楽書快評
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書名 鎌倉幕府の転換点
著者 永井晋
初出 2000年12月20日 NHKBOOKS
 「吾妻鏡」を読み解きながら、描かれた転換点に当たる事件を掘り下げたのが、この本である。専門書ではないが、触れられた事件の解析は深い。その中心にいるのは北条政子である。
 まずは摂津源氏の源頼政である。平治の乱後、二条天皇親政派と後白河院政・平氏一門との対立が深まる中で、二条天皇親政派が没落し、八条院御所の武士の束ねとして逼塞した晩年を過ごしていた頼政。彼は1159年平治元年から1167年仁安2年、1172年承安2年から1180年治承4年までの合計16年間も伊豆国を知行国とし、嫡子仲綱を伊豆守とした。そして在庁官人工藤介茂光を家人とした。源頼朝が流されていた伊豆国を支配していたのは源頼政であったのである。同様に、八条院領であった下河辺荘を開発した下河辺氏も有力な家人としていた。頼政の首塚(頼政神社)が古河城にあるのは、そこが下河辺氏の支配地であったからである。
 皇位継承の望みを絶たれた以仁王が起こした挙兵計画は露見し1180年治承4年5月26日宇治橋の戦いで頼政は敗死した。当時、伊豆には頼政の嫡孫有綱や工藤介茂光が在国していた。有綱はいち早く奥州藤原氏を頼って落ち延びていったが、頼朝は6月19日になって三善康信によって事の顛末を知らされる。6月29日に伊豆国は平時忠の知行国となり猶子時兼が伊豆国守に補任され、中原知親を目代として派遣、平信兼の子・山木兼隆が国の棟梁として台頭し始めていた。8月2日、源有綱を追捕するために大庭景親が相模国に平家家人を率いて到着した。平家は伊豆国の正常化のため源頼政一族やその家人・工藤介一族との合戦を意図していたのであるが、源頼朝が三善信康の情報によって自分まで追捕の手が延びると「完全な判断ミス」(永井晋)をした結果、挙兵に及んでしまった、と分析する。ましてや北条政子をめぐる恋の鞘当で挙兵に及んだわけではない。挙兵するまで、源頼朝は京都では忘れられた存在であったことを、永井晋は明らかにする。
 坂東の僻地に軍事政権を打ち立てた源頼朝が嫡子頼家の養育を頼んだのは比企氏であった。頼朝にとって比企尼の一族が最も信頼できる一族であったということであろう。比企氏は武蔵国比企地方の在地勢力であり、頼朝の乳母の一人を出し、蛭が島に没落していた頼朝を支えた一族であった。それは姻族である北条氏より信頼していたともいえる。頼朝が馬から落ちで亡くなった後、幕府内の実権は北条氏から比企氏へと移るのは容易に予見できたことである。「吾妻鏡」では頼家と比企能員が北条時政討伐の密議を障子越しに聞いた北条政子が時政に注進して、比企能員の謀殺、族滅に及んだと書かれている。が、同時代の「愚管抄」では北条時政のクーデターであったと書かれていると永井晋は語る。北条氏のクーデターという言葉には政子の仕掛けが感じ取れる。次に狙われたのは北条時政と後妻牧の方の一族である。1205年元久2年7月、牧氏事件が起こる。「時政の正室牧氏は、池大納言頼盛の領地駿河国大岡牧を管理した牧宗親の娘である。時政と牧の方との間には左馬介政範、女子に平賀朝雅や稲毛重成に嫁いだ娘が知られている。」牧の方が実朝を殺害して平賀朝雅を将軍にすえようとする風聞による事件である。北条義時が執権職に就き、時政は出家、牧の方は伊豆国北条に下向、京都守護平賀朝雅は京都に在って山内首藤通基に討ち取られた。継母一族は没落した。
 このような事件が北条氏を中心に引き起こされた。比企氏に囲まれて育った二代将軍頼家も、阿野全成(頼朝弟)・阿波局(北条政子妹)から北条時政・牧の方へ後見人が移った実朝も、政子によって退けられた。したがって、源氏傍流から将軍を迎えることは、北条政子にとって権力を他の勢力に奪われることに他ならなかった。
 「鎌倉幕府の中枢部は、実朝の後継者問題で頭を悩ましていた。・・・・家督継承の常識からいえば、嫡流が断絶した場合には傍流からしかるべき人を養子に迎えればよいのであって、嫡流の断絶に直結しないのである。源家将軍の場合、実朝の子に男子がいなかっただけの話で、継承権を主張できる人は多く残っていた。それにもかかわらず、政子・義時姉弟が源家将軍断絶を強行したことこ/そ、考えなければならない問題である。」(永井晋))
 源家廃絶の強行手段は北条氏のこだわりである。1219年承久元年2月11日、政子・義時の方針に反発した阿野時元が駿河国安野郡で挙兵した。阿野時元は頼朝の弟・阿野全成と政子の妹阿波局の子である。同年10月、二代将軍頼家の子・栄実は自殺、その弟禅暁は殺害された。また1296年頼朝の弟・範頼の末裔吉見家(武蔵国比企郡吉見)でも義世が謀反の咎で殺されている。頼朝の末子貞暁は母・常陸介藤原時長娘とともに京に逃れ、仁和寺に入っていたが、政子から将軍職継承の話がもたらされると高野山に隠棲し片目をつぶして逃れた。
