
書名 蒙古来襲と徳政令
著者 筧雅博
初出 2001年 講談社
網野善彦たちが編集委員を勤めた「日本の歴史 全26巻」の10巻が「蒙古来襲と徳政令」である。講談社の日本の歴史は現在の最良の全集であると思う。「蒙古来襲と徳政令」も、歴史の常識を覆す内容を分かりやすく叙述している。
扱う時代は鎌倉後期から終焉までである。それは北条氏の時代である。筧雅博に言わせれば、「鎌倉幕府は、衰退期をもたなかった。最後の30年が極盛期である。」したがって「この極盛期が、突如として断ち切られるにいたる状況は、どのように説明さるべきであろうか。」と自問するのは当然である。対モンゴル合戦の勲功地の不足、悪党の活動などが説明の材料にされるが、十分な説得性を持たないと、筧雅博は考えている。終末期に一気に話を進める前に、北条氏の時代を全体的に押さえたい。
「源頼朝の鎌倉入りに、父子三人で従った北条氏も、13世紀半ばには、8ないし10の流れに分かれ、一族は50人を超えた。この50人あまりを中心に、幕府草創以来、家名を伝える東国の豪族や文筆官僚、およそ25、6家を加えた、4、5百ほどの人々が、都市鎌倉の主人公である。将軍近侍すべく定められた、いくつかの御家人集団は、すべて、この30家たらずの特定の氏族からえらばれており、正月三ガ日の椀飯にはじまる、幕府の年中行事の参加者も、ほとんどかれらの独占するところであった。」と北条氏を中心とする寡占体制を鎌倉時代の特色としてあげている。このような寡占体制は同時に同族内外の厳しい政争の場でもあった。
「8月15日、鶴岡八幡宮に催される放生会は、鎌倉幕府にとって、正月三ガ日の椀飯とならぶ、大切な儀式である。神前に奉納される流鏑馬は、将軍以下、幕府の宿老たちが見守るのをならわしとし、とくに建長8年の放生会は、将軍家が自ら選定する初年度ということもあって、射手はよりすぐりの名手、かつ有力者の家の子弟であったらしい。『吾妻鏡』は『相模三郎時利(時輔)、陸奥六郎義政(重時の子)、足利三郎利氏(頼氏)、武蔵五郎時忠(宣時)、三浦介六郎頼盛』の五人を特記する。家柄といい、技量といい、かれらが鎌倉武士中の花と目されるべき存在だったからであろう。が、13世紀後半の幕府政治史の中で、生涯を、全うすることを得たのは、5人の少年のうち、ただ一人にすぎない。足利頼氏は、文永5.6年のころ若くして世を去り、北条時輔は、文永9年2月、時宗の命により討たれた。おなじく北条義政は、健治3年(1277)5月、連署の地位を捨て、信濃善光寺へ逃れる。三浦介頼盛も、正応3年(1290)10月、助けをもとめる故時輔の子息を侍所に差し出して、ようやく身を保つことを得たのである。『蒙古来襲』の時が、始まりつつあった。」このような政争を経て、富と権力とが北条得宗家に集中して行った。
「鎌倉幕府は、相模、武蔵、駿河、越後四カ国を知行国として支配したが、各国の国務は、特定の家もしくは機構にゆだねられた。すなわち相模国は政所、越後国は政村流北条氏、そして武蔵、駿河国は、泰時−頼時−時宗とつづく北条得宗家当主の、事実上の家領(分国)であった。嫡流家は、武蔵及び駿河の守護職を兼ねていたから、この両国は、鎌倉時代を通して、嫡流家のもっとも強固な支配下におかれていたことになろう。両国の国司(守)の地位は、陸奥守・相模守と共に、鎌倉幕府を構成する人々にとって、望みうる最高の官途とみなされたが、国衙在庁たちの指揮権は、鎌倉の得宗公文所が行使するのである。」わずか3名からはじまった北条家が肥大化すると、その富と権力を維持発展させるため、没落御家人を始め多様な人々を御内人として抱え込んでいくことになる。どのような人々が御内人となっていったのであろうか。例えば謡曲「鉢木」で有名な佐野氏も御内人であったと筧雅博は述べる。「鎌倉時代、上野板鼻八幡宮は、安達景盛、義景、そして泰盛とつづく安達氏嫡宗の所領であり、おそらく佐野庄の地頭も安達泰盛であった。義景・泰盛父子は、板鼻八幡宮を、上野国守護としての地位において知行しており、したがって弘安8年11月の泰盛滅亡後、板鼻は北条嫡流家の所領に、より具体的には、上野守護代となった平頼綱の支配下におかれたであろう。7年後、頼綱は成人した執権北条貞時の討手を、鎌倉経師ヶ谷の屋形に受け、自害するが、このとき頼綱とともに死んだ近親者の中に『佐野左衛門入道』なる人物がいた。北条時頼の廻国伝説が、かつての得宗領であった地と重なり合っていることは、周知の事実であり、謡曲『鉢木』もまた、得宗領上野佐野庄の、そして得宗御内人佐野左衛門の記憶を、その核心にもっていたのである。」御家人のいざ鎌倉の物語は、実は御内人の物語であったである。
信濃国御家人で諏訪神社の祝家・諏訪氏は御家人から御内人となった有名な一族であるが、筧雅博が素材と取り上げるのは西国で活躍した人々である。彼らは悪党と呼ばれた人々と重なるところがある。
