下がるとき、安達泰盛から馬を拝領する絵に立会いとして長景が描かれている。このことから「竹崎李長―烏帽子親三井李成―その主人行忠―娘婿安達長景―兄泰盛という人脈が、李長の泰盛への出訴を可能にした、だからこそ、この場に長景がいるのだともいえるかも知れません。」と石井進は卓越した絵解きを行っている。
 蒙古襲来後まもなく、御恩奉行(かつ肥後守護)安達泰盛、肥後国守護代安達盛宗(直属の上司)、安達長景、文永の合戦の現場指揮官であり李長に先駆けを許した武藤景資らは霜月騒動・岩門合戦で滅亡した。だが、数年後(永仁元年4月)、彼らを悲劇に落とした平頼綱ら御内人は平禅門の乱により、誅伐された。こうして、かつての安達派の復活した時期に、竹崎李長の「報謝の念をうたい上げているこの絵巻は、見方によっては、まさに過ぎ去りし良き日々としての執権政治の伝統への一地方武士のかなでる挽歌でもあった。」と石井進は思い入れを語る。
 征夷大将軍は、上級軍事貴族の嫡流に与えられる。平家の傍流のそのまた庶流であった時政に始まる北条氏は、その名目以外の処で、ライバルの御家人たちと争い、地位を確立していった。土地を媒介とする将軍−御家人を基軸とする鎌倉幕府政治体制の中で、将軍になれない(ならない)北条氏は別の仕掛けで権力を集中させていく。海の一族の末裔として、全国の交易の拠点を我がものにし、海のネットワークを広げる中で、富の集積を図っていった。それは従来の鎌倉武士的な世界ではなく、地域間交易や借上(高利貸)に近い体質を兼ね備えた不思議な一族であった、と改めて思う。清盛が築いた平家政権の姿を彷彿とさせる。得宗専制の進行とともに、富の寡占化が進み、やがて建武の中興を迎える。が、その後の室町時代は借上、土倉が勃興し不安定な政権として政治体制の体をなすことなく、戦国時代に至る図が見えてきた。(2006/8/28)