 後鳥羽上皇は武士政権の混乱を見て、挙兵する。「承久記」で三万騎とされたその主力は院庁の武士、皇室領、八条院領の武士、熊野別当快実に率いられた山伏、政子・義時姉弟による源家排除によってはじき出された勢力などである。伊賀・伊勢・美濃三カ国守護大内惟信は源氏、二位法印尊長、一条信能(頼朝の妹婿一条能保の子孫)、三浦胤義(2代将軍源頼家の元妻を妻とし連れ子・栄実、禅暁の後援者)その他和田朝盛(和田義盛の孫)、糟屋有久(比企能員の娘婿)、勝木則宗(梶原景時一党)である。だが、承久の乱は「尼将軍」北条政子の一喝で北条氏の勝利に帰した。
 北条義時が亡くなったとき、北条政子はまたしゃしゃり出る。義時の後妻は伊賀氏である。ふたりの間に政村がいる。1224年6月、義時が亡くなると、家督継承を誰にするのか、そして幕府を担うのは誰なのかという二つの問題が起きた。順序としては、家の支配権、その上での幕府への対応となる。しかし、家の支配権は後妻である伊賀氏が形式的にはもっているため、家督相続の前に伯母でしかない政子が6月28日に泰時、時房に執権と連署とを任命したのである。そして政子は伊賀氏が、娘婿一条実雅を将軍に、北条政村を執権に立てる謀反を企てるとの風聞から、7月30日、伊賀氏の処罰を強行した。こうして政子は北条氏の本宅(大倉邸)に入り、「北条家の女主人の地位を確立したのである。」(永井晋)と述べる。
 連座して信濃国の姨捨山の麓(麻績御厨矢倉村)に押込められた伊賀光宗を善光寺参りに事寄せて見舞った宇都宮朝業(牧氏事件で出家)は互いの不遇を和歌に寄せて嘆きあった(1225年元仁2年4月)。「大方も なぐさめかぬる 山里に ひとりやみつる をばすての月」。返し「物おもふ こころのやみの はれぬには みるかひもまし をばすての月」。後、泰時は政子没後に伊賀光宗を鎌倉に復帰させる。
 実権を握る北条氏をめぐる暗闘は北条政子亡き後も続く。三浦氏が族滅させられた宝治合戦の本質は何であったのか。三浦氏の総領は当時、泰村であった。泰村は「泰時の姻戚ではあっても、時頼の外戚ではない。彼の立場は前政権を支えた宿老であり、時頼政権のなかでどのように位置づけられるかが重要な課題となっていた。」(永井晋)時頼は円満な引退を望んでいたにもかかわらず、泰村は外戚という特権的な立場からの引退を拒んでいた。これに激怒したのが時頼の祖父であり三浦氏にとって変わる立場にあった安達景盛である。高野山に隠住していた安達景盛は4月11日、「一族を引き連れて時頼邸に参上し、時頼の面前で三浦泰村の驕りを抑えることのできない嫡子義景を諌め、嫡孫泰盛に対しては厳しい叱責を加えた。」(永井晋)それでも時頼は三浦氏との対立を回避しようと、5月6日、泰村の次男駒石丸を自分の養子に迎え、5月13日には服喪にために泰村邸に滞在し、さらには6月5日和平の使者として御内人平盛綱を派遣した。和平の工作をしている最中、安達景盛は一党を率いて甘縄館から筋違橋の北側に軍勢を進め、泰村の館を攻撃しはじめた。追い詰められた三浦氏は源頼朝の墓所である法華堂に篭って500名に及ぶ人々が滅んだ。「宝治合戦は三浦方に戦意のみられない状態で始められ、およそ合戦らしい展開のないまま終わりを告げたのである。」永井晋は「三浦氏は、北条家の外戚が勤める地位を安達氏に譲らなかったばかりに憎しみを買い、大殿支持勢力の残党から領袖にまつりあげられたことによって、滅亡の道を歩んでしまったのである。」(永井晋)と結んでいる。だが、三浦氏とは初期4代までは通婚し、その後は安達氏と通婚すること事態が政治的な選択であった。三浦泰村の判断ミスとのみではない。だが、外戚の地位を獲得して栄えた安達氏も得宗御内人との争いによって没落する。北条氏は外戚を必要としなくなったのである。
 それにしても北条政子の心持は分からない。「鎌倉幕府の転換点」を読んできても、婚家である摂津源氏嫡流を断絶させても実家である北条家に執着する心持が分からない。永井晋は、北条政子は正妻として扱われているが、その身分の違いから妾といってもいい立場にあったとも、述べている。たまたま源頼朝が軍事貴族から正妻を得る機会がなかったがために、歴史は正妻として政子を扱ってきた。北条政子の心持には武士社会での身分差コンプレックスがあったとみることができる。それが、婚家の断絶に向かわせたのであったのだろうか。(2006/9/24)
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