「正地頭が執権その人であることは、多田院を特別な荘園たらしめた。」「多田院は探題府の下知を受けず、守護所の支配下にも入らず、鎌倉の北条嫡流家の公文所の命令のみに従う存在となったのである。」「多田院には、特別な性格をもつ武士たちが住んでいた。多田院御家人という。第2次モンゴル来襲の翌々年、堂塔修理のために現地入りした勧進上人へ差し出された連署状には、源景弘以下16名の署名があり、これは同時期における若狭国の御家人総数にほぼひとしい。かれらは、摂津国の御家人として勤むべき諸役を免除されており、多田院の堂や塔の修復に加わり、儀式の場を警護することが『御公事』であった。そんな状況のしからしむるところであろうか。多田院御家人は、しばしば他領を往来し、いくつかの痕跡を史料上にのこしている。すでに泰時のころ、夜討の疑いをかけられたメンバーがいたが、多田院の御家人たちは、あるときは『悪党人』を扶持し、あるいは『悪党』と共に摂津国内外の所々を荒し回り、乱暴狼藉を働いた。正応(1288−93)前後と推定される紙背文書は、鴨社領長洲御厨に乱入した・・」
「『長禅門』は、正応6年(1293)4月、誅殺された平頼綱の甥の世代に当たる。同年8月、駿河国入江庄の長崎村が、楠木村とともに鶴岡八幡宮へ寄進されていることから、高綱(のちの円喜)も、事件に連座して名字の地を失った、とおぼしい。」長は長崎である。後に筆頭御内人となった長崎円喜は、駿河国を名字の地としていた。駿河国は得宗領であり、安東、楠木氏もまたここの出身であると筧雅博は述べる。
正中の変の後、「元徳2年(1330)正月下旬、慶元府(寧波)出身の禅僧、明極楚俊は、得宗家の招きに応じて鎌倉へ向かう途中、後醍醐のもとめによって参内し、天皇と直接問答するところがあった。天皇は外国人を引見してはいけない。9世紀以来の伝統をもつ、天皇家の戒めは、後醍醐によって破られたのである。・・・・明極参内の風聞は、鎌倉の人々のあいだに、不審と不快感をよび起こす。」これを仕掛けたのが得宗御内人安東蓮聖の後継者であったというのだ。「後醍醐の命令を、六波羅を介さずにうけとり、かつ、六波羅に知らせず『唐僧』を参内させる。このような措置をあえてとった『平次右衛門入道』は、洛中五条に屋形をもつ、得宗御内の代表者、安東平右衛門入道蓮聖(前年、90余歳をもって死去)の後継者である。もしかしたら、嘉元の乱における駿河守宗方(蓮聖は宗方の育ての親の可能性が大きい)の横死が、蓮聖一族の向背を、微妙に変えたのかもしれない。」この不敵な行動を行った安東氏と鎌倉攻めの大将新田義貞とは、姻族である可能性も指摘されている。「(新田)義貞は、若き日、得宗御内人、安東左衛門入道聖秀の姪を妻に迎えた、と伝えられる。」
「楠木一族の本拠地は、鎌倉幕府の強い支配を受けていた。正成が少年時代、仏典を学んだ、と伝えられる河内観心寺は、それ自体一つの荘園であり、モンゴル来襲のころの地頭は、秋田城介(安達)安盛である。霜月騒動後は、鎌倉の得宗公文所の支配が及んだであろう。楠木氏は、正成の祖父の時代、正地頭得宗の代官(もしくは又代官)として現地に送り込まれた可能性がつよく、正応6年(1293)7月、すなわち平頼綱が滅んだ直後、鶴岡八幡宮に寄進された駿河入江庄の一部、楠木村こそ、かれらの故郷の地であろう。入江庄は東海道の要衝清美ヶ関をふくみ、また薩?峠や美保の松原を境界領域とする大荘で、はやくから北条得宗家の所領となり、荘内に居住する吉河・興津などの武士団は、13世紀初め、淡路・播磨の沿海地域に新恩地を得、移住するものが多かった。・・・洛中における得宗家の代表者、安東蓮聖父子も、ほんらい駿河安東庄を名字の地にもつ御家人であった。楠木正成の父や祖父にとって、京都五条の安東屋形は、身近な存在だったのである。」
「播磨左用庄(代々の六波羅北方探題に継承された地)の住人、赤松範村(円心)一族が反旗を翻し」た。「円心は前年暮、楠木勢と淀川下流域で戦った可能性があり、極めて短期間に転身を遂げたことがあきらかである。」
名和長年は「伯耆守護職を兼ねる、六波羅南方探題、左近将監時益の家人であった可能性が、少なくない。」「鎌倉末期における(肥後国)菊池庄は、守護、金沢氏の支配圏に繰り込まれていた、と見なして誤りない。六波羅の危機が博多に伝えられつつあった3月12日、(菊池二郎入道武時)寂阿は二人の子息および舎弟とともに、百人足らずの手勢をもって探題府を襲い、討ち取られるが、肥後国一宮、阿蘇社の大宮司寂阿が一族に加わり、行動をともにしたことは、多くの人々に衝撃をあたえたであろう。肥後国一国中に何千丁という規模の社領を持つ、阿蘇社は、北条時政以来、嫡流家代々の当主によって伝領され、筑前宗像社とともに、鎮西における得宗領の中核的存在であった。鎮西探題は、管轄下の国々から北条一門の有力者たちを急遽招き寄せ、防備につとめるけれども、60年におよぶ、北条氏の鎮西支配が、終焉をむかえつつあることは、誰の目にもあきらかであった。」
「得宗以下、北条一門に駆使されていた人々が、幕府倒幕の原動力とな」ったと分析する。北条得宗を中心とする極盛期は、その担い手である御内人によって作られ、そして崩壊させられた。このような分析は魅力的である。(2006/10/6)
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