楽書快評
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0132

書名 天山
著者 谷川雁
初出 1956年 国文社
 私の本棚の宝物がこの「天山」である。まだ20代のころ神田の古書田村書店で購入した限定300部の詩集である。第二次大戦の敗戦後(終戦という言い方は現実を覆い隠している)の日本で一番美しい詩篇であると今でも考えている。谷川雁の詩はイメージのぶつかり合いである。だが、その言葉の出会いの見事さにのみ心を奪われてはならない。それを支える谷川雁の志向性も大切である。
 「題のないあとがき」で谷川雁は語る。「廿世紀も半ばに達しかけている。僕らは兵士になった。あちこちを流浪した。どろどろに溶けた魂が目の前でとび散る音を聞いた。火放けもやった。強盗もした。すみきった飢餓の水も飲んだ。そして今妙にあざやかな故郷の緑をながめている。髑髏のようにしんと静まり返っている1947年の夏である。あの野蛮な裸体にてり映えていた銃剣のもえるような油のにおい、あれを夢の部類に入れよというのか。」「厩の一角、兵舎の物音から遠く、つめたい乾草の匂に寝転び、馬達の大きな歯が燕麦といっしょにかみくだく夕べの協和音のなかで僕はよく思ったものだ。『おれも世界もこうして暮れてゆくのだ』と。『こうして』とはどんな内容を指すのか、説明することのできない一本の矢印のようなものであるが、兵士の感情のロマネスクもすっかり忘れてしまった今日でも、僕は時々その言葉に蘇る。その瞬間以外はおそらく死んでいるのだ。」この「題のないあとがき」は奇妙な構図を示している。兵士体験の過酷さと対比されるのが故郷の緑である。内地もまた過酷な時代ではなかったのか。谷川雁によって造られた故郷のイメージは、人殺しの軍隊生活での「おれも世界もこうして暮れてゆくのだ」という感慨に現れる虚無感を徐々に解きほぐしてくれるものとして描かれている。
 「あとがき」はこれを別の言い方で表現している。「1945年から48年に至る私の初期詩篇である。引出しに眠っていた一塊の鉛をあえて発表するのは、こゝに戦争末期の学生が靴底に隠しもっていた思想の解体してゆく過程が望見されるからである。」谷川雁は学生が靴底に隠しもっていたこの思想を「東洋風のアナルコ・サンジカリズム」と名づけているが2006年の現在にアナルコ・サンジカリズムといって意味を分かる人がどのくらいいるであろうか。「思想」なるものの時代の浮き沈みを感じる。「おれも世界もこうして暮れてゆくのだ」と虚無感に浸るのは、自我を持っているからである。その自我がどうも西洋的な自我意識とは違う、日本的なあるいは東洋的な自己意識があるのではないか、という議論や風潮は戦争中からあった。「(農村)共同体と個人」の思想的な課題が廿世紀の課題でもあった。谷川雁は虚無の道士であった「恵可」で、このような詩句をつむぎだす。
 青山常に運歩す では人間の苦悩も
 するどく生かされた山水木石ではないか
 ああ お前ゆえに一切は不具と化す
 自我の幻覚の呼称・・・私・・・わたしは
 石のなかにいる 湖水に沈んだ石の――
 それも刃そのもの 光そのものであらねばならぬ
 ゆうひの透了する生物のむれには
 きのう遠く別れたのではなかったか
 雪舟の「恵可断臂図」から着想を得て書かれた詩である。禅宗の初祖・達磨が少林寺において面壁座禅中、第二祖となる恵可が彼に参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示した伝承を、雪舟が描いたものである。室町時代(1496年)の作品で 愛知県にある斎年寺に収められ、国宝となっている(現在、京都国立博物館寄託)。1532年(天文元)、尾張国知多郡宮山城主・佐治為貞によって斎年寺に寄進されたものである。佐治氏は元一色氏の家臣で、近江出身とされるが、戦国時代には尾張国大野城を拠点とする知多水軍を束ねていたと思われる。織田氏とは婚姻を重ね為貞の子・信方の妻は織田信長の妹であり、孫・一成の妻は浅井長政・お市との子・小督(お江)である。豊臣秀吉によって小督は一成から離婚させられ、後に徳川秀忠の妻となり家光を生んだ。織田氏の滅亡と共に滅んだ佐治一族にゆかりの品が「恵可断臂図」である。
 このようないわれのなかにある「恵可断臂図」から谷川雁がなにをうけとったのであろうか。禅宗に帰依したわけではないのは、後に毛沢東を「ひとすじの苦しい光のように 同志毛は立っている」と歌ったからといって毛主義であったわけではないのと同じである。また「ゲツセマネの夜」でイエスの孤独を「肉を破ろうとして新しい歯は さらに深く苦痛を埋めねばならなかった」と表現したからといってキリスト教徒に帰依したわけではないのと同じである。
 谷川雁は自我による苦悩を「するどく生かされた山水木石ではないか」と転換することで、苦悩からの脱却を図った。同様の試みは「自我処刑」にも見られる。「仄あかい死の松明にてらされた 村よ 寡婦たちよ 識られざる命の水を汲んで おれの頂きのかすかな煩悩をさませ」と呼びかけたあとに、
 われわれは暗いところから飛んできた
 符号にすぎぬ
 あわれな偶然が片隅でもえる世界の
 無数の柱のうちのひとつにすぎぬ
 「符号にすぎぬ」という発想と「するどく生かされた山水木石ではないか」という断言の仕方は共通する。居直りとも取れる断言による自己の断罪と救済へ欲求が強く出ている。
 「本郷」で18歳の自分を「秀才とうたいはやされて十年 故里の竈は今日もいわしを焼くか」と歌った谷川雁にとっていわしの焼くにおいが立つイメージ化された故里は戻る場所であった。緑の故郷は自我を断罪する契機を与え、生まれ変われる場所と描いた。「天山」詩篇の最初にある「或る光栄」には 
 おれは村を知り 道を知り
 灰色の時を知った
 明るくもなく 暗くのない
 ふりつもる雪の宵のような光のなかで
 おのれを断罪し 処刑することを知った
 自我を断罪し処刑することで生まれ変わろうとする(あるいは救済されようとする)志向性は「或る栄光」「恵可」「自我処刑」に共通するモチーフである。自己を否定して、谷川雁は何を獲得しようと思ったのであろうか。「おれも世界もこうして暮れてゆくのだ」という所与のなかでの受身の生涯から、「起ち そしてあゆめ 時よ くちずけせよ 朝の岸辺に わがしかばねよ えたいのしれぬ愛 それこそ『明日』なのだ」という世界への参加であった。谷川雁の美しい詩篇の数々もその参加への意志の表れであった。西洋的な自我の実現とも、またそれを基盤とした自他のかかわりや組織のあり方とも違う実践の担い手として、そして毀誉褒貶とともに、「天山」は宝物である。誰が谷川雁のような美しい詩篇を生み出しえただろうか。(2006/9/